かぐらかのん

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【書評】社会学入門(見田宗介)

 

 

 

* 「あいだ」を照らし出す

 
本書は社会学とは「関係の学」としての人間学であるといいます。社会はいうまでもなく「人間」によって構成されます。しかし、人間という「目に見えるもの」だけが社会の構成要素ではありません。人間と人間の「あいだ」にある「目に見えないもの」で、けれども確実に存在するもの--例えば「愛」とか「闘争」--そういった「関係」も社会の構成要素となります。
 
そもそも人間自体が「関係」の産物と言えます。我々が「こころ」と呼ぶものは--フロイト超自我と名付けた「良心」が「両親」と重ねられるように--〈わたし〉とは異なる〈他者〉との「関係」のシステムです。また、我々が「からだ」と呼ぶものも、様々な細胞の、突き詰めれば素粒子によって構成された「関係」のシステムと言えます。
 
あるいは、宝石店のショウケースで光り輝くあのダイヤモンドも、言ってみれば石炭と同様、炭素の集まりでしかありません。けれども、我々はあの石ころを「〈他者〉の言語」との「関係」において「永遠の愛の象徴」などとして認識するわけです。そしてこうしたダイヤモンドと単なる石炭を峻別するのはひたすらに炭素の「配列」の仕方、「関係」のありようの差異に基づくものです。
 
このような人と人の「関係」、人と物との「関係」といった様々な「あいだ」を照らし出すのが社会学であるという言い方もできるでしょう。
 
 

* 「社会」の4つのかたち

 
個々の人間の関係行為が「社会」を存立させる仕方としては、論理的に異質な4つのかたちに分けられます。この4つのかたちは2つの次元の組み合わせとして把握されます。
 
第一に、社会は個々人の「自由意思」によって主体的に形成されることもあり、また、個々人の「自由意思以前」に客観的に形成されていることもある。
 
前者を社会の「対自的」な機制、後者を社会の「即自的」な機制と呼ぶことができます。
 
第二に、社会は個々人間の「人格的」な関係態として存立することもあり、また、特定の利害関係等々に限定された「非人格的」な関係態として存立することもあります。
 
前者を社会の「共同態(ゲマインシャフト)」としての機制、後者を社会の「社会態(ゲゼルシャフト)」としての機制と呼ぶことができます。
 
こうした二つの軸を組み合わせると、以下の4つの根本的に異なった「社会」のあり方を導き出すことができます。
 
⑴ 共同体(即自的共同態)
 
個々人がその自由意思以前に宿命的な存在として全人格的に結合している社会。例えば、伝統的な家族共同体、氏族共同体、村落共同体。
 
⑵ 集列体(即自的社会態)
 
個々人の自由意志の相互干渉の帰結として、どの当事者に取っても疎遠な「社会法則」が客観的/対象的に発生し、個々人を規定する社会。例えば、個々人の私的利害の追求にもとづく行為の競合により「価格変動」「景気変動」が発生する市場。
 
⑶ 連合体(対自的社会態)
 
個々人の自由意思により、特定の利害や関心の共通性、相補性等々によって結合する社会。例えば、会社、協会、団体。
 
⑷ 交響体(対自的共同態)
 
個々人がその自由意思において人格的に呼応しあう仕方で存立する社会。例えば、様々な形の「コミューン的」な関係性。
 
 

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(本書より〜Kindle位置:275)
 

* 〈自由な社会〉を構想する為の具体的な道標

 
こうした社会存立の4つの機制は排他的なものではなく相補的な関係にたちます。例えば、原始社会は単純な共同体ではな〈諸共同体・の・集列体〉であり、また逆に近現代社会は〈諸連合体・の・集列体〉という構造を骨格としつつも、その中に多様な共同体および交響体を内包していると言えます。
 
また仮に、いつかの未来において交響体的な〈自由な社会〉が地表を覆う時代が来たとしても、それは単一の交響体ではなく、多彩な〈諸交響体・の・連合体〉として重層的にのみ構想される、と本書は言います。
 
こうした〈諸交響体・の・連合体〉からなる〈自由な社会〉を構想する為の具体的な道標を示すのが本書の「補 交響圏とルール圏--〈自由な社会〉の骨格形成」という事になります。
 
 

* 他者の両義性と圏域の相違

 
まず、ここで本書は社会の理想的なあり方を構想するには、原的に異なった二つの発想様式があるという。
 
すなわち、一方は、歓びと感動に満ちたユートピアを多彩に構想し、これを現実のうちに実現することを目指すという発想(関係の積極的な実質の創出)。
 
もう一方は、こうしたユートピアがもたらす不幸と抑圧を最小限に止めるためのシステムを設計する発想(関係の消極的な形式の設定)。
 
この二つの発想様式は他者の両義性に対応しています。すなわち、第一に他者は、人間にとって生きる上でのあらゆる感動と歓びと感動の源泉となります。第二に他者は、人間にとって生きる上でのほとんどの不幸と制約の源泉となります。
 
こうした他者の両義性を踏まえると、二つの社会構想の発想様式は対立するものではなく、むしろ相補的なものとして捉えられることになる。
 
ここで、重要なのは他者の両義性はその圏域を異にしている点です。
 
「歓びと感動の源泉としての他者」は、家族、恋人、親友等々、多くても自分の周囲の数十人に限定されるでしょう。これに対して、「不幸と制約の源泉としての他者」は必ず社会の全域を覆います。
 
つまり、社会構想における二つの発想様式は関係の射程圏域を異にしているということになります。この点を見落としてしまうと、ユートピアはたちまち「全体主義」という名のディストピアに転化してしまいます。
 
こうしてあるべき社会構想の形式は「歓びと感動の源泉としての他者」からなるユートピア(〈交歓する他者〉たちの交響圏)と、その外部に存在する「不幸と制約の源泉としての他者」との関係性をルールによって調整するシステム(〈尊重する他者〉たちのルール圏)からなる複層構造、すなわち〈関係のユートピア・間・関係のルール〉としていったん定式化されるわけです。
 
 

* 〈交響するコミューン・の・自由な連合〉

 
〈尊重する他者〉たちの関係コンセプトはいわばルールという「社会契約」の関係となります。これに対して〈交歓する他者〉たちの関係コンセプトは、本書によれば、いわゆる「コミューン」のエッセンスを確保しながらも、個の自由という原理を明確に優先することを基軸に批判的転回を行うものであるといいます。
 
要するにこの批判的転回というのは、これまでの歴史におけるコミューンの負の側面を踏まえているわけです。コミューンにおいてしばし叫ばれる「連帯」や「結合」や「友愛」という美名は時に同調圧力となり個人の自由を時に抑圧する。
 
ゆえにあるべきコミューンとは、個々人の「自由」が第一義的に優先され、個々人の同質性ではなく異質性を積極的に受容する限りで成り立つ空間であるということです。
 
具体的に言えば、個々人にはコミューンを選択、脱退、移行、創出する自由が確保されていなければならない。こうした自由はコミューン外部のルールによって初めて現実に保証される。
 
本書はこうした異質な諸個人の自由な関係性からなるコミューンを、同質性のもとで〈溶解するコミューン〉からの批判的転回という意味で〈交響するコミューン〉と名付けます。
 
こうして〈関係のユートピア・間・関係のルール〉は〈交響するコミューン〉相互の外部的自由と、〈交響するコミューン〉を構成する内部的自由という「二重の仕方」で徹底された〈自由な社会〉として構想されます。こうした〈自由な社会〉を筆者は〈交響するコミューン・の・自由な連合〉と名付けます。
 
 

* ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト

 
こうした本書の社会構想論は、近代社会学の基本的発想である「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という段階理論に対して異を唱えるものでもあります。
 
すなわち、「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」というのは表面的な見せかけであり、これまでの人間社会を構造として捉えるのであれば、それは常に「ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト」という複合構造を内包していたということです。
 
例えば近代的な「大きな物語」が失墜し「小さな物語」が島宇宙的に並立する現代におけるポストモダン状況も、まさにこの「ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト」の複合構造が妥当するでしょう。
 
こうして「ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト」を人間社会の一般的な複層構造として理解するのであれば、望ましい社会のあり方としては「ゲゼルシャフトの徹底」でも「ゲマインシャフトの回帰」でもなく、この二つの水準の双方における「自由の貫徹」という仕方で構想されるべきことになります。
 
つまり本書のいう〈交響するコミューン・の・自由な連合〉は、〈共同体・の・集列体〉という自由意志以前の社会の複層構造を〈交響体・の・連合体〉という自由意志による社会の複層構造を目指すというものです。
 
 

* 「いまここの現実」を変えて行くために

 
もっとも、現実の「社会」は多くの場合、学校、職場、サークル、ゼミナール、地域コミュニティなど、交響圏ともルール圏とも言えない中間領域と言えるでしょう。
 
けれどもこうした現実を前にしてもなお、本書が示す社会構想はその輝きをまったく失わない。このような中間領域においても、本書は〈交響性〉と〈ルール性〉のドミナンス(相対的優位)という理念的基軸を提示する。
 
すなわち、本書の構想が照らし出す「社会」は我々の目の前にあります。すなわち本書が示すのは「ここではないどこかの理想」を描く絵空事ではなく、まさに「いまここの現実」を変えて行くための実践知であるということです。
 
 

* 問題意識を禁欲しないということ

 
社会学は〈越境する知〉であると本書はいいます。実際にマックス・ウェーバー以来、近代社会学の先人たちは経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学などなど様々な学問領域を縦横無尽に踏破してきました。
 
しかしここで重要なことは〈越境する知〉というのはあくまで「結果」であり「目的」ではないということです。
 
では何の「結果」であるか?それは畢竟、「ほんとうに大切な問題」にどこまでも誠実であるという態度の結果であるということです。
 
本当に自分にとって社会にとって切実でアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする態度から、止むに止まれず越境を突破する。こうした「問題意識を禁欲しない」という開かれた態度の先にこそ真理はあるということでしょう。
 
 

* 死とニヒリズム・愛とエゴイズム

 
この点、見田氏自身の「ほんとうに切実な問題」というのは、幼少期からの「人間はどう生きたらいいか」「ほんとうに楽しく、充実した生涯を送るには、どうしたらいいか」というシンプルな疑問から出発しています。そしてこのシンプルな疑問は二つの現問題として構成されます。
 
第一に人間は必ず死ぬ、人類の全体もまたいつか死滅する、その人類がかつて存在したということを記憶する存在さえ残らない。ゆえに全ては結局は「むなしい」のではないかという「死とニヒリズムの問題系」。
 
第二に、その生きている間、すべての個体はそれぞれの「自分」をもって、世界の中心のように感じて、他の「自分」と争ったりまた愛したりする。この「自分たち」の関係性が、友情や恋愛や家族の問題から経済や政治や国際関係の問題に至る、実に様々な現実的な問題の根底にあり核心にあるのではないかという「愛とエゴイズムの問題系」。
 
こうした二つの「原問題」に対して、見田氏がおぼろげながらようやく解決の見通しをつけたのが、40歳近くになって書き上げた「気流のなる音--交響するコミューン」であり、次に「死とニヒリズムの問題系」に決着をつけ「爽快に解放」されたのが、その4年後に公にした「時間の比較社会学」であり、そして「愛とエゴイズムの問題系」をその根源から掌握する地点にまで至ったのが、そのさらに12年後に世に問うた「自我の起源--愛とエゴイズムの動物社会学」だったわけです。
 
こうして原初の疑問から50年近くの歳月が流れた。それではある意味で本末転倒なのではないのか?そういう起こりうる疑問に対して、見田氏は次のように答えています。
 
ほんとうに自分にとって大切な問題を、まっすぐに追求し続けるということは、それ自体が、どこまでもわくわくとする、充実した年月なのです。ひとりの人間にとって大切な問題は、必ず他の多くの人間にとって、大切な問題とつながってきます。「生きた」問題、アクチュアルな問題を追求して行けば、必ずその生きた問題、アクチュアルな問題に共感してくれる先生たち、友人たち、若い学生たちに恵まれて、そこに〈自由な共同体〉の輪が広がります。
 
(本書より〜Kindle位置:213)

 

 

* 「生きた知」としての社会学

 
空前絶後、屹立した孤峰(上野千鶴子)」と称される見田社会学。今もって多くの人々を魅了する煌びやかな数々の議論は、こうした苛烈で真摯な知的格闘の中から産み出されたわけです。そしてその試行錯誤の中にこそ、社会学を学ぶということ、社会学を生きるということの〈至福〉があるということです。
 
グローバリズムとネットワークが極まった現代において、様々な環境や価値観は加速度的に変化して行き、昨日までのスキルが今日は普通にゴミとなる。そういった不安と混迷の中、システムに抗い希望を創り出す為には、流転する状況の中でどんな時にでも、自らの生のリアリズムの在り処、他者との関係性の在り方に対して自分なりの物語を紡ぎ出す「生きた知」が必要となる。本書はそうした「生きた知」としての社会学へと誘う魅惑と刺激に満ちた一冊と言えるでしょう。