かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「つながり」よりさらに深いところで--かがみの孤城(辻村深月)

 

* ゼロ年代の想像力から考える--バトルロワイヤル状況とつながりの思想

 
宇野常寛氏はそのデビュー作「ゼロ年代の想像力(2008)」において、2001年前後から米同時多発テロ小泉政権が主導した新自由主義構造改革といった時代情勢を背景に「引きこもっていると殺される」という「サヴァイヴ感」が社会的に広く共有されるようになった結果「たとえ無根拠でもあえて中心的な価値観を選び取る」「信じたいものを信じる」という態度が支配的になったとして、このようなゼロ年代的的態度を90年代後半における「引きこもり/心理主義」との対比から「開き直り/決断主義」と名付けます。
すなわち、ここで氏はいわゆる「大きな物語(リオタール)」が失墜したポストモダン状況が加速するゼロ年代とは決断主義的に選択された「小さな物語」同士が動員ゲームを繰り広げる「バトルロワイヤル」の時代であるという認識に立った上で、こうした決断主義的な「バトルロワイヤル」を解除するためのアプローチのひとつとしてポストモダン的な郊外的空間で成立する「つながり」が自己目的化したコミュニティが生み出す物語の可能性に注目しました。
 
そして、こうしたゼロ想で提示された「バトルロワイヤルからつながりへ」というゼロ年代的構図は後に「リトル・ピープルの時代(2011)」での見田宗介氏や大澤真幸氏の反現実論を参照枠とした「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ」という変遷や「母性のディストピア(2017)」での吉本隆明氏の共同幻想論を参照枠とした「夫婦/親子的対幻想から兄弟/姉妹的対幻想へ」という転換といった形である種の戦後社会論として展開されることになります。
 
この点、第31回メフィスト賞を受賞した辻村深月氏のデビュー作「冷たい校舎の時は止まる(2004)」は宇野氏のいうゼロ年代的な「サヴァイヴ感」に彩られた作品でした。同作のあらすじは大学受験を控えたある冬の日に無人の校舎に閉じ込められた8人の生徒達が、なぜか皆が一様に忘却してしまっている学園祭で自殺したクラスメイトの名前を探し続けるというものです。
 
そして同作を構成する主要ないくつかのモチーフを発展的に継承した上で、そこに「バトルロワイヤル=リトル・ピープル」における「つながり=兄弟/姉妹的対幻想」という想像力を全面に導入した辻村氏の作品が2018年に本屋大賞を受賞して昨年にはアニメーション映画にもなった本作「かがみの孤城」です。

*「願い」をめぐる物語

 
本作の主人公である中学1年生の安西こころは中学に入学した4月以来、とある理由で学校に行けなくなっていました。そんなある日、こころは部屋の鏡を通じて異世界の城の中に引き摺り込まれてしまいます。狼のお面を被り「オオカミさま」を自称する謎の少女は次のように状況を説明します。 
 
こころはこの城にゲストとして招かれた7人の子どもたちの1人であること。この城には1人だけ入れる「願いの部屋」があり、今日から3月30日までの期間中、こころたちは城の中で「願いの部屋」に入る鍵探しする権利があること。「願いの部屋」が開いた時点で3月30日を待たずこの城は閉じるということ。
 
城が開くのは毎日9時から17時の間で、17時を過ぎた時点で誰かが城に残っていると、ペナルティーとしてその日に城に来た全員が狼に食べられるということ。城にはゲスト以外出入り不可であり、ゲスト以外の前で鏡は光らないということ。
 
そして以上のルールを守る限りここでの過ごし方は自由であること。
 

* ゼロ年代決断主義の超克

 
このような設定は例えば辻村氏のデビュー作と同時期に発表され、ゼロ年代を代表するPCゲームとなった「Fate/stay night(2004)」における「聖杯戦争」のような状況を想起させます。けれどもここから熾烈な「願いの部屋」をめぐる「鍵探し」の「バトルロワイヤル=リトル・ピープル」に突入するかというと、そうはならないわけです。こうした意味で本作はゼロ年代的な決断主義を超克したすぐれて2010年代的な想像力で描かれています。 
 
この「願いが叶う城」に招かれた7人は、平日の日中に「ここ」にいることから、全員がこころと同じように学校に行っていない子どもたちと推測されました。こころたちは基本的に来たい時に城に来て、その時たまたま居合わせたメンバーとゲームをしたりお茶をしたりして、城の中での時間をそれなりに満喫していきます。
 
もとより、こころも自分を不登校に追い込んだ女子生徒をこの世から消し去りたいという薄暗い「願い」を持ってはいましたが、それ以上にこころの中で、この城で皆で過ごす時間がかけがえのないものとなっていました。 
 

* 新たに判明したルール

 
そして「鍵探し」が始まってから半年が経った10月のある日、皆での話し合いの結果「鍵探し」は共同でやることにして、仮に鍵が見つかってもすぐに使わずに、3月いっぱいまで城を使える状態にしておくことが決まりました。ところがそこに「オオカミさま」が突如現れ、一つ言い忘れていたなどと言いながら次のようなルールを告げます。
 
それは鍵を使って誰かが「願い」を叶えた時点で全員がこの城で過ごした記憶を失うけれど、誰も「願い」を叶えなかった場合は「城の記憶」は引き継がれるというルールです。 
 
この新たに判明したルールを巡り、あくまで「願い」に執着するメンバーと「城の記憶」を優先するメンバーとで意見が割れてしまいます。ところがある出来事をきっかけに、メンバー全員がこころと同じ「雪科第五中学」に通うはずで、通えていない生徒であることが判明します。こうしてこころ達は現実世界でも「助け合える」かもしれない可能性を見出していく事になります。 
 

*「つながり」よりもさらに深いところで

 
私たちは、助け合える--本作を貫くこのテーゼはひとまずはゼロ年代の想像力の到達点である「つながり=兄弟/姉妹的対幻想」の思想の系譜に属するものといえるでしょう。
 
もっともその一方で本作は「つながり」の中で泡立つ「他者性」を幾度となく強調します。こころ達は当初全員がそれぞれ「同じ」ような境遇にあると推測していましたが、交流を重ねるうちにお互いの「違い」に直面し、その度に戸惑ったり苛立ったりします。
 
そして全員が「同じ」中学にゆかりのある生徒だと判明した後にも決定的な「違い」が突きつけられることになります。けれども本作は、こうした「つながり(同じ)」の中で泡立つ「他者性(違い)」があるからこそ「つながり」よりもさらに深いところでお互いに「助け合える」という逆説を描き出していきます。 
 

* 映画について

 
正直、実写にせよアニメーションにせよ、この小説の映像化は極めて難しいと思っていましたが、昨年暮れに公開された映画は想像以上の出来栄えだったと思います。
 
特にキャラクターデザインは本当に素晴らしいという一言に尽きます。個人的には全員がほぼ完璧に原作のイメージ通りでした(皆着ている服が登場毎に違うというこだわりぶりも注目すべき点です)。
 
その一方で各キャラの性格について映画は原作よりもかなりマイルドに調整されていました。これはあくまで原作既読者としての感想となりますが、本作の映画は比較的長大な原作小説のエピソードを整理統合して2時間映画のシナリオとして上手く再構成しつつも、なおかつ原作が含み持っていた複雑で多様な機微を上手く映像へ汲み取っていた作品であったように思えます。