かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

近代美学と日常美学--井奥陽子『近代美学入門』×青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する』

* 美学とは何か

 
「美学」とは美や芸術について考える哲学です。「美学」という学問は18世紀のヨーロッパで誕生し、日本には明治時代に、そのほかの西洋文化とともに流入してきました。「美学」という言葉はその原義に立ち返ると「感性の学」を意味しています。すなわち、なにかの事物や出来事に出会うとき、我々の感性はどのように働いているのかを明らかにするのが美学の目的です。
 
美や芸術、あるいは感性についての学問などというとなんだか高尚な別世界の営みのように感じられるかもしれませんが、美学とはむしろこの世界の日常の中に雑多に溢れかえる様々な事物や出来事を考究する学問です。
 
例えば多くの日本人は桜に特別な美を感じると思いますが、このような感性は日本という文化圏において生じた独自のものであるとされます。日本においては桜の開花時期が年度替わりと重なるため節目の思い出の背景には桜があり、また万葉集の時代から桜は人の世の儚さと重ねられてきました。もしも別の文化圏でこうした経験や知識をまったく得ずに生活してきたのであれば、たとえその土地に桜の木があって桜の花が咲いていたとして同じようには感じないでしょう。
 
このように自然に対してさえ、どのように感じるかはその人が育ってきた地域の文化や思想や風習によって方向づけられています。この点、ヨーロッパでは中世まで人間の手によって整えられていないようなありのままの自然の景色は美しいものとして捉えられておらず、海や山といった大自然の壮大さが賛美されることもありませんでした。少なくとも現時点での研究によればヨーロッパにおいて風景の美は近代になってから「発見」されたものであり、決して普遍的なものではなかったとされています。
 
しかもこのような風景の美のみならず、我々が美や芸術について何気なく抱いている「常識」の多くは17〜19世紀の近代ヨーロッパで成立したものであるといわれます。そこでこの時代に成立した美や芸術の「常識」ついて深く学ぶことから、その「常識」を問い直そうとする一冊が本書『近代美学入門』です。
 

* 多様性社会と近代美学

本書は近代美学が「優れたものだから広めたい」という目的から書かれたものではなく、むしろ逆であり「美や芸術についてしばしば自明の理であるかのように語られる事柄の多くは、たかだか200〜300年前のヨーロッパという一地域で生まれた考え方だ」という点を強調しています。
 
我々は知らず知らずのうちに近代美学の考え方が刷り込まれており、意識的に顧みなければ、その価値観を基準にしてあらゆる時代と地域の文化を眺める、ということをしてしまいがちです。このような無意識のうちに内面化している価値観を客観視して相対化するためにこそ、近代美学を学ぶことが逆に重要になってくるということです。
 
そして、これは多様性を認め合う社会を実現するための基本訓練でもあります。本書は「自分を絶対的な物差しにしないこと。自分と異なるバックグラウンドを持った他者のことを、自分の物差しで測れないからといって、間違っているとか取るに足らないとか野蛮であるなど判断しないこと」が「現在社会を生きる上で重要かつ基本的な態度ではないでしょうか」といい「そもそも人文学はこういった姿勢を涵養する役割があると思います」と述べています。
 
こうした問題意識を念頭におきながら本書は近代ヨーロッパの美学を「芸術」「芸術家」「美」「崇高」「ピクチャレスク」という5つのテーマから概観していきます。
 

* 芸術の誕生と美の変遷

 
「芸術」の英語である「アート」の語源は古典ラテン語にあり、さらに遡ると古典ギリシャ語に見出すことができます。ところがそれらの語はもともと「芸術」ではなく「技術」を指した言葉でした。それが18世紀から19世紀に変わる頃になると「芸術」を意味する語に変容します。つまり現代における「芸術」という概念は近代において初めて生まれたものであったということです。
 
もちろん古代や中世にも絵画、彫刻、詩、音楽といった概念は存在していました。しかしこれらを一つのまとまりとして「芸術」と呼ぶ考え方は存在しませんでした。様々な技術の中から「美」を本質とする技術が一つのグループにまとめられて「芸術」と呼ばれるようになりました。
 
そして「芸術」の概念が成立するに伴い、機械的技術に従事する「職人」から区別されるかたちで「芸術家」という概念も誕生することになります。そして、ここから神の如く自分の世界を創造する独創的な天才であるという「芸術家」のイメージが形作られていくことになります。
 
そして同じ頃に「美」の概念についても大きな変化がありました。古代より長らく「美」とは数学的に捉えられるものであるという考え方が支配でした。これは「プロポーション理論」と呼ばれるものです。この考え方は「美」とは事物の中にあることを前提としています。
 
しかしやがて近代になると「美」とは事物の中にではなく、美を感じる個々人の心の中にあるという考え方が優勢になってきます。このような「美」の概念の変化は「客観主義美学」から「主観主義美学」への転換として捉えられています。
 

* 崇高とピクチャレスク

 
このような近代における「美」の概念の転換に伴い、それまでの「美」の概念からは逸脱するようなものにも、新しい一種の美しさが認められるようになり、なかでも自然の景色がもつ独特の魅力が見直されることになりました。こうしたことから自然の魅力を表すための「崇高」と「ピクチャレスク」という概念が誕生しました。
 
それまで自然の景色はヨーロッパの伝統的な「美」の概念に相反するものでした。自然の景色はプロポーションで捉えることはできず、そこには一見して何の秩序も調和も見出されないからです。それが近代になると、そうした自然における無秩序あるいは不調和が肯定的に捉えられ、そこにある種の美しさが見出されるようになります。
 
無秩序で不調和な自然はしばし巨大で凶暴な存在として人の前に現れます。そして、こうした自然という圧倒的な存在に対して人は恐怖を感じると同時に高揚感を覚えることがあります。「美」では説明できないこのような矛盾する感情を言い表すために用いられるようになったのが「崇高」という概念です。
 
また「崇高」と同様に自然における無秩序な魅力を表し、かつ「崇高」ほど巨大で凶暴な自然ではなく、比較的穏やかで調和の取れた「絵になる」ような景観に対して使われたのが「ピクチャレスク」という概念です。すなわち「ピクチャレスク」は「無秩序」という点で「崇高」と共通しますが「調和」という点で「美」と共通しているといえます。
 
こうして「美」「崇高」「ピクチャレスク」という三つ組が近代の美意識を表す概念として成立することになりました。しかしこれらの三つ組はいずれも近代という時代にヨーロッパという地域において成立したものに過ぎず、決していつの時代のどの地域にも普遍的に当てはまるものではありません。こうした観点から本書は「近代美学を相対化して吟味することは、その延長線上にいる現在の私たち自身を顧りみることでもある」といいます。
 

* 環境美学から日常美学へ

 
以上のように近代ヨーロッパにおいて成立した美学という学問は長い間、芸術作品がもたらす美の経験を典型例とした考察が進められてきました。しかしながらそもそも美学が原義的には「感性の学」であるというところに立ち返れば、美学の対象は美や芸術には限られることはないはずです。
 
こうしたことから1970年前後より「環境」という視点から自然の美的経験を再検討する「環境美学」と呼ばれる分野が発展を続けています。環境美学ではまず人間の手が入っていない自然の美的鑑賞のあり方について議論するところから現代の自然美論をスタートさせました。ところがそうすると今度はどこまでを「自然」と呼べるのかという問題が発生してきました。
 
人間の手が全く入っていない全く手付かずの自然はすでに地球上において非常に限られています。しかしその一方で都市や田園など人間が作り上げた環境の中にも自然の要素は残っています。そこで1990年代ごろから自然と人工の要素を併せ持つ複合的な環境も環境美学の議論対象として組み込まれていくようになり、ここからやがてこうした複合的な環境がもたらす「日常」へと関心が向けられていくことになります。
 
このような背景から成立した新たな学問領域が日常生活のなかで感性が果たしている役割を明らかにすることを目指す「日常美学」です。日常美学は21世紀になってから本格的な議論が立ち上げられました。2005年には日常美学として初めての論文集が出版され、2007年には美学者のユリコ・サイトウとチャ・マンドキがそれぞれ同じ『日常美学』というタイトルを冠した2冊の本を公刊しています。
 
こうした日常美学の現在地を概観する一冊が本書『「ふつうの暮らし」を美学する』です。本書は特に「家(的な場所)」に焦点を当て、家具や家事や余暇や趣味といった具体的な事例を用いながら日常美学の考え方を説明していきます。
 

* 日常美学における美的経験

アメリカの美学者でアーティストでもあるケヴィン・メルキオネは日常美学を「第三のかご」と呼びます。芸術ではないから従来の美学の主題でもなく、自然でもないから環境美学の主題でもない、そうしたものがじゃんじゃん放り込まれてくるかご。それこそが日常美学の懐の広さでもあり、同時にその独立した領域としての自律性を脅かす特徴でもあります。
 
我々の日常はあまりにも多様で雑多です。そこで日常美学において議論すべき範例的な美的経験とはどのようなものか、ということが問題となります。そしてこの点をめぐって日常美学には大きく分けて二つの立場があるとされます。
 
一つめの立場は日常の中の平凡な側面に注意を向けるべきだという立場です。例えばフィンランドの美学者オッシ・ナウッカリネンは日常美学がまさに「日常」を論じるものであろうとするならば、パーティなど日常の中の特別な経験を無視すべきではないものの、中心的に論じられるべき事柄は平凡な、まさに我々の日常の核を作り上げている家事や仕事などのルーティン的な活動がもたらす美的経験だと述べます。
 
二つめの立場は日常の中の特別なものに注目するべきだという立場です。例えばアメリカの美学者トーマス・レディは日常生活はそれ自体では平凡なものにもかかわらず、そこに非凡なものを見出す芸術家をモデルとして、日常美学を構築し、平凡なものが特別なオーラを纏うことで非凡なものへと変容することを通じて初めて「美的」と呼ぶ経験が生じると考えます。
 
ここから一方で日常の安定性に目を向けるとそれは美的経験なのかという問題が生じ、他方で美的経験の特別さを強調すれば今度はそれは日常の話になるのかという問題が生じてしまうことになります。これは日常美学に常について回るディレンマであるといえます。
 

* 世界を制作するということ

 
このように日常美学という分野は決して一枚岩ではありません。とはいえ、いずれの立場を取るにせよ日常美学に共通する理論上のスタンスとして「世界制作」への参加という側面を捉えようとすることが挙げられると本書はいいます。
 
ここでいう「世界制作」とは文字通り世界をつくるということを意味しています。先述した『日常美学』の著者であるサイトウは我々は一人一人みなが世界の製作者であり、地道な毎日のなかで我々の感性の働きが意外にも世界のありかたを決めていると考えます。
 
その一方でサイトウはそもそも日常のなかでの感性の働きを捉えることばさえ我々はまだ十分に手にしていないと考えており、そのため芸術や自然だけではなく日常についての美学的言説の充実を訴えてます。そして本書の議論もまた「家(的な場所)」での日常生活における感性の働きを様々な側面から眺めていくことで日常についての美学的言説の蓄積をしていくための試みであるといえます。
 
一人一人の感性が知らず知らず世界のあり方を決めているということ。こうした「世界制作」という観点からいえば日常美学はすべての人の人生に深く関わってくる領域であり、そこには現代における「日常」を生きる上での倫理的作用点を見出すことができるでしょう。
 
例えば東浩紀氏は『訂正可能性の哲学』(2023)においてルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」の条件である「訂正可能性」という観点から、ハンナ・アーレントが人間の営為として取り上げる「活動」「制作」「労働」という三区分のうちの「制作」に注目し、アーレントが「人間の条件」であるとした「活動」に「訂正可能性」をもたらすものとして「制作」を位置付けています。
 
また宇野常寛氏は『庭の話』(2024)において國分功一郎氏が『暇と退屈の倫理学』(2011)で提唱した「消費」から「浪費=贅沢」への転換という戦略を更新し、SNSに代表されるプラットフォーム上で展開される終わりなき「相互評価のゲーム」に支配された現代の情報環境を内破するための起点を人間外の事物が蠢く場である「庭」における事物の「制作」に見出しています。
 
このように現代社会における倫理的作用点を「制作」というキーワードに求めるのであれば「世界制作」への参加を志向する日常美学からは、この何でもない平凡な日常という名の「言語ゲーム」の中に「訂正可能性」をもたらし、様々な事物が蠢く「庭」へと変容させていくための深く豊かな知見を学ぶことができるのではないでしょうか。