かぐらかのん

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「おはなし」を紡ぎ直すための心理学--ユングの生涯(河合隼雄)

 

* 分析心理学とは何か

 
ひとは世界に棲まう上で、自分は一体何者でこれからどこに向かうのかという自らの生の物語である「おはなし」を必要とします。とりわけ社会共通の「大きな物語」を喪った現代において、我々個人が生成流転する人生の各ステージに応じて自ら「おはなし」を紡ぎ直していく必要性はより一層高まったといえます。
 
いわば我々は皆「おはなし=自らの生の物語」の作者です。そしてこうした「おはなし」を紡ぎ直すには意識の力のみならず、無意識の力を借りることにもなります。
 
カール・グスタフユングの創始した分析心理学(ユング心理学)とはこうした「おはなし」を紡ぎ直すための心理学です。そしてその理論は、ユングという人が生きた「おはなし」から生み出されています。それゆえにユングの生涯を辿ってみる事は独創的であるが故に難解で知られるユング心理学への適切な入門ともなるでしょう。
 

* 自分の中にいる二人の人物--No.1とNo.2

 
ユングスイス連邦のツルガウ州ケスヴィルで1875年7月26日に生まれました。父親のポールは優しいけれど頼りない人で、母親のエミーリアは力強くエネルギーに満ち溢れた人だったようです。このような両親像はのちにユングの理論において色濃い影を落とします。
 
幼い頃のユングは孤独に空想に耽るのが好きな内向的な子供だったようです。彼はその自伝の中で自分の中には二人の人物がいたと述べています。このような二人の人物に対してユングは「No.1」と「No.2」という呼び方をしています。普段のユングは「No.1」の人格を生きていますが、時折顔を見せる「No.2」は「No.1」の意識的努力を超えたところで恐るべき働きをしたりもします。
 
こうした「No.1」と「No.2」の対抗的な働きはあらゆる個人の中で演じられているとユングはいいます。もっとも多くの場合、人は「No.1」に同化して「No.2」の存在に気付かないふりをして生きていますが、時には「No.2」から思わぬ叛逆を受けたりもします。そして、こうした体験はのちにユングの理論の中で「自我」と「自己」の関係として定式化されることになります。
 

* 精神医学の道へ

 
1895年、ユングバーゼル大学医学部に入学します。大学での彼は優秀であり、卒業後は内科の道に進むつもりだったようですが、医師国家試験受験時にたまたま読んだクラフト=エビングの精神医学の教科書に感銘を受けて、当時医学の中ではまだ傍流であった精神医学の道を志します。
 
卒業後、ユングは長らく親しんだバーゼルの地を離れてチューリッヒ大学のブルグヘルツリ精神病院の助手となります。その指導教授は今日では精神分裂病統合失調症)の命名者として知られるオイゲン・ブロイラーです。
 
ブルグヘルツリにおいてユングは主に精神病患者の治療に取り組みます。ユングは当時の精神医学において了解不能と見做されていた精神病患者の精神世界の解明に心血を注ぎ、その研究は学会からも認められ、ユングは順風満帆にアカデミズムの世界で頭角を表していきました。
 

* フロイトとの交流と決別--性と神話

 
ところでこの頃、ウィーンにおいてはジークムント・フロイトの創始した精神分析が注目を集めていました。ユングはブロイラーを通じてフロイトと交流を持ち、両者は程なく意気投合することになります。フロイトは息子ほどに歳の離れたユングの才気に惚れ込み、自分の後継者として精神分析の未来を託そうとしました。こうして1910年、ユングは新たに設立された精神分析協会の初代会長に就任します。
 
ところがフロイトユングの考えは当初からその根本的なところで相異が生じていました。周知の通りフロイトは人の心的現実を基礎付ける動因を「性」の問題として捉えていました。他方でユングフロイトの性理論には当初から疑問を持っており、むしろ患者の夢に現れる「神話」に注目していました。
 
ユングは精神病患者の空想や夢などの話を聴いているうちに、その内容が世界諸国の古代神話と極めて類似していることに気づき始めていました。一方でフロイトは神話研究に傾いていくユングに苛立ち、幾度も精神分析の「教義」たる性理論に忠実であるよう説得を試みます。けれども両者の距離はますます大きくなるばかりで、1913年頃にはフロイトユングは決定的に決別してしまいます。
 

* 無意識との対決

 
そして、フロイトと決別した頃からユングは謎の方向喪失感に陥り、不可解で強烈な幻覚や悪夢に襲われ続けます。その影響は日常的な臨床や研究にも及び、ついにユングチューリッヒ大学の講師を辞任し、その後数年間にわたり、自身の無意識の世界と対決することになります。
 
ユングは無意識における凄まじい情動の嵐をイメージとして把握することによって静めようとしました。こうした無意識に由来するイメージはある時は「老賢者と少女」として、またある時は「女性像」として現れました。
 
このような無意識との凄絶な対決に収束の兆しが見え始めた1916年にユングは自分の内面体験を「死者への7つの語らい」という小冊子にまとめ、匿名で個人出版しました。ユングがその中年期になって体験した自身の無意識との対決は精神病とも類比されるべき凄まじいものでしたが、この対決を生き切ることによって、彼は彼独自の心理学を形成していくことになります。
 

* 曼荼羅の顕現

 
また、この頃にユングは自分の内的体験を様々な図形として描き出しています。ユングはそれを描きつつも、当初はそれが果たして何なのか理解できませんでした。ところが後にユングは自分が執拗に描いていた図形が東洋における「曼荼羅」と類似していることに気づきました。
 
ユングは以前より、意識の中心である「自我」を超えた「こころ全体の中心」としての「自己」というべき存在を想定していました。ユングにとって「曼荼羅」はまさにこの「自己」の象徴として現れてきたということです。
 

* 自己実現=個性化の過程を生きていくということ

 
ユング心理学では「自己」の働きにより心の全体性を回復させていく過程を「自己実現の過程」と呼びます。ユングの人生はまさにこうした「自己実現の過程」の範例的モデルにも見えます
 
ユングの歩んだ人生を端的に言い表すとすれば「母性(エミーリア/バーゼル)」からの自立を「父性(ブロイラー/フロイト)」への同一化で果たそうとして失敗し、ここから「母なるものの亡霊(幻覚や悪夢)」に悩まされ、その格闘の中で見出した「自己(曼荼羅)」に導かれた人生であったといえるでしょう。
 
もっとも本書が最後に釘を刺すように、ユングの歩んだ人生こそが「自己実現の過程」の範例というわけではありません。畢竟「自己実現の過程」とは各人でそれぞれ異なる「個性化の過程」であり、相補性と共時性の原理が働く螺旋の円環の中で、それぞれ各人がこれまで受け入れ難かった自らの影の側面を受け入れて生きていくという過程です。そしてこうした意味での「自己実現=個性化の過程」の中にこそ我々は自らの「おはなし」を紡ぎ直していくための智慧を見出すことができるのではないでしょうか。