* はじめに
「大きな物語」が機能する社会においては人々は立場の違いはあれど「きっと明日は今日よりもっと良くなる」という幻想を素直に信じることができた。
もっと言えば「終身雇用」「年功序列」を前提とした「良い大学を出て良い会社に入り、結婚して子供を産み、そして老後はささやかながらも悠々自適な暮らしを」などという「昭和的ロールモデル」と呼ぶべき「大きな物語」がかつての日本にはあったわけです。
けれどもこうした「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなります。
そういう意味で我々が小説・映画・ドラマ・アニメ・ゲームといった「物語」に没入し、そこで共感したり、あるいは反発したりという体験は「これが私なんだ」「これで良いんだ」という自らの「小さな物語」の確認に直結する行為であると言えるわけです。
* 「古い想像力」と「新しい想像力」
では、ポストモダンにおける社会状況の変化は「物語の想像力」に、さらには「個人の生き方」にどのように影響を及ぼしているのでしょうか?
この点、本書はまず「古い想像力」と「新しい想像力」を峻別します。
「古い想像力」とは、90年代後半の社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力であり、その代表と目されるのは「新世紀エヴァンゲリオン」です。
* 引きこもり/心理主義
このような、何が正しいのかわからなくなった時代において、最も安易な選択は「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という態度です。
95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」においては、全人類がその個体を消滅させ、まるで母親の胎内のような溶液の中に埋没して群体生物として進化するという人類補完計画が描かれる。
そして、最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し、他のキャラクターとの問答を繰り返し、最終的には「僕はここにいたい」「僕はここにいてもいいんだ」という結論に達し、皆から「おめでとう」と祝福される結末を迎える。
この後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならないということです。
* 「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」としての「セカイ系」
これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」の結末においては、TV版で描かれたような母親的承認のもとに全能感が確保される内面への引きこもりを捨て去り、互いに傷つけ合うことを受け入れ「他者」と共存して生きて行く態度が選択されている。こうしてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストを迎えるわけです。
エヴァ劇場版はエヴァTV版の「引きこもり/心理主義的」傾向への優れた回答だと本書はいう。すなわち、何が正しいのか分からない世の中だからこそ、人は時に傷つけあいつつも〈他者〉とのコミュニケーションを試行錯誤していくしかないという、厳しくも前向きな処方箋がそこにはあるということです。
こうして、エヴァTV版によって示される「引きこもり/心理主義」的な想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡することになる。「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」。これらの作品に代表される「セカイ系」と呼ばれる潮流です。
セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。
* 決断主義
2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、引きこもっていては殺される」という「新しい想像力」が台頭して来ることになる。
こうした態度を「決断主義」と呼びます。人はもはや間違っても、他人を傷つけても、何がしかの「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していくしかないという現実認識です。
では、決断主義を乗り越える「次世代の想像力」とは一体、何なのでしょうか?これがまさしく本書の設定する問題意識であり、このような視点から、本書では小説・映画・ドラマ・アニメ・ゲームといったジャンルを問わず数多くの作品が検証されていくわけです。
* データベース消費とコミュニケーション
東浩紀氏が「動物化するポストモダン」で述べるように、ポストモダンにおいては「歴史」や「社会」が与える「大きな物語」は失墜し、人々は「情報の海」として静的に存在する「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成することになります。
つまり、現代においては人は誰もがデータベースから欲望するままに「小さな物語」を読み込み、あるいは「無自覚的」に、またあるいはそれが究極的には無根拠である事を織り込み済みで「あえて」特定の価値観を選択する。
こうしてメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況が成立する。
では、我々はこのような「小さな物語」をどう生きて行けばいいのでしょうか?この点、本書はキーワードとして「コミュニケーション」をあげています。
すなわち、「小さな物語」の内部で、あるいは異なる「小さな物語」との間で、我々は他者とどのようにコミュニケーションしていくかという問題が「次世代の想像力」を語る上で重要な鍵となるわけです。
* 終わりに
こうした本書が示す想像力のパラダイムの変遷は、我々が人生において経験する「他者」との関係性の在り方そのものとも言えるでしょう。
例えば、これまで自分の人生を規定していた理想が叶わなかった時、我々は絶望し、程度の差はあれ、まずは「他者」に怯え引きこもり、母親的承認による全能感の確保によって生き延びようとするでしょう(セカイ系)。
もっとも、時が経つにつれ、このまま引きこもったままでは「他者」に殺されてしまうことを悟る。その時、我々は否応無く、今度は自らが信じる根拠なき理想を掲げて「他者」との間に「勝つか/負けるか」「奪うか/奪われるか」という「白か/黒か」のゲームに参加せざるを得なくなる(サヴァイブ系)。
けれども我々がいつか「他者」を異なる価値観を持つ同じ存在として受容できた時、そこには「共感」や「つながり」といった「白か/黒か」ではない、より成熟したコミュニケーションの可能性が開けてくるわけです。
いずれにせよ確かなことは、今やもはや「正しい物語」など、どこにも無いということです。かといって、人は「物語の重力」から逃れられるほど軽くも強くもありません。
結局のところ、我々は自らが選び取った根拠なき「小さな物語」の中で生きていかなければならないわけです。そこでは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」が問われているということになります。