かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

他人の物語と自分の物語--燃えよ剣(司馬遼太郎)

* 幕末という時代と新撰組

 
嘉永6年(1853年)6月、アメリカ合衆国東インド艦隊提督マシュー・C・ペリーは軍艦4隻を率いて浦賀に来航。翌年、日米和親条約が締結され、ここに二百数十年に及ぶ江戸幕府鎖国体制は終焉を迎えました。さらに安政4年(1857年)10月、日米和親条約に基づき総領事に着任したタウンゼント・ハリスはこのままだと日本は欧州列強の植民地になると幕府を脅し上げ日米間の通商条約締結を要求します。
 
幕府は条約締結もやむなしと判断し、筆頭老中堀田正睦が朝廷の許可を得るべく6万両を懐に京都に向かうも、時の帝である孝明天皇が極端な異人嫌いのうえに徳川家の将軍後継問題にまつわる一橋派と紀伊派の対立も絡み朝廷工作はあえなく失敗。6万両を散財しただけで何の成果もなく江戸に戻った堀田は打開策として大老設置を時の第13代将軍徳川家定に進言。しかしここでも一橋派と紀伊派の対立が絡み、家定は紀伊派の彦根藩主、井伊直弼大老に指名します。
 
大老に就任した井伊は一橋派を江戸城中から一掃し、周囲を紀伊派で固め権力を掌握。結局、朝廷の許可を得られないまま安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結されます。幕府のなし崩し的な開国に反対する攘夷論者は激昂し「井伊斬るべし」の声が日々高まります。こうした中で井伊は不満分子への大弾圧を決行(安政の大獄)。攘夷論者の怒りは怒髪天を突き、はたして安政7年(1860年)3月、大老井伊直弼は暗殺されます(桜田門外ノ変)。
 
井伊の死後、幕府は朝廷との穏健な融和を図る公武合体路線を模索していくことになりますが、政権を預かった将軍後見職一橋慶喜政事総裁職松平春嶽は開国と攘夷の板挟みで右往左往することになります。その一方で尊王攘夷の火は燎原のごとく燃え広がり「人斬り」という名のテロリストが「天誅」と称して公武合体派や開国派を日夜斬りまくり京都は血風の魔都と化します。こうして文久2年(1862年)、京都の治安悪化への対応を迫られた慶喜と春嶽は会津藩松平容保を新設の京都守護職に任命します。その麾下で非正規の実働部隊として京都の治安維持にあたったのが「新撰組」です。
 

* 悪の暗殺組織から幕末のスターへ

 
幕末最強の剣客集団として知られる新撰組は明治大正の頃までは薩長史観の影響でもっぱら正義の維新志士の前に立ち塞がる悪の暗殺組織という位置付けにありました。ところが昭和に入ると子母澤寛による史談「新選組始末記」をきっかけに新撰組は再評価され始めます。戦後、新撰組を題材にした映画が数多く作られるようになり、新撰組局長近藤勇をはじめとした各隊士たちにも脚光が当てられるようになります。
 
そんな中、新撰組という存在を幕末のスターへと決定的に押し上げた記念碑的小説が本作「燃えよ剣」です。本作は維新志士たちから「鬼の副長」として恐れられた新撰組副長土方歳三の生涯を中心に新撰組の栄枯盛衰を描きます。
 

* 新撰組の誕生と池田屋事件

 
武州石田村の豪農に生まれた歳三は少壮の頃は喧嘩と女遊びに明け暮れ、周囲からは「バラガキ」と呼ばれる悪童として知られていた。やがて歳三は近藤と無二の親友となり、近藤が当主を務める天然理心流の道場「試衛館」の塾頭となるが、当時の試衛館は多くの食客を抱えていた上に折りからの疫病もあり、その経営は困窮を極めていた。
 
一方、幕末の騒乱は風雲急を告げ、京都の治安悪化に頭を痛めていた幕府は庄内藩浪士清河八郎の献策により、時の第14代将軍家茂の上洛に際し将軍警護の名目で浪士組の結成を企図し江戸で浪士を募集。この時、近藤、土方ら試衛館の門人も徴募に応じ京に登る。
 
ところが京都に到着するや否や清河の真の目的は将軍警護などではなくむしろ尊皇攘夷の尖兵を集める事にあったことが判明する。清河と袂を分かった近藤ら試衛館派は、ちょうど京都守護職などという貧乏籤を引かされて頭を抱えていた松平容保に見出され会津藩預かりの浪士となる。こうして京の治安を守る武装警察集団「新撰組」が誕生した。
 
新撰組副長に就任した歳三は、西洋軍隊を参考にした指揮系統を導入すると同時にその行動原理に「士道」を掲げ、新撰組を鉄壁の統制を誇る戦闘集団へと育て上げていった。そして攘夷派による政権転覆計画を突き止めた新撰組は、京都三条木屋町の旅籠池田屋にて謀議中の攘夷派浪士らを一網打尽にする。この「池田屋事件」により新撰組の名は天下に轟き渡ることになります。
 

* 武士の再発明

 
ところがその後、天下の時勢は急変します。壊滅寸前まで追い込まれた攘夷派は薩長同盟によって息を吹き返し、追い詰められた時の第15代将軍慶喜大政奉還を表明し政権を返上。幕府は瓦解し、新撰組は主人を失いました。けれども歳三は時勢に関係なく最後まで幕府に殉ずる肚を決め、盟友近藤とも袂を分ち戊辰戦争を転戦。北海道で「蝦夷共和国」の樹立に参加し官軍に最後まで抗います。
 
司馬氏は歳三の生き様を「喧嘩師」と形容します。本作の史観に従えば新撰組とは彼の「作品」でした。歳三は生来の武士ではないだけに「武士」という存在に鮮烈な憧憬を抱いており、人を斬る以外に存在目的を持たない刀の如く、武士は余計な思想に惑わされず粛然と節義のみに生きるべきであると考えていました。このような従来の幕府や藩の因習にとらわれない歳三のシンプルな思考が新撰組という空前絶後の戦闘集団を生み出しました。
 
いわば歳三は「武士」という存在を「再発明」したといえます。こうしたことから本作はある種のイノベーションの寓話としても読めるでしょう。
 

* 他人の物語と自分の物語

 
そして本作において、このような歳三の「理想」と対照的な位置にあるものが近藤の「思想」です。曲がりなりにも新撰組局長である近藤は天下の時勢をある程度、肌感覚で理解していました。当時の武士階級を支配していた共通教養である水戸史観は皇室への忠誠度合いから歴史上の英傑を忠臣と朝敵に分類し、南北朝の英雄である楠木正成を最大の忠臣とする一方で室町幕府の開祖である足利尊氏を最大の朝敵に位置付けていました。こうした水戸史観に照らし合わせれば、天子を薩長に奪われてしまった今、幕府は「朝敵」という事になります。
 
典型的な水戸史観の徒である将軍慶喜は自身が「第二の尊氏」として歴史に名を残してしまうことを何よりも恐れました。そして若かりし頃から頼山陽の「日本外史」を愛読し楠木正成を崇拝していた近藤もまた水戸史観の呪縛から逃れる事はできませんでした。
 
いわば近藤は水戸史観という「他人の物語」に囚われていました。これに対して歳三はそんな「他人の物語」とは無関係なところで「自分の物語」を最後まで創造し続けました。
 
人は皆誰もが「物語」によってその生を基礎付けます。そして我々の生きる現代という時代とは、社会共通の「大きな物語(=他人の物語)」が失効し、人はそれぞれ「小さな物語(=自分の物語)」を選択し、創造していかなければならないポストモダン状況が際限なく加速する時代でもあります。そういった意味で本作は今から半世紀以上も前に、土方歳三という稀有な人物の生涯を題材として、やがて来るポストモダンにおける主体のあり方を先駆的に描き出した作品であったといえるでしょう。