* 管理社会の未来
フランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する思想家ミシェル・フーコーは知と権力の関係を分析した『性の歴史1-知への意志(1976)』において従来型の権力形態である「規律権力」の傍らに、新たな権力形態として「生権力(生政治)」と呼ぶ新たな権力を描き出しました。この点、規律権力とは命令と懲罰で対象者を動かす権力をいい、生権力とは環境を調整し管理することで対象者を動かす権力をいいます。
そしてフーコーと同じくポスト構造主義の代表格である哲学者ジル・ドゥルーズは晩年の著作である『記号と事件(1990)』において、こうしたフーコーの権力論を援用し、そう遠くない未来において従来の「規律社会」に取って代わり生権力が全面化した「管理社会」の時代が訪れ、個人の情報はコンピュータにおいてユビキタスに際限なく管理されていくと述べています。
まだインターネットがほとんど一般的ではなかった30年以上前の時点でドゥルーズは我々の生きる現代社会を恐ろしいほど的確に予言しています。この点、ドゥルーズが現代でいうカードキーやGPSの例を出していたことから、日本において生権力の問題は情報社会における「環境管理型権力(アーキテクチャの権力)」として語られることがあります。
さらに世界的なベストセラーとなった『帝国(2000)』において、その共著者であるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは冷戦の終焉とグローバル資本主義の拡大はそれまでの国民国家とは別様の彼らが「帝国」と呼ぶ新たな世界秩序を生み出し、この「帝国」の時代においてはドゥルーズのいう「管理社会」の全面化が進行する事になると指摘しています。
こうした「管理社会」がさらに高度に発達すれば、もしかして遠くない未来においては「犯罪」さえも「管理」が可能な社会が到来するかもしれません。本作「リコリス・リコイル」が描き出すのはまさしくそういう社会です。ある意味で本作は超高度に発達した「管理社会」のシミュレーションとして観ることができるでしょう。
* 平和で安全で清潔で優しい社会の物語
大きな町が動き出す前の静けさが好き平和で安全、きれいな東京日本人は規範意識が高くて、優しくて温厚法治国家日本、首都東京には危険などない社会を乱す者の存在を許してはならない!存在していたことも許さない!消して消して消して・・・きれいにする!危険はもともとなかった平和は私たち日本人の気質によって成り立っているんだそう思えることが一番の幸せ!それを作るのが私たちリコリスの役目!!--なんだってさ(第1話より)
本作において日本は世界一の治安の良さを誇る国として描かれています。しかしその裏側では「DA」と呼ばれる秘密組織が暗躍しており、このDAのエージェントとして日本の治安を裏側から守る存在が「リコリス」と呼ばれる少女たちです。そして東京都内の和風カフェ「喫茶リコリコ」はDA支部としての裏の顔を持っており、この店の看板娘である錦木千束はDA内では歴代最強のリコリスとして知られていました。
ある日、DA本部から井ノ上たきなというリコリスがとある事件での命令違反を理由に左遷のような形でリコリコへ異動してきます。生真面目で合理主義者のたきなは妙な依頼ばかり引き受けるリコリコに当初は馴染めず、DA本部のリコリス寮こそが自分の居場所だと思っていた彼女は当初は一刻も早く成果をあげてDA本部に戻ることに固執していましたが、やがてリコリコで過ごす日々の中で千束のリコリスらしからぬ自由奔放な生き方に徐々に感化され、いつしかリコリコこそが彼女の新たな居場所となっていきます。
その一方で「アラン機関」なる組織から依頼を受けた雇われテロリストの真島は日本の異常な治安の良さに不審を抱き、DAの内実を探る過程で千束やたきなと対峙することになります。
* DAとアラン機関
本作の世界観設定を理解する上で鍵となるのが「DA」と「アラン機関」という二つの組織です。
まず「DA(Direct Attack)」とは犯罪者やテロリストへの武力を用いた先制攻撃による日本の治安維持を目的とした秘密組織で、その本部は都心から離れた山中の国有地にあり組織を統括する中枢AI「ラジアータ」が設置されています。
このDAのエージェントである「リコリス」は元孤児の少女達で構成され、銃器を用い犯罪者を処分することを任務としており、その起源は明治政府樹立以前から存在する治安維持組織「八咫烏」傘下の女系暗殺部隊「彼岸花」に遡ります。
リコリスの存在は社会から秘匿されており、普段は周囲から警戒されないよう女子高生風の制服で活動しています。リコリスにはファースト、セカンド、サードのランクがあり、それに応じて制服も赤、紺、ベージュとなっています。なお、千束はファーストリコリスでたきなはセカンドリコリスです。
次に「アラン機関」とはアラン・アダムズ名義で世界的に活動する謎の組織で、スポーツ、文学、芸能、科学など分野を問わず傑出した才能を持つ子供に対して無償の支援を行っています。フクロウのようなチャームをトレードマークとしており、機関の支援を受けた人々は「アラン・チルドレン」と呼ばれ最低でも国内に13名いるとされています。
その一方で、彼らのいう「才能」とは見境がなく、それが例え殺人の才能だろうが戦争の才能だろうがアラン機関にとっては神聖なるギフトであり、傑出した才能には手段を選ばず支援が行われます。
* テロリストの問う「バランス」
そして、このアラン機関のエージェントである吉松シンジが呼び寄せた真島という人物は物語開始の10年前に旧電波塔(東京スカイツリー)を破壊するも当時若干7歳だった千束一人に殲滅されたテロリスト一味の生き残りでした。その後、日本を脱出した真島は世界を股にかけた雇われテロリストとして暗躍していましたが、吉松からの依頼で再び日本に舞い戻り、自分と同様に吉松に雇われたハッカーのロボ太と組んでDA本部の所在を探るその最中に千束と邂逅することになります。
千束がかつて旧電波塔で自分を撃退したリコリスであったことを知った真島は、思わぬところでの仇敵との再会に狂喜して、以後千束を執拗につけねらうようになります。そしてDAによる真島掃討作戦の準備が進められる中、かつて自らが破壊した旧電波塔の代わりに建設された「延空木」の完成式典を電波ジャックした真島はその場で東京の市中に1000丁の銃をばら撒いたと宣言します。
真島自身は特定のイデオロギーを信奉しているわけではありませんが、彼は何より物事の「バランス」が保たれていることに異様な執着を持っていました。物語後半、DAのリコリス部隊が真島の潜伏先を強襲しますが、そこは既にもぬけのカラで、モニターを通じて真島はDAの指令である楠木と対峙します。ここで行われるのが次のような問答です。
真島「ん?おお!引率の先生もいたか。何者だアンタ?」楠木「お前を殺す指揮を執っている者だ。真島」真島「自己紹介は不要みたいだな。つまりリコリスの親玉か」楠木「目的は金か?」真島「ハハッ、それもある。仲間の生活もあるしなぁ・・・だがそれ以上に興味のある仕事だから引き受けた」楠木「興味・・・?マフィアに手を貸すことにか?」真島「正義の味方気取りの悪党が、どんな奴らかってことだよ」(・・・中略・・・)楠木「要らぬ心配だ。真の平和とは悪意の存在すら感じない世界の事だ。お前も誰の記憶にも残らず、消える」真島「お得意の情報操作か?だがなぁ、悲惨な現実を知らなければ、平和の意味さえ人々は忘れてしまうんじゃないのかぁ・・・?与えられるものではなく、勝ち取るものだってこともな」楠木「賢しい事を言うじゃないか。悪党も自分が悪である認識には耐えられないのか?」真島「心配してやってるんだぜ?善悪の天秤ってのはなぁ、どっちに傾くにしても、お前らみたいな存在に操られるべきじゃねぇ。バランスを取り戻さなきゃな」楠木「それが延空木を狙う理由か」真島「ははっ、そこまでお見通しかい!両方壊れてないとアンバランスだからなぁ!」(第10話より)
* 押井映画のテロリスト達から考える
ここで真島というテロリストが述べている行動原理はかつて押井守監督が手がけた「機動警察パトレイバー」という作品を想起させるものがあります。
氏の出世作となった「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー(1984)」以降、押井映画を駆動させたダイナミズムはうる星やつら的日常、80年代的終わりなき日常という「虚構」の欺瞞を告発し、その外部にある「現実」を突き付ける点にありました。こうした「虚構と現実」をめぐる問いは「天使のたまご(1985)」「紅の眼鏡(1987)」といった前期押井作品においては「少女の夢」というモチーフで表現されていました。
ところが、この「虚構と現実」をめぐる問いを巨大都市東京に対するテロリズム/ハッキングという情報論的アプローチとして遂行した作品が「機動警察パトレイバー the Movie(1989)」です。
同作のあらすじはこうです。近未来の東京において首都改造計画「バビロンプロジェクト」が進行する中、多足歩行型重機「レイバー」を制御する新型オペレーティングシステム「HOS」を開発した天才プログラマー帆場英一はHOSにウィルスを仕掛け、ある条件下で操縦者の手を離れ暴走するプログラムを東京中のレイバーにインストールします。泉野明、篠原遊馬ら特車二課第2小隊はレイバーの一斉暴走がもたらす首都圏壊滅を回避すべく奔走し、第2小隊隊長、後藤喜一は旧約聖書に擬えた帆場のメッセージを読み解くことで暴走プログラムの発動条件を探っていきます。本作は未だインターネットが一般開放されていなかった当時において、コンピューターウィルスによる大規模テロをシュミレーションするという恐るべき先見性を持った作品でした。
そして、こうした情報論的アプローチの一つの到達点と言える作品がその続編となる「機動警察パトレイバー the Movie 2(1993)」です。ここで「虚構と現実」をめぐる問いは「映像と実体験」という媒介を経由して「平和と戦争」という問いに置き換えられることになります。すなわち、本作がここで告発するのは他でもなく「戦争という現実」を「映像」の中に押し込めて「平和という虚構」を謳歌した戦後社会そのものでした。同作において、かつてはレイバー実装化の功労者でもあったテロリスト柘植行人は「虚構の外部=現実」に位置する〈他者〉として「情況=映像」を「演出」します。
柘植の目的はただ一つ。戦争情況を作り出すこと。首都を舞台に戦争という時間を演出すること。すなわちそれは「映像」によって切断された「前線=戦争という現実」と「後方=平和という虚構」を再接続させるという企てでした。
そして、こうした押井映画における「虚構と現実」をめぐる問いを本作もまた真正面から引き受けています。本作において「真の平和とは悪意の存在すら感じない世界の事だ」と述べる楠木はいわば「虚構」を護持する立場にあります。これに対して「悲惨な現実を知らなければ、平和の意味すら人々は忘れてしまうんじゃないのか?」と問い返す真島はまさに「虚構」に「現実」を突きつけたかつての押井映画のテロリストたちの後継者であるといえます。
* ネットワーク時代における虚構と現実
もっとも、宇野常寛氏が『母性とディストピア(2017)』で述べているように、パトレイバーにおける押井氏の情報論的アプローチは当時の冷戦構造に規定された20世紀的戦争観の下で「映像」という当時の特権的なメディアが近代戦における「前線=戦争=現実」と「後方=平和=虚構」を切り分けていた「映像の世紀」であったからこそ成立するものでした。
ところが2001年の米同時多発テロ以降の世界的なテロリズムの拡大により、あらゆる場所がテロの対象となりうるという認識が広く浸透し、さらに情報ネットワークの拡大と通信技術の発達であらゆる場所から不特定多数の一般人が映像を含む情報を発信できる「ネットワークの世紀」となった現代においては、かつてパトレイバーの世界が前提とした「映像」による「前線」と「後方」の切り分け自体が無効となってしまっています。
こうした時代において本作は「DA」という強力な環境管理型権力を設定することで再び世界に「虚構と現実」という構図を再導入した上で、今や「外部」なき世界の「内部」における「虚構と現実」の「バランス」をめぐる動員ゲームを描き出していきます。こうした意味で本作はかつて押井監督がパトレイバーで展開した情報論的アプローチの現代的なアップデートに成功した作品とも言えるでしょう。
* 秩序と逸脱のあいだ
そして、こうした虚構と現実がせめぎ合う本作の構図には社会における「秩序」と「逸脱」のバランスをどう取るかという主題が内在しています。この秩序と逸脱のバランスとは具体的には、例えばコロナ禍以降声高に強調された「安心安全」と諸々の「安心安全に反するもの」とのバランスであったり、あるいはポリティカル・コレクトネスやSDGsが称揚する「多様性」とその「多様性」に決して回収されることのない「多様なもの」とのバランスであったりするわけです。
この点、本作においてDAが「秩序」の極に位置するのであれば、アラン機関は「逸脱」の極に位置します。そして、本作はもっぱら真島というテロリストがこの「バランス」を「逸脱」の側からラディカルに問い直す役割を担っていますが、本作の主人公、千束もまたこの世界における「バランス」を真島とは別の仕方で、すなわち「秩序」の側から問い直す役割を担っているといえます。
両親を失い孤児となりDAに引き取られた千束は卓越した洞察力で銃弾の軌道を見抜く才能を開花させ、幼くしてファーストリコリスとなりますが、彼女は先天性心疾患を抱えており、7歳になる頃には余命半年の状態でした。当時DAの教官であったミカの相談を受けた吉松は千束の持つ「殺しの才能」に惚れ込み、アラン機関特製の人工心臓により千束は延命します。
その後、千束は歴代最強のリコリスへ成長していくことになりますが、その一方で自身の難病経験ゆえなのか人の生命を奪うことに強い嫌悪感を抱き、吉松の意図に反して「非殺」の主義を貫くようになり、やがて彼女はDAの下部組織でありミカが店長を務める喫茶リコリコに所属し、普段は店の看板娘を自称しつつ、DAから時折舞い込む依頼から市井の人々の困りごとの解決まで請け負う「何でも屋」として活動するようになります。
彼女は社会の「秩序」を担うリコリスでありながらもDA本部や他のリコリスほど「秩序」を自明視するわけではなく、DAのラジアータにハッキングを仕掛けた裏社会のトップハッカーであるウォールナットことクルミをリコリコで匿っていたり、テロリストの真島にさえもどこか相通じるものを見出したりと、いわば秩序と逸脱のグレーゾーンにあるリアリティこそを愛でるような生き方をしています。そして、こうした千束のしなやかな生き方を支えているのが他ならぬ「リコリコ」という居場所です。
* リコリコという名のサントーム
千束「みんな、自分が信じた〈いいこと〉をしてる。それでいいじゃん」真島「良くねえ、自然なバランスが・・・」千束「うおおお、やっべええ!これめっちゃうまい!ちょっと飲んでみ!?」真島「あ?おぉ・・・ちょっと甘すぎねえか・・・?」千束「世界を好みのかたちに変えてるあいだに、おじいさんになっちゃうぞ?」千束「今のままでも好きなものはたくさん」千束「大きな街が動き出す前の静けさが好き」千束「先生と創ったお店。コーヒーの匂い」千束「お客さん、街の人、美味しいものとか綺麗な場所、仲間、一生懸命な友達」千束「それがわたしの全部!世界がどうとか知らんわあ!」(第13話より)
本作におけるDA、アラン機関、真島、そして千束の四者の行動原理は政治理論的には「基礎付け主義」「反基礎付け主義」「ポスト基礎付け主義」にきれいに割り振られます。ここでいう「基礎付け主義」とは政治や社会は何らかの普遍的原理によって基礎づけられるとする立場であり、これに対して「反基礎付け主義」とは普遍的原理など何も存在しないとする立場です。そして「ポスト基礎付け主義」とは普遍的原理による基礎付けを自明の前提としているわけでもなく、さりとて基礎付けの不在に居直るのでもなく、政治や社会はひとまず暫定的な価値によって基礎付けられるという立場です。
この点、現代ラカン派を代表する精神病理学者の松本卓也氏は『享楽社会論(2018)』においてフランスの精神分析家ジャック・ラカンの1950年代から1970年代における理論的変遷を参照し「基礎付け主義」は〈父〉という普遍的な理念を存在させようとするフロイト理論に依拠した50年代のラカンに対応し「反基礎付け主義」は〈父〉の不在を認める60年代のラカンに対応し「ポスト基礎付け主義」は〈父〉の不在を認めつつも同時に弱毒化された〈父〉を非抑圧的な仕方でサントーム(症状)として利用する70年代ラカンに対応するといいます。
そして本作においてDAやアラン機関が「秩序」とか「才能」といった特定の価値を普遍的原理とする「基礎付け主義」に依拠するのであれば、全ては「バランス」だという真島は「反基礎付け主義」に相当します。こうした中で真島とは別の仕方での「バランス」を生きる千束はいわば弱毒化した〈父〉としての「リコリコ」をサントームとする「ポスト基礎付け主義」であるといえるでしょう。
こうしてみると本作が千束に割り振った「バランス」は現実社会における「安心安全」とか「多様性」といった「秩序」から外れた「逸脱」をいかに掬い上げるかという問題に対する一つのメタフォリカルな回答であったような気もします。もちろん本作には棚上げされた問題とか未回収な伏線とかが色々と残っていますので、今後の展開にもぜひ期待したいと思います。