かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

神なき時代における正義の在り処--罪と罰(ドストエフスキー)

 

* 危機の時代の作家

 
時は19世紀、当時のロシアでは「農奴制」という従来の社会構造が徐々に軋みを上げ始め、1825年のデカブリスト事件や1949年のペトラシェフスキー事件に象徴されるように社会全体に不穏な空気がみなぎっていました。
 
1861年、急速に近代化を進めようとした時の皇帝アレクサンドル2世によって「農奴解放」が行われることになりましたが、この改革は社会に更なる混乱を生み出す結果となり、現実に解放された農奴たちは土地すら与えられず、多くは流浪の民となり、失業者で溢れかえった首都ペテルブルクでは盗みや殺しなどの犯罪が爆発的に増加し、また自殺が一種のパンデミックのような現象として広がっていました。
 
こうした危機の時代において、あたかも預言者の如く人類に警告を発したロシアの作家がフョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキーです。
 
1821年10月30日(グレゴリオ暦では11月11日)、ドストエフスキーはモスクワに生まれました。母のマリアは商家出身で、父のミハイルは慈善病院に勤務する八等官の医者でした。
 
1937年、ドストエフスキーが16歳の時に7人の子供を残して母マリアが肺結核で死去します。その翌年、ドストエフスキーはエリート校である陸軍中央工兵学校に入学します。学生時代のドストエフスキーは読書に熱中し小説の習作の執筆も始めていますが、その一方で集団生活が苦手な彼は校風に馴染めず成績も悪く一年目から留年することになります。
 
1839年、父ミハイルが領地内で何者かによって殺害され、この時、ドストエフスキーは生涯の宿痾となる癲癇発作を初めて起こします。この父の死は後のドストエフスキー研究において大きなテーマとなっています。
 
1843年、ドストエフスキーは22歳で学校を卒業し陸軍少尉となり工兵局製図室というエリート部署に配属されますが、この職場は彼の肌に合わず一年後には辞職して背水の陣で小説を書き始めます。そして、そのデビュー作である『貧しき人々(1846)』は文壇から絶賛されましたが、その後に発表した『分身(1846)』『プロハルチン氏(1846)』『白夜(1848)』といった作品は逆に酷評の憂き目に遭います。こうした世間の掌返しに反発したのか、同時期にドストエフスキーは過激な空想的社会主義者であるミハイル・ペトラシェフスキーが主宰するサロンへ接近していきます。
 
1849年、ドストエフスキーは逮捕され裁判で死刑判決を言い渡されます。ところが死刑執行直前に突然、皇帝の勅使が現れて特赦によりシベリア流刑へ減刑すると告げられます。これは皇帝の権威を示すため最初から全て仕組まれていた茶番劇でしたが、この極限的な経験は彼を大きく変える契機となりました。シベリアのオムスク監獄まで徒歩で向かう途中、彼は聖書(一説には当時迫害されていた分離派の聖書と言われている)を貰い、監獄に唯一持込める本であるこの聖書を徹底的に読み込んだと言われています。
 
1854年、33歳で刑期を満了したドストエフスキー中央アジアセミパラチンスクのシベリア守備大隊に一兵卒として送られ、その時に県庁書記イサーエフの未亡人マリアと結婚します。そして1859年、38歳でようやく兵役解除が認められたドストエフスキーは10年ぶりに首都ペテルブルクに帰還し、再び専業作家の道を進み始めることになります。けれども当局の検閲と監視の中で彼が文章を書いて生きていくためには、かつての社会主義への情熱は一旦封じ込めて、ひとまず保守的な作家の顔をするしかありませんでした。それゆえに彼の作品は様々な主張が蠢く「ポリフォニー(多声性)」から成り立っていると評されたりもします。
 
1863年ドストエフスキーは旅行先のイタリアでルーレット賭博に取り憑かれてしまい、これ以降の印税のほとんどをルーレットにつぎ込み、その借金返済のために原稿を書くという自転車操業生活になってしまいます。さらにその翌年には妻マリアと良き理解者であった兄ミハイルが相次いで亡くなってしまいます。こうした苦境の時期に書かれた作品が本作『罪と罰(1866)』です。
 

* ナポレオン主義者と救世主の間で

この作品の主人公、ロジオン・ロマーノヴィッチ・ラスコーリニコフは大学法学部を学費未納で放校となった後、アパートの屋根裏部屋に引きこもり下宿代も滞納したまま食事もろくに摂らず、何やら奇怪な空想に耽っていました。
 
その空想とは端的に言うと「歴史上の英雄や天才の如き少数の非凡人はその他大多数の凡人とは異なり人類にとって有益な目的のために、ある一線を踏み越えて罪を犯す権利を持つ」というものです。そして彼は自分もまたナポレオンのような英雄になるのではないかと考え、自分が英雄かどうかを確認するために高利貸しの老女アリョーニャを殺害する計画を思い立ちます。果たしてラスコーリニコフは計画通りアリョーニャを殺害し、さらにその現場を偶然目撃したアリョーナの義妹リザヴェータも殺してしまいます。
 
「英雄になりたい」という彼の願望は単なる誇大妄想のようにも見えますが、その根底には弱者を救済し世のため人のために尽くしたいという彼なりの正義がありました。実際に彼は酒場で偶然に知り合った退職官吏マルメラードフの娘で篤い信仰心を持ちながらも家計のため娼婦に身を堕としているソーニャという女性に同情し、彼女の心の支えとなります。こうして彼はナポレオン主義的な殺人犯であると同時に一人の女性にとっての救世主の役割を演じるという二重性を負う事になります。
 

* ラザロの復活とは何か

 
その後、ラスコーリニコフは犯罪が露見する恐怖と闘っていましたが、ついに罪を認めようと決して身辺整理を始めます。まず母プリへーリヤと妹ドーニャの世話をラズミーヒンという彼の数少ない友人に託した後、ソーニャの部屋を訪れた彼は彼女に「ラザロの復活」を読んで欲しいと頼みます。
 
この「ラザロの復活」というのはヨハネ福音書第11章に出てくる次のようなエピソードです。イエス磔刑と復活に立ち会ったことで知られる「マグダナのマリア」と時に同一視されるマリアという女性の弟にラザロという病人がいました。マリアの姉であるマルタはイエスのもとに人を遣わしてラザロの病状を知らせますが、イエスは「この病気は死で終わるものではない」などといって来てくれません。そしてラザロの死から4日後にやってきたイエスは「私は復活であり、命である」といいラザロの墓所に赴き「ラザロ、出てきなさい」と叫んだ時、奇跡が起きてラザロは蘇りました。この「ラザロの復活」はヨハネ福音書を重んじるロシアではよく引用されるエピソードです。
 
本作において「ラザロの復活」に初めて言及した人物はラスコーリニコフこそが真犯人だと睨んでいた予審判事ポルフィーリーです。ラスコーリニコフが書いた犯罪心理学の論文から彼のナポレオン主義を鋭く読み取っていたポルフィーリーはラスコーリニコフに「神を信じているんですか」と問い「信じています」と答えるラスコーリニコフに「じゃ、ラザロの復活も?」とさらに畳み掛けます。
 
その時、ラスコーリニコフは狼狽えながら「し、信じます」などと答えていますが、実際のところラスコーリニコフは聖書もろくに読んだことがなければ教会に行ったこともありませんでした。けれども、ポルフィーリーのこの問いかけは彼の心のどこかに引っ掛かっていたわけです。
 

* ドストエフスキーと土壌主義

 
「ラザロの復活」の箇所を読み終えたソーニャに向かってラスコーリニコフは母と妹と決別してきたことを伝え、自分が老女殺しの犯人を知っていると仄めかします。そしてその翌日、ラスコーリニコフは再びソーニャの元を訪れ、ついに彼は自身の罪を告白することになりますが、ここでソーニャが口にしたのが次のような台詞です。
 
「どうしたらいいって!」彼女はそう叫ぶなり、いきなり立ち上がった。涙をいっぱいにためていたその目が、ふいに火のように輝きだした。「さあ、立って!(ラスコーリニコフの肩を掴んだ。おどろいた彼は、相手の顔をじっと見ながら立ちあがった)いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにひざまづいて、あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界中に向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように『私は人殺しです!』って、こう言うの。そうすれば、神さまががもういちどあなたに命を授けてくださる。行くわね?行くわね?」発作でも起こしたように全身をふるわせながら、彼女は彼の手をとり、固くつよく握りしめ、燃えかがやく目で彼の顔を見つめながらそうたずねた。
 
(「罪と罰」より)
 
ここでソーニャの信仰の対象とは本質的にはキリスト教ではなく「ロシアの大地」であったということが明らかになります。これはドストエフスキーの信奉している「土壌主義」です。
 
「土壌主義」とはロシアの大地、土に忠誠を誓うものは農民でも知識人でも、正統派でも分離派でも、ユダヤ人でもタタール人でもウクライナ人でも皆が同胞なのだという思想です。そして、この「ロシアの大地」とは東はシベリア、西はヨーロッパの手前、南はカザフスタンあたりまでを、つまりユーラシア全体を指しています。
 
そしてこの大地を通じて神に罪を告白しろという思考は正教における精霊の考え方に由来します。周知のようにキリスト教では父(神)と子(キリスト)と聖霊で三位一体とされています。この点、カトリック西方教会)とプロテスタントでは精霊に触れるためには教会を通す必要があるとされ、それが教会の権威の根拠となっています。これに対して正教(東方教会)では神はキリスト教徒の上だろうとイスラム教徒の上や仏教徒の上だろうが、どこにでも自由に精霊を落として人々を救済できると考えます。このような正教的な感覚に基づいてソーニャはイエス・キリストを介在させずに大地と神を結びつけているわけです。
 
この点、従来の一般的な読解によれば、ラスコーリニコフはソーニャの朗読する「ラザロの復活」を聴いて信仰心に目覚めて、その罪の告白につながったのだとされています。
 
これに対して元外務省主任分析官でロシア情勢に詳しい作家の佐藤優氏は近著『生き抜くためのドストエフスキー入門講義(2021)』でラスコーリニコフを救済したのはキリスト教ではなく「土壌主義」であると述べています。そして、氏はこの「土壌主義」はドストエフスキー独自のものではなく、極めてロシア的なイデオロギーであり、このような思考はいまのプーチンの中にもみることができるといいます。

* ラスコーリニコフがみた世界の終わり

 
当初、ドストエフスキーラスコーリニコフを自殺させる予定だったようですが、その構想はその後の執筆過程において大きく変更され、最終的に彼は生き延びることになります。
 
自首から5ヶ月後、ラスコーリニコフにはシベリアでの強制労働、懲役8年という判決が下されました。周囲の証言から犯行は一時的な心神喪失によるものだったと結論づけられ、また、自首の事実やラズミーヒンらが証言したラスコーリニコフの善良な性格から情状酌量が行われ、計画殺人に対する量刑としてはかなり軽い判決となったわけです。
 
もっとも、シベリアに送られた後もラスコーリニコフは自分のナポレオン主義的な思想それ自体が間違っていたとは思えませんでした。彼にとって自分の「罪」とはあくまでも一線を超えた恐怖に耐え切れなかった自身の弱さであったわけです。
 
そしてシベリアについて一年が過ぎた復活祭の頃、彼は病気になり発熱して入院します。そこで見たのが「世界の終わり」をめぐる悪夢です。
 
全世界が、ある、怖ろしい、見たことも聞いたこともない疫病の生贄となる運命にあった。疫病は、アジアの奥地からヨーロッパへ広がっていった。ごく少数の選ばれた人々をのぞいて、誰もが死ななければならなかった。出現したのは新しい寄生虫の一種で、人体に取りつく顕微鏡レベルの微生物だった。しかもこの微生物は、知恵と意志をさずかった霊的な存在だった。この疫病にかかった人々は、たちまち悪魔に憑かれたように気を狂わせていった。そしてそれに感染した者たちは、病気にかかる前にはおよそ考えられもしなかった強烈な自信をもって、自分はきわめて賢く、自分の信念はぜったいに正しいと思い込むのだった。人々が、自分の判断、自分の学術上の結論、モラルにかんする信念、そして信仰を、これほどまで確信したことはかつてなかった。いくつもの村、いくつもの町、そして人間が、これに感染し、気を狂わせていった。誰もが不安にかられ、おたがいに理解しあえず、それぞれが、ただ自分こそは真理の担い手と思いこみ、他人を見てはもがき苦しみ、胸をたたき、泣きわめき、両手を揉みしだくのだった。だれをどう裁くべきかもわからなければ、何が悪で何が善か区別できず、折りあいすらつけられなかった。だれを無罪とし、だれを有罪とするかもわからなかった。人々は、およそ意味のない悪意らしきものをいだいて、ひたすら殺しあった。おたがいに軍隊を集めあったが、この軍隊も行軍の途中、とつぜん殺しあいをはじめた。隊列はみだれ、兵士たちはたがいに襲いあい、相手をなぐったり、斬ったり、かみついたりし、その肉を食いあったりした。
 
(「罪と罰」より)
 
まさしく新型コロナウィルスが全世界を席巻する現代社会を預言するかの如きこの恐るべき夢は彼自身の内部に巣食う破壊衝動そのものであると同時に、神なき世界に生きる人間の絶望を表しています。そして、この預言的な夢をきっかけとして、彼のナポレオン主義的な思想は覆されていくことになります。
 

* 神なき時代における正義の在り処

 
本作においてドストエフスキーが描こうとしているものは畢竟、神なき時代における正義の在り処です。ラスコーリニコフのように神も国家も信頼できない人間が自身の信じてやまない「正義」を実践しようとすれば、それは時として共同体の枠をはずれ、道徳や法律から逸脱してしまうこともあるでしょう。
 
ラスコーリニコフは結局、最後はソーニャの信仰と愛に支えられながら改悛の道を歩み始めました。けれども、それは物語に幕を引くための便宜的な結論に過ぎません。そして、ここで提出された神なき時代における正義の在り処というドストエフスキーの問いは決定的な答えを見出せないままに、ポストモダン状況が加速する現代においてより先鋭化した形で問われ続けているといえるでしょう。
 
例えば2010年代を代表する批評家の一人である宇野常寛氏はそのデビュー作『ゼロ年代の想像力(2008)』において1970年代以降の日本社会においてポストモダンが段階的に進行しつつあるという立場を取り、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年から2000年までの間は「大きな物語」がまた一段階失効したことによる社会像の変化に怯えていた「引きこもりの時代」であったが、米同時多発テロ新自由主義構造改革に象徴される2001年以降は乱立する様々な「小さな物語」が衝突し合う「噴き上がりの時代」へと変化したとして、ここでは自分が任意に選択した「小さな物語」に大きな物語的な超越性を読み込み、その正当性を他の「小さな物語」を排除することで獲得しようとする決断主義的態度が支配的になったと述べています。
そして同書はこの決断主義においてはポストモダニズム的な価値観の宙吊り状態が原理的に不成立であるという前提が共有され「たとえ究極的には無根拠でも、特定の価値を選択する(決断する)」という態度が不可避の条件となり、この選択された特定の価値はその正当性を確保するために政治的な勝利を必要とするため、現代においては決断主義者同士の対立的なゲームが乱立する状況にあるといいます。
 
こうしたことから同書はゼロ年代の想像力においては今や前面化した決断主義的動員ゲームの克服が問われているとして、このような想像力に規定された作品群を「サヴァイヴ系」と呼び、その代表に『DEATH NOTE(2006)』という作品を位置付けています。
 

* 罪と罰からDEATH NOTE

同作(映画版)のあらすじはこうです。主人公の大学生、夜神月は優秀な法学部の学生であったが、犯罪者がさまざまな理由から起訴されず何一つ反省せず野放しにされる法律の限界に苛立っていた。そんなある日、月は死神リュークが落とした「デスノート」を拾う。名前を記した人間を死に至らしめることができるデスノートを手に入れた彼は、その力で全世界の凶悪犯罪者たちを裁き「新世界の神」になるという野望に邁進する。やがて彼は人々から「キラ」と呼ばれ始め、キラを神と崇める者まで現れるが、そんな彼の目の前に天才探偵Lが立ち塞がる。
 
まさしく月が現代に蘇ったナポレオン主義者ラスコーリニコフであれば、Lはラスコーリニコフを追い詰めていく予審判事ポルフィーリーです。もっとも、ラスコーリニコフが理想と現実の間で葛藤を続けていたのに対し、月は当初抱いた犯罪者なき世界を創るという理想をやがて忘却し、その目的はLとのゲームに勝利することへと変容していくことになります。
 
この点『バトル・ロワイヤル(1999)』に代表される初期サヴァイヴ系作品では主人公たちは目下の極限状況を生き延びるためにやむをえず決断主義者になることを余儀なくされていました。しかし、ゼロ年代中盤のサヴァイヴ系作品である本作において月はいわば「バトルロワイヤルの構造」に自覚的な「メタ決断主義者」として登場することになります。
 
ここでいう「バトルロワイヤルの構造」とは、決断主義的状況における正義と悪は動員ゲームによって政治的に記述されるという現実に自覚的なメタ決断主義者がこのゲームの構造に無自覚な決断主義者達(同作でいうところのキラ信者達)を動員することによって成立します。こうしたことからメタ決断主義者はゲームのプレイヤーであると同時に、限定的にゲームの設計者としても機能することになるわけです。
 
この点、本作におけるLは月のメタ決断主義に対峙するもう一人のメタ決断主義者です。いわば月とLの対決とは決断主義におけるメタレベルを制する対決に他なりません。こうした意味で本作は決断主義の克服を明確に志向した作品といえます。
 
しかしその一方で本作の本質が夜神月とLというメタ決断主義者同士の動員ゲームである以上、ここで示される正義と悪の記述法もまた暫定的な「ゲームの結果」に過ぎないということになります。こうしたことから本作は決断主義の克服を志向しつつも、同時にその決定的な克服の困難性を図らずも露呈する作品となりました。
 
言うなれば『罪と罰』が神なき時代における正義の在り処を問うた作品であったとすれば「現代版罪と罰」というべき『DEATH NOTE』は神なき時代における正義の在り処など所詮ゲームの結果に過ぎないという端的な現実を誇張的に描き出した作品であったといえるでしょう。