かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

構造を内破する希望の在り処--魔法少女まどか☆マギカ

 

 

 

* 魔法少女なる構造

 
日本における魔法少女の黎明期は1960年代に遡ります。当時一世を風靡した「魔法使いサリー」や「秘密のアッコちゃん」といった作品は当時の少女漫画的文法に即しており、そこで描かれるのは「お姫様」や「大人の女性」への素直な憧憬でした。まさに魔法少女という存在が万能の願望器であった時代です。
 
ところが80年代における「魔法のプリンセス・ミンキーモモ」では「夢は魔法では叶えられない」「大人になるとは魔法を失うことである」という魔法少女の限界性が問題意識として前景化します。
 
そして90年代に入り「魔法少女」というジャンルに一大転換をもたらしたのが、戦隊ヒーロー的文法に則って描かれた一連の「美少女戦士セーラームーン」シリーズです。ここで変身バンクやお助けマスコットという「魔法少女」を構成する「お約束」が確立する。
 
かくして「魔法少女」とは「物語」ではなく「構造」へと変容する。こうして以後「魔法少女なる構造」に依拠したパロディ的作品群が急増することになります。
 
このような「魔法少女なる構造」に自覚的でありながらも、正統派少女マンガ的文法へ回帰を果たした成功例が「カードキャプターさくら」であり、逆に「魔法少女なる構造」にロボットアニメ的文法を接続した成功例が「魔法少女リリカルなのは」という事になります。
 
こうした流れの中で2011年1月、魔法少女なる構造」それ自体を脱構築するかの如き作品が世に問われました。
 
 

* 現代アニメーションの総決算

 
魔法少女まどか☆マギカ」。周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、梶浦由記氏、劇団イヌカレーといった多彩な才能のコラボレーションが成し遂げた奇跡の交響曲にして現代アニメーションの総決算。
 
その社会的反響は凄まじく、BD第1巻の初週売上はテレビアニメ史上最高(当時)の5万3000枚。関連グッズは100社近くものメーカー(2012年春時点)によって制作され、グッズの累計売上総額は約400億円(2013年時点)
 
最終回放映後は特集記事が世に溢れかえり、各分野の名だたる著名人が本作に言及し、2011年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。まさしく記録と記憶、両方に残る作品といえます。
 
本作は「魔法少女なる構造」をいわば「ゼロ年代サブカルチャーの文法」で捉え直した試みであるという事も出来るでしょう。では本作を規定する「ゼロ年代サブカルチャーの文法」とはなんでしょうか?
 
 

* あらすじ

 
物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開ける。直後、ほむらはまどかと同じクラスの転校生として現れ、ほむらはまどかに「魔法少女になるな」と警告する。
 
その後魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやか魔法少女巴マミと出会うマミに救われたまどかとさやかは、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受ける。マミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱くが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺される
 
マミの死により、魔法少女への憧れと現実の間で葛藤するまどか。一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となる。そこに新たな魔法少女佐倉杏子が現れ、さやか、更にほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされる。
 
刻々と悪化する情況を、まどかはただおろおろと傍観するしかなかった。こうした中で、やがて魔法少女の秘密、魔女の正体が徐々に明かされていく。
 
 

* ループ構造

 
「ループ構造」という形式自体は古い海外SFでもよく見られるもので、本邦のアニメ作品においても1984年に公開された押井守氏の傑作「うる星やつら2-ビューティフル・ドリーマー」が有名でしょう。
 
こうしたループ構造はゼロ年代において急速に漫画、アニメ、ゲームのサブジャンルとして定着する事になります。その背景には周知の通りKey作品などをはじめとした「恋愛アドベンチャー(恋愛ADV)」と呼ばれるPCゲームの隆盛があります。
 
恋愛ADVにおいては通常、選択肢次第で異なった物語に分岐していくマルチエンドシステムが採用されています。そこでプレイヤーは各エンドを回収する為、ゲームをクリアする度に最初の「共通ルート」に戻り、同じ時間軸を何度も延々とプレイする事になる。
 
そうするうちにプレイヤーはあたかもこの世界が果てしないループを続けているかの如き錯覚に陥ってくる。このように恋愛ADVのシステムはループ構造と極めて親和性を有していたわけです。
 
この点、ループ構造のパターンは大きく分けて「世界全体のループ」「閉鎖空間内のループ」「特定キャラのタイムリープによるループ」の3つがあり、本作は最後の部類に当たります。
 
本作の特徴は、このループ構造が物語終盤に明らかになり、かつループの主体は主人公のまどかではなく、むしろこれまで敵役として描かれてきたほむらであった点にあります。ここで視聴者はこれまでの世界観をひっくり返される事になります。
 
 

* ゲーム的リアリズム環境分析的読解

 
ここで重要なのは、ほむらは物語の「キャラクター」であると同時に、この物語を延々と反復するゲームの「プレイヤー」でもある点です。
 
その意味で本作は東浩紀氏がいうメタ物語的想像力に侵食された物語的想像力、すなわち「ゲーム的リアリズム」の文法で記述されていると言えます。ゆえに本作は物語を素直に読み解いていく「自然主義的読解」とは別に、物語と現実の間に「物語が読まれる環境」を挟み込む読解技法、東氏のいう「環境分析的読解」が機能するケースに該当します。
 
この点「自然主義的読解」からすれば本作は後述の通り、物語の主人公であるまどかが自らのコンプレックスを克服し、究極の願いを成し遂げた「成長の物語」であり「自己実現の物語」となります。
 
しかし「環境分析的読解」からすれば本作は、ゲームの「プレイヤー」であるほむらが、ゲーム内の「ヒロイン」であるまどかに「勝ち逃げ」されて、一人残された状況で幕を閉じる「挫折の物語」となります。
 
そう、ほむらにとってゲームはまだ終わっていない。こうして、ほむらにとっての「トゥルーエンド」は次作「叛逆の物語」に持ち越されることになります(もちろん「叛逆」が、果たしてトゥルーなのかどうかは異論もあるでしょう)。
 
 

* バトルロワイヤル構造

 
「バトルロワイヤル構造」とは厳格なルールの統制と閉鎖的状況の下で、参加者達が互いに殺しあうゲームを強制される状況をいいます。その起源は言うまでもなく、1999年に出版され大きな反響を呼んだ高見広春氏の小説「バトルロワイヤル」です。
 
本作のバトルロワイヤル構造は以下の通りです。
 
地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆らうエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。
 
このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。
 
このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にある。
 
つまり、魔法少女達の末路はソウルジェムを濁らせ「魔女」になるか、ソウルジェムを破壊され死ぬという二択しかない。その末路を少しでも先延ばしする為、彼女達はソウルジェムの濁りを緩和させるグリーフシードを求めて魔女討伐に奔走し、他の魔法少女とはグリーフシードの争奪戦に明け暮れる事になる。
 
 

* セカイ系決断主義

 
こうしたバトルロワイヤル構造は、ゼロ年代の社会情勢を背景として徐々に、当時のサブカルチャーを支配する想像力となっていきます。すなわち「セカイ系」から「決断主義」へ至る変遷です。
 
ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」、すなわち、これまで社会を支えてきた共通の価値観が失墜したポストモダン的状況がさらに加速するゼロ年代において、人々は好むとも好まざるとも、それぞれが信じる任意の価値観である「小さな物語」を選択して生きていかざるを得ない。
 
この点、最も安易な選択肢が、他者を拒絶し「君と僕の優しいセカイ」という「小さな物語」に引きこもることで幼児的万能感を確保する態度です。こうしてゼロ年代初頭においては「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」をはじめとする「セカイ系」と呼ばれるポスト・エヴァンゲリオン的作品群が一世を風靡する。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。米同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。
 
もはや「正義」がないのであれば自らが信じる「小さな物語」を賭金として「正義」をでっち上げるしかない。こうした態度を宇野常寛氏は「決断主義」と呼びます。こうしてゼロ年代中期においては「デスノート」「Fate/stay night」「コードギアス・反逆のルルーシュ」をはじめとする、セカイとセカイが正義を奪い合う「決断主義」的な傾向を持つ作品群が台頭する。
 
もちろん、こうした決断主義が跋扈する救いなき情況こそがベストだとは到底言えないでしょう。宇野氏も述べる通り、我々は他者との間に欲望の簒奪ゲームではない新たな関係性を見出して、決断主義を乗り越えなくてはならない。
 
こうした問題意識から、多くの決断主義的作品においては、いかにしてこの不毛なゲームを終わらせるかという「決断主義への批判力」が内在しています。本作はこうした「ポスト・決断主義」の一つの到達点を示した作品です。そういう意味で本作は「ゼロ年代の想像力」の総決算でもあります。
 
 

* 「外部」なき現代社

 
「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で。」
 
「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる。」
 
「これが私の祈り、私の願い。さあ!叶えてよ、インキュベーター!!」
 
(本作最終話より)

 

終わりなき魔法少女のバトルロワイヤルに終止符を打った「まどかの願い」。周知の通り本作最終話は、あの東日本大震災の発生により放映が延期され、震災の恐怖と衝撃が未だ冷めない翌月、世の中に向けて問われました。
 
多くの命を代償として詳らかにされたのは、この現代日本における社会システムの硬直性と杜撰さでした。このなんとも言えない閉塞感が日本中を覆い尽くす中、本作において、まどかが高らかに宣明したあの願いは、あの祈りは、あの叫びは、決して大げさな意味ではなく、時代のエントロピーそのものに抗う想像力を体現したものであったと思います。
 
本作において示されるのは、もはや魔法少女が万能の願望器でもなんでもなく、少女達の「願い」がただただシステムを稼働させるための動力源として搾取されていく世界観です。
 
それはまさしく、グローバル化とネットワーク化がますます加速する中、アーキテクチャによる環境管理型権力の統制のもとで人間がモルモットのように飼い慣らされる現代社会の構造それ自体の鏡像ではないでしょうか。
 
こうした構造は、超越的な「外部」を消去し、これまで人々の生のリアリティを支えてきた幻想を破綻させます。正義は勝つとは限らない。努力は報われるとは限らない。未来は素晴らしいとは限らない。世界は所詮、金と偶然に規定されたガチャに過ぎない。
 
こうした構造自体から我々はどうやっても逃れられない。ここで無理矢理にでも構造の「外部」に希望を見出すような生き方に拘るとすれば、それは多くの場合「生きづらさ」という絶望として跳ね返ってくるでしょう。
 
 

* 希望の在り処

 
そもそも希望とは何なのでしょうか?もし仮に希望と絶望が「差し引きゼロ」なのであれば、希望の本質は「歪み」であり、誰かが希望を願えば、それだけの絶望が誰かに回帰する事になる。誰かを救うという事は誰かを救わないという事であり、誰かが幸せになるという事は誰かが幸せになれない事である。
 
希望の本質をこのように捉えた時、その抵抗の戦略はその絶望を一点に収束させずにいかに拡散させていくかという点に見出されるでしょう。この点、本作ラストに登場する「魔獣」はまどかの改変した新たな世界における形を変えた絶望の回帰です。そういった意味ではまどかの世界改変は、希望と絶望の相転移をより緩やかで受け入れ可能なものに変える一種の「設計主義」ともいえるのかもしれません。
 
「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。」
 
(本作最終話より)

 

 
こうして「まどかの願い」は現代を生きる我々にとっての希望の在り処さえも照らし出します。すなわち「構造」の外部に超越性を見出すのではなく、むしろこうした構造を逆手に取り、構造の「内部」の中で、いかにして主体的欲望を奪還し、多くの瑞やかな歓びを汲み出しつつ、構造のルールそのものを書き換えていくか。いま問われているのはおそらく、そんな生き方なんだと思います。
 
いわば「まどかの願い」は世界の構造に対して鋭い「NO」を突きつけると同時に、人々の生に対する力強い「YES」のメッセージでもありました。そういった意味において、本作が幅広い時代の共感を産み出したのは、まさしく共時的なめぐりあいであり、必然的なコンステレーションだったのではないでしょうか。