かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

母性の空を飛ぶということ--風立ちぬ(宮崎駿)

* 反戦平和思想と戦闘兵器への憧憬

 
宮崎駿氏は本作「風立ちぬ」の公開前後に行われた半藤一利氏との対談において、戦艦大和をかっこいいと思う自分と戦ってきた、かっこいいと思ってはいけないんじゃないかという気持ちがあったという趣旨の言葉を述べています。
 
この発言にあるように宮崎氏は表向きの反戦平和思想の裏にある戦闘兵器への憧憬というある種の矛盾を抱え込んだ作家でした。そうした矛盾がまさに前景化した作品が本作ということができるでしょう。
 

*「美しい飛行機」をめぐる夢と現実

 
零戦の設計者として知られる堀越二郎の半生を堀辰雄の同名小説に着想を得て脚色した本作は関東大震災から太平洋戦争前夜に至る時期を舞台にした物語です。
 
本作の主人公、二郎は少年期から飛行機の魅力に取り憑かれ、イタリアの航空技術者、カプローニへの憧憬を募らせるようになり、いつかカプローニのような「美しい飛行機」をつくることが人生の目標となっていきます。
 
ところが二郎が実際に追求した「美しい飛行機」とは、カプローニが夢見た大勢の家族を乗せて飛ぶ大型旅客機ではなく、ただひたすら「飛ぶ」という機能美に特化した戦闘機でした。
 

* ファンタジーフェティシズム

 
ここには現代を代表するアニメーション作家、宮崎駿の建前と本音がそのまま表出しているように思えます。従来のスタジオジブリ作品は多くの観客へ夢と希望を与えるファンタジー(=建前)と宮崎氏個人の戦闘兵器へのフェティシズム(=本音)という微妙なバランスの上で成り立っていました。そして本作はこの本音の部分をいよいよ隠すことなく全面化させているわけです。
 
けれども問題は本作がファンタジーではなく脚色されているとはいえ基本的に史実をベースにしたノンフィクションであるという点です。いよいよここにきて、宮崎氏が長年抱えてきた矛盾が--公的には反戦平和を唱えつつ私的には戦闘機や戦艦を愛でるという矛盾が--露呈することになります。
 
ここで宮崎氏は自身のフェティシズムをそのまま肯定することはできない。そこでこのいわば政治と文学の分裂に承認を与える役割を担うのが本作のヒロインである菜穂子です。
 

* 菜穂子というヒロインは何を担っていたのか

 
関東大震災の折、二郎は菜穂子と初めて出会い、その後ドイツ留学から帰国した二郎は避暑地にて菜穂子と運命的な再会を果たし、二人は恋に落ちる。
 
菜穂子は重い結核にかかっていることを告白するが、二郎はそれを受け入れて二人は婚約する。その後、二郎は主力戦闘機の設計者に抜擢される一方で、菜穂子の症状は悪化の一途を辿っていく。
 
先が長くないことを覚った菜穂子は無理を押して療養先の病院を抜け出し二郎の元に駆けつける。こうして二人は短くも幸せな結婚生活を営む事になる。菜穂子は自らの身を顧みず妻として二郎を献身的に支え、果たして二郎は新型戦闘機(九試単座戦闘機)の開発に成功する。
 
けれどもまもなく菜穂子は亡くなり、二郎の畢竟の作ともいえる零戦はあの戦争における破壊と殺戮の象徴となりました。それでも二郎は、菜穂子の存在を支えに「生きねば」と決意する。ここでこの映画は幕を閉じることになります。
 

* 母なるもの

 
つまり、ここで菜穂子は「美しい飛行機」を作るという二郎の物語に無条件の母性的承認を与える役割を担っていることになります。ここには従来の宮崎作品において幾度となく反復されてきたあるひとつの構造を見出すことができます。
 
これまでの宮崎作品においては「飛ぶ」という行為が、自己実現のメタファーとして幾度となく反復されてきました。これはまさに実家が戦闘機工場だった宮崎氏自身のルーツに根ざしているのでしょう。
 
けれども思い返してみれば、従来の宮崎作品における男性主人公は皆、ヒロインからの無条件の母性的承認の下で初めて「飛ぶ」ことができています。すなわち、二郎にとっての菜穂子はコナンにとってのラナ、ルパン三世にとってのクラリス、パズーにとってのシータ、ポルコ・ロッソにとってのジーナ、ハウルにとってのゾフィーの系譜に連なる「母なるもの」を体現するヒロインへと位置付けられる事になるでしょう。
 

* 母性の空を飛ぶということ

 
こう言ってよければ、これまでの宮崎作品の歴代男性主人公が飛んでいたのは徹頭徹尾、母性の空だったのではないでしょうか。そうであるとすれば、ここに男性的自己実現の不可能性を母性的承認によって疑似的に回復するという否定神学的な構造を見出すことができるように思えます。
 
そしてこれは宮崎映画におけるホピュラリティを超えた、おそらく戦後日本社会における文化空間を、隠然と規定してきた構造であるともいえるのではないでしょうか。
 
こうしてみると、本作は戦闘兵器へのフェティシズムと母性的承認への依存という従来の宮崎映画を根底で駆動させて来た欲望を隠すことなく開陳した作品といえます。そこにはある種の開き直りのようなものすら感じられ、ある意味で清々しいものがあります。そういった意味で本作は宮崎氏の自己批評的作品ともいえるでしょう。