かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

世界を映すスクリーンとしての「風味」--三浦哲哉『自炊者になるための26週』

*「おいしい」の美学

 
人間の感性という領域を扱う哲学である美学において食事をして「おいしい」と感じる感性は従来周縁的なものに位置付けられていました。そもそも近代哲学において味覚や嗅覚、または触覚という感覚は「低級感覚」と呼ばれ「高級感覚」とされた視覚や聴覚に対して「劣るもの」だと考えられてきました。
 
ここでいう「高級/低級」の対比は「遠位/近位」の対比とも言い換えられます。すなわち、我々の身体から遠く離れた広範な情報を得ることができる視覚や聴覚に比べて、味覚や嗅覚、または触覚は身体的な接触を基本とします。
 
この遠近の問題はさらに敷衍され、高級感覚が精神的な次元にかかわることができるのに対して、低級感覚はあまりにも身体的で、動物的な意味での生命保護に強く関わる感覚であるとされ劣位に置かれていました。
 
さらにはこのような感覚の優劣はそれらの感覚を通じて引き起こされる快が美的快、すなわち、単なる身体的な快楽ではない高次の快でありうるかという議論まで影響を及ぼしており、こうしたことから美学において「おいしい」という味覚=低級感覚を中心とした感性は長らく美的快を生み出さないものと見做されていました。
 
もっとも日常美学の研究者である青田麻未氏は「かって、きって、くった(そして皿を洗う)」(ユリイカ2025年3月号所収)という論考でこのような考え方は現代において問い直されているといいます。
 
例えばアメリカの美学者キャロライン・コースマイヤーは絵画の見た目や音楽の楽音と同様に食べ物の味もまたなんらかの意味を表現しうるものであり、味覚を中心とする経験もまた美的経験になりうると主張しています。また国内でも源河亨氏は食を味わう経験は五感すべてが関わっている「多感覚知覚」であり味わうこともまた美的評価であると論じています。
こうしてみると「おいしい」という感性はむしろ美学や哲学におけるフロンティアであるともいえるでしょう。この点、同論考でも参照されている本書『自炊者になるための26週』は「風味」という観点から「おいしい」という感性を深く考察する一冊であるといえます。
 

*「風味」から自炊をひらく

本書はそのタイトル通り自炊の入門書です。本書は自炊を楽しく続けるための「料理したくさせる最大の動機」として「風味の魅力」を挙げています。本書によれば「風味」は近年その研究が急速に進み、熱い注目を集めているトピックだそうです。ここでいう「風味」とは「味と一体になったにおい」のことです。本書ではこの風味の持つ不思議な働きについて様々な角度から光を当てていき、その秘密に迫っていきます。
 
こうしたことから本書は「風味の魅力」についての理解を深めながら、それを最大限に楽しむことのできる料理の作り方を簡単なレシピから初めて、テーマごとに伝えていく構成になっています。あわせて本書では台所での作業を快適に進めるための方法、買い物の仕方、調理法の初歩、おいしい組み合わせ、即興のしかた、片づけ、うつわ選び、さらには環境問題に至るまで「自炊の全体像」を掴むための諸論点について述べられています。
 
本書は一週に一章を読み進めてもらう前提で書かれており、全部で26章=26週間、つまり約半年で「すすんで自炊するひと=自炊者」になれる(はず)という想定になっています。
 
なお本書の著者である三浦哲哉氏の本職は映画研究者です。映画批評とは「スクリーン」という窓を通して世界をじっくり観察し、吟味して楽しむという営為であり、そうであれば料理もまた「風味」を通して世界をじっくり味わうという意味では同様であると氏はいいます。本書には映画研究者ならではの鋭い洞察が随所に現れています。
 

*「際立つもの」としての「におい」

 
先述のように「風味」とは「味と一体となったにおい」のことです。本書によれば日本語の「におい」とはかつて「丹穂い」ないし「丹秀い」と書いたそうです。ここでいう「丹」は赤色のこといい「穂」は「ぬきんでて現れる」という意味です。また「におい」の動詞の「におう」は「赤く色づく」を意味していたそうです。
 
つまり「におい」はその語源において「地」から「図」が現れ出るような視覚的な際立ちのことを指しており、やがてそれが嗅覚的体験としての「におい」に限定されるようになったということです。
 
「におい」とは現れ出る何かである、という感覚は生理学的な観点から次のように説明されます。動物の神経系には「感覚順応」と呼ばれるメカニズムが備わっています。あるにおいが目の前にあるのだとしても、だいたい20秒ほどでそれに馴れて意識から消えてしまいます。
 
なぜこのような順応があるのかというと外界からの感覚に効率的に対応するためです。もし順応がなければそこら中のあらゆる「におい」がひとしなみに意識に現れ、あの「におい」もしているしこの「におい」もしているというように意識を向けるべき対象としての「におい」は際限なく増えていくでしょう。
 
これは「地」と「図」の対比でいえば「図」ばかりになって何も際立たない状態といえます。つまり、このような順応の機能として「におい」は「際立つもの」として意識に「現れ出る」ことです。
 

*「におい」におけるふたつの回路

 
では料理の「におい」が際立っていることと、その料理を「美味しい」と感じることは別の感覚なのでしょうか。それとも両者はつながっているのでしょうか。本書によれば舌で感じる「味覚」と鼻で感じる「嗅覚」は混じり合って一体化する性質があるそうです。ある意味では我々は「におい」を食べて味わっているとも考えられます。これは別に比喩でもなんでもなく実際に感覚の混じり合いが起きているそうです。
 
人間が「におい」を感じるしかたは二種類あるといわれます。まず鼻先から鼻腔に伝わる空気の経路を「オーソネイザル経路」といいます。ここでいう「オーソ」とは「オーソドックス」という場合の「オーソ」であり、においの「順路」がこちらになります。
 
これに対して肺から口を経由して喉の奥から鼻腔を通り鼻先に抜けていく空気の経路を「レトロネイザル経路」といいます(食べ物を咀嚼するときの「もぐもぐ、んふー」というときの「んふー」がこれです)。これは「順路」に対する「逆路」になります。この「レトロネイザル経路」の重要性が近年急激に発展したにおい研究によって明らかになってきています。なぜならこの「レトロネイザル経路」によって人は「味」として「におい」を感じることができるからです。
 
例えば鼻をつまんでオレンジジュースとグループフルーツジュースを飲み比べたところ、両者の区別がつかないというよく知られた実験があります。つまり鼻腔に届く「におい」の違いを感知するとき、はじめてオレンジは「オレンジの味」になり、グレープフルーツは「グレープフルーツの味」になるということです。このような「におい」と混じり合った「味」こそが「風味=flavor」と呼ばれるものです。
 

* 五つの味と二の四百乗のにおい

 
この「風味」においてより多くの情報を担うのはもちろん圧倒的ににおいの方です。嗅覚が感知できるにおいの種類は諸説ありますが、嗅覚を論じる生理学の本などによればだいたい5千から1万とも言われているそうです。
 
もっともこれは言語によって記述可能なにおいの数であり、分子進化学者の新村芳人氏によれば純粋に理論的に考えるとにおいの種類は二の四百乗であるといわれています。これは全宇宙の原子の総数をはるかに上回るという恐ろしく途方もない数字です。
 
なぜこれほど多くのにおいを嗅ぎ分けられるかというと嗅覚が「組み合わせ符号」によって働くからであると本書はいいます。この点、味覚の場合は甘味、酸味、塩味、苦味、そしてうま味という五種類の味覚をそれぞれの味蕾が担当しており、甘味には甘味受容体が、というように一対一関係で反応します。
 
これに対して嗅神経は約400種類あり、さらにこれらはそれぞれが多種のにおい分子に反応します。つまり「一対一」ではなく「多対多」の関係です。このシステムが「組み合わせ符号」であり、このときに取りうるパターンの種類が理論的には二の四百乗であるということです。
 

* 世界を映すスクリーンとしての「風味」

 
本書は食べ物はその「風味(主ににおい)」を媒介として、空間的あるいは時間的に隔った「遠くの何か」を映す「映像」であるといいます。そしてその「映し方」として次のような三類型を挙げています(この三類型はしばし混在するケースがあり、むしろそのような場合がほどんどです)。
 
一つめは「におい」の持つ「痕跡や索引(=インデックス)」が「遠くの何か」を映すケースです。これを本書は「風味インデックス」と呼びます。二つめは「におい」による「組み合わせ(=パターン)」が「遠くの何か」を映すケースです。これを本書は「風味パターン」と呼びます。三つめは「におい」が表す「象徴的価値(=シンボル)」が「遠くの何か」を映すケースです。これを本書は「風味シンボル」と呼びます。
 
このように「風味=映像」によって空間的あるいは時間的に隔った「遠くの何か」を映すことが自炊におけるよろこびの大きな部分を占めていると本書はいいます。すなわち、台所で色々な素材を使って料理をするということは「風味=映像」を用いて空間的あるいは時間的に隔たった世界の様々な事物と交信することであるということです。
 
こうしたことから三浦氏は「自炊者」をM・ナイト・シャラマンの映画『エアベンダー』に登場する風を操る能力の持ち主に準えて「エアベンダー」と呼びます。すなわち「自炊者」とは「エアー(においを含む空気の流れ)」を「ベンド(操作)」することができる存在であるということです。
 
ところで映画研究者としての三浦氏は『映画とは何か』(2014)において、映画の持つ「直接的な力」を「自動性 automaticité,automatisme」という概念から再定義を試みています。同書によれば「自動性」とは何より映画を映画たらしめる基礎的な要素であり、観客が映画に感情移入するための起点でもあります。
ここから同書はフランス最大の映画批評家アンドレ・バザンのリアリズム論を再考し、映画における「自動性」には二つの局面があるといいます。すなわち、第一にはカメラが自動的に事物を記録するという局面であり、第二にはイメージが自動的に保存されることで現実に従属しない自律的な領域を形成するという局面です。
 
そうであれば「遠くの何か」を映しだす「風味」もまた映画の「スクリーン」同様にこうした意味での「自動性」を宿しているといえるでしょう。そしてそこには「おいしい」という感性をめぐる美的経験を語るための新たな理路を見出すことができるのではないでしょうか。