かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

ユマニチュードと障害者表象--市川沙央『ハンチバック』

 

* ユマニチュードにおける「願い」

 
ユマニチュードという言葉があります。1979年にフランスの体育学教師だったイヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティの2人が創出した知覚・感情・言語による包括的コミュニケーションに基づくケアの技法を指すこの言葉には「人間らしさを取り戻す」という意味が込められています。
 
たとえば、あなたは入院しており、四肢が麻痺した状態だとします。私は看護師で、あなたの部屋に入ります。すると、「テレビを見たいからつけてほしい」と言われ、リモコンのスイッチを押します。そして「どの番号を見ますか?」と尋ねます。あなたは「NHKが見たい」と言い、私は選局します。
 
自分の手でリモコンを扱えないような身体の状態では、「自律していない」とみなされがちです。しかし、あなたは自律しています。自分はテレビを見たいと思い、自分で番組を選択しているからです。そのとき看護師はどういう存在でしょうか。あなたは手が使えないのです。看護師はあなたの手になります。(・・・)ケアする人の役割は「あなたの代わりに何かを決めること」ではありません。あなたの自律を介助することです。
 
(イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ『「ユマニチュード」という革命』より)

 

ここでいう「自律」とは他者の手を借りずに自分1人で生活できるという意味ではなく、自分自身の「願い」を具体化できることであると捉えられています。そして、このようなユマニチュードの理念の中核にある「願い」に強く駆動された作品として先日、第169回芥川賞を受賞した本作『ハンチバック』を挙げることができるでしょう。
 

* 普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です

本作のあらすじはこうです。背骨がS字に曲がる重度のミオチュブラー・ミオパチーを患う主人公、伊沢釈華は人工呼吸器と電動車椅子が欠かせない生活を送っています。成長期に育ちきれなかった筋肉が心肺機能において正常値の酸素飽和度を維持しなくなり、地元中学の教室で朦朧と意識を失った29年前からずっと「涅槃」に生きている、と彼女は述べています。
 
現在、グループホーム「イングルサイド」で暮らしている釈華は3年前から在籍する某有名私立大学の通信過程でオンライン授業を受けながら、Webライターとして風俗のコタツ記事を執筆したり、TL小説と呼称される女性向けの官能ライトノベルを小説サイトに投稿したり、Twitterの零細アカウントで愚痴や毒を吐き散らしたりして日々を過ごしています。
 
イングルサイドをはじめとする両親が遺した不動産からの収入で暮らす釈華は金銭的にはまったく不自由のない身ですが、背骨が曲がり始めた幼少時以降「背骨の曲がらない正しい設計図に則った人生」をずっと憧憬していた彼女はその鬱屈からTwitterに次のような一文を投稿しています。
 
〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉
 
そんなある日、コロナ禍における人員調整がうまくいかなかったことから釈華の入浴介助を田中という男性ヘルパーが彼女の了承を得て担当することになります。「弱者男性」を自認する田中は障害はあるけれど富裕層のお嬢様でもある釈華に対して普段から露骨なルサンチマンを抱いていました。入浴介助の後、田中から唐突にTwitterアカウントを特定していることを告げられた釈華は1億5千5百万円(田中の身長を1センチ=100万円で換算した金額)で妊娠のための(そして中絶のための)性行為をすることを田中に提案します。
 

* 障害者表象の「裏卒論」

 
本作の表題である「ハンチバック」というあまり聞き慣れない単語は作中では「せむし(背中が曲がった猫背状態)」の意味で使われており、健常者との身体的な相違に止まらず、その内面性の相違を表す言葉としても用いられてます。
 

せむし(ルビ:ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨をもつ人々の呟きよりもねじくれないでいられるわけもないのに。

 

(『ハンチバック』より)

 
そして本作の著者である市川沙央氏もまた幼少時に筋疾患先天性ミオパチーと診断されており、14歳の時に疲れやすくなるなど症状が進み、念のため入院したさなかに意識を失い、目覚めた時には気管切開され、人工呼吸器をつけていたそうです。そして療養生活が始まり思うように外出ができなくなったことで20歳を過ぎた頃から「自分には小説家くらいしかやれることがない」と思い立ち、それから小説を書き始めて今に至っているとのことです。とりわけ小学5年生の頃から夢中で読んできた集英社コバルト文庫のコバルト・ノベル大賞には20年以上応募しており「もはやライフワーク」と氏は述べています(今年も応募したそうです)。その他にも女性向けライトノベルやSF、ファンタジーの賞に応募し、多いときには原稿用紙350枚程度の応募作を年3本執筆していたといいます。
 
その一方で氏は今年3月に卒業した早稲田大学通信課程における卒論では「障害者表象」というテーマを扱っており、卒論と並行(!)して執筆した本作は「裏卒論」にあたるそうです。なお、市川氏が障害者と同性愛者の表象史の近接性についてゼミの指導教官と話していた際に勧められたのが千葉雅也氏の小説『デッドライン』と『オーバーヒート』だそうですが、今回の芥川賞候補には本作とともに千葉氏の最新作『エレクトリック』がノミネートされており、世の中のめぐり合わせというものはなかなか不思議なものがあるようにも思えました。この点、市川氏は千葉氏の小説について「今振り返ると、性風俗と学問を行き来する感じも含め、純文学の書き方のアプローチとして頭にインプットされたように思います」と述べています。
 

* 読書バリアフリーという執筆動機

 
本作の主人公である釈華は市川氏と同じ年齢で同じ難病を抱えており、医療行為の描写は氏の実体験がもとになっているそうです。こうした意味で本作は私小説なのかという点については氏は「自分としてはせいぜいオートフィクション。重なるのは30%という感覚です」といい、当事者が書いた作品であると強調されることには「実は、私はOKを出していて、なぜかというと、これまであまり当事者の作家がいなかったこと、芥川賞も重度障がい者が受賞した作品もあまりなかった。どうして2023年にもなって初めてなのか、みんなに考えてもらいたい」と述べています。
 
市川氏が自身と同様の重度障害者を描くことになった動機は卒論を書くために障害者の歴史や差別の歴史を調べていく中で生じた日本の読書バリアフリー環境の前進のなさに対する苛立ちにあるといいます。氏は次のように述べています。
 
小説も学術書も、障害者の読書が想定されていない(=電子化されていない)ものが多く存在すること自体に大きな問題があると思っています。重度障害者が本を読んだり学者になったりするとは思わないのかもしれません。その可能性に目を向けていただくために、論文を書く釈華というキャラクターに自分自身を投影して『当事者表象』を行うことが必要でした
 

 

* 読書文化におけるマチズモ

 
このように市川氏が強く訴える「読書バリアフリー」については制度的には一応は2019年6月に「読書バリアフリー法(視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律)」という法律が成立しています。けれども、この法律が成立してから4年余りが過ぎた2023年の現在においても重度障害者における読書環境が「読書バリアフリー」といえるにはまだまだ程遠い状況にあります。こうしたことから本作では「読書バリアフリー」を訴える声がその随所から聞こえてきます。
 
厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、--5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。曲がった首でかろうじて支える重い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。
 
(『ハンチバック』より)
 
紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていればすむ健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(ルビ:マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。
 
(『ハンチバック』より)

 

「読書バリアフリー法」の正式名称が「視覚障害者等」となっている点に端的に表れているように、少なくともこれまでの電子書籍をめぐる議論の中では本作が訴える読書がもたらす身体的負荷という視点はやはり見落とされがちではなかったのではないでしょうか。本作が広く世に知れ渡ったことを契機として「読書バリアフリー」をめぐる議論がより多角的なものになるのであれば、それは本当に素晴らしいことだと思います。
 

* 障害者表象の「二次創作」が切り開く回路 

 
市川氏は本作は私小説ではないと述べていますが、同時にやはり本作が私小説的に読まれることは予想しているようです。確かに本作は重度障害者の日常が誤解されてしまう可能性を孕んでいます。けれどもまさにその可能性の中にこそ本作から重度障害者の日常の「ダークツーリズム」とも呼べる側面を見出すことができます。
 
1990年代にイギリスで提唱された「ダークツーリズム」とは戦争や災害などが起きた地を観光地化する実践を指す概念です。この概念はゼロ年代に日本に紹介され2011年に起きた東日本大震災の後に広く世に知れ渡りました。例えば東浩紀氏は2013年に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』というウクライナチェルノブイリで観光地化が進んでいる実態を紹介する本を出版し、さらには同年に『福島第一原発観光地化計画』という本を出版しています。同書はそのセンセーショナルな名称もあって当時かなり批判されましたが、後に東氏は『観光客の哲学』(2017)において「観光とは現実の二次創作である」という観点からその意図を次のように説明しています。
 
いまや世界には福島の二次創作(フクシマ)ばかりが流通している。その現実は原作(本来の福島)を大切にする人からすれば耐えがたいだろう。(・・・)しかし同時に、このポストモダンの世界で二次創作を決して消し去ることができないのもまた事実である。フクシマをめぐる幻想は、これからもどうしようもなく再生産されていく。だとすれば、そのような二次創作=フクシマの流通を逆手に取って、人々の一部でも原作=本来の福島に導くことはできないか。つまりは、原発事故以外の福島について情報発信するだけではなく、まったく逆に「事故現場を見てみたい」「廃墟を見てみたい」といった感情を逆手にとって福島の魅力を世界に発信する、そのようなプログラムは考えることができないか、ぼくが行ったのはそのような提案である。
 
(『観光客の哲学』より)

 

ここにあるのは原作を大切にしてもらうためには一度は二次創作を通らなければならないという逆説です。そして、このような原作と二次創作をめぐる逆説は本作においても同様に作動しているといえるでしょう。いわば障害者表象の「二次創作」に相当する作品であるといえる本作を契機として、おそらく多くの人が本作の「原作」に相当する重度障害者の現実に目を向けて、例えば「読書バリアフリー」といった当事者の「願い」を知ることになるのではないでしょうか。こうした意味で本作はユマニチュードの領野を障害者表象の二次創作という回路から切り開いた作品であるように思えます。