かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

美少女ゲームの臨界と観光客--AIR

* 動物の時代と美少女ゲーム

 
東浩紀氏は「動物化するポストモダン(2001)」において「物語消費」から「データベース消費」へ移行というオタクの消費行動様式の変化にポストモダンの一般的傾向を見出し、近代社会が社会共通の「大きな物語」が個人の「小さな物語」を統御する「ツリー型世界」だとすれば、現代ポストモダン社会とは非物語的な「データベース」から無数の「シュミラークル」が産出される「データベース型世界」であるという議論を展開しました。
 
こうした時代認識を前提として、氏はシュミラークルに充足する動物的欲求とデータベースへ向かう人間的欲望が解離的に共存するポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付け、1995年以降の時代を「動物の時代」として名指します。
 
こうしたシュミラークル的欲求とデータベース的欲望が解離的に共存する「動物の時代」を体現する極めてわかりやすい例がゼロ年代に一世を風靡した「美少女ゲーム」というジャンルです。
 
美少女ゲームの起源は1980年代に遡りますが、1990年代後半以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となります。この種の「泣きゲー」とも呼ばれる美少女ゲームにおいてプレイヤーは多くの場合、一方で、主人公のキャラクターに同一化してひとつの物語の中で一人の少女と「純愛」を遂げつつ、他方で複数のシナリオを攻略して複数のヒロインに「萌え」ることになります。
 
ここにキャラクターレベル(シナリオの水準)における反家父長的な「純愛」とプレイヤーレベル(システムの水準)における超家父長的な「萌え」の解離的共存を容易に見出すことができるでしょう。そしてこのような特性を持つ「美少女ゲーム」というジャンルの臨界を示すものとして東氏が注目した作品が本作「AIR」です。
 
 

* 病みゆく少女と擬似母娘関係のドラマ

 
本作原作ゲームは三部構成となっています。まず第一部「DREAM」では「空のどこかにいる翼の生えた少女」を探して放浪を続ける法術使いの青年、国崎往人と海辺の田舎町で出会った少女達とのひと夏の交流譚が描かれます。
 
本作のメインヒロインである神尾観鈴は母親と死に別れ、叔母の神尾晴子の元に預けられています。観鈴は誰かと仲良くなれそうになると癇癪を起こしてしまう不安発作を抱えながらも、往人と出逢ったこの夏を特別なものにしようと健気に無理を重ねます。やがて観鈴は原因不明の病で倒れてしまい、往人は観鈴をどうにか延命させるべく全ての法術の力を使い果たし消滅してしまいます。
 
続く第二部「SUMMER」では、観鈴はまさに往人の探していた「最後の翼人」である神奈備命の転生体であり、観鈴の病の正体は神奈にかけられた「翼人の呪い」に由来していることが明らかになります。そして第一部をカラスの視点で反復する第三部「AIR」では、往人の消滅後に観鈴と晴子が織りなす擬似母娘関係のドラマが描き出されます。
 
 

* 萌えの手前にある不能

 
このAIRというゲームはプレイヤーを二重の意味で疎外します。まず第一部において国崎往人観鈴を延命させる代償として物語からの退場を余儀なくされます。ここでプレイヤーはキャラクターレベルで物語から疎外されることになります(父の不在)。
 
さらに、第三部においては主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかない。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルにおいてAIRというゲームそれ自体からも疎外されることになります(プレイヤーの不在)。
 
こうしたAIRのレベルの異なる二重の疎外は美少女ゲームにおける「父=プレイヤー」の持つ「全能性」としての「萌え」の手前にある「不能性」を突き付けます。そういった意味から東氏はAIRを、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまう「臨界的=批評的な作品」と呼びます。
 
 

*「萌え」から「尊い」へ

 
このように本作は物語の内と外の二つのレベルで「美少女ゲームの欲望」を挫折させます。ところが話はそれだけでは終わりません。本作が突き付けた「不能性」に直面したゼロ年代の想像力は、むしろこの美少女ゲームの臨界に、すなわち「父=プレイヤー」が排除された母娘相姦的な禁断の領域に崇高な何かを見出だすようになります。
 
これがいわゆる「尊い」と呼ばれる感性です。ゼロ年代後半以降における日常系作品や百合系作品の一大潮流はまさしくこの「尊い」と呼ばれる感性を核として生み出されたと言えるでしょう。
 
そういった意味で本作はゼロ年代的想像力というデータベースに、東氏のいうところの「誤配」を投げ入れて、いわば「萌え」から「尊い」へと想像力のパラダイム転換を引き起こした作品とも言えるでしょう。
 
 

* 不能の父から子どもたちへ--等価交換の外部に価値を見い出すということ

 
近年、東氏は「誤配」の主体を「観光客」と呼んでいます。「観光客」とはナショナリズムグローバリズムの二層構造を往還し、貨幣と商品の等価交換の外部に価値を見出すポストモダンにおける新たな主体像です。
 
そして興味深い事に東氏は「観光客」とは「不能の父」であるといいます。氏はドストエフスキー作品の弁証法的読解の中でリベラリズム的偽善(チェルヌイシェフスキー)を乗り越え、なおかつナショナリズム的快楽(地下室人=ミーチャ)から逃れ、さらにグローバリズムニヒリズム(スタヴローギン=イワン)を退け、その先に立ち上がる主体(アリョーシャ)を「不能の父」と名指し、ここに「観光客」のアイデンティティを求めます。
 
ドストエフスキーの代表作「カラマーゾフの兄弟」のラストが示すように「不能の父」は無力な存在であるけれども「子どもたち」に囲まれています。そして世界は「子どもたち」が変えてくれると氏はいいます。
 
そうであれば、もしかして「AIR」のプレイヤーも1羽のカラスとして、観鈴の記憶をデータベースの空に還し、日常系や百合系といった「子どもたち」へと引き渡す「観光客=不能の父」の役割を図らずも引き受けていたのではないでしょうか。
 
等価交換の外部に価値を見い出すということ。我々は物語の中で観鈴を救うことはできなかったけれども、物語の外で観鈴を救うことはもしかしてできていたかもしれない。その一つの可能性は我々にとってはあるいは一つの救いにも希望にもなるでしょう。今日が観鈴ちゃんの命日ということもあり、気がつけば感傷的な文章となってしまっていました。ここまで読んでくださって有難うございます。