かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

解離の時代における自傷と救済--西尾維新『愚物語』『業物語』『撫物語』『結物語』

* ライトノベルと解離の時代

 
かつてライトノベルは「キャラクター小説」とも呼ばれていました。この「キャラクター小説」という言葉は例えばあるアニメを起点としてお菓子や文房具といった様々な「キャラクター商品」を商業的に展開していく中で「ノベライズ」や「外伝」という形で企画される「キャラクター商品としての小説」に由来します。それゆえに業界内ではアニメ調のイラストをつけてあたかも「キャラクター商品」のように売り出す小説を自嘲的なニュアンスを込めて「キャラクター小説」と呼ぶようになったそうです。
 
もっとも、こうした中で「キャラクター小説」を文学的な観点から積極的に再定義する議論も現れました。例えば大塚英志氏は『キャラクター小説の作り方』(2003)において「私」という自然主義的現実を写生するのが近代文学における「私小説」だとすれば「キャラクター」というまんが・アニメ的虚構を写生するのが現代の「キャラクター小説」であると位置付けた上で、日本における私小説の起源とされる田山花袋の『蒲団』を題材に「私小説」も実は「仮構の私」なるキャラクターを写生する「キャラクター小説」であったという議論を展開しました。
 
また東浩紀氏は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)において大塚氏の議論をさらに展開させてライトノベルとはキャラクターのデータベースを人工環境として書かれるという意味ですぐれてポストモダン的な文学の形式であり、前近代の語りが「不透明な言葉」であり、近代の自然主義文学が「透明な言葉」であるとすれば、現代(ポストモダン)のライトノベルはいわば「半透明な言葉」で記述されているとして、ライトノベルの文学的な可能性を「透明な言葉」では消えてしまうような現実を「半透明な言葉」を利用して非日常的な想像力の上に散乱させる屈折した過程を経た「現実の乱反射」に見出しています。
 
そして、このような「透明な言葉」では捉えられない現実を「半透明な言葉」を駆使して見事に描き出したライトノベル作品として西尾維新氏の〈物語シリーズ〉を挙げることができます。本シリーズ全体の大まかなあらすじは主人公である私立直江津高校3年生、阿良ヶ木暦が春休みに瀕死の吸血鬼、キスショットを助けたことで「吸血鬼もどきの人間」となって様々な怪異絡みの事件と遭遇する中で人間的に成長していくというものです。
 
本シリーズが描く「怪異」という現象は「解離」という現代的な病理のメタファーとしても読むことができます。現代は広い意味で「解離」の時代であるといえます。ここでいう「解離」とは知覚や記憶や身体感覚の断片化を指しており、その根底には世界に対する空疎な感覚と不信の念があるとされます。
 
例えば精神病理学者の野間俊一氏は2000年型抑うつ解離性障害、広汎性発達障害摂食障害自傷行為といった様々な現代的な精神疾患の根底には広い意味での「解離」が認められるとして、ここから時代精神としての「解離」を論じています。また引きこもりの専門家として知られる精神科医斉藤環氏も現代の若年層に蔓延する「自傷的自己愛(自己愛の否定的な形での発露)」を「解離」との関連から論じています。斎藤氏が指摘するように承認依存とコミュニケーション偏重による個人の「キャラ化」が進んだ結果、現代において人々は程度の差はあれ「解離」を生きているともいえるでしょう。
 
本シリーズに登場するヒロイン達は戦場ヶ原ひたぎ(現実感喪失)、羽川翼(多重人格)、千石撫子離人)、神原駿河(健忘)、八九寺真宵(遁走)といったように何かしらの「解離」を抱えていました。こうした「解離」という「透明な言葉」では捉えられない現実を本シリーズでは「半透明な言葉」を駆使して「怪異」という非日常的な想像力の上に描き出していきます。
 
本シリーズは『化物語』『傷物語』『偽物語』『猫物語(黒)』からなる「ファーストシーズン(2006〜2010)」と『猫物語(白)』『傾物語』『花物語』『囮物語』『鬼物語』『恋物語』からなる「セカンドシーズン(2010〜2011)」を経て『憑物語』『暦物語』『終物語』『続・終物語』からなる「ファイナルシーズン(2012〜2014)」において、ひとまずの区切りを迎えることになりますが、その後『愚物語』『業物語』『撫物語」『結物語』からなる「オフシーズン(2015〜2017)」が公刊されました。
 
 
 
 

* 再びの老倉育--愚物語

阿良ヶ木暦を嫌っている。どれくらい嫌いかと言うと、それはそれは、もう気が遠くなるくらいに嫌いなのだ。あいつのことを考えただけで、私は胸が締め付けられるほど苦しい。他のことは何も考えられなくなる。この世の嫌いを全部集めて花束のようにしても、私の阿良ヶ木に対する、たったひとつの嫌いには及ばない。私の嫌いは、太陽にだって匹敵する--この嫌悪感を失えば、私は私でいられなくなるだろう。私の阿良ヶ木に対する、猖獗を極める憎しみは、もう私個人のアイデンティティであって、私自身の主軸であって、私そのものの真芯なのだ。あいつを嫌いでいなければ、私は私でありえない。どんな酷いものを見ても、どんな惨劇や災害に直面しても、それでも『あの男に較べれば』と思うことで、私は逆境を凌いできたのだから。
 
(『愚物語』より)

 

本作は本編の後日談にあたる「そだちフィアスコ」「するがボーンヘッド」「つきひアンドゥ」という3つのエピソードが収録されています。そして本作の冒頭に置かれ全体の分量の半分以上を占める中編「そだちフィアスコ」では『終物語』で初登場ながらも強烈な存在感を放った老倉育が語り手を務めます。
 
終物語』における老倉のエピソードは次のようなものです。阿良ヶ木が直江津高校1年生だった時の学級委員長であった老倉は病的な数学マニアであり、本人は世界史上最も美しいといわれる数式に倣い自身を「オイラー」と呼ばれたがっていましたが、彼女の意に反してクラスでのあだ名は「ハウマッチ(おいくら)」でした。そして老倉は自分が「オイラー」と呼ばれないのは阿良ヶ木が自分より数学の出来が良いせいだと思い込み、彼を蛇蝎のごとく嫌っていました。
 
そんな折、老倉は数学の試験で起きたカンニング疑惑の犯人を探す秘密学級会を強行し、阿良ヶ木を議長に指名します。果たして議論は紛糾し最終的に多数決(!)で犯人は老倉であるとされてしまい彼女は不登校になってしまいます。
 
そして月日が流れ、3年生になった阿良ヶ木はおよそ2年ぶりに登校してきた老倉との再会をきっかけに、これまで完全に忘却していた自らの過去と向き合うことになった結果、驚愕の事実が判明します。
 
その後日談となるのがこの「そだちフィアスコ」です。結局、直江津高校を転校することになった老倉は転入先での高校では心機一転して友達を作ろうとしますが、その難のありすぎる性格が災いして彼女の痛々しい言動はことごとく空回りしてしまいます。老倉の自傷的な語りで覆い尽くされた本エピソードは極めて純度の高い「キャラクター小説=私小説」といえます。
 

*「食べる」という「業」--業物語

本作は「あせろらボナペティ」「かれんオウガ」「つばさスリーピング」という3つのエピソードから構成されています。本作では「食べる」という人の基本的な営みである「業」が問われることになります。
 
「あせろらボナペティ」では心の美しいお姫様が人間を「食べる」という「業」を引き受けて食物連鎖の頂点に位置する吸血鬼となります。「かれんオウガ」では「食べる」とは「殺す」という「業」を引き受けることであり、自然の中ではまた人間も「食べられる=殺される」という食物繊維の円環の中にあるという摂理が描かれます。そして「つばさスリーピング」ではこうした食物連鎖の逸脱としての「遊び=文化」としての「食べる」の「業」が問われることになります。
 
それぞのエピソードはいずれも欲求のレベルでの「食べる」は可能だけれど欲望のレベルでの「食べる」を断念しているという点で共通しています。またシリーズの時系列として最も過去(約600年前)になる「あせろらボナペティ」は文字通りの「第零話」であり、このエピソードの登場により、これまでの〈物語シリーズ〉をまったく異なった視点から読み直すことが可能となったといえます。
 

* 夢見る現実主義者--撫物語

愚物語』『業物語』同様に本作も当初は「なでこドロー」「まよいイーブン」「よつぎノーサイド」という3つのエピソードで構成される予定だったようですが、その執筆過程で「なでこドロー」の分量が当初の予定よりも肥大化してしまい、結局本作には「なでこドロー」のみが収録されたという経緯があるようです。
 
かつて『化物語』『囮物語』で蛇の怪異に取り憑かれ『恋物語』では蛇神にまでなった女子中学生、千石撫子は現在は新たに見出した漫画家という夢に向かって邁進していました。ところが以前、怪異騒動の最中に学校で引き起こしたトラブルが原因で目下、不登校中の撫子は両親から中学校を卒業したら就職するよう言い渡されてしまいます。
 
両親を説得するため漫画で何かしらの成果を挙げようとする撫子は式神である斧乃木余接の力を借りて過去の自分をモデルにした「おと撫子」「媚び撫子」「逆撫子」「神撫子」と呼ばれる4体の式神を作りますが上手く制御できずに4体全員に逃げられてしまいます。こうして撫子は余接と共に式神たちを追う中で、これまで抑圧してきた自分自身の無意識の声と対話することになります。
 
かつて過剰なまで「かわいい」という呪いに囚われていた撫子は「絶対的な片思い」や「絶対的な被害者」に甘んじることで他者と向き合おうとせずに自己完結的な世界に閉じこもっていました。けれども自身の夢を見出した現在の彼女は「かわいい」という呪いを断ち切った良い意味で打算的で生き汚い「夢見る現実主義者」として目の前の試練に立ち向かいます。
 

* 解離の時代における自傷と救済--結物語

オフシーズンの完結編にして本シーズンで唯一、阿良ヶ木が語り手を務める本作は「ぜんかマーメイド」「のぞみゴーレム」「みとめウルフ」「つづらヒューマン」という4つのエピソードで構成されています。
 
本作では時系列は一気に5年後に飛び、私立直江津高校を卒業後、無事に大学に進学し、国家総合職試験に合格して警察官僚になった阿良ヶ木は研修のため直江津署の「風説課」に配属されることになります。怪異譚の前駆体ともいえる「風説」を取り締まる「風説課」は怪異の専門家である臥煙伊豆湖の肝入りで新設された部署であり、課員は課長の甲賀葛を除いて全員が怪異です。
 
久しぶりに地元に戻った阿良ヶ木は周防全歌(半魚人)、兆間臨(ゴーレム)、再碕みとめ(人狼)といった同僚たちと共に怪しい風説調査に乗り出していきます。そしてその過程で阿良ヶ木は老倉と意外な場所で再会することになります。
 
この「オフシーズン」というのは基本的には〈物語シリーズ〉の後日談や前日譚に位置付けられる断片的なエピソードの集積体ですが、あえて本シーズンの「主人公」をあげるとすれば、それはやはり本シーズンの幕開けとなる「そだちフィアスコ」で語り手を務めた老倉育だったように思えます。
 
本シーズンで老倉が登場するのは「そだちフィアスコ」の他は「なでこドロー」と「つづらヒューマン」という2つのエピソードだけですが「なでこドロー」では大学生になった老倉が両親との関係に悩む撫子に寄り添い「つづらヒューマン」では社会人になった老倉が人生の岐路に立たされた阿良ヶ木の背中を押します。いずれもかつての老倉からは到底考えられない姿です。
 
「私が嫌いなのは、幸せの理由を知らない奴。自分がどうして幸せなのか、考えようとしない奴」
 
「自力で沸騰したと思っている水が嫌い、自然に巡ってくると思っている季節が嫌い。自ら昇ってきたと思っている太陽が嫌い--嫌い、嫌い、き、き、嫌い--嫌いだ。お前が嫌いだ」
 
「わかっているわよ。お前のせいじゃない、私が悪いってことは--親のせいでもない。お母さんの言ったことが正しいんだ、生まれたのが私じゃなきゃあ、もっとまっとうな人生だった。私が悪い。私が悪い。私が悪い」
 
「だけどさあ、お前のせいにでもしなきゃ、やってられないんだ、阿良ヶ木。申し訳ないけど、私の悪者になってよ。もう駄目なんだよ、追いつかないんだよ、親を悪者にしているだけじゃあ」
 
「どうしてうまくいかないんだろう。私、ちゃんとやっているのに、努力しているし、頑張っているし……そりゃ性格とか頭とか、色々おかしいところはあるけど……。ここまでの罰を受けるような悪いこと、何もしてないじゃん。教えてよ、阿良ヶ木。お前、今幸せなんでしょう?それに少しでも私が貢献しているって言うなら、そう思ってくれるなら、教えてよ。どうして私は幸せになれないの」
 
「だってさあ、私の脆さで幸せになんかなったら、ぐしゃって潰れちゃうわよ。目も身も、潰れちゃうよ。幸せの重みに耐えられない。今更幸せになるより、ぬるーい不幸に足首まで浸かって、適当に凌いでいきたい。靴をずぶ濡れにして生きていきたい。実際にそうしてきたし……うん。今更幸せになんてなりたくない。手遅れなんだよ」
 
(『終物語(上)』より)
 

 

 
いわゆる「親ガチャ」に恵まれなかった人生の歩み手であった老倉はかつて中学生だった頃、やっとの思いで発したSOSに当時の阿良ヶ木が全く気付かなかったことから「阿良ヶ木のせいで私の人生はめちゃくちゃになった」という論理を創り上げることで自分の心を辛うじて守っていました。
 
終物語』における老倉の自己否定的な言動は斉藤氏のいうところの「自傷的自己愛」のイメージとぴったりと重なり合います。この点「解離」の根本には世界に対する空疎な感覚と不信の念があるとされていますが、かつての老倉は世界に向かって自傷的な言葉を並べ立て「幸せ」を拒絶することでその空疎な感覚と不信の念をどうにかして埋めようとしていたともいえるでしょう。こうした意味でこの「オフシーズン」は本編では不遇な立ち位置にいた老倉育というキャラクターを救済するための物語であったようにも思えました。
 
と、そこで老倉は、不意に思いついたみたいに言った。
 
不意打ちみたいに言った。
 
「もしも、三十路を過ぎてもお互い独身だったら……」
 
「だったら?」
 
「お互いに絞め殺し合いましょう」
 
素敵な提案だった。三十までこいつといがみ合えるというのなら。
 
(『結物語』より)

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「逆張り」は脱構築の夢を見るか--綿野恵太『「逆張り」の研究』

*「逆張り」の諸相

 
もともと「逆張り」とは株式相場の流れに逆らって売買する投資手法を指す言葉でした。例えば「投資の神様」と呼ばれるウォーレン・バフェット逆張りコントラリアン)で知られています。彼は2009年のリーマンショックでは経営危機に陥った資産運用会社ゴールドマン・サックスに巨額の投資をして莫大な利益をあげました。
 
かつて「逆張り」はどちらかといえば肯定的な意味で用いられる言葉でした。しかし現在のインターネット上において「逆張り」という言葉はもっぱら気に入らない相手や言説を罵倒するためのレッテルとして使われたり、あるいは自分をネタにするときの自虐的なパフォーマンスとして使われたりと、いずれにせよ負のイメージを持った言葉として流通しています。
 
本書『「逆張り」の研究』の著者である綿野恵太氏はかつて10年前に太田出版の編集者として働き始めた頃に同社の元社長である高瀬幸途氏から「逆張りくん」と呼ばれた記憶を思い出したことが本書執筆のきっかけになったそうです。その頃「逆張り」のイメージは特段悪いものではありませんでした。2014年に刊行された三省堂国語辞典(第7版)で「逆張り」は「だれも価値をみとめないことを、(いい機会だと思って)あえてすること」と説明されています。
 
つまりこの10年間で「逆張り」という言葉の持つイメージはずいぶんと悪化したことになります。この点、本書は「逆張り」について考えることはその反対に「逆張り」を嫌う人たちの大切な価値観を考えることでもあり「逆張り」が急速に嫌われていった時代の変化も振り返ることができるといいます。いわば本書は「逆張り」という言葉を切り口にして2010年代以降のインターネット空間をマルチラテラルに捉え直す一冊といえます。
 
 

* 投資家=逆張り的な生き方

 
2012年のビジネス書大賞を受賞してベストセラーになった滝本哲史氏の著書『僕は君たちに武器を配りたい』は「投資家=逆張り的な生き方」を勧めています。同書では「投資家=逆張り的な生き方」こそが過酷な市場競争を生き残るための「武器」であるといい、例えば就職活動でも人気企業ではなく人気はないけれどこれからの成長に期待できる企業に就職すべきであると説きます。人気企業は競争が激しく代わりの人材がいくらでもいるため、どれほど優秀であっても安く買い叩かれてしまうからです。つまり「投資家=逆張り的な生き方」とは多くの人が行く道とは逆に進んでその道に自分の才能や努力を投資することをいいます。
 
また世界最大のオンライン決済サービスPayPalの創業者であるピーター・ティールも著書『ゼロ・トゥ・ワン』において「投資家=逆張り的な生き方」を勧めています。ティールは社員の採用面接で「賛成する人がほとんどいない、大切な真実は何だろう?」と問いかけるそうです。すなわち、多くの人が信じる「常識」の裏に隠された「逆説な真実」を少数精鋭の仲間たちともにテクノロジーを通じて実現していく「逆張り」がビジネスを成功させる秘訣だということです。
 
実際に巷に出回るビジネス書の多くでは「逆張りの経営術」「逆張りの企業戦略」「逆張り人生」「成功したければ、逆張りしろ」等々「逆張り」という言葉を肯定的な意味で用いています。ビジネスにおける「逆張り」は市場における最も効果的な差異化の方法に他なりません。
 
この点、滝本氏は資本主義には「自分の少数意見が将来、多数意見になれば報酬を得られる」という仕組みがあるといいます。すなわち「投資家=逆張り的な生き方」においては未来の多数派が支持する「逆説的な真実」をいち早く発見することが重要となります。
 

* アテンション・エコノミー多数派同調バイアス

 
このようにかつての逆張りは「未来において多数意見になるかもしれない少数意見」でした。何かを聞いた時にすぐにその逆のことを考える「逆張りの思考法」は世間の常識に反する「逆説的な真実」を発見するためのものでした。少なくとも社会の多数派とは逆のことをすればいいという単純な話ではありませんでした。しかし、いまや「逆張り」とは社会の良識や常識を嘲笑して人々の怒りを掻き立てるような言説を指すようになりました。
 
目下、インターネット上ではますます加速するアテンション・エコノミー(注意経済/関心経済)により人々の注意をひきやすい情報ばかりが氾濫し、人々の注意を奪い合う熾烈な競争が行われています。そこで「逆張り」は注意を惹きつけるための安易な手法となってしまいました。「逆張り商売」や「逆張り炎上屋」と言われるように「逆張り」は「炎上商法」と結びつけられるようになりました。
 
そもそも「逆張り」は「空気」が読めない態度として一般的に嫌われる傾向があります。ここでいう「空気」とはその場を支配する雰囲気のことです。この点、日本人は「空気」を大事して「空気」が読めない人は嫌われるなどとよく言われますが、これは日本人に限った特徴ではないようでして、ある心理学の実験によればアメリカ人もまた日本人も同じくらい周囲の行動(空気)に影響されていることが示されているそうです。
 
この点、進化心理学によれば人間の脳には所属集団に同調する多数派同調バイアスと呼ばれるものがもともと備わっているそうです。狩猟採集時代において人類は各地で小さな共同体で暮らしていました。このような小さな共同体ではひとたび悪い評判が立つと共同体から疎外され、最悪の場合は殺されてしまうため、自ずから共同体の決定や行動に同調する傾向が生まれることになります。つまり裏を返せば人間の脳は共同体の規則を守らない「空気」が読めない他者を本能的に嫌うように出来ているということです。
 
もっとも「逆張り」は厳密にいうと「空気」が読めないのではなく、その「空気」を読んだ上であえて逆張りをしているわけです。それゆえに「逆張り」は単純に空気が読めない以上に嫌われることになります。しかもアテンション・エコノミーにおいてはこのような注意=怒りを集めようとする炎上狙いの「逆張り」が蔓延しているので、ますます「逆張り嫌い」が増えることになります。
 

* ただただ「いま」しかない

 
逆張り」からは「未来」が消えて「いま」しかなくなった。この10年の変化をひとことでまとめるとこうなる、と本書はいいます。投資家的な「逆張り」は「未来」の多数派に認められて初めてリターンが返ってきました。しかし昨今のアテンション・エコノミーにおける炎上狙いの「逆張り」は「いま」の注意=怒りを集めればそれなりのリターンが戻ってきます。
 
そして炎上狙いの「逆張り」は「いま」の注意=怒りを集めるだけなので議論の蓄積がされません。だからしばらくすると似たような話題で再び炎上が起きることになります。その度に「車輪の再発明(すでに確立された技術や考え方を再び一から作ろうとする無駄な行為)」のように議論は一からスタートしてしまいます。
 
またインターネットにおける各種プラットフォームでは過去の履歴からアルゴリズムによって推測された「いま」の自分自身にピッタリの商品や人間がおすすめされてきます。そういう「いま」の自分自身に最適化された空間は快適だし安心できます。畢竟、そこには自分自身しかいないからです。
 
こうなるとあたかも自分の考えが世の中の多数派や主流派のように思えてきます。だから自分と異なる考えを持った他者がたまたま目に入るとどうしようもなく不快な気分になります。そこで気に入らない他者には「逆張り」というレッテルを貼って「いま」の自分にとって快適で安心な空間を取り戻そうとします。要するに「逆張り」にとっても「逆張り嫌い」にとっても目の前にはただただ「いま」しかないわけです。
 

*「いま」から逃れる「もの」との時間

 
そこで本書はこのような「いま」に対抗するための拠点として「もの」から生じる「固有の時間」を挙げています。これはより抽象化していえば「時間的外部」の確立ということになるでしょう。例えば宇野常寛氏は『砂漠と異人たち』(2022)においてインターネット上で繰り広げられる「相互評価のゲーム」から逃れるための「時間的外部」を確立するための実践として「事物とのコミュニケーション」を提案しています。
 
その第一の実践は人間以外の事物に触れることです。すなわち、相互評価のゲームがもたらす承認への中毒を解毒するためにはまず事物と「虫の眼」でコミュニケーションすることで孤独に世界に接する時間を回復する必要があるということです。そして、ここで大事なのは事物の「消費(事物を単に受け取り用いること)」ではなく「愛好(事物に対して独自の問題を設定し探求すること)」であるといいます。
 
続く第二の実践は人間以外の事物を「制作」することです。人は「虫の眼」をとりわけ事物を「制作」するときに発揮することができます。そして第三の実践は「制作」を通じて他者と接することです。すなわち、人間そのものではなくその人が制作した「事物=もの」とのコミュニケーションに注力することで「相互評価のゲーム=いま」とは異なるチャンネルでの対話が可能になるということです。

* 運動の時代とポピュリズム

 
また逆張りが嫌われた背景にはやはり「時代」があると本書は指摘します。「動員の革命」という言葉に象徴されるように2010年代とはSNSを活用した「運動」の時代でもありました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動SNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災福島第一原発事故を契機として急速に普及し、2010年代中盤には「SEALDs」のような新しいデモの形を生み出しました。
 
こうした「運動」の時代を牽引した力が「ポピュリズム」です。SNSでは地域や職場のしがらみを離れて同じ主義主張を持つ「類友」を簡単に見つけられます。自然に保守は保守で集まってリベラルはリベラルで集まることになります。
 
しかし「類友」ばかりが集まると、あたかも自分の声が反響するかの如く自分と同じ考えの意見ばかりが聞こえてくる「エコーチェンバー」に陥ります。また自分の好みに合わせた情報の「泡」に囲まれる「フィルターバブル」が形成されます。加えて同じ考えを持つもの同士が話し合えば主義主張はどんどん先鋭化していき「フェイクニュース」や「陰謀論」の温床となります。
 
けれども、このような類友化によって「ポピュリズム」は活気付きました。そしてインターネットでは「類」ではない人間は「友」とする必要はなく、むしろ「敵」となります。すなわち、ポピュリズムは人の部族主義的な本能を利用して世界を「われわれ(友)」と「あいつら(敵)」という二項対立で単純化してしまうわけです。
 

* ポストモダン思想=相対主義

 
こうした「ポピュリズム」にとっての「逆張り」が「ポストモダン思想」です。しばし「ポピュリズム」は「ポストモダン思想」を「どっちもどっち論」とか「相対主義」などと批判します。ここでいう「ポストモダン思想」とはもっぱらフランス現代思想における「ポスト構造主義」を指しています。そしてこの「ポスト構造主義」は様々な二項対立を無効化していく「脱構築」の思想として一般的に理解されています。
 
こうしたことからポストモダン思想とは「絶対的な真実など何処にもなく相対的な解釈があるに過ぎない」という相対主義であり、こうした相対主義が広まった結果として歴史修正主義ポスト・トゥルースが世に蔓延したのだと批判されたりもするわけです。
 
しかしこのような批判はやや一面的すぎるきらいがあります。千葉雅也氏が『現代思想入門』(2022)で述べているように現代思想ポスト構造主義)は確かに相対主義的な側面がありますが、別に相対主義的な世界を手放しで肯定しているわけではなく、むしろ相対主義的な思考を一旦経由することで他者性に開かれた「共」の可能性をラディカルかつ不断に問い直していくという側面も確実に持っています。

* 逆張り脱構築の夢を見るか

 
現在のインターネットで「逆張り」が嫌われるのは「お気持ち」とか「ブーメランで草」などといったネットスラングが示すようにもっぱら相手の主義主張を相対化したり揚げ足を取ったりして嘲笑するような論法ばかりが目立つからでしょう。
 
けれども果たして「逆張り」が一切ない「順張り」だけの社会とは素晴らしい理想社会なのでしょうか。もちろんそんなわけがありません。そういう社会を人は普通「全体主義」と呼ぶはずです。
 
あたりまえですが「逆張り」それ自体は単なる技法でしかなく、そこに良いも悪いもありません。結局のところ、例えば包丁という道具が使う人間次第で料理の道具にも犯罪の道具にもなるように「逆張り」もまた、使う人間次第で創造の技法にも炎上の技法にもなります。そもそも「逆張り」は単に多数派の「逆」を行くだけではなく、さらにそこから「逆説的な真実」をいち早く発見するための技法です。そうであれば、そこには「われわれ(友)」と「あいつら(敵)」という二項対立を脱構築する「共」の可能性を見出すこともできるはずです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脱構築と公共性--東浩紀『訂正可能性の哲学』

* 訂正可能性--『存在論的、郵便的』の核心部

 
現代を代表する批評家/哲学者である東浩紀氏が1998年に世に放ったデビュー作『存在論的、郵便的』はフランスの哲学者ジャック・デリダが1970年代に書いた奇妙なテクスト群に光を当てた画期的なデリダ論として知られています。同書はデリダの代名詞であるところの「脱構築」をあるシステムの二項対立を無効化する側面(ゲーテル的脱構築)と、その結果として生じる剰余を扱う側面(デリダ脱構築)に分けた上で、後者を精神分析的な転移のメカニズムによって駆動する「郵便空間」として理論化したことで当時の現代思想シーンに鮮烈なインパクトを与えました。そして同書で東氏が打ち出した「郵便空間」を支える基盤が「固有名」をめぐる「訂正可能性」の理論です。
この点「固有名」を縮約された確定記述の束とみなす立場がゴットロープ・フレーゲバートランド・ラッセルが提唱した記述理論です。例えば「アリストテレス」という固有名は通常「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられます。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられています。こうした立場を「記述主義」といいます。
 
しかしアメリカの分析哲学者ソール・クリプキは1970年に行われた『名指しと必然性』という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘しました。例えばいま「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとします。この時、記述理論に従えば「アレクサンダー大王を教えた人はアレクサンダー大王を教えていなかった」というおかしな命題が成立しているはずですが、実際には「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という命題はまったく問題なく通用します。これは〈アリストテレス〉なる固有名に確定記述の束に還元できない「剰余」が常に宿っていることを意味しています。こうした立場を「反記述主義」といいます。
 
そして、このような「剰余」の起源をクリプキは最初の「命名行為」に求めました。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保されるといいます。
 
もちろんこれは極めて荒唐無稽な想定です。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではありません。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の剰余について語るために「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたわけです。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しています。
 
ところがその一方でクリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めません。仮に「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、そこで「一角獣は実は存在した」という命題が成立するわけではありません。なぜなら「一角獣」という固有名はそもそも通常は「いつの日かそれが発見されるかもしれない」という想定の下で使用されていないからです。
 
つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかというコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになります。固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものですが、もしその「訂正可能性」がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろ「訂正可能性」というコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけです。
 

* 社会と家族のあいだ

 
このような東氏の原点ともいうべき「訂正可能性」という理論から現代社会における公共性の在り処を真正面から問い直す一冊が『存在論的、郵便的』の公刊から25年目にあたる今年2023年に公刊された本書『訂正可能性の哲学』です。本書は2部構成となっています。その第1部「家族と訂正可能性」では「訂正可能性」の基礎理論とその応用可能性が論じられます。次に第2部「一般意志再考」では現代社会が直面する民主主義の危機を「訂正可能性」によりいかに克服できるかが論じられます。

 

 

本書はまず第1章「家族的なものとその敵」で「家族」と「社会」という二項対立を問いに付します。この点、従来の哲学は「家族」を否定し続けてきました。それこそプラトン以降の哲学史においては「閉じられた家族」という私的な領域の外部に「開かれた社会」という公的な領域があると信じられてきました。
 
けれども「閉じられた家族」と「開かれた社会」という区別はそれほど明瞭なものではありません。例えば人類学者エマニュエル・トッドがいみじくも明らかにしたように、共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく、自由主義もまた絶対核家族イデオロギーでしかなかったのだとすれば、20世紀における冷戦構造とは所詮のところ、形態を異にする「家族」の間の争いでしかなかったということになります。
 
閉じられた家族から開かれた社会へ。このような発想は確かに直感的でわかりやすいものがあります。けれども人はその社会なるものについて結局のところ特定の家族形態に頼ることなく想像したり議論したりすることができないのかもしれない、と本書はいいます。いわば人はどこまでも「家族」から逃れられることができないということです。
 

* 愛のゲームからハラスメントのゲームへ

 
こうして第2章「訂正可能性の共同体」においては「家族」の哲学的な再定義が行われます。本章ではまずルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが提唱した「家族的類似性」という概念が参照されます。周知の通りウィトゲンシュタインの哲学は『論理哲学論考』(1922)に代表される前期と『哲学探究』(1953)に代表される後期に大別されます。前期の彼は言葉は世界を記述するためにあると考え、だから全ての文=命題はその構造を分析して世界との対応関係を定めればその真偽が定まるはずだと主張しました。
 
ところが後期になると彼は人は言葉を使ってゲームをしているだけに過ぎないと考えるようになりました。『哲学探究』はそのような状況を「言語ゲーム」と呼びます。そして彼はこの「言語ゲーム」においてプレイヤーは自分がいったい何のゲームをプレイしているか理解しないままにゲームをプレイしていると主張しました。
 
このようなウィトゲンシュタインの主張は一見すると恐ろしくラディカルに聞こえますが、日常的にはありふれた話ともいえます。本書は次のような例を持ち出します。ある人が恋人に向かって愛の言葉を囁いている時、その人はいま「愛のゲーム」のただ中にいると思い込んでいるはずです。けれども、そこには常に第三者が現れて、実はおまえは今までずっと別のゲームをプレイしており、相手は本当は恋人でもなんでもなく、おまえの愛の言葉は機能せず、おまえはずっと他人にハラスメントをしていたのだと非難される可能性が付きまとっているわけです。
 
愛のゲームからハラスメントのゲームへ。人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしています。そこでは複数のゲームが重なり合っています。そのためあるゲームをプレイしていたつもりがいつの間にか別のゲームの中に入り込んでしまうこともあります。これがヴィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」です。そして彼はこの複数の言語ゲームの間に共通の本質はなく、むしろその本質の欠如こそが重要だと主張しました。
 
そしてここで持ち出されるのが「家族的類似性」という概念です。ウィトゲンシュタインのいう「家族的類似性」とは例えば父と母と息子と娘からなる4人の家族がいたとして、父と息子は背格好が似ていて、父と娘は目元が似ていて、母と息子は口元が似ていて、母と娘は話し方が似ているため、4人が同じ家族であることは明らかだけれども、その全員に共通する特徴を取り出すことはできないという家族の性質を指しています。
 
このような「家族的類似性」は『哲学探究』において「言語ゲーム」が孕む厄介な性質を包括的に記述するためのほとんど唯一の比喩として登場します。人はみな言葉を使ってゲームをしている。そこでは複数のゲームが重なり合っている。そしてその複数のゲームは「家族」を形成している。だからこそ時に発話者は愛のゲームからハラスメントのゲームに自分でも気がつかないまま移動してしまうことがあるわけです。
 

* クワス算の逆説

 
そしてこのウィトゲンシュタインの直感的な洞察を緻密に理論化した人物がクリプキです。クリプキは『ウィゲンシュタインのパラドックス』(1982)において以下のような思考実験を行いました。あなたは「+」という記号を加算の記号として用いており、そこで「68+57」という数式に初めて出会ったとします。当然のことながら、あなたは加算の法則に従い「125」と答えを返すでしょう。
 
ところがここでクリプキは1人の懐疑論者を連れてきます。この懐疑論者の中で「+」という記号は加算を意味する記号ではなく実は「クワス」というまったく別の演算を意味しており、クワス算はあるところまでは加算と同じだけれども、その解が125以上の場合は総じて5になるため、あなたは「125」ではなく「5」と答えるべきだったと主張します。
 
この懐疑論者の主張を反駁することは原理的には不可能です。ここではウィトゲンシュタインが発見した「自分が何のゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている」という言語ゲームの性格が自然言語のあいまいさに起因するものではなく科学的な知一般の条件であることが示されています。
 
しかしながら現実問題としてクワスを主張する懐疑論者が仮に現れたとしてもその主張は訂正されることになり、仮に訂正不可能であれば彼は排除されます。なぜならば大多数の人が「68+57」は「125」になるという規則を信じる「加算の共同体」に属しているからです。裏返せば、あらゆるゲームはそのプレイの成否を判定するためプレイヤーと観客から構成される共同体を必要とするということです。
 
先に規則があり、その規則を理解するプレイヤーが共同体を形成するのではなく、むしろ先に共同体があり、その共同体がプレイヤーを選別することで規則が確定するということ。クリプキヴィトゲンシュタインが提示した逆説をこのような裏返った共同体論によって解決しました。
 
もっともクリプキのいう「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけでなく、逆にプレイヤーから共同体に向けられる可能性も考えられるはずです。すなわち、本来は排除されるはずのプレイが時代の移り変わりに従ってプレイヤーの共同体に認められ正規のプレイに代わることがありうるということです。すなわち、ここで「訂正」と呼ばれている作用は共同体の内部と外部の境界を揺るがし、その成員を拡大する契機としても捉えられています。
 

* 訂正可能性と家族

 
そこで本書は共同体の規則は静的に確定したものではなく、プレイヤーたちが繰り出すプレイについての成否判断に付随する「訂正」の作業こそが規則と共同体を共に生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうかと言います。
 
全てが訂正されうるにもかかわらずなお「同じもの」が残り続けるという逆説。その構造はまさに冒頭で述べた固有名と確定記述の関係性に他なりません。
 
クリプキが『名指しと必然性』で明らかにしたように固有名は確定記述の束に還元できない剰余が宿ります。そして、このような固有名論は後に彼が『ウィトゲンシュタインパラドックス』で展開する共同体論とも不可分につながっています。なぜならば両者は共に「○○とはじつは××だった」という記号の遡行的な訂正可能性をめぐる議論だからです。つまりクリプキは同じ問題を二つの理論で検討していたことになります。
 
そして、このようにあらゆる確定記述は訂正可能であり、規則が変わりプレイヤーが変わり何もかもが変わったとしても、それでもなおそこに「同じもの」があると皆が信じているという逆説にはウィトゲンシュタインの提示した言語ゲームにおける「家族的類似性」というイメージがぴたりと重なり合います。
 
こうしたことから本書は「家族」の概念を特定の固有名の再定義を不断に繰り返すことで持続する一種の解釈共同体だと定義します。すなわち「家族」とはある面では終始一貫して「同じもの」に閉じられた共同体ではあるけれども、ある面ではあらゆる「訂正可能性」に開かれている共同体であるということです。
 

* 人工知能はシンギュラリティの夢を見る

 
続いて第3章「家族と観光客」では2017年に公刊された『観光客の哲学』との連携が図られます。同書においては一方で「観光客」を「友」と「敵」という対立に「誤配=つなぎかえ」をもたらす主体として概念化すると同時に、他方で「家族」を「強制性」「偶然性」「拡張性」という3つの特性を備える共同体として素描しています。そして本書はこのような「観光客」という主体と「家族」という共同体を「訂正可能性」の論理から統一的に把握していきます。さらに第4章「持続する公共性へ」ではここまで展開された家族論に基づく政治思想がリチャード・ローティハンナ・アーレントを参照枠として論じられることになります。
 
 
そして、ここから第2部となる第5章「人工知能民主主義の誕生」では情報技術の進展との関連で現代における民主主義が抱える関係の所在が明らかにされます。まず本章で東氏は2010年代とは「大きな物語」が復活した時代であったと述べています。ここでいう「大きな物語」とは平たくいえば人類はある特定の終極=目的に向かってまっすぐに進歩しているという思想をいいます。こうした意味で20世紀中盤までは例えば「共産主義」という名のイデオロギーが「大きな物語」として曲がりなりに機能していた時代でした。けれども、そのような思想は1970年代あたりから批判され始め、冷戦構造が終焉した20世紀の終わり頃にはもはや「大きな物語の失墜」が語られるようになりました。
 
ところが21世紀に入ると、そのような「大きな物語」は新たな装いのもとで復活し始めることになります。ただし今度の「大きな物語」の母体は共産主義のような社会科学ではなく情報産業論や技術論です。要するに、文系の「大きな物語」が消えたと思ったら、理工系から新たな「大きな物語」が出現したわけです。
 
例えば2010年代の流行語の一つに「シンギュラリティ(特異点)」という言葉があります。ここでいう「シンギュラリティ」とは人工知能が人間の知能を超える転換点を指しています。この「シンギュラリティ」という言葉が注目されるようになった契機としてアメリカの未来学者レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作が挙げられます。そこでカーツワイルは2045年には人工知能が人間の知性を超えると予言しています。こうして2010年代になるとカーツワイルの議論に触発される形で人工知能が創り出すバラ色の未来を語る議論が多数現れるようになりました。今や我々は共産主義という第一の大きな物語の代わりにシンギュラリティの到来という第二の大きな物語が席巻する時代を生きている、と東氏はいいます。
 
その一方で2010年代はスマートフォンソーシャルメディアの普及によるポピュリズムが台頭し、社会があらゆるところで分断され民主主義の危機が全面化した時代でもありました。そしてこのような民主主義の危機こそがシンギュラリティへの夢をさらに強化することになります。すなわち、いくら優れた通信環境を与えていくら良質の情報を提供しても結局のところ人間とはフェイクニュース陰謀論に踊らされる愚昧な生き物でしかないのであれば、むしろ重要な意志決定は人間ではなく人工知能に委ねるべきであり、少なくともその支援を受けるべきではないかという発想が出てくるということです。
 
このような人間による意思決定への失望を前提とした民主主義を本書は「人工知能民主主義」と名指し、その起源を社会契約の始祖の1人として知られる18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーが唱えた「一般意志」に見出します。こうして本書は第6章「一般意志という謎」以下ではルソーの思想を参照点として「人工知能民主主義=一般意志」の暴走を抑えるための「訂正可能性」の枠組みが提示されます。ここで展開される議論は東氏が2011年に公刊したルソー論『一般意志2.0』の事実上のアップデート版でもあります。
 

* 正しさと誤りのあいだ

 
そしてこのような民主主義をめぐる問いはより直截には「正しさ」をめぐる問いでもあります。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「政治的な正しさ」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。
 
ところで「政治的な正しさ」とは英語ではポリティカル・コレクトネスと呼ばれていますが、本書は「コレクト」という単語が「正しい」という形容詞の他に「訂正する」という動詞の意味を持っていることに注目します。すなわち、現在の「正しさ=コレクトネス」とは普遍的な規範などではなく、常に「誤り」を「訂正する=コレクト」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。
 
このように本書は第1部において「社会」と「家族」という二項対立の脱構築から出発して、第2部では「正しさ」と「誤り」という二項対立の脱構築へと至ります。結局のところ人はいくら「社会」において「正しさ」を追求しようとしても、どこまでいっても「家族」から逃れることはできないし、いつまでたっても「誤り」を繰り返し続けているわけです。けれどもだからこそ、人は互いに「家族」として「誤り」を訂正し合って生きていくことができるともいえるでしょう。こうした意味で本書が掲げる訂正可能性の論理とは現代における持続可能な公共性の条件である同時にそれは持続可能な優しさの条件でもあるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

乱反射する過剰な何か--最果タヒ『コンプレックス・プリズム』

 

* 感情に色づけられたコンプレックス

 
劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか?劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てた方がありのままだったかもしれない。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、今、ここに、書いていきたい。
 
(本書より)

 

人は常に自分の自由意志に基づいて理性的に自律的に主体的に動いている--と思っていたりするわけです。しかし常にそうであるとは限りません。ある種のメンタルヘルスの疾病のように自分の意志とは異なる行動が生じてくるため悩んでいる人も多いでしょう。また「正常」な人でもその日常において自身の理性、自律性、主体性がどこかしら脅かされると感じられる現象にしばし遭遇します。
 
例えば前からよく知っている人なのにその人の前に行くと突然その名前をど忘れてしてしまったり、大事なところで妙な言い間違いをしてしまったり、また「なぜかわからないけどイライラする」とか「あいつはどうも虫が好かない」などと意味不明に感情を乱されてしまったりもします。  
 
この点、スイスの精神科医カール・グスタフユングは言語連想検査を通じて意識を統合する自我を脅かす何らかの感情に色付けられた無意識の心的作用を発見し、これを「コンプレックス(心的複合体)」と呼びました。こうしたコンプレックスが自我を完全に乗っ取ってしまう劇的な表れとして同一個人に異なった二つの人格が現れる二重人格や自分が複数存在として体験される二重身(分身体験)があります。
 
そして自我はその安定を図るためコンプレックスに対して様々な自我防衛の機制を用います。その代表格がコンプレックスを完全に抑え込んでしまう「抑圧」です。しかし、コンプレックスというのはなかなか簡単には抑圧できないので自我は次善の策として他の自我防衛の機制を発動させます。それは例えば、コンプレックスを他人に転嫁する「投影」であったり、コンプレックスとは全く逆の行為に走る「反動形成」であったり、コンプレックスとは似て非なる対象を選択する「代償」であったり、コンプレックスを取り込んでしまう「同一化」であったります。
 
本書『コンプレックス・プリズム』はこのような複雑で厄介な存在であるコンプレックスに現代詩人、最果タヒ氏がさまざまな角度から光を当てていくエッセイ集です。その詩、小説、エッセイ全般における最果作品の特徴とは一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めるような独特の文体にありますが、こうした「過剰な何か」の最たるものこそがまさにコンプレックスと呼ばれるものです。そうであれば本書はまさに書かれるべくして書かれた一冊といえるかもしれません(以下、引用は全て本書より)。
 

* 自我とコンプレックスのあいだ

本書の冒頭に置かれた「天才だと思っていた」というエッセイは「13歳。一体なんの天才なのかわからないけど、でも自分は確実に、何かの天才なのだと思っていた」という一文から始まり、なぜ「天才」だと思い込まないといけなかったのかというとそれは「どうしても必要な『言い訳』だったと今は思う」と述べられます。すなわち、ここには「天才」という言葉に結びついたコンプレックスがあるわけです。
 
何を作ってみても、それが世界を変えるすばらしい出来、と盲目的に信じることはできなくて、ただただたくさんの傑作がある世界の中で、私は一人もぞもぞと何をしているんだろうなあ、と思った。それでも作るのをやめない、残そうとするのをやめない、そのために私は言い訳をしていかなくてはいけなくて、そこに必要な言葉が私にとっては「天才」だった。自信でもないし、傲慢でもなかった。自信過剰で恥ずかしいなんて、コンプレックスに思っていた当時の私に、違うよ、と言いたい。そんな強い言葉でしかもうはげますことができないぐらい、私は特別というものを失いかけて、崖の上にいる気がしていた、はやく、何者かにならなくちゃと雲の向こうを見つめていた。

 

ここでは「天才」という言葉の裏側に子どもの頃に持っていた「特別」を「大人」になることで失いかけていた13歳の焦燥を見出すことができるでしょう。すなわち、ここで「天才」という言葉は「特別」を喪失することに対する代償として機能しているわけです。
 
またその次の「わたしのセンスを試さないでください。」というエッセイでは他人の服のセンスを「ダサい」と断じる感覚への違和感が表明されています。
 
ひとが、ダサいと平気で言うのは何なのだろう。本人はそれを選んできたのに、どうして他人がそれを否定できるのだろう。そりゃ、自分はそれを着ないなあ、とかあるのかもしれないけど、誰も着ろと言ってない。
 
ところがその後の「生きるには、若すぎる」というエッセイでは10代の頃から自身の抱える「ダサい」という感覚について述べられています。
 
若いからなんだというのだろう、若さが終わったところで、わたしはなんにも真実を見つけ出していない。わたしにはまだ「ダサい」ぐらいの価値基準しかないだろう。そうして今はそれを、恥じているのかいないのか。変わったと言えばそこぐらいだ。わたしは恥じているのかいないのか。
 
こうして並べてみると前のエッセイで述べられている他人が断じる「ダサい」への違和感は後のエッセイで述べられている自身が抱え込む「ダサい」という基準に結びついたコンプレックスの投影であるともいえそうです。このように本書は時には表面的な矛盾を厭わずにコンプレックスと自我のあいだから生じる複雑な機制を丁寧に拾い出していきます。
 

* コンプレックスの多層構造

 
ところでコンプレックスというのは多層構造を持っており、あるコンプレックスの下に別なコンプレックスが隠れていることが多かったりもします。この点、河合隼雄氏は名著『コンプレックス』(1971)で次のような事例を取り上げています。
ある中年の女性が職場が面白くなくて体の調子まで悪くなったということで来談し、色々話し合っているうちに最近職場に移ってきた同僚に対して強い嫌悪感を抱いていることが明らかになりました。
 
そこで、その同僚のどのようなところが嫌いなのかを話しているうちに、その同僚が料理が得意で料理をつくって友人を招待するのが好きだという話になったところで、この人は料理をつくるような面倒なことは男女平等にすべきであって結局は男性に対抗するだけの能力が他にないのでそんなことをするのだろうなどと猛然と論じ始めます。
 
つまり、ここでこの女性はさしあたり「料理コンプレックス」に突き動かされているといえます。ところがさらに彼女の話に耳を傾けていくと、実母が早く死に継母に育てられた彼女は「女の子らしさ」を押しつける継母に反抗し、継母のいう「女の子らしさ」を体現する義妹に対しても親しめず、一時は妹のような「女の子らしさ」を身につけたいと思ったこともあったけれど、結局は妹のような生き方を否定して「女でも一人立ちできることを示すため」に高校卒業と同時に家出をしたことが明らかになったそうです。
 
50年以上前の事例なのでジェンダー観がやや時代がかっていますが、要するにここで彼女の「料理コンプレックス」の下には一般的に「カイン・コンプレックス(兄弟姉妹間におけるコンプレックス)」と呼ばれるものが存在していたということです。
 

* エディプス・コンプレックスと劣等コンプレックス

 
本書でも例えば「拝啓、私は音痴です。」というエッセイでは「音痴だよね」と他人に指摘された時の「血液が逆流するような、これまでの自信がすべて覆るような、自分のプライドだけが浮き彫りになる恥ずかしさ、自尊心」と言うようなコンプレックスの経験が述べられていますが、その後には「歌が下手であることなんて大した問題ではない」と述べられる一方で「歌が上手いと親に褒められた記憶があり、それがまだ残っていた」という幼少期の記憶が語られ「家族に、あんなに、褒めてもらったのにね」と言う一文で結ばれており、ここでは「音痴に対するコンプレックス」のさらに深部に位置する幼少期の「家族をめぐるコンプレックス」の存在が示唆されています。
 
この点、コンプレックスの多層構造の最深部にある根源的なコンプレックスとして、精神分析創始者であるジークムント・フロイトは両親に対する愛憎から生じる「エディプス・コンプレックス」を見出しましたが、フロイトと決別して個人心理学を立ち上げたアルフレッド・アドラーは生来の劣等感に由来する「劣等コンプレックス」を見出しました。
 
確かにアドラーのいう劣等コンプレックスは直感的にわかりやすく一般的にも「劣等感=コンプレックス」というような理解が成り立っています。実際その理解で概ねのところ不都合はないとも言えますが、その一方で劣等コンプレックスの起源をさらに遡っていくと、やはり幼少期の「家族」をめぐる何らかの心的現実に突き当たるようにも思えます。
 
これに対してフロイトのいうエディプス・コンプレックスは一見すると荒唐無稽ですがある面では幼少期の「家族」をめぐる心的現実を記述した一つの「神話」であるともいえます。こうして見ると本書における音痴のエピソードは劣等コンプレックス(音痴に対するコンプレックス)とエディプス・コンプレックス(家族をめぐるコンプレックス)の関係をよく表しているといえるでしょう。
 

* 特異的なコンプレックス

 
「恋愛」というのも結局のところは一つのコンプレックスに帰着します。誰々さんが好きという感情とはその対象であるところの「誰々さんコンプレックス」であり、恋愛それ自体に対する憧憬や呪詛というのはまさしく「恋愛コンプレックス」です。この点、本書では「恋愛って気持ちわるわる症候群」というエッセイにおいて恋愛に対する屈折した距離感が述べられています。
 
恋愛に関しての言葉はあまりにも多く、キャッチコピーも多数登場し、もはや商品を売りつけるには色恋を語ればOKとか思われてんじゃないの、なんて思う日もあります。実際、「あ、これは恋!」と思った暁にはちょっと高い化粧品もちょっと高い服も抵抗なく買ってしまうのだろうか。だとしら恋って商業的ですね、社会システムの潤滑油みたいな存在ですね。と、今でも斜に構えたようなことを書いてしまいそうになるけれど、恋はそれぐらい第三者からすると理不尽な、無根拠な、理解不能な存在であるため、だからこそ当人も自分を理性で説得できなくなるのだと思います。斜に構えてこその恋。ではないのか。などと、いうことが、当時わからなかったんですね。ただ本当に腹が立ち、信じられなくて気持ち悪かった。
 
恋愛はなんにも悪いことではなくて、しかしなんにもいいことでもなくて、神聖でもなくてロマンチックでもなくて、ただ二人の人間がこの人を大事にしようと決めただけの話であり、私が私の大事なぬいぐるみについて「これを大事に思っている」と説明したところで他人は「ふーん」ってなるんだから、愛もその程度の価値に落ち着いてほしいなと昔は思っていた。しかしそうなると、今度は愛に振り回されることが、美徳にもなんにもなくなるから、社会としては都合が悪いことであるのかもしれない。生きる上では仕方がないのかも。きもいのも過剰なのも絶対、否定はせんけど、必要悪みたいなもんなんですかねえ。そんな世界が一番きもい。
 
ここで述べられている社会システム的な恋愛観に基づく「きもい」という感覚は、どうにもエディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスからは説明が難しい非定型的なコンプレックスのざわめきを示しているともいえそうです。
 
この点、ユングエディプス・コンプレックスと劣等コンプレックスの相違は結局のところは外向的なフロイトと内向的なアドラーという両者の根本的な態度の相違に帰着するものであったとして、コンプレックスは確かに多層構造を有しているけれども、その中のどれか一つのコンプレックスだけを特権化して根源的なコンプレックスとして位置付けることはできないと主張しました。
 
そうであれば本書のいう「きもい」という感覚もまたエディプス・コンプレックスや劣等コンプレックスには回収されない特異的なコンプレックスによって支えられているのかもしれません。そしてこれはいわゆる「ポスト・神経症の時代」と呼ばれる今日的な感覚とも合致しているように思えます。
 

* 心の相補性とコンプレックス

 
以上、ここまで見てきたように本書は様々なコンプレックスを深く繊細に、そして時に色どり豊かな筆致で記述していきます。人は日常の様々な場面で自身の抱えるコンプレックスに遭遇します。コンプレックスとは一見すると自我にとって何とも厄介な存在であるといえますが、その一方でコンプレックスは自我の一面性を補償するものとして大きな役割を担うことがあります。ユングはこのような「心の相補性」に注目してコンプレックスの中に自我をより高みへと導く「個性化/自己実現」の過程を見出しています。
 
いわばコンプレックスにはこれまで生きてこれなかった半面としての可能性の在り処が示されているといえます。そして自身の抱えるコンプレックスに向き合う上で文学の言葉は大きな助けとなるはずです。こうした意味で本書は最果タヒの詩的世界への入門書となり得る一冊であると同時に、自身が抱えるコンプレックスへと入門するための一冊ともなるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

言語における身体性--今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』

 

* 記号接地問題--AIに言語は「理解」できるのか

 
時に1990年前後、当時の人工知能(AI)研究に対して「記号接地問題」と呼ばれる批判が提起されました。この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドはAIがある記号(例:りんご)を別の記号(例:赤くて丸い甘酸っぱい果物)へと送り返しているだけの状態を「記号から記号へのメリーゴーランド」と呼びました。
 
ある記号を別の記号で表現するだけではいつまで経ってもその記号の本当の意味を「理解」したことにはなりません。記号の意味を本当に「理解」したといえるには、その記号が示す対象について身体的な経験が必要となります。
 
このようなハルナッドが提起した「記号接地問題」はAIの問題であると同時に人間と言語と身体の関わりの問題でもあります。言うまでもなく人間は言語を用いる動物です。しかし、よくよく考えてみるとこの言語という記号の体系は様々な謎に満ちた存在であるといえます。果たして言語とはその発生当時から今日のような複雑で巨大なシステムだったのでしょうか?あるいは言語を子どもはどのように習得していくのでしょうか?
 
本書『言語の本質』は言語学認知科学発達心理学といった諸科学を往還しながら「記号接地問題」を切り口として「言語の進化」や「言語の習得」といった言語をめぐる「謎」を考察し、さらに「言語の本質」という哲学的な大問題に挑む一冊です。
 

* オノマトペから考える

まず本書は「記号接地問題」を考える上で重要な鍵として「オノマトペ」に注目します。ここでいうオノマトペとは「にゃあにゃあ」とか「きらきら」とか「わくわく」などといった日常生活で頻出する一連のあの他愛のない言葉たち--すなわち、声や音を模した擬音語、様子や動作を模した擬態語、感覚や感情を模した擬情語を指しています。
 
従来の言語学においてオノマトペはどちらかといえば周辺的なテーマとして扱われてきましたが、現在では言語の本質に迫る上で重要な手がかりを秘めた言葉として世界的な注目を集めています。
 
本書の第一章ではオノマトペとは何かを概観します。現在オノマトペをおおまかに捉える定義としてはオランダの言語学者マーク・ディンゲマンセによる「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」という定義が受容されています。
 
ここで鍵となるのが「感覚イメージを写し取る」という点です。この点、オノマトペは「表すものと表されるものの間に類似性がある記号」という点で「アイコン性」があります。けれども絵文字のような視覚的アイコンが一度に複数の要素を写し取ることができるのに対して、オノマトペのような聴覚的アイコンは基本的に物事の一部分しか写し取ることができず、残りの部分は「連想」で補うことになります。このようなある概念をそれに近い関係にある別の概念で捉える連想を「換喩」と呼びます。すなわち、こうした換喩的思考がオノマトペの根源にあります。
 

* 言語の十大原則

 
次に第二章ではオノマトペの「アイコン性」をより客観的かつ詳細に読み解いていき、第三章では「オノマトペは言語か」という問いが考察されることになります。
 
この点、言語の十大原則として「⑴特定性(コミュニケーションに特化した機能を持つこと)」「⑵意味性(特定の音形が特定の意味に結びつくということ)」「⑶超越性(その場にないものや過去、未来の出来事に言及できること)」「⑷継承性(特定文化圏における母語として継承されていること)」「⑸習得可能性(母語以外でも習得が可能であること)」「⑹生産性(新たな発話が無限に可能であること)」「⑺経済性(単純な形式で多くの内容を伝達できること)」「⑻離散性(表現方法が連続的ではないこと)「⑼恣意性(言語の形式と意味の間に必然性がないこと)」「⑽二重性(言語を構成する音の一つ一つは意味を持たないがその連なりは意味を持つこと)」が広く知られています。
 
そして、こうした指標に照らして本書はオノマトペは多くの言語的特徴を満たしているといえるとして、言語進化や言語習得においてオノマトペは抽象的な記号の体系へと発展するするつなぎの役割を果たすのではないかといいます。もちろんオノマトペさえあればそこから自動的に抽象的で恣意的な言語体系が立ち上がるというものでもありません。ここから先へ進んでいくためにはオノマトペを離れて抽象的で恣意的な言語体系という堅固な岩盤を乗り超えていく必要があります。では、それを可能にするものは何なのでしょうか?そして、それはヒトという種の持つ固有の能力なのでしょうか?
 
こうした問いに導かれて本書は第4章から第6章においてヒトの言語進化・言語習得の過程を考察していきます。ここで鍵となるのが「ブートストラッピング・サイクル」と「アブダクション推論」です。
 

* ブートストラッピング・サイクル

 
ハルナッドが指摘したように身体に全くつながらない記号をいくら集めても言語を習得することはできません。しかし感覚・知覚につながったオノマトペを闇雲にたくさん覚えても、やはり複雑な構造を持つ言語の体系には到達できないわけです。
 
このジレンマを解決するため本書は「ブートストラッピング・サイクル」という言語習得のプロセスを想定します。「ブーツ(靴)」を上手く履くための「ストラップ(靴の履き口にあるつまみ)」に由来するこの言葉は「自らの力で、自身をより良くする」という意味合いを持っています。
 
この「ブートストラッピング・サイクル」によって全ての単語、すべての概念が直接に身体に接地していなくても、最初の端緒となる知識が接地されていれば、その知識は雪だるま式に増えていくことになります。ここでは単に知識の「量」が増えるだけではなく、新しく加わる知識が既存の知識に関係づけられることで知識の「質」自体が変容します。こうして知識の「質」の変容は重要な洞察を生み出し、この洞察に基づく「推論」が言語習得のプロセスをさらに加速させることになります。
 

* アブダクション推論

 
ところで論理学でいう「推論」といえば、まずは「演繹推論」と「帰納推論」という二つの推論形式が思い浮かぶでしょう。この点「演繹推論」は正しいと仮定された命題と事例を前提にある結論を導出する推論形式です(例:⑴全ての人間は死ぬ⑵ソクラテスは人間である⑶ゆえにソクラテスは死ぬ)。これに対して「帰納推論」は同じ事象の観察が積み重なったとき、その観察から一般的な命題を導出する推論形式です(例:⑴りんごは支えがないと落下する⑵人間も支えがないと落下する⑶全ての物体は支えがないと落下する)。
 
そして、このような演繹推論と帰納推論に加えて、先述した「アイコン性」の提唱者でもある哲学者チャールズ・サンダース・パースは「アブダクション推論」という推論形式を提唱しました。ここでパースのいう「アブダクション推論」とは観察データに基づいた「仮説」を形成する推論形式です。例えば「全ての物体は支えがないと落下する」という結論は帰納推論から導出できますが、ここからは「重力」という概念は決して生まれてきません。これに対して「アブダクション推論」は「全ての物体は支えがないと落下する」という現象を論理的に説明するための「仮説」を生み出します。
 
そして言語習得における「ブートストラッピング・サイクル」を押し進める鍵となるのが、まさにこの「アブダクション推論」であるということです(もっとも実際問題としては帰納推論とアブダクション推論の区別は相対的なものともいえます)。こうして本書の第7章では「アブダクション推論」の起源に迫り、終章ではこれまでの考察を踏まえた「言語の本質」が示されることになります。
 

* 言語における身体性--精神分析的見地から

 
現代言語学の父として知られるスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは言語とはシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)から成る抽象的で恣意的な記号の体系であることを明らかにしました。このようなソシュールの提唱した恣意性の原則はその後、約100年間において言語学の大原則として君臨し続け、いわゆる「構造主義」以降の人文諸科学にも多大な影響力を行使しました。そして20世紀後半に本格化した人工知能の研究もこうしたソシュールの言語観を前提としていました。
 
こうした中でハルナッドの提起した「記号接地問題」は言語と身体の関わりを根源的に問い直すものであったといえます。そして21世紀に入ると「言語は身体的である」という実証データが多数提出され始め、いまやソシュールの恣意性の原則は大きく揺らいでいます。
 
もちろんソシュールが言うように言語が抽象的で恣意的な記号の体系であることは疑いないでしょう。しかしその一方で言語が何かしらの形で身体と深く結びついていることも確かであるといえそうです。
 
例えばフランスの精神分析ジャック・ラカンソシュール言語学を援用して「無意識は言語によって構造化されている」という有名なテーゼを提示しました。こうしたことからラカン派において長らく「無意識」とはもっぱらシニフィアンによって構造化された「言語的無意識」として捉えられていました。ところがその後、ラカンは「無意識」における理論を大幅に更新しています。
 
晩年のラカンシニフィアンによって構造化された「言語的無意識」以前の言語として、未だに構造化されていない「ひとつきりのシニフィアン」を重視するようになります。この点、子どもが最初に出会うトラウマ的なシニフィアンラカンは「ララング(lalangue)」と呼びます。ここでいう「ララング」とはラカンの造語であり、冠詞付きの国語(la langue)における冠詞と名詞を一語に融合させたものです。
 
子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」としてその身体に刻み込まれトラウマ的な享楽がもたらされることになります。子どもにとってララングとは情報の伝達手段ではなく、このトラウマ的な享楽を反復するための私的言語に他ならなりません。
 
しかしある時から大多数の子どもはララングのみに頼ることを諦めて、情報の伝達手段としてのラング(langage)の世界である「象徴界」へ参入します。こうして子供は次第にララングと折り合いをつけ、その結果、シニフィアンによって構造化された言語的無意識が形成されることになります。
 
こうしてみるとラカン派における言語的無意識の成立過程と本書が「ブートストラッピング」と「アブダクション推論」によって想定する言語の習得過程は相当に重なっており、ララングとオノマトペは身体に根差した言語という点で極めて近いところに位置しているようにも思えます(なお、社会学者の大澤真幸氏は精神分析における「エディプス・コンプレックス」を「記号接地問題」を解決するための一つの論理的条件として読み直す解釈を提示しています)。
 
本書は「言語の本質」を「オノマトペ」というかつては言語学において周辺的な領域として見做されていた、いわば「言語の非本質」から問い直す一冊です。そして本書が問い直す「言語の本質」とは同時に人間における「知性の本質」であるともいえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

資本主義リアリズム・再生産未来主義・それでも〈未来〉を語るということ--木澤佐登志『失われた未来を求めて』

* 資本主義リアリズムという病理

 
今日の現代思想シーンにおいて大きな潮流を形成する「加速主義」の代表的論客の一人としても知られるイギリスの批評家マーク・フィッシャーはその主著『資本主義リアリズム』(2009)において現代を席巻するグローバル資本主義がもたらす病理を「資本主義リアリズム」と名指し、その特徴を次のように述べています。
まず「資本主義リアリズム」の第一の特徴は「再帰的無能感」と呼ばれるものです。それはよく知られた「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレドリック・ジェイムソンが述べてスラヴォイ・ジジェクが広めたとされる古い警句が示すように、資本主義がこの世界において存続可能な唯一無二の政治・経済体制であることをもはや認めるしかなく、今や資本主義に対する代替的選択肢(例えば共産主義)を想像することすら不可能であるという諦念が蔓延した状態を指しています。
 
また「資本主義リアリズム」の第二の特徴は「左翼の病理」と呼ばれるものです。ここでフィッシャーがその典型例として持ち出すのが英国において保守党に代わり政権の座についたトニー・ブレア率いる「ニュー・レイバー(新しい労働党)」の資本主義への譲歩ないし参入です。果たしてブレア政権が明らかにしたものとは資本主義に代わる「実行可能な選択肢」ばかりか「想像可能な選択肢」すらもないという物語を他ならぬ資本主義の対抗勢力としての左翼自身が語らなければならないというという事態でした。
 
そして「資本主義リアリズム」の第三の特徴は「集合的政治に対する信の崩壊」と呼ばれるものです。例えば1990年代後半からゼロ年代初期における「反・資本主義運動」は「その活動形態が政治的組織化よりも抗議運動の演出に向かいがち」であり、そこから「反・資本主義運動」とは「そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものだ」という感覚が生まれることになった、とフィッシャーは述べます。ここには「再帰的無能感」と「左翼の病理」の双方に規定された根深い政治不信を見出すことができます。
 
再帰的無能感。左翼の病理。集合的政治に対する信の崩壊。こうした三つの特徴を備えた「資本主義リアリズム」の下で人々は資本主義を超出する地平としての〈未来〉を想像する能力を喪失することになります。そしてこの「資本主義リアリズム」は同書の公刊以降今日に至るまでますます拡大する一方であり「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」どころか「資本主義こそが世界の終わりである」というべき切迫した危機感が多くの人々の間で共有・増幅されていくことになります。
 
このような「資本主義リアリズム」と呼ばれる病理は具体的にはメンタルヘルス問題の蔓延として現れます。例えば現在、世界的に拡大しているとされるうつ病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられており、ここではうつ病を発症させた状況因や誘因としての労働環境や社会構造は考慮されておらず、そこでの精神の病はどこまでも個人の「自己責任」であるという新自由主義的な倫理に回収されることになります。そしてフィッシャー自身もまたうつ病と格闘しながら2017年に自死するまで「資本主義リアリズム」に裂け目を入れるための可能性の地平を思索し続けていました。
 

* 失われた〈未来〉の痕跡を探して

 
本書『失われた未来を求めて』はフィッシャーの遺稿となった『アシッド・コミュニズム--ポスト資本主義の欲望について』の序文を導きの糸として「ポスト・資本主義」の可能性としての〈未来〉を問い直す一冊です。
まず本書は現代社会を覆い尽くす「〈未来〉は失われている」というべき閉塞感とはとりも直さず「資本主義の〈外部〉を想像することができない」というフィッシャーのいうところの「資本主義リアリズム」がもたらす閉塞感であり、このような〈外部〉への出口の不在、別の世界が可能であるという信念の失効は資本主義が要請する酷薄な現実へのニヒリスティックな適応以外に何ももたらさないと述べ、このような〈未来〉を失った人々が抱く「もはや真に新しいものは到来し得ない」という諦念はサンプリングと再構成/再文脈化によって過去を反復し続け、エンツォ・トラヴェルソがいうところの「左翼のメランコリー」へと帰着するといいます。
 
資本主義への対抗勢力としての「左翼」は20世紀後半における共産主義の崩壊によって文字通り〈未来〉を失いました。フランシス・フクヤマのいうところの「歴史の終焉」です。そして失った対象に対する「喪の作業」に失敗し続ける「メランコリー」には過去の「亡霊」が取り憑き続けることになります。しかし他方で「メランコリー」それ自体は必ずしも行動や思考の放棄をただちに意味せず、むしろ積極的に世界に関わっていく契機を押し開く潜勢力を秘めているともいえます。
 
もっとも現在において「メランコリー」の真の問題とは「何を喪失したのかを思い出せない--喪失したという記憶の喪失」という二重の記憶の喪失にあります。そこで本書は「堆積した歴史と記憶」「夢の残骸の断片」をていねいに拾い上げ、それらを再配置することで記憶の諸断片が新たな星座=布置(コンステレーション)を描き出し、失われた〈未来〉の痕跡を見出そうします。
 

* アシッド・コミュニズムと反脱魔術化

 
ところでフィッシャーは絶筆となった『アシッド・コミュニズム』の序文の中でアシッド・コミュニズムとはある「亡霊」に与えられた名前であると述べています。その亡霊とは70年代以降台頭化した「資本主義的リアリズム」によって祓われた60年代カウンターカルチャーの中心であった「自由」を求める「亡霊」です。
 
この点、ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターは共著『叛逆の神話』において60年代のカウンターカルチャーは70年代以降の消費文化を準備したと主張します。これに対して、フィッシャーもまた60年代のカウンターカルチャーが70年代以降にネオリベラリズムの台頭による「資本主義リアリズム」に回収された消費文化の一形態に堕落したという見方を取りつつ、ヒースらの見立てこそがカウンターカルチャーを祓おうとする試みの一つに他ならないとして、カウンターカルチャーに宿っていた可能性=潜在性を根絶やしにすることがネオリベラリズムに課されたプロジェクトであったと主張します。
 
では70年代以降の消費文化に取り込まれたカウンターカルチャーとは峻別される60年代のカウンターカルチャーに宿る未だに尽くされず現動化されていない純粋な可能性=潜在性とは具体的にどのようなものなのでしょうか。そして、その亡霊性をいかにして現代の後期資本主義社会に取り憑かせ、未来に向かって解き放つことがでしょうか。
 
こうした問いから本書は渡邊拓哉氏による論文「再魔術化の文化研究:20世紀後半期における自己変容の技術と欲望」における「脱魔術化(近代的合理主義)」「反脱魔術化(脱魔術化への反発)」「再魔術化(反脱魔術化の堕落形態)」いう三つ組の概念を参照し、60年代におけるサイケデリック・ムーブメントと70年代のニューエイジをそれぞれ「反脱魔術化」「再魔術化」の運動として捉え直していきます。
 
そして現代における「資本主義リアリズム」を規定するネオリベラリズムの支配的イデオロギーをイギリスの臨床心理学者デイヴィト・スマイルのいうところの「魔術的自立主義(自分の力でなりたい自分になることができるという信念)」であると名指し、その具体的発現として「自己啓発」の氾濫とその表裏を成す「うつ病」の蔓延を指摘します。
 
そして「資本主義リアリズム」における「再魔術化/魔術的自立主義」というイデオロギーを再び「反脱魔術化」へ差し戻すための理路として「スピノザ主義」に注目し、そこで「真の自由というものがもしあり得るとすれば、それは己の不自由さを精査していく中にしか存在しえない」と述べています。どういうことでしょうか?
 

* スピノザ主義における「自由」

 
「汎神論」としても知られる17世紀の哲学者バールーフ・デ・スピノザはその主著『エチカ』において「自由」の意味を精緻に考察しています。通常「自由」というと「外部からの制約がない状態」を想起します。けれども、そもそも外部からの制約がまったくない状態などあり得ないでしょう。つまり完全な「自由」はあり得ません。それゆえにスピノザは「自由」を「あるかないか」ではなく「どのくらいあるか」という「度合い」で捉えています。
 
要するに何が言いたいのかというと、スピノザのいう「自由」とは、いわゆる「自発性」のことではないということです。「自発性」とは外部の何者からの影響も命令も受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことをいいます。このような意味での「自発性」が「自由意志」と呼ばれているものです。
 
スピノザは「自由意志」を否定します。確かに人は自らの中に「意志」らしきものがある事を感じていますし、スピノザもその事実は否定しません。けれどもその「意志」だけで自らの行為を制御しているわけではありません。我々の行為は我々の「意志」が一元的に決定しているわけではなく、身体的なもの、精神的なもの、社会的なものといった様々な要因の絡み合いの中で中で多元的に決定されているわけです。
 
しかしながら、その一方でスピノザは「意志」の存在を「意識」することは否定しません。スピノザは「意識」を「観念の観念」と呼びます。「観念の観念」とはややこしい言い回しですが、要するに「意識=観念の観念」とは精神の中に現れる何らかの「観念」に対して浄化的反省を加えることで生じるいわば「メタレベルの観念」です。
 
先述したように我々の行為は様々な要因によって多元的に決定されます。そして「意識」もまた、その要因の一つになります。人間の精神の特徴は「意識」を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的に捉えるところにあります。それゆえ「意識」は行為の多元的な要因の一つとして行為に影響を与えることができます。
 
このようにスピノザのいう「自由」の「度合い」とは「意識」をいかに上手く使えるかにかかっています。それこそがまさに「己の不自由さを精査」するという営為なのでしょう。
 

*〈未来=子ども〉と再生産未来主義

 
また本書にはクィア理論の立場から〈未来〉を問い直す議論も伏在しています。クィア理論とは近年において「LGBTQ」と呼ばれるようになったセクシュアルマイノリティをはじめとする性の多様性を考察する比較的新しい学問領域です。
 
まず本書は第一章冒頭の「未来の誕生と喪失」において〈未来〉とは近代において発明された概念であり、同じく〈子ども〉という概念もまた近代において発明された概念であることを明らかにします。この点『ノー・フューチャー』(2004)等の著作で知られるクィア理論家リー・エーデルマンは〈未来=子ども〉をめぐる一連の信仰を「再生産未来主義」と名指し、クィア理論の立場から〈未来=子ども〉の名において「(再)生産」に加担するイデオロギーを批判します。
 
ここでエーデルマンの批判の矛先は「生産性のない人間は生きる価値がない」という右派的な優生思想のみならず「望ましい未来のために」とか「未来の子どもたちのための連帯」などといったクリシェの下で現行社会の保全に努めつつ「明るい未来」を志す改良主義的なリベラル左派にも向けられることになります。エーデルマンはこうした〈未来=子ども〉のクリシェにメスを入れ、その内奥に潜む社会秩序の絶えざる再生産と保全を肯定する根源的に「保守的」な身振りを剔抉し、異性愛規範に基づく現行社会秩序が暗黙のうちに強制する「(再)生産」に抗い「死の欲動」を積極的に担う者、それこそがクィアであると主張します。
 
このようにエーデルマンが問い直した〈未来〉とは「再生産未来主義」という〈未来=子ども〉を破棄したいわば〈未来なき未来〉であったといえるでしょう。もっともその一方で本書はその第四章最終節「それでも未来は長く続く」においてエーデルマンの「再生産未来主義(批判)」を中和する立場の議論を紹介しています。
 
例えば近年において障害学とクィア理論の交差点に立ち現れたクリップ・セオリーの代表的論客の一人であるアリソン・ケイファーは〈子ども=未来〉を顕揚するエーデルマンのいうところの「再生産未来主義」はクリップ・セオリーにも見られると慎重に前置きしつつも、ここから彼女はエーデルマンとは袂を分かち〈未来〉を閉ざすのではなく、今とは異なる〈未来〉を、複数の存在、複数の生き方を肯定し受け入れることの可能な〈未来〉を目指す欲望を思弁します。
 
またキューバアメリカ人のクィア理論家、ホセ・エステバン・ムニョスもまたエーデルマンに異を唱え、むしろクィアこそが〈未来〉を押し開く存在であると主張しています。ムニョスは彼の知的源泉の一つであるエルンスト・ブロッホの『希望の原理』に主に依拠しながら、クィアネスとは否定的な現在を超えて未来を共同で想像する営みであるとして、クィア的な未来の「希望」の中に、未知の悦び、異なる存在の仕方、そして新しい世界を見出そうとします。
 

* それでも〈未来〉を語るということ

 
以上、ここではもっぱらフィッシャーとエーデルマンという二つの視座から本書が問い直す〈未来〉を概観しました。やや図式的にいえばフィッシャーが「資本主義リアリズム」の〈未来=外部〉として「アシッド・コミュニズム」を構想したのだとすれば、エーデルマンは「再生産未来主義」という〈未来=子ども〉を内破する「ノー・フューチャー」としてのクィアに賭け金を置いていたといえます。
 
もっとも本書はその前書きで述べられているように単線的な読みに縛られない多様多彩な論点を抱えており、読者は本書からそれぞれ独自の星座=布置(コンステレーション)を読み出していくことができるように思います。
 
そして本書はその後書きで本書の執筆は迂回した自傷行為であると同時に、ひとつの「治癒」でもあったと述べ、できるならば読者のあなたにとっても本書が(どんな形であれ)ひとつの「治癒」となることを願うと結んでいます。
 
それでも〈未来〉を語るということ。本書は現代社会において広く「普通である」と見做されている堅固な常識を「資本主義リアリズム」や「再生産未来主義」といった言葉で名指し、その本質がいかに恣意的で空虚なものであるかを明らかにすることで「普通である/普通ではない」という二項対立を脱構築していく過程を論証する一冊です。こうした意味で本書は「普通である/普通ではない」という二項対立に呪縛された「居づらさ/生きづらさ」に対して確かにある種の「治癒」を齎す一冊と、きっとなり得るでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

母性をめぐるふたつの生--映画『君たちはどう生きるか』試論

 

* 賛否が二極化した映画

 
1937年8月に公刊された吉野源三郎氏の著書『君たちはどう生きるか』は作家の山本有三らが中心となって編集した「日本少国民文庫」という全16巻からなる子供向け教養叢書の最終巻であり、同文庫の編集主任も務めた吉野氏は戦後、岩波書店の雑誌『世界』の初代編集長を務めており、今日では戦後民主主義を代表する進歩的知識人の1人として知られています。
 
同書の大まかなあらすじとしては「コペル君(地動説を主唱したコペルニクスに由来するあだ名)」と呼ばれる中学二年生の主人公の少年、本田潤一が、叔父さんとの対話を通じて、この社会で生きていくことの意味について考え人間的に成長していくというものです。同書は児童文学の形をとった教養教育の古典として複数の出版社で出版され戦後広く読み継がれてきました。そして同書に感銘を受けた読者の1人に少年の頃の宮崎駿氏がいました。
 
そして同書公刊からちょうど80年後となる2017年2月、前作『風立ちぬ』を最後に長編アニメーション映画からの引退を公言していた宮崎氏が長編映画の制作に復帰していることが明らかにされ、同年10月には次回作のタイトルが『君たちはどう生きるか』であることが明らかになります。
 
それからさらに5年が経過した2022年12月、1枚のポスタービジュアルと共に本作の公開日が2023年7月14日に決定したことが告知されますが、それ以降本作に関する情報は公式からは一切発信されることはなく、インターネット上でさまざまな憶測が飛び交う中で本作は公開日を迎えることになります。
 
果たしてこの徹底した情報封鎖が功を奏したのかどうかはよくわかりませんが、本作は公開4日間で興行収入20億円を突破する好スタートを切ることになりました(8月28日時点での興行収入は74.1億円であると報道されています)。しかしその一方でインターネット上における本作の評価に関しては賛否が二極化しており、とりわけ否定的な意見としてそのストーリーのわかりづらさを上げるものが多く見受けられました。このわかりづらさは宮崎氏ご自身も自覚されているようで、2月に都内で極秘で行われたらしい初号試写では「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」というコメントを出しています。
 
確かに本作は一回観ただけではわけがわからない映画であることはほとんど疑いないでしょう。では、このわかりづらさは一体何に起因するのでしょうか。
 
(この先は本作に関するネタバレを含みますので何卒ご留意ください)
 
 
 
 
 
 
 

* 母を亡くした少年と謎のアオサギ--序盤のあらすじ

本作序盤のあらすじはこうです。物語は太平洋戦争が始まってから三年目のある日、本作の主人公の少年、眞人が実母のヒサコを病院の火災で喪うところから始まります。その一年後、軍需工場の経営者である父親の勝一はヒサコの妹、夏子と再婚し、一家は夏子の実家へ工場ごと疎開することになります。その時、夏子はすでに父親の子供を身籠もっていました。
 
眞人は疎開先の屋敷の外れに建っている塔の館が不思議と気になります。その館はかつて大伯父によって建てられ、その後大伯父はその中で忽然と姿を消したと夏子はいいます。
 
転校初日、学校にうまく馴染めないままその帰り道で地元の少年たちから暴行を受けた眞人は道端の石で自分の頭を傷つけて深い傷を負います。帰宅後、眞人が自室で寝込んでいると、突如部屋に入り込んできた怪しげなアオサギから「母君のご遺体を見ていらっしゃらないでしょう。あなたの助けを待っていますぞ」と告げられます。
 
眞人は母親と瓜二つの歳若き女性である夏子に対する距離の取り方がわからず、彼女に対してそっけない態度をとり続けていました。件のアオサギが残した羽で自作の弓矢を製作している最中、眞人は夏子らしき人影が森の中へと入っていくところを目撃しますが特に気にも留めませんでした。ところがその後、眞人は自室にあった吉野源三郎の著書『君たちはどう生きるか』の中に書き込まれていた母ヒサコのメッセージに気付き同書を読み進めるうちに涙が止まらなくなります。
 
そして、その日の夕暮れに夏子が失踪したことで屋敷の皆が大慌てになる中で眞人は屋敷を切り盛りする七人のばあやの一人であるキリコとともに夏子の後を追って塔の館の内部に潜入します。ここでアオサギに偽物のヒサコを見せられて怒った眞人は自作した矢を放ち、嘴を穿たれたアオサギは半鳥人のサギ男の姿から戻れなくなってしまいます。そして眞人は塔の最上階にいる謎の人物により「下の世界」へ誘われていきます。
 

* 戦後日本社会における「母性のディストピア

 
このように本作はひとまずのところは「母性」の喪失をめぐる物語であるといえそうです。この点「母性」の喪失は戦後日本文学の大きな主題をなしています。例えば戦後日本を代表する文芸批評家である江藤淳氏はその主著である『成熟と喪失』(1967)において当時の文学的潮流のひとつを成していた「第三の新人」と呼ばれる作家たちの作品群から近代社会における〈母〉の動揺と崩壊を読み取り、戦後日本における「成熟」の条件とは〈母〉を見棄てることによる「喪失感の空洞」のなかに湧いて来る「悪」を引き受けることであると主張しています。
 
そして宮崎駿という作家もまた、こうした戦後日本的な「母性」の磁場にとらわれた1人であったといえるでしょう。この点、批評家の宇野常寛氏はその名も『母性のディストピア』(2017)という著作において戦後日本社会論という大きな文脈の中で宮崎駿という作家を論じています。
まず同書の問題設定は大まかにいうと次のようなものです。かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは当時、日本社会の精神性を「12歳の少年」と呼びましたが、その後、サンフランシスコ体制と日米安保という「アメリカの影」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本が見出した成熟観とは「12歳の少年」のままでの成熟の仮構であり、それは「アメリカの影」による実質的な「政治」の不可能性を「文学」における自己完結的な「政治ごっこ」運動で代替し、現実から切断された空虚な理想を掲げることに意味を見出すという極めてアイロニカルな成熟観です。
 
こうした成熟観は戦後日本を長らく規定した左右のイデオロギーにおいて「(現実的にはそれが不可能と知りながら)あえて」その「偽悪(例えば憲法9条改正/再軍備)」ないし「偽善(例えば憲法9条護持/武力放棄)」を引き受けるという「あえて」の論理として現れます。そして、このような「あえて」の論理によって「矮小な父性」が「偉大な父性」を僭称する自己完結運動には、その不毛な演技を無条件に承認してくれる「肥大化した母性」が必要とされます。このような「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託構造を同書は「母性のディストピア」と呼びます。
 
こうした問題設定から出発した同書はいわゆる「アトムの命題(記号的身体で自然主義的成熟を描く矛盾)」を孕む戦後アニメーションには戦後日本社会を規定した「母性のディストピア」が強く表現されているとして、宮崎駿富野由悠季押井守といった戦後アニメーションを代表する作家の軌跡を検証し、ここで宮崎氏を「母性のディストピア」を「母性のユートピア」として読み替えた作家であるとして位置付けます。どういうことでしょうか。
 

* 母性・少女性・ニヒリズム

 
この点、宮崎氏の作品には「飛ぶ」という表現が頻出しますが、これを近代的/男性的自己実現のメタファーだと考えるのであれば、これまでの宮崎作品は基本的にこの「飛ぶ=近代的/男性的自己実現」ことの不可能性というニヒリズムから出発した上で何らかの回路を用いて「飛ぶ」ことの擬似的な回復を図るという構図に規定されてきたといえます。
 
まず『未来少年コナン』(1978)『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)『天空の城ラピュタ』(1986)『紅の豚』(1992)におけるコナン、ルパン、パズー、ポルコ・ロッソといった男性主人公は皆それぞれラナ、クラリス、シータ、ジーナといったヒロインの承認によって「飛ぶ」ことが可能となります。つまりここには近代的/男性的自己実現の不可能性を母性へ依存することで疑似的に回復するという回路があります。
 
そしてその一方で、宮崎氏の描くヒロインにはもう一つの系譜が存在します。それは『風の谷のナウシカ』(1984)『となりのトトロ』(1988)『魔女の宅急便』(1989)における「空を飛ぶ少女」たちです。ナウシカメーヴェを操り、サツキとメイはトトロやネコバスと共に、キキは箒に跨る魔法少女として、それぞれ文字通り空を飛び回ります。つまりここには近代的/男性的自己実現の不可能性を少女性に代行させることで擬似的に回復するという回路があります
 
ところがその後、宮崎氏の作品世界からは「空を飛ぶ少女」というモチーフが後退していくことになります。それはすなわち、少女たちが「飛ぶ」ための「空」としてのエコロジー思想(ナウシカ)や、昭和30年代の理想化された農村共同体(トトロ)や、消費社会の小市民的欲望(魔女急)といったものが思想的には脆弱な短期的なトレンドに終わり、宮崎氏が世界に対する肯定性を見出せなくなったことを意味しています。
 
そして同時に氏が長らく書き継いできたマンガ版『風の谷のナウシカ』が完結を迎え、ここで氏が到達したもはや世界は変えられないというニヒリズムをそのまま前面化させた映画が奇しくも宮崎駿の名を世界的なスターダムに押し上げた『もののけ姫』(1997)となります。
 
同作には「飛ぶ」というイメージがほぼ登場しません。主人公のアシタカも「もののけ姫」ことサンも「飛ぶ」ことはできず、そして多くのもののけ達もみな地を這い回り人間たちのと血みどろの抗争の中で傷ついていきます。同作の中核にあるのは自然と文明の対立というナウシカ以来、宮崎氏が反復してきた問題設定ですが、この問いに対して氏は最初から「答え」を放棄しており、アシタカの台詞が象徴するように「曇りなき眼で世界を見る」ことしかできません。このような倫理的で正しくみえるかもしれないけれど事実上無内容な同作の態度表明は氏が世界に対する肯定性を見出せなくなった端的な表れといえるでしょう。
 

* 母性によるナルシシズムの記述法としての『風立ちぬ

 
このように1980年代までの宮崎作品においては「飛ぶ=近代的/男性的自己実現」を擬似的に回復させるための回路として母性への依存と少女性への代行が並走していましたが、1990年代になると世界に対する肯定性としての少女性が後退すると同時にニヒリズムが前面化し、このニヒリズムを糊塗すべくゼロ年代においてはいよいよ肥大化した母性と矮小な父性との結託がより強化されていくことになります。
 
千と千尋の神隠し』(2001)の千尋はハクの飛行を保証する事実上の〈母〉として機能する少女であり、その関係性は『ハウルの動く城』(2004)のソフィーとハウルの関係性として反復されます。そして『崖の上のポニョ』(2008)になると宗介とポニョの冒険は全てがグランマーレという巨大な母性の胎内から一歩も出ないものとなります。そして同作においては母胎のイメージが「死後の世界」のイメージと結びついている、と宇野氏は指摘しています。
 
そしてこのような肥大化した母性がついに宮崎駿という作家が抱え込んでいた矛盾を包摂するナルシシズムの記述法にまで高められた作品が前作『風立ちぬ』(2013)です。
 
宮崎氏は同作の公開前後に行われた半藤一利氏との対談において、戦艦大和をかっこいいと思う自分と戦ってきた、かっこいいと思ってはいけないんじゃないかという気持ちがあったという趣旨の言葉を述べています。この発言にあるように宮崎氏は表向きの反戦平和思想の裏にある戦闘兵器への憧憬というある種の矛盾を抱え込んだ作家でした。そうした矛盾がまさに前景化した作品がこの『風立ちぬ』であったといえるでしょう。
 
ゼロ戦の設計者として知られる堀越二郎の半生を堀辰雄の同名小説に着想を得て脚色した同作は関東大震災から太平洋戦争前夜に至る時期を舞台にした物語です。同作の主人公、二郎は少年期から飛行機の魅力に取り憑かれ、イタリアの航空技術者、カプローニへの憧憬を募らせるようになり、いつかカプローニのような「美しい飛行機」をつくることが人生の目標となっていきます。ところが二郎が実際に追求した「美しい飛行機」とは、カプローニが夢見た大勢の家族を乗せて飛ぶ大型旅客機ではなく、ただひたすら「飛ぶ」という機能美に特化した戦闘機でした。
 
ここには現代を代表するアニメーション作家、宮崎駿の建前と本音がそのまま表出しているように思えます。従来のスタジオジブリ作品は多くの観客へ夢と希望を与えるファンタジー(=建前)と宮崎氏個人の戦闘兵器へのフェティシズム(=本音)という微妙なバランスの上で成り立っていました。そして同作はこの本音の部分をいよいよ隠すことなく全面化させているわけです。
 
もちろんここで宮崎氏は自身のフェティシズムをそのまま公的に肯定することはできません。そこでこの建前と本音の分裂に承認を与える役割を担うのが同作のヒロインである菜穂子です。
 
関東大震災の折、二郎は菜穂子と初めて出会い、その後ドイツ留学から帰国した二郎は避暑地にて菜穂子と運命的な再会を果たし二人は恋に落ちます。菜穂子は重い結核にかかっていることを告白しますが、二郎はそれを受け入れて二人は婚約します。その後、二郎は主力戦闘機の設計者に抜擢される一方で、菜穂子の症状は悪化の一途を辿っていきます。
 
先が長くないことを覚った菜穂子は無理を押して療養先の病院を抜け出し二郎の元に駆けつけます。こうして二人は短くも幸せな結婚生活を営む事になります。菜穂子は自らの身を顧みず妻として二郎を献身的に支え、果たして二郎は新型戦闘機(九試単座戦闘機)の開発に成功しました。けれどもまもなく菜穂子は亡くなり、二郎の畢竟の作ともいえるゼロ戦はあの戦争における破壊と殺戮の象徴となりましたが、それでも二郎は、菜穂子の存在を支えに「生きねば」と決意し、ここで映画は幕を閉じることになります。
 
つまり、ここで菜穂子は「美しい飛行機」を作るという二郎の物語に承認を与える母性としての役割を担っていることになります。かくして肥大化した母性は宮崎駿という作家が抱え込んでいた建前と本音、公と私、政治と文学の解離を救済する存在として顕現することになります。確かにこのようなナルシシズムの記述法は宇野氏のいう「母性のディストピア」に規定された戦後日本社会の成熟観そのものであるともいえそうです。
 
こうしたことから宮崎氏は自身が描き続けた世界が肥大化した母胎に閉じた死の海(=母性のディストピア)であることを自覚しながらも、あかたもそこが自由な空(=母性のユートピア)であるかのように見せかける綺麗な「嘘」を吐き続けた作家であり、それが宮崎駿にとってのアニメーションという虚構の使命だったに違いないと、宇野氏は述べています。
 

* 13個の石と「悪意」--中盤以降のあらすじ

 
では本作において「母性」はいかに超克されたのでしょうか、あるいは超克されなかったのでしょうか。
 
本作の中盤以降の展開は次のようなものです。「下の世界」に着いて早々にペリカンの大群に襲われた眞人は若き日のキリコに助けられます。ここでのキリコの仕事はこの世界の住人と「ワラワラ」という人に転生する前の魂たちを食べさせるために魚を獲ることです。しかし同時にワラワラたちはペリカンたちの食料でもあり現世に生まれ出る前に食べられてしまうものも多数います。瀕死の老ペリカンは眞人に海には魚がほとんどおらずワラワラたちを食べるしか生きる術がないという話をした後に力尽きてしまいます。
 
翌日、眞人はアオサギと和解して夏子を探しに行くようキリコから助言され旅立ちます。一方で現実世界では大捜索が行われる中でばあやの一人が眞人の父親に屋敷の外れにある洋館は明治維新の少し前に落下した塔を覆い隠したものであること、ヒサコは若い頃に神隠しに逢い1年後に全く同じ姿のままで帰ってきたことを打ち明けます。
 
その頃、獰猛な巨大インコたちに襲われていた眞人は炎を操る謎の少女ヒミに導かれ夏子のいる石の塔に向かいます。この塔が上の世界と同じ塔であると気づいた眞人に対してヒミはどの世界にも同じ塔は存在するといいます。そして塔の中の石造りの産屋で再会した夏子から「嫌い」と罵倒された眞人はこの時、初めて彼女を「お母さん」と呼びます。
 
産屋を追い出されて巨大インコたちに捕まった眞人は夢の中で大伯父と邂逅することになります。ここで大伯父は「下の世界」は自分が積み上げた積み木でバランスを保っていると説明して眞人に自分の仕事を継ぐように迫りますが、眞人は「それは木じゃない、石だ、墓と同じ悪意の石だ」と断ります。
 
その後、巨大インコたちを統率するインコ大王の妨害を乗り越えて眞人は塔の上で大伯父と再び邂逅することになります。ここで大伯父は今度は13個の穢れていない石を見せ、これを3日に一つずつ積み上げて世界のバランスを取る自分の役目を引き継いで欲しいと眞人に頼みます。
 
大伯父はこの仕事は自らの血を引継ぐ悪意のない人間しか出来ないといいます。しかし眞人は自分の石で殴ってできた傷を指して「この傷は自分でつけました。僕の悪意の印です。僕はその石には触れません。夏子お母さんと自分の世界に戻ります」と宣言します。そして怒り狂ったインコ大王が積み木を崩したことで「下の世界」は崩壊を始め、眞人はヒミとキリコと別れ、夏子とともに現実世界に帰還します。
 

* 宮崎氏の自伝的作品?

 
この点、本作は宮崎氏の自伝的作品であるという解釈があります。確かに主人公の眞人の父親の勝一同様に宮崎氏のお父様は宮崎航空機製作所という工場を経営しており、戦時中はゼロ戦の風防を製造しています。また、どこか軽薄な勝一の性格には宮崎氏曰く「デカダンスな昭和のモダンボーイ」であったお父様の性格が投影されているのかもしれません。また夭折した眞人の母親ヒサコと異なり宮崎氏のお母様は71歳まで健在だったそうですが、宮崎氏の幼少時に9年間結核を患っており、氏は母親におんぶしてもらえなかった幼少期の思い出を語っています。おそらく幼少期の氏にとって「母性」は象徴的な意味で不在であったのでしょう。もしかして氏がこれまで執拗に描き続けてきた「母性」とはこうした原風景に由来しているのかもしれません。
 
このように本作を宮崎氏の自伝的作品という位置付けから解釈するのであれば、眞人が負った頭部の傷は宮崎氏が少年の日に出会った漫画やアニメーションであり「下の世界」とはアニメ業界あるいはスタジオジブリともいえそうです。そうであればアオサギ鈴木敏夫氏ないし高畑勲氏といった氏にとっての盟友かもしれないし、大伯父は手塚治虫氏や徳間康快氏といった氏にとっての先人あるいは恩人ともいえるかもしれません(鈴木氏は自身がアオサギのモデルだと述べているようです)。さらに想像を重ねていけばワラワラを食べるペリカンは大戦時に本土を空襲したB29爆撃機のようにも見えてきますし、巨大インコは宮崎氏の作品をこれまで批判してきた同業者や批評家、そして観客の似姿のようでもあります。
 
そしてキリコはドーラや湯婆婆の系譜に属する主人公を後見する「母性」であり、ヒミはラナやシータの系譜に属する主人公を承認する「母性」といえます(同時にナウシカやサンといった戦闘美少女のイメージも重なり合っているでしょう)。しかも何よりヒミは主人公の母親ヒサコその人でもあります。こうした「母性」の支援を受けて眞人=宮崎氏は精神的な成熟を遂げていくわけです。
 
この限りでいえば確かに本作は「母性」に深く規定された作品であり、宇野氏のいうところの「母性のディストピア」の圏内にあるといえます。しかしながら同時に本作はこうした解釈から逸脱していく過剰性を(とりわけ後半部分において)様々に抱え込んでいます。そして、この過剰性ゆえに本作は極めてわかりづらい映画となっているともいえるでしょう。
 

* もうひとつの「原作」としての『失われたものたちの本』

 
ところで本作の企画元となった本として吉野氏の著作『君たちはどう生きるか』以外にジョン・コナリーというアイルランド出身の小説家が2006年に出版した『失われたものたちの本(The Book of Lost Thing)』という小説が知られています。2015年に出版された同作の邦訳に宮崎氏は「ぼくをしあわせにしてくれた本です」という推薦文を寄せています。また鈴木プロデューサーは本作の企画時に宮崎氏から「読んでみてください」と渡された本がこの『失われたものたちの本』であったことを示唆しています。
この小説も本作と同じく舞台は第二次世界大戦下で主人公はやはり母親を亡くしたディヴィッドという少年で、ドイツ軍の暗号解読に関わる仕事をしている主人公の父親がローズという女性と再婚することになります。父親からローズを紹介されたディヴィッドは発作を起こしてしまい、以降彼には本達の声が聴こえるようになります。
 
ローズはすでに妊娠しており、ディヴィッドたちはローズの屋敷に移り住みますが、そこには大伯父が昔、神隠しにあったという部屋があります。新しい母親とうまくいかず父親との仲も険悪になってしまったディヴィッドはひとりで本ばかり読んでいました。そして「私は死んでいないの」という母親の呼び声を聴いた彼は墜落してきたドイツ軍機の爆発に巻き込まれる形で御伽噺の国へと飛ばされてしまいます。
 
このようにディヴィッドと眞人とほぼ同様の境遇から別世界へと誘われています。この点、カササギの姿に化けてディヴィッドを別世界に誘う「ねじくれ男」はアオサギ/サギ男に相当します。また、この世界では主人公を導く存在として序盤では木こりが登場し、中盤ではローランドという騎士が登場しますが、彼らはそれぞれキリコ、ヒミに相当します。そして、この世界を治める王様はやはり主人公の大叔父であり、国を滅ぼそうとするループと呼ばれる狼男は巨大インコに相当します。こうした対応関係からすれば同作が『君たちはどう生きるか』の事実上の原作であると考えて差し支えないようにも思えます。
 

* トリックスターとしてのアオサギ/サギ男

 
そして同作において「ねじくれ男」は作中で「トリックスター」と名指されています。ここでいうトリックスターとは世界中の至る所の神話、伝説などに登場する道化的な役回りを担う存在で、限りなく悪に近い側面と限りなく英雄に近い側面という両義的な性格を持っています。二つの領域の境界に出没し旧来の秩序を破壊して新しい秩序を創造する役割を担ったりもするトリックスター紙一重で悪になったり英雄になったりします。日本においてもトリックスターという存在は文化人類学者の山口昌男氏の著書『アフリカの神話的世界』(1971)を通じて広く知られるようになりました。
 
この点、分析心理学の創始者として知られるスイスの精神科医カール・グスタフユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、意識を超えた「こころ全体」の中心に「自己」という元型の存在を考え「自己」を中心に心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく過程を「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んでいますが、このような過程においてトリックスターは時として大きな作用を及ぼします。
 
こうしたユング的な視点から、アオサギ/サギ男がトリックスターであり、眞人が自我であると見るならば、生まれる前の魂であるワラワラを抱え込む「下の世界」は生と死を司る母性の元型である「グレートマザー」に相当するといえます。また下の世界の住人であるペリカンや巨大インコはグレートマザーがしばし魂や精神を表す「鳥」のイメージと結びつけられるところから了解されます。
 
そうであればヒミは女性像の元型である「アニマ」に相当し、キリコは母性とアニマを仲介する「シスターアニマ」に相当するといえそうです。こうしてみると本作は自我(眞人)がグレートマザーの世界へトリックスターに誘われアニマ/シスターアニマに助けられて、ユングのいうところの「個性化/自己実現」を歩む過程を描いていることになり、この場合、大伯父は自己の元型が具現化したユングのいう「老賢者」に相当するといえるでしょう。
 

* 宮崎駿と「君たち」の物語

 
このように『失われたものたちの本』を起点として本作を読み解いた時、本作は「自伝的作品」とはまったく別の仕方で解釈することが可能となります。
 
まずアオサギ/サギ男を「鳥の外皮を被り空を飛ぶ中年男性」としてみれば、ここから容易に宮崎氏がかつて自画像として描き出した『紅の豚』のポルコ・ロッソを想起することができるでしょう。また、よく知られた解釈に倣い13個の積み木を宮崎氏の監督作品数に準えるのであれば、13個の積み木を司る大伯父とは世界的アニメーション作家として偶像化された宮崎駿のイメージといえます。そして「下の世界」は歴代宮崎作品の集合体とでもいうべき世界であり、その住人たちは皆カリチュアライズされた歴代宮崎作品のキャラクターたちであるといえるでしょう。
 
そうであれば眞人が誰に相当するかも自ずと明らかになります。それはまさに他ならぬ本作のタイトルにある「君たち」ということになるでしょう。
 
本作の観客であるところの「君たち」は宮崎氏に誘われてその作品世界を旅して、最後に氏からこの世界を継ぐように求められます。それはまさしくグレートマザーの母胎としての「母性のディストピア」を「母性のユートピア」に読み替えてきた宮崎氏の「嘘」で創り上げられた虚構の世界です。
 
けれども本作において「君たち」は自身の「悪意」を理由にこの虚構の世界を拒絶します。すなわち、ここでいう「悪意」とはまさしく宮崎氏の「嘘」を看破する力に他なりません。果たして本作の最後でこれまで宮崎氏の創り上げてきた虚構は完全に崩壊し「君たち」はこの現実を生きていくことになります。それゆえに氏は問いかけます。君たちはどう生きるのか、と。
 

* 母性をめぐるふたつの生

 
このように本作は宮崎氏の自伝的要素と『失われたものたちの本』にインスパイアされた要素が重なり合って成立している作品であるといえます。そして両者はそれぞれ氏の「生きてきた半面(母性に呪縛された生)」と「生きられなかった半面(母性を内破する生)」であるといえます。
 
すなわち、賛否両論を巻き起こした本作のわかりづらさとはおそらく、この「生きてきた半面(母性に呪縛された生)」と「生きられなかった半面(母性を内破する生)」という二つの位相を整理統合することなく重なり合った形のままで提示した点に起因しているのではないでしょうか。
 
けれどもまさにそうであるがゆえに、観客としての「君たち」は宮崎氏の「生きてきた半面(母性に呪縛された生)」と「生きられなかった半面(母性を内破する生)」という二つの位相のあいだで、他ならぬ「君たちはどう生きるか」という問いを思考し続けることになるでしょう。こうした意味で本作は不世出のアニメーション作家宮崎駿の抱え込んだ矛盾に満ちた幻想を削ることなくそのままに極めて高純度な形でアニメーションへと昇華させたかつてないほどに「贅沢」な映画であったといえるのではないでしょうか。