かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「泣き」の地平の先にあるもの--猫狩り族の長(麻枝准)

* 美少女ゲーム的「泣き」の呪縛からの解放

 
本作は「泣きゲー」の第一人者、麻枝准氏の手による初の長編小説です。麻枝准氏といえば主にゲームブランドKeyのシナリオライターとしての仕事が広く知られています。「泣きゲーの金字塔」として名高いKeyの処女作「Kanon(1999)」において麻枝氏が手がけた「真琴シナリオ」は多くのユーザーの涙腺を決壊させた感動シナリオとして現在でも高く評価されています。
 
その後、氏は「AIR(2000)」「CLANNAD(2004)」「リトルバスターズ!(2007)」といったKey作品において企画、メインシナリオ、音楽を担当します。いずれの作品も従来のいわゆる「美少女ゲーム」の枠組みを超越した作風で幅広い支持を獲得し、氏はゼロ年代を代表するゲームクリエイターの一人としての地位を揺るぎなく確立することになります。
 
2010年代以降、麻枝氏は「Angel Beats!(2010)」「Charlotte(2015)」「神様になった日(2020)」といったオリジナルアニメーションの全話脚本の仕事でも知られるようになります。氏の脚本は放映されるたびに賛否両論を呼ぶ一方で「美少女ゲーム」にあまり馴染みのない新規ファンを多数獲得することになります。
 
麻枝氏はKanonの企画とメインシナリオを担当していた久弥直樹氏をしばし「天才」と形容します。インタビューなどから拝察するに、麻枝氏は久弥氏の退社後、keyの看板を背負って「泣ける作品」をファンのために創り続けなければならないという自身に課された使命を相当重荷に感じていたようです。
 
そんな氏が美少女ゲーム的「泣き」の呪縛から解放されたところで、純粋に自分の書きたいものを自由に書いたという作品が本書「猫狩り族の長」です。
 

* この世界は生きるに相応しいのか

 
本作のあらすじはこうです。物語は本作の主人公、平凡でお人好しな女子大生時椿が自殺の名所で断崖絶壁に立つミステリアスな女性に声をかけるところから始まります。この女性こそが本作のもう一人の主人公、天才サウンドクリエイター十郎丸です。
 
時椿は十郎丸になんとか自殺を思い止まらせようと必死に説得を試みます。これに対して十郎丸は自分がなぜ死にたいのかという理由を饒舌に語り始め、逆に時椿に「この世界は生きるに相応しいのか」と問い返します。
 
ここから両者の交流が始まります。時椿は十郎丸にどうにか生きる意味を見出してもらおうと「楽しいこと探し」に奔走し、やがて十郎丸も時椿に心を開き始めたようにも思えましたが・・・
 

* 自己治療的な物語

 
麻枝氏のインタビューによれば、本作の執筆は2019年末にあまりに理不尽なことが起きて「負のエネルギー」がうっ積していた時、氏の所属するビジュアルアーツ馬場隆博社長から「小説を書け」と言われたことがきっかけだそうです。
 
氏はかねてより自分は「負のエネルギー」で創作するタイプだとたびたび公言していましたが、本作もやはりこの「負のエネルギー」で創作され、これまでの人生で氏が感じてきた様々な理不尽を書き連ねていった結果、思いのほか筆が走り僅か1ヶ月半で初稿が完成。氏曰く「呪いの書」が出来上がったという手応えを感じたそうです。
 
作中で十郎丸は時椿相手に世界に対する膨大な呪詛を吐き散らし、偏屈な自説を次々に開陳していきます。こうした十郎丸の思想は確かにこれまでの様々なインタビューやラジオなどで垣間見ることができる麻枝氏の思想と重なり合うものがあります。
 
そして時椿は十郎丸の発した「この世界は生きるに相応しいのか」という問いに対して、あるときは言葉によって、またあるときは行動をもって真摯に答えようとします。この両者のやりとりはある面でカウンセリング的な対話のようにも読めます。そういった意味で本作は麻枝氏の自己治療的な物語なのかもしれません。
 

*「神様になった日」から考える

 
麻枝作品には初期の頃から今に至るまで変わらず一貫した主題が通底している事は多くのKeyファンが指摘するところです。それは言うなれば、理不尽な世界で懸命に生きることを肯定する人生賛歌です。
 
こうした主題がかなりラディカルに表出した作品が昨年放映された氏の全話脚本によるアニメ「神様になった日」だったように思えます。
 
同作は周知の通り批判も多い作品です。確かに同作を普通に観ると、序盤で壮大な謎のようなものを提示して視聴者の期待値を吊り上げながらも、最後は典型的な美少女ゲーム的構図に回帰した作品のようにみえます。
 
けれど同作を主人公の「陽太の物語」ではなく、ヒロインの「ひなの物語」として読み解いてみると、その印象はまた違ったものになるようにも思えます。
 
同作の終盤はあの「AIR」と同様の擬似的母娘関係の布置を形成しています。そして観鈴が〈母〉の下でゴールする事を選んだとすれば、ひなは〈母〉に呑み込まれることを拒絶して、外の世界で苛烈な日常を生きていく事を選びました。その意味で同作はかつてAIRが乗り越えられなかった境域を乗り越えているともいえます。
 
そして、この「神様になった日」における「ひなの物語」を前景化させた上で、全く別の物語として新たにストーリーテリングしたものが本作であるとも言えます。
 

* 理不尽な世界を懸命に生きるということ

 
臨床心理学者、河合隼雄氏は折に触れて〈おはなし〉の重要性を強調されていました。ここでいう〈おはなし〉とは個人の生死を基礎付ける物語のことをいいます。
 
「聖書」や「古事記」などといった古代神話は、当時の人々が自分たちが生きるこの理不尽な世界を了解するために紡ぎ出した〈おはなし〉でしたが、現代においてもやはり人は世界に棲まう上で、自分は一体何者でこれからどこに向かうのかという自らの生の〈おはなし〉を必要としています。
 
思うに、これまでの麻枝作品の根底に流れていた「理不尽な世界を懸命に生きる」という人生讃歌的なテーマとはいわば麻枝氏自身の〈おはなし〉であり、本作はその〈おはなし〉をかなりの高純度で文芸作品へと結晶化させる事に成功した作品といえるでしょう。そして本作を経由した上で過去の麻枝作品を読み解く時、そこにはまた新たな瑞々しい数々の発見がきっと待っているようにも思えます。