* シュミラークルとデータベース
現代を代表する批評家の一人である東浩紀氏はその主著「動物化するポストモダン(2001)」において、ポストモダンの特徴の一つとしてとして「シュミラークル」の増殖を挙げています。フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは来るべきポストモダン社会においては作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シュミラークル」という中間形態が支配的になると予測していました。そこで東氏はいわゆる「オタク」の消費行動分析において、このボードリヤールの見解をひき、原作もそのパロディとしての二次創作も共に等価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かにこのオリジナルもコピーもないシュミラークルのレベルで作動しているように思われるといいます。
そして、こうした現象を東氏は近代的な「大きな物語」というツリーモデルの崩壊とポストモダン的な「大きな非物語」というべきデータベースモデルの前景化として捉えます。そして氏は全てがシュミラークルとなったポストモダンにおいて、その優劣はオリジナルとの距離ではなくデータベースとの距離で図られるといいます。
オリジナルとコピーの区別の失効。シュミラークルの氾濫。こうした事象の前景化はいまやオタクに限った話ではないでしょう。例えば「家族」というものもそうではないでしょうか。ポストモダンの進展は前近代的な「大家族」はもちろんのこと、近代的な「核家族」のモデルも失効させ、いまやオリジナルなきシュミラークル=二次創作としての家族のモデルが氾濫する時代を迎えつつあります。本作はそんな「二次創作としての家族」を描き出す物語です。
* ちょっと変わった父娘の日常
本作のあらすじはこうです。本作の主人公、17歳の高校生森宮優子は現在は37歳の父親である森宮さんと二人で暮らしています。優子は幼い頃に母親を亡くし、様々な事情から父親が3人、母親が2人います。苗字も生まれた時の水戸から田中、泉ケ原を経て現在の森宮に至っています。こう書くとかなり不幸な生い立ちのように読めますが、いずれの親達も皆優しく、優子は自身の境遇を不幸とはまるで感じることなくこれまでを生きてきました。物語は現在の優子の現在の生活とこれまで優子がたどった数奇な運命を交互に描き出していきます。
3番目の父親である森宮さんは2番目の母親である梨花さんの再婚相手です。梨花さんはある事情から、結婚して間もなく置き手紙を置いて出奔してしまいます。こうして置き去りにされた者同士となった優子と森宮さんの奇妙な父娘生活がスタートしてしまいます。
それまで独身だった森宮さんはどうにかして「父親」として「子育て」をしようと試行錯誤するわけですが、当時、優子はすでに高校生になっており、森宮さんの「父親」としての振る舞いや「子育て」は端からみて何かしら頓珍漢です。そして、優子もまた理想的な「娘」を演じられているかを気にしており、普通の父娘関係から見るとわりとおかしな事で思い悩んだりするわけです。
いわば森宮さんも優子も「データベース」に集積された様々な「家族」のイメージや設定を参照しつつ「二次創作としての家族」を創り上げようとしています。もしも、東氏がいうようにシュミラークルの優劣が「データベースとの距離」のよって図られるというのであれば、実の父娘ではないが故にデータベース化された「家族」の参照に熱心な森宮さんと優子は実の父娘以上に真摯に「家族」という作品の創造へ向き合ってきたともいえるでしょう。
* 擬似家族的共同性と生成変化
もちろんこれはいわゆる「親ガチャ」が奇跡的に上手くいった御伽噺にすぎません。けれども本作はある面で、ゼロ年代以降の現代思想シーンにおいて様々な文脈の中で議論されてきたポストモダンにおける主体生成論のひとまずの到達点をも描き出しているようにも思えます。
例えば宇野常寛氏は「ゼロ年代の想像力(2008)」において、日本社会でポストモダン状況が加速した1990年台後半からゼロ年代にかけて起きた社会像の変化を「トーナメントバトル型」から「カードゲーム型」への変化であると指摘して、ゼロ年代的な想像力とは「大きな物語」が失墜し、それぞれが異なる「小さな物語」を生きる他者同士が決断主義的な動員ゲームに明け暮れるという新たな社会像を反映した想像力であると主張します。そして宇野氏はこうした新たな社会像に対応した成熟モデルとして、異なる小さな物語を生きる他者同士がお互いに手を差し伸べてゆるやかにつながることができる擬似家族的共同性を称揚します。
あるいは千葉雅也氏は「動きすぎてはいけない(2013)」において、ドゥルーズ哲学から「リゾーム」に代表される「接続の原理」の影に隠れつつも常に伏在していた「非意味的切断の原理」を誇張的に取り出して、ドゥルーズのいう生成変化とは単にリゾームにおける接続を繰り返すところで生じるのではなく、むしろ勝手に接続過剰となっていくリゾームを非意味的に切断して「全体化しない全体=器官なき身体」へ「再接続=個体化」するところで生じているという解釈を提示しています。そしてこうした生成変化の技法を千葉氏は「イロニーからユーモアへの折り返し」と呼びます。
この点、優子は両親以外に3人の親と擬似家族的共同性を紡ぎ、接続と非意味的切断を繰り返す中で「水戸優子」「田中優子」「泉ケ原優子」「森宮優子」と成熟=生成変化してきたことになります。
それゆえに優子は、たかだか同級生からハブられたり、彼氏に振られた程度ではまったく損なわれないメンタルと、目の前に現れた難題の前でも常にイロニーからユーモアへ折り返すことのできる余裕を持っています。こうしたことから、ある意味で優子は「現代思想の優等生」ともいえます。
* 軽やかさと不器用さのあいだで
けどその一方で、優子がピアノへ結構な執着を見せるところがまた面白いところです。優子にとってピアノとは「実父」という失われた対象を埋め合わせる代替物でもあり、その延長線上にピアニストである早瀬君との結婚もあるという精神分析的な解釈も出来るでしょう。
また、優子は浜坂君という同級生から「世渡りがヘタ」と指摘されたり、森宮さんからも「傲慢」と言われたりもします。本作は基本的に優子視点でいかにも軽やかに描かれていますが、他の人の視点から見れば案外、優子は不器用に生きているのかもしれません。けれどもこうした両義性こそが作品により一層の深みを与えているともいえます。先を読み進めたくなる巧みなストーリーテリング、まるで現実と地続きであるかのような丁寧な日常描写、そして優しく柔らかな読後感。まさに平成最後の本屋大賞に相応しい快作でした。
* 映画について
原作小説はどちらかというというとちょっと変わった父娘の日々がエッセイ風に淡々と綴られていくような印象ですが、映画はいわゆる「泣ける感動作」の様相を呈していました。
映画では原作のエピソードを整理統合した上で、中盤に原作にはない「泣きどころ」を設定し、ここで同時に不穏な「謎」が提示され、終盤の衝撃的な展開へと向かいます。結果、映画は原作とは相当に印象の異なる作品となっていますが、原作の核というべきテーマは損なわれていなかったと思います。
小説と映画とではメディアの条件が違うので、観客を約2時間の間飽きさせないための工夫はやはり必要となってくるでしょう。当然、賛否はあるでしょうけれど、個人的には良いアレンジだったと思います。