*「読書離れ」の諸相
先月末より「秋の読書推進月間(2024年10月26日〜11月24日)」が始まっています。これは2022年から始まった全国の書店が参加する業界規模のキャンペーンであり、各地では作家を招いて本の魅力を伝えるイベントなどが開催されているようです。このような取り組みの背景にはやはり社会的な「読書離れ」があると推測されます。この点、2023年度の文化庁の調査によると、個人が1ヶ月に読む本の冊数は「読まない」が全体の6割を超え、読書量が「減っている」と答えた人も7割近くに上がっており、こうした「読書離れ」の要因としてスマートフォンなどの情報機器に時間を取られる点が挙げられているようです。
また書店の数も全国的に減少傾向にあり、地域に書店が一つもない自治体は4分の1を超えているそうです。経済産業省が今年行った書店の経営状況に関する調査によれば売り上げに占める書店の利益が少ない点、ポイント付与や送料無料などのサービスを行うオンライン書店との競争に苦しんでいる点などが課題として浮上しており、また公共図書館が人気のある新刊本を複数購入して、多くの人に貸し出している現状も書店の経営を圧迫する一因となっているとする声もあったといわれます。
こうした現状を受けて読売新聞の10月30日(水曜)社説「心静かに本と向き合う時間を」は「書店には、様々なジャンルの本が並び、思いがけず良書に巡りあう瞬間がある。偶然手にした一冊が、その後の人生に大きな影響を与えることもある」と述べ、書店経営への公的支援や書店側の創意工夫や公共図書館との連携といった読書環境の整備を訴えています。
もっとも「読書離れ」の要因を考える上では、読書環境それ自体のみならず、日本社会における労働環境の変化もまた見逃せないでしょう。本年のベストセラーとなった『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』において文芸評論家の三宅香帆氏は近代以降の日本社会における「労働」と「読書」の関連性を俯瞰した上で、現代における「読書」は「ノイズ」になったと論じています。
そもそも日本において「労働」と「読書」は共に明治期に近代化の産物として生じた概念でした。当時「立身出世」の野心を抱いた多くの青年の間では読書によって自身の精神を練成する「修養」の思想が広まり、ついで大正期になると「サラリーマン」と呼ばれる新中間層の間では労働者階級における「修養」と差別化を図る形で「教養」の思想が流行するようになりました。そして戦後になると労働者階級にもじわじわと「教養」が広がり、高度経済成長期には空前の教養ブームが到来することになります。このように日本においてはもともと「労働」と「読書」は相互に接続された関係にありました。
ところが高度経済成長が終焉した1970年代以降「労働」と「読書」の相互の接続は次第に揺らぎ始め、バブル崩壊後の長期不況により経済成長神話の崩壊が決定的となった1995年前後において「読書」と「労働」は決定的に切り離されることになります。そして、この時期から本格的な「読書離れ」が進行する一方で、市場には数多くの自己啓発書が氾濫するようになります。この点、同書は自己啓発書のロジックとは「社会」というアンコントローラブルなものは「ノイズ」として捨て置き、自分の行動というコンローラブルなものの変革に注力することで人生を変革するというものであるといいます。さらにこうした傾向は「労働」で「自己実現」をすることが称揚されるようになったゼロ年代以降「ノイズ」を徹底して排除した「情報」の台頭によりますます先鋭化してくことになります。
こうした状況のなか、いま改めて「読む」という営みとは何かを問い直してみる意義は決して小さくはないでしょう。現代思想2024年9月号の『特集=読むことの現在』ではこうした「読む」という営みに対してマルチラテラルな角度から光が当てられていきます。
* 読書における健常者優位主義
市川沙央氏と頭木弘樹氏による討議Ⅰ「合理的調整としての読書バリアフリー」では読書環境における「健常者優位主義」が問い直されます。昨年、重度障害者の日常を描いた『ハンチバック』で169回芥川賞を受賞した市川氏は幼少時に筋疾患先天性ミオパチーと診断され、思うように外出ができなくなったことで20歳を過ぎた頃に「自分には小説家くらいしかやれることがない」と思い立って以来、集英社コバルト文庫のコバルト・ノベル大賞をはじめライトノベル、SF、ファンタジーの賞へ20年以上応募を続け、その努力はついに芥川賞へと結実しました。その一方で氏は昨年3月に卒業した早稲田大学通信課程における卒論では「障害者表象」というテーマを扱っており、卒論と並行(!)して執筆した『ハンチバック』はいわば「裏卒論」にあたるそうです。
市川氏が『ハンチバック』を執筆した動機のうちの「およそ半分ほど」は「読書バリアフリー」を訴えるためであったといいます。そして氏の芥川賞受賞会見をきっかけにこの「読書バリアフリー」という言葉は一般に広まり、今年に入って日本ペンクラブなど文芸3団体や出版5団体から共同声明が出るなど「読書バリアフリー」に向けた動きが進み出しています。もっとも市川氏は「読書バリアフリー」に関しては文芸系の出版界からの反響は大きかったものの、学術界からの反応は薄かったといい、障害を抱えた学生の教育保障・情報保障は切実な課題であり、高等教育を受ける権利の観点からも学術系の出版社の対応が進むことを望んでいると述べています。
このような「読書バリアフリー」を実現する上で電子書籍は極めて重要なメディアといえます。この点、20歳で潰瘍性大腸炎という難病に罹患し、ある日から紙の本が一切読めなくなったという頭木氏は文字を拡大できる電子書籍に助けられたと述べています。電子書籍についてはいまだに一部の著者や読者からの拒絶反応も少なくないようですが、その背景にはやはり「紙の本」だけが持つ価値への信仰が根強くあるようです。しかしながら市川氏が『ハンチバック』で強く訴えているように「紙の本」を読むためには「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること」という「5つの健常性」を満たす必要があります。また頭木氏がいうように紙の本に本当に素晴らしい価値があるのであれば、今後どんなに電子書籍が普及したとしても紙の本が無くなることはないはずです。
また市川氏は最近のインタビューで「『合理的配慮』という訳はほとんど誤訳といってよく、いまからでも『合理的調整』とするべきだと考えています。例えば『rights』は『権利』ではなく『権理(権理通義)』(by福沢諭吉)と訳すべきだった、つまり『利』という字のネガティヴな印象のせいで人権を理解できない国民になってしまったという話もあるように、こうした言葉の誤選択は国民の精神性に悪影響を及ぼし尾を引いたりするので、私は意地でも『合理的調整』と書いていこうと思います」と述べています。確かに「配慮」と言えば、何となく「してあげている」というイメージが浮かんできますが、これを「調整」と言い直せば、何となく「しなければいけない」というイメージが浮かんでくるのではないでしょうか。こうした言葉の問題は読書環境のみならず、さまざまな社会設計を行う上で決して看過できない問題であるといえるでしょう。
* AI時代における読書
宮崎裕助氏と石岡良治氏による討議Ⅱ「読むことを避けてしまう時代で、それでも本を読むこと」では、AIに本の内容を要約してもらうとかYouTubeの紹介動画を見るとか、いまや実際に自分で本を読まなくても事足りる手段がいくらでもあるなかで「それでも本を読むこと(読まなければならないこと)」の理由とは何かという問いが扱われています。
この点、現代哲学を専門とする宮崎氏は今年出版した著作『読むことのエチカ--ジャック・デリダとポール・ド・マン』の序論において「脱構築批評」を確立したデリダやド・マンの行った緻密なテクスト読解とは完全に真逆ともいえる立場にあるピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を批判的に取り上げていますが、今回の討議でも一般的に「読む」というと、あくまで読者(読む側)が「主」でテクスト(読まれる側)が「従」と位置付けられがちだけれども、実際には読んでいるうちにいつの間にかその主従が逆転し、テクスト自体が動き出してこちらを引っ張っていく、あるいはテクストが自ら引き起こす出来事に巻き込まれていくという現象が生じ、そこには「人間を超えていく解放感」があるとして、生成AIはひたすら人間から「読むこと」を省略することによって人間をむしろ「動物化」していくといいます。
また氏はいま広く社会に蔓延する「ファスト教養的なもの」にどう抵抗するかについて紙の本の「物質性」に注目します。氏によれば紙の本というのはインターネット上のテクストとは「明らかに別の時間を持っている」といい、また「資本の流れ」を外れたところでのアクセスを「物質として常に残しつづけている」といいます。また紙の本に限らず、文字を読むという活動自体、そうした「別の時間」の可能性を開いてくれるところがあり、映像の場合は勝手に流れる時間にこちらが身を委ねる必要があるけれど、本や文字は時間の流れが一様ではなく、ひとによって千差万別、自分自身の時間の流れ方で読むことができるので、とくに紙の本は「資本主義に覆われた日常的な時間軸をずらしてくれる働きがある」といいます。
これに対して視覚文化研究を専門としており、現在でも毎期の新作アニメを半数から8割以上追っているという石岡氏は(少なくとも自宅で視聴するBD/DVDや配信の映像に関しては)途中で止めたり速度を早めたりと、いくらでも時間は操作可能であり、そうであれば映像にも読解の契機、書物的なものを見出すことはできるのではないかと述べます。また氏は紙の本に限らず、インターネット上で目にする断片的な情報(文字)にも書物性やテキスト性は宿っていると考えており、それもまさにデリダやド・マンから学んだことだと述べています。
このような両氏の紙の本をめぐる議論は討議Ⅰにおける論点にも通じています。ただ少なくとも市川氏がいうように「紙の本を読む」という営為のハードルはかなり高く、そういった意味ではやはり、紙の本を「読むこと」とインターネット上の情報や映画やアニメーションを「読むこと」のあいだには良くも悪くも(読書における「健常者優位主義」を含めた)何らかの差異があることは確かでしょう。もっとも、このような差異が単なる量的な差異なのか、それとも決定的に異なる質的な差異なのかはやはり更なる議論を要するところだと思います。
* それでも読書しかなかった
冒頭で取り上げた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著者である三宅氏は本特集への寄稿「誰かの寂しさを言葉ですくいあげる」で、市川氏の『ハンチバック』に言及し「本を読むといいよ、なんて、他人に言えない。それは身体が健康で、教養を与えられた、運の良い人間の言うことだからだ。読書とはマッチョなものだ」としつつ、その一方で「読書できるのは贅沢なことだと分かったうえで、それでも自分にとっては読書しかなかった。ほかのものでは代替できなかった」「だから今でもやっぱり、現実を生きているときよりも、本や漫画のなかで、良い言葉に出会ったときのほうが、ずっとずっと世界は輝いているように思える」といい、次のように述べています。
寂しさとは、他人と共有できないものを抱えきれない、という感情だ。だとすれば、読書はその寂しさを分かり合ってくれる、言葉を共有する。どこの誰とも知れない他人と。世界も時代も異なる他人と、抱えきれなさを共有する。そのとき私は、寂しくなくなる。それは読書の効用だと思っている。「誰かの寂しさを言葉ですくいあげる」より
人は日常において他者とのコニュニケーションを円滑に行うため、自身の発する言葉の取捨選択を行なうことを(程度の差はあれ)余儀なくされています。けれども、その過程で他者と共有できない自分だけの言葉がどんどん蓄積されていくことになります。そしてこのような言葉たちの蓄積を「抱えきれない」という感情が氏のいう「寂しさ」です。そして読書のなかで出会う言葉は時に、このような行き場をなくした言葉たちを受け止めてくれます。だから氏は次のようにも述べます。
つまり私は、人間よりも、人間のつくりだす言葉のほうが好きなのである。人間そのものは、そんなに期待しないほうがいい生き物だと思う。(中略)だが私は、人間のつくりだす言葉にはずっとずっと期待している。それはなぜなら、人間のつくりだす言葉だけが、私を寂しくさせないからだ。私の、他人に言えなかった言葉を、日記に書くしかない言葉を、頭のなかにとどめるしかない言葉を、掬い上げてくれるのは、やはり他者のつくりだす言葉だけである。そしてそれは本や漫画のなかにこそ存在していた。他の場所では出会えなかった。私の場合は。「誰かの寂しさを言葉ですくいあげる」より
この点、討議Ⅰで市川氏は自身があるインタビューで語ったという「物語や本に救われるとはどういうことなのか私にはわからない」という趣旨について「本当にわからないというより、あまりにもその言葉が定型文になっていてなかば信仰のようになり、救われたという経緯がむしろ分かりづらくなっている」と述べていますが、本稿ではこうしたしばし「定型文」や「信仰」になりがちな「本に救われた」という経験が極めて明晰かつ丁寧に言語化されているように思えます。すなわち、読書のもたらす「救い」とは、あるいは他者の言葉による「掬い」であるともいえるのではないしょうか。
* リズムとしての読書
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』において三宅氏は読書が「ノイズ」になってしまう事象を「文脈(コンテクスト)」という観点から理解しています。読書は「文脈」によって紡がれるものであり、人は基本的に自身の関心のある「文脈」に基づいて読みたい本を選びますが、一冊の本の中にはさまざまな「文脈」が収められていることから、ある本を読んだことがきっかけで「好きな作家」や「好きなジャンル」といった新しい「文脈」を見つけることもあるでしょう。このように読書の醍醐味とはこれまで自分と無関係だった新しい「文脈」に触れることにあるともいえますが、このような新しい「文脈」に触れるだけの余裕がなければ、それは単なる「ノイズ」になってしまうということです。
けれども本稿で三宅氏がいうように、時として読書が「救い=掬い」になることもまた確かでしょう。そして、このような事象を「文脈」という観点から理解するのであれば、現実という「文脈」においてはまさしく「ノイズ」でしかない言葉たちが読書という「文脈」においては「救い=掬い」を受けるということなのでしょう。
読書は時として「ノイズ」となりますが、時として「救い=掬い」ともなります。そして実際の読書経験においてこの両者は極めて複雑に入り組んだかたちで現れてくるでしょう。そうであれば読書とは「ノイズ」と「救い=掬い」という凸凹から成り立っているかたち=リズムの経験といえるかもしれません。こうした意味で「読む」とはテクストそれ自体を「読む」という営為であると共に、読者とテクストのあいだから紡ぎ出されるリズムを「読む」という営為であるともいえるのではないでしょうか。