かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自傷的自己愛と青春コンプレックス--ぼっち・ざ・ろっく!(はまじあき)

 

* 日常系という想像力

 
「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合は4コマ漫画形式を取り、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれます。ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は「空気系」とも呼ばれたりもしました。
 
こう言ってしまうと、なんとも他愛のないジャンルのようにも聞こえてしまいますが、その一方で大きくいえば「日常系」には、まさしくゼロ年代における「つながり」の思想の申し子ともいえる側面があります。
 
いわゆる「大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効し「終わりなき日常(宮台真司)」「データベース構造(東浩紀)」「不可能性の時代(大澤真幸)」「郊外化した世界(宇野常寛)」などと様々に名指されるポストモダン的状況が加速する現代における想像力は「大きな非物語(アーキテクチャー)」から生成される様々な「小さな物語(コミュニティ)」同士の関係性をいかに描き出すかという課題を背負い込みました。
 
この点、ゼロ年代初頭のオタク系文化においてはポスト・エヴァンゲリオン的潮流に属する「セカイ系」と呼ばれる想像力が一世を風靡しましたが、やがて「セカイ系」は複数のセカイが無根拠な正義を巡って不毛な抗争を繰り広げる決断主義的な想像力へと先鋭化することになりました。
 
こうした中でゼロ年代中葉以降のオタク系文化において「セカイ系」の限界を乗り越える形で台頭し始めたのが「日常系」と呼ばれる想像力でした。その代表として4期に渡りアニメ化された「ひだまりスケッチ」やアニメによる地域振興のロールモデルとなった「らき☆すた」、そして劇場版が大ヒットして当時は社会現象とまで呼ばれた「けいおん!」が挙げられます。
 
このような日常系作品の想像力を支えていたのは当時、ソーシャルメディアの登場とともに前景化しつつあった「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯を寿ぐ思想でした。わたしとあなたは違う物語を生きているけれど、それでも互いにつながることができる。異なる物語の交歓から芽生える可能性としての「つながり」への信頼。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えました。
 
いわば「セカイ系」が理想化されたひとつの「小さな物語」への引きこもり/開き直りに依拠した想像力であったとすれば「日常系」は異なる「小さな物語」同士が紡ぎ出す「つながり」の中で瑞やかな日常を再発見していく想像力であるといえます。
 

* つながりとつながりの外部

 
こうしてゼロ年代の日常系作品は理想的な「つながりの楽園」を描き出してきました。ゼロ年代における日常系が現代サブカルチャーにおける新たな想像力の地平を切り開いた功績はもはや疑いないでしょう。
 
ただその一方で、日常系の描き出す「つながり」とはなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における同世代女子同士の甘やかな交流であり、こうした「つながり」をひとたび絶対至高な尊いものとして描いてしまうと、そこにはたちまち「ひだまり荘」とか「放課後ティータイム」などという名でかつての「セカイ」のような「つながり過剰」の物語が再帰してしまいます。そして2010年代の現実世界もまさに様々な「つながり」同士が同調圧力と排除の原理で世界を友と敵に切り分けあった「つながり過剰」の時代であったといえます。
 
こうしたことから2010年代における日常系作品の多くでは「つながり」を「つながり過剰」に閉じることなく外に開くため、例えば「お仕事(ご注文はうさぎですか?/NEW GAME!/こみっくがーるず/おちこぼれフルーツタルト)」「留学や留年(きんいろモザイク/スロウスタート)」「アウトドア(アニマエール!/恋する小惑星)」「家族や地域社会(まちカドまぞく/スローループ/RPG不動産)」といった形で何らかの「つながりの外部」というべき回路の導入が試行錯誤されてきました。
 
こうした2010年代における日常系作品が希求し続けた「つながりの外部」を極めて決定的な形で切り開いた作品が「ゆるキャン△」です。「日常に対する非日常(キャンプ)」に加え「グルキャンに対するソロキャン」という形で「つながりの外部」を二重に導入した本作は、2018年のアニメ化をきっかけに人気が高騰し、さらにはアニメのみならずテレビドラマ化も果たし、原作の累計発行部数は600万部を突破しています。同作は名実とも2010年代の日常系を代表する作品といえます。
 
そして昨年、アニメ化をきっかけに様々な分野で大きな反響を呼んだ本作「ぼっち・ざ・ろっく!」は間違いなく2020年代の日常系を代表する作品の一つに数えられるでしょう。本作もまたゆるキャン△は別の「つながりの外部」を描き出し、日常系というジャンルの持つ可能性を大きく拡大させた作品といえます。
 

* 陰キャ少女はロックバンドの夢を見る

本作の主人公、後藤ひとりは幼少よりいつも「ひとりぼっちな子」であり、いわゆる「陰キャ」である自分に強いコンプレックスを抱えていましたが、中学1年のある日、たまたまテレビで観たロックバンドのアーティストのインタビューに触発されて、バンドをすればきっと陰キャな自分も輝けると思い、早速、父親からギターを借りて練習に猛烈に没頭します。
 
その結果「ギターヒーロー」なるアカウント名で投稿したひとりの動画(いわゆる「弾いてみた」)は動画投稿サイトにおいて絶大な人気を集めることになりますが、その一方で現実世界の彼女は重度の人見知りとコミュ障が災いして、バンド活動や文化祭ライブに憧憬を抱きつつもバンドメンバーどころか友達すら作れないままで中学を卒業することになります。
 
そして高校に入って約1ヶ月たったある日、相変わらず高校でも友達を作れないひとりはギターを持って学校に行きクラスメイトから話しかけてもらうことを期待しますが、結局誰からも話しかけてもらえず「私の居場所はネットだけ」と失意の中で帰宅します。
 
ところが、その帰り道にちょうど助っ人ギタリストを探していた「結束バンド」のドラマーである伊地知虹夏から声をかけられたひとりは、急遽その日のうちにライブハウスで演奏することになり、そのまま成り行きで正式メンバーとして「結束バンド」に加入することになります。この時「結束バンド」のベーシストである山田リョウが名付けたひとりのあだ名が「ぼっちちゃん」です。
 
念願のバンド活動が叶ったぼっちちゃんでしたが「結束バンド」加入後も彼女は従来の人見知りでコミュ障な性格とバンドセッションの経験不足から「ギターヒーロー」としての実力をなかなか発揮することができませんでした。けれども虹夏やリョウ、そして色々な紆余曲折を経て結束バンドのボーカルとなった喜多郁代との交流を通じて、ぼっちちゃんは次第にギタリストとして、そして人として成長していくことになります。
 

* 放課後ティータイムと結束バンド

 
本作はゼロ年代日常系の代表作の一つ「けいおん!」と同じくバンドを題材とする作品ですが、ほぼ学内のみの活動だった放課後ティータイムに対し、結束バンドの主戦場はもっぱら学外のライブハウスです。しかも本作のスタンスはけいおん!とは完全に真逆ともいえます。
 
その象徴的なシーンがライブハウス「STARRY」の店長で虹夏の姉である伊知地星歌がライブ出演にあたり結束バンドにオーディションを課すところで、星歌は低いクオリティならライブには出さないと言い、不満げな虹夏に対して「一生仲間うちで楽しく放課後やっとけよ」と言い放ちます。
 
ここで本作は放課後ティータイムとは一線を画するスタンスを端的に打ち出しています。放課後ティータイムの面々は「目標は武道館」とか言いながらも楽器の練習はそこそこにまったり皆でお茶したりと、ぐだぐだと瑞やかに続いていく「放課後」を楽しんでいました。
 
そして学園祭ライブにおいて平沢唯が「でもここが、いまいるこの講堂が、私たちの武道館です!」と叫ぶシーンが象徴的ですが、放課後ティータイムは、あくまで「いまここ」の「つながり」を祝福するために歌いました。これに対して本作は「つながりの外部」でサヴァイヴする結束バンドの「成長」を描き出していきます。
 
この意味で本作のスタンスは同じ日常系でもキャラクターデザイン志望の新入社員がゲーム業界で奮闘する「NEW GAME!」に近く、音楽アニメだとライバルグループとの切磋琢磨を通じて頂点を目指す「ラブライブ!」に通じるものがあります(アニメでは出てきませんが原作3巻以降では「SIDEROS」という強力なライバルバンドが登場します)。
 
ちなみに超絶ギターテクを持つバンド未経験の陰キャ女子が半ば成り行きでバンドに加入し、ライブハウスで奮闘するという本作と同様のモチーフを持つ作品として冬目景氏の隠れた名作「空電ノイズの姫君」と「(その続編である)空電の姫君」があります。

* 青春コンプレックスと承認欲求

 
そして、本作の最大の「発明」は日常系としては革命的とさえ言える主人公のキャラ設定にあるといえます。日常系でもいわゆる「陰キャ」な主人公はこれまでも少なからずいましたが、ぼっちちゃんくらい極端にぶっ飛んだ「陰キャ」な主人公はちょっと見たことがありません。
 
まず、ぼっちちゃんのコミュニュケーション能力は壊滅的で、基本的に他人と目を合わせることができず「あっ」というのが口癖で、切羽詰まった場面では顔面が(時には全身が)文字通り崩壊し、何かあるとすぐにゴミ箱とか段ボール箱に隠れる癖があります(初ライブでも「完熟マンゴー」と書かれた段ボール箱の中で演奏しています)。
 
また、ぼっちちゃんは極めてネガティブ思考の持ち主で、自分の容姿や性格や境遇に自信が持てず、クラスでも外出中でもステージでも自分が周囲からどんな目で見られているかを常に気にしており、ひきこもりのニートになった将来を想像しては、よく発作を起こしています。
 
さらに、ぼっちちゃんの「青春」に対するコンプレックスは極めて重症で、彼女はいわゆる「陽キャ」とか「パリピ」などと呼ばれる人間を過剰に敵視し、中学時代の作詞ノートには呪詛のような歌詞が書きつけられ、体育祭のようにクラスが一致団結する学校行事を心底忌み嫌い、今でも一刻も早く高校を中退したいと考えています。
 
けれど、その一方でぼっちちゃんは別に人間嫌いなわけではなく、むしろ極めて強い承認欲求を抱いています。そもそもギターを始めた動機が周囲からチヤホヤされたいからであり、バンドを結成した時すぐに対応できるよう売れ線の曲は全て練習し、周囲からちょっと褒められたり認められたりすると過剰に反応し、初めて撮ったアー写で自分の部屋を埋め尽くしたり、自分のサインの猛練習をしたり、無理やり場を盛り上げようとして妙に張り切った結果、盛大に空回りするという一面も持っています。
 

* 自傷的自己愛から考える

 
この点、ひきこもり支援の専門家として知られる精神科医斎藤環氏は、思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱しています。斎藤氏は精神科医として30年以上に及ぶ臨床経験に基づき、往々にして「ひきこもり」の当事者は「困難な状況にあるまともな人」であるがゆえに「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまっているといい、さらには「ひきこもり」の人々ばかりではなく、メンタルな問題を抱える若年層には「自分が嫌い」な人が多いように思うと述べています。
こうしたことから氏は「自分が嫌い」な人たちというのは、自己愛が弱いのではなくむしろ自己愛が強いのではないかと述べています。つまり、彼らの自己否定的な発言は自己愛の発露としての自傷行為なのではないかということです。その根拠の一つとして氏は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げています。
 
だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく自己愛の一つの形といえます。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」です。本作におけるぼっちちゃんの様々な言動や奇行はこの「自傷的自己愛」を誇張的に描き出したようなところがあります。
 

* 自己愛と自己対象

 
そして、斎藤氏は自傷的自己愛をどのようにして健全な自己愛に変えていくかを考える上で米国の精神分析家、ハインツ・コフート自己心理学を参照します。
 
ここでコフートのいう「自己」とは空間的に凝集し時間的に連続するひとつの単位であり、その人だけが持っている「パーソナルな現実」を産み出す源泉をいい、この自己の枢要(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」という二つの極から成り立つ構造を持っているとされます。つまり、子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。
 
そして、この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。ここでいう「自己対象」とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。
 
まず「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」といいます。次に「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」といいます。
 
そして、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ自分と似たような自己対象を「双子自己対象」といいます。
 
こうして、さまざまな自己対象から多くの機能やスキルを取り込むことで自己の構造は複雑化し、安定したものに変わっていきます。この安定状態をコフートは「融和した自己」と呼びます。そして、この「融和した自己」は一つのシステムとして周囲の他者と関わりながら、さらに他者の機能やスキルを吸収し、さらに安定度を高めていきます。
 

* 自己心理学的寓話としてのぼっち・ざ・ろっく!

 
こうしてみると、本作はぼっちちゃんの不安定な自己(自傷的自己愛)が様々な自己対象と関わることによって徐々に安定した自己(融和した自己)へと変容を遂げていくという自己心理学的寓話としても読めるでしょう。
 
折からの台風の影響でほぼ他バンド目当ての観客しかいないという逆境で迎えた「結束バンド」の4人での初ライブはぼっちちゃんの想定外の奮闘によって見事成功を収めました。
 
その打ち上げの最中で虹夏はぼっちちゃんに自分の抱く密やかな「夢」を打ち明け、今日のライブを成功に導いてくれたことに感謝の気持ちを述べ、そして「これからもたくさん見せてね、ぼっちちゃんのロック--ぼっちざろっくを!」と激励します。おそらく、虹夏はぼっちちゃんにとって「野心の極」を確立させる鏡映自己対象といえます(なお原作ではこの時に「売れて高校を中退したい」と言うぼっちちゃんに対して虹夏は「そんな重いのはバンドに託さないで」とややドン引きしてますが、アニメでは「あはは重いなあ、でも託された!」という台詞に変更されています)。
 
また、新宿のライブハウス「FOLT」を拠点に活動する実力派サイケデリックロックバンド「SICK HACK」のベーシストである廣井きくりは、ぼっちちゃんの才能をいち早く見抜き、文化祭ライブ前に不安になっているぼっちちゃんを自分のライブに招待し、圧倒的なカリスマ性に満ちたステージを披露します。
 
そのステージ後、きくりは自分も高校の時は根暗だったといい、そして「初めて何かをするってのは誰だって怖いよ、でもぼっちちゃんは路上でも箱でのライブもできたじゃん!」と勇気づけるのでした。すなわち、きくりはぼっちちゃんにとって「理想の極」を確立させる理想化自己対象といえます。
 
そして、やがて結束バンドの当面の目標となる同年代のメタルバンド「SIDEROS」のリーダーである大槻ヨヨコは以前は目つきが悪く身長が低くて運動もできず友達もいないという自分に強いコンプレックスを抱いていましたが、一念発起してテストで学年1位を取ったことが契機となり「もっと好きな事で一番になりたい」という想いからバンドを始めました。
 
上昇志向が強く努力家の彼女は順位や数字に異常にこだわり、自身の人気や知名度を周囲に誇示し、いつも上から目線で勝ち誇ったような態度を見せる一方で、ライブ前には緊張のあまり3日くらい眠れず、SNSでのフォロワー数増減に一喜一憂するなど、そのメンタルはかなり脆弱です。また、3人以上の集まりが苦手で、高飛車な物言いが誤解されやすく、これまで何人もメンバーが辞めていき、今も現メンバー以外友達がいないなど、ぼっちちゃんとは別な意味でコミュニケーション能力が残念な人です(ゼロ年代深夜アニメによくいたツンデレキャラを想起します)。ぼっちちゃんはヨヨコと初めて会ったとき、早くも自分と似た何かを感じ取っていました。こうしたことから、ヨヨコはぼっちちゃんにとって自分と似たような存在である双子自己対象といえます。
 

* 日常系における虚構と現実

 
こうしてみると本作において、ぼっちちゃんはコフートのいう自己対象に恵まれていたといえます。もちろん、我々の生きる現実はこんな風に上手くいかない事の方が多いでしょう。けれども、何事もやってみないとわからない。これもまた、ひとつの現実ではないでしょうか。
 
この点、斎藤氏は「自傷的自己愛」の歪さを「プライドは高いが自信がない」という端的な言葉で表現していますが、当初のぼっちちゃんもやはり絵に描いたような「プライドは高いが自信がない」というキャラでした。けれどもその後、彼女は肥大化したプライドをかなぐり捨て、なけなしの自信を必死に振り絞り、幾多の逆境を突破していきました。こうした彼女の生き様に共感したり勇気づけられた人は決して少なくないでしょう。
 
「現実は怖い。でも、これからとっても楽しいことが待ってそうな気がする」
 
(第1話より)

 

ぼっちちゃんに限らず人はそれぞれ、その人だけの特異性を抱えた存在として、社会における一般性との間で折り合いをつけながら生きています。そして、こうした一般性と特異性の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として承認され、その巡り合わせが悪ければ「社会不適合者」などとして排除されるわけです。
 
そしてこの差はおそらく、ほんの紙一重かもしれません。正義が勝つとは限らない。努力が報われるとは限らない。未来が素晴らしいとは限らない。所詮、世界は運と偶然に規定されたガチャに過ぎない。けれども、こうした紙一重の現実に恨み辛みを述べ立てるよりも、そのガチャを回す機会を1回でもより多く増やす努力をする方が遥かに実り多く希望のある人生ではないでしょうか。そういった意味で本作は日常系ならではの「虚構」を経由することで初めて捉えることのできるある種の「現実」を見事に描き出した物語であったように思えます。