*「読書」における「教養」
昨年のベストセラーとなり今年度の新書大賞を受賞した三宅香帆氏による『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)は近代日本社会の「読書」と「労働」の関係を俯瞰した上で現代において「読書」は「労働」にとっての「ノイズ」となったと論じています。
同書によればそもそも日本において「労働」と「読書」は共に明治期に近代化の産物として生じた概念です。四民平等がいちおうの原則となり、職業選択の自由やや居住の自由が認められたことで、当時の多くの青年たちは田舎から都会へ出て身を立てて名を上げる「立身出世」の野心を抱いていました。
こうした中、西洋の偉人達の立身出世物語を集めた『西国立志編』という本が一大ベストセラーになります。同書において反復される「身分や才能によらず自助努力で成功できる」という「修養」の思想は現代における「自己啓発」の源流といえるでしょう。このような「修養」の思想は明治期に創刊された『成功』や『実業之日本』といった雑誌によって労働者階級に広がっていきます。
そして大正期になると全国的な図書館の増設や出版界における再版制(再販売価格維持制度)の導入や高等教育の拡大により読書人口は爆発的に増加します。こうした中、エリート学生の間では労働者階級における「修養」と差別化を図る形で「教養」を重視する思想が流行するようになりました。
ここでいう「教養」とは人格を涵養するための主に人文的な知識を指しています。換言すれば「教養」を得るための「読書」とは「労働」には一見役立たない「ノイズ」としての「読書」であるともいえそうです。しかしながらこのような「教養」を至上のものとする「教養主義」がある時期の日本社会における「読書」を支えていました。
そうであれば、現代における「読書」と「労働」の関係を考える上で「教養」は極めて興味深い立ち位置にあるといえるでしょう。かつてエリート学生文化として勃興した「教養主義」はなぜ栄え、なぜ没落していったのでしょうか。本書『教養主義の没落』はこうした「教養主義」の栄枯盛衰を鋭利な洞察とユーモラスな語り口で描き出していく一冊です。
* 教養主義とマルクス主義
本書の序章「教養主義が輝いたとき」では本書の著者である竹内洋氏が京都大学に入学した1961年(昭和36年)当時の大学生の日常が素描されます。当時の大学には旧制高校時代の雰囲気がまだ残っており、学生文化のなかでは「教養主義」が(少なくともタテマエとしては)支配的地位を占めており、大学生の本分はやはり「読書」だったようです。続いて1章「エリート学生文化のうねり」と2章「50年代キャンパス文化と石原慎太郎」ではこうした「教養主義」がいかに成立したかが概説されています。
本書によれば教養主義は明治30年代ごろから旧制高校のキャンパス文化のなかに胚胎し、その傾向は明治40年代になるとさらに顕著となったとされます。このような教養主義の伝導者として東京帝国大学講師ラファエル・ケーベルや、その影響を受けた阿部次郎や和辻哲郎の名が挙げられます。1914年(大正3年)に公刊された阿部の著作『三太郎の日記』は「教養主義」のバイブルとされ、旧制高校におけるエリート学生文化として大正教養主義が勃興しました。
もっとも、このような旧制高校的教養主義は当時次第に勢いを得てきたマルクス主義と無縁ではなく、しばしば両者は双生児の関係にありました。ロシア革命と米騒動の影響によって1918年(大正7年)末に東京帝国大学に社会主義思想を啓蒙する「新人会」が発足し、その一年後に「森戸事件」が起きています。
この「森戸事件」というのは東京大学経済学部助教授である森戸辰男が『経済史研究』第1巻第1号に「クロポトキンの社会思想の研究」という論文を発表したところ、当局が「朝憲を紊乱」「国体に反する」などという理由で同誌を回収し、森戸を禁錮3ヶ月、罰金70円の刑に処しました。これは日本最初の赤化帝大教授処分であるといわれます。この事件は帝国大学教授の「赤化」として当時の新聞に大きく報道されました。しかし報道されればされるほどクロポトキンの原書の注文は増え、マルクス主義の威信は高まっていきました。
こうして新人会の運動とオルグにより、陸続と高校や大学に社会思想研究会が立ち上がり、ロシア革命(十月革命)5周年記念日となる1922(大正11年)11月7日には大学、高校、専門学校の社会科学研究会の全国的組織である学生連合会が発足し、同連合会は2年後には秘密結社H・S・L(高等学校連盟)と合流し学生社会科学連合会となります。また1927年(昭和2年)には女子学生による社会科学研究の横断的組織である女子学連が結成されます。
* 教養主義における象徴的暴力
そして昭和に入るとマルクス主義はジャーナリズム市場を席巻し、旧制高校を中心とする「左傾学生」の増加は社会現象にもなりました。もっともマルクス主義を呼び込む文化的条件としてそれまでの教養主義が呼び水となったことは確かであると本書はいいます。
当時、マルクス主義はドイツの哲学とフランスの政治思想とイギリスの経済学を統合した最先端の社会科学とされ、いわばマルクス主義は教養主義の上級篇として見做されていました。また当時の左傾学生がマルクス主義に見出していた倫理的ストイシズムも教養主義の根底にある人格主義と連続していました。
さらに本書はマルクス主義が当時の学生を魅了した理由して、教養主義からマルクス主義に移行することによって教養主義空間の中で「象徴的上昇感」を得ることができたという点を指摘しています。というのはある人が教養主義を内面化すればするほど、より学識を積んだ者から行使される教養はその人に「勉強不足」という劣等感をもたらす「象徴的暴力」として作用していたからです。
ところがマルクス主義へのコミットメントはこうした教養主義空間における劣等感を一挙に解除することを可能としました。マルクス主義という象徴的武器を用いることで教養主義は観想的であり、ブルジョア的であり、プロレタリア革命の敵対的分子であると決めつけることが可能となり、教養主義空間における象徴的暴力関係の逆転がもたらされることになります。
このように教養主義を蔑むための理論的砦ともなったマルクス主義はいわば教養主義の鬼子であるといえます。しかしマルクス主義が読書人的教養主義的であるかぎり、教養主義とマルクス主義の対立は教養主義空間内部の反目抗争であり、両者は反目=共依存関係にありました。このように大正末期から昭和初期の旧制高校的教養主義はいわば「マルクス主義的教養主義」であり「教養主義的マルクス主義」であったといえます。
* 昭和教養主義と冬の時代
しかしながらマルクス主義の弾圧はプロレタリア作家の小林多喜二が拷問死した1933年(昭和8年)ごろから激しさが増していき、1936年(昭和11年)に思想犯保護観察法が成立したことが契機となり、マルクス主義関係書籍の発禁や自主的絶版の時代となります。こうしてエリート学生文化からマルクス主義が強制撤去されたことで生じた空白を埋めるかたちでマルクス主義抜きの教養主義である昭和教養主義が台頭することになります。
1936年(昭和11年)から1941年(昭和16年)にかけて河合栄治郎を編者として全12巻の『学生叢書』という教養主義のマニュアル本が刊行されています。同シリーズのうち『学生と教養』は発行3年後に24刷となり『学生と生活』は発行3年後に33刷となり『学生と読書』も発行後1年で2万9000部が発行されています。『三太郎の日記』が大正教養主義のバイブルだとすれば『学生叢書』は昭和教養主義のバイブルであったいえます。
もちろん昭和教養主義は大正教養主義の単純な反復ではありません。大正教養主義では個人の人格の涵養が主眼に置かれていましたが、昭和教養主義はマルクス主義を経由しているだけあって、社会に開かれた教養主義を謳っており、人格の発展とはその内面の陶冶にとどまらず、社会のさまざまな領域の中での行為によって現れていくべきものとされていました。
もっともその後、戦時期になると大学や高等教育、専門学校教育は就学年限が短縮されたり卒業が繰り上げられたり授業が停止されたりして、大学生は在学中に戦場に送られることになります。こうした軍国主義の全面化によりマルクス主義はもちろん、教養主義も弾圧されることになり、教養主義にとっての「冬の時代」が訪れます。
そして、戦後になり教養主義の培養基たる旧制高校は廃止されることになりました。しかし教養主義は決して死んだわけではありませんでした。教養主義は新制大学を舞台にマルクス主義を同伴しながら見事復活を遂げることになります。
* 戦後における大衆教養主義
本書の3章「帝大文学士とノルマリアン」では教養主義者のハビトゥス(個人の行為の背後にある心的な習性)が考察され、教養主義を支えた刻苦勉励的農民的エートスが明らかにされます。4章では教養主義のエージェントたる岩波書店の立ち位置の考察を通じて教養主義における西洋文化志向が論じられます。
そして5章「文化戦略と覇権」では教養主義が「修養主義」「ハイカラ」「江戸趣味」といった近代日本における他のサブカルチャーとの比較が行われ、教養主義が近代日本においてなぜ覇権を持つに至ったかが論じられます。
先に述べたように戦後において教養主義は復活し、むしろかえって大衆的な広がりを見せることになりました。1950年代には戦後の教育拡大と新中間層の拡大によって「全集ブーム」や「新書ブーム」が起き「中間文化」と呼ばれる大衆教養主義が拡大しました。
* 教養主義からパンキョウへ
本書の終章「アンティ・クライマックス」ではいよいよ教養主義の終焉が描かれます。エリート学生文化としての教養主義に軋みが出てきたのが日本の高等教育がエリート段階からマス段階に入った1960年代後半です。大学進学率は同年齢の20%を超え30%に近づこうとしており、大学生の地位は大幅に低下し、卒業後の進路はそれまでの幹部候補や専門職ではなくただのサラリーマン予備軍になり始めていました。
1960年代後半の大学紛争世代は「学問とはなにか」「学者や知識人の責任とはなにか」を大学に向かって激烈かつ執拗に問いかけましたが、その裏には大学生がただのサラリーマン予備軍に成り下がってしまったことに対する不安や憤怒があったと本書はいいます。
その一方で大学紛争の10年ほど前から日本企業ではオペレーション・リサーチやマーケット・リサーチなどのビジネス技術学が導入され始め、専門知への転換による教養知の無用化を静かに宣言していました。また高度経済成長に伴う農村と都市の文化格差や西欧と日本の文化格差の消滅により教養主義を支えた刻苦勉励的農民的エートスが崩壊してしまいます。
そして教養主義が終焉する決定的要因として本書は1970年代後半以後に到来した「新中間大衆社会」の構造と文化をあげています。上流とか下流といった階級意識が溶解し「階層的に構造化されない膨大な大衆」である「中間意識」を持った「新中間大衆」におけるサラリーマン文化やエンタメ文化といった「大衆平均人文化」こそが、そこからの逸脱である「教養主義」に引導を渡したということです。かくして1980年代以降「レジャーランド」と化した大学において「教養」とは「パンキョウ(一般教養科目)」の別名となりました。
* 教養主義の没落と教養の回帰
本書は序章で既に「わたしを含めたプチ教養主義者の教養崇拝は教養主義的教養癖のきらいもあった。もっといえば、動機のかなりは不純でさえあったかもしれない」「教養知は友人に差をつけるファッションだった。なんといっても学のあるほうが、女子学生にもてた」と身も蓋もなく書いてますが、結局のところ教養主義の没落の根っこには、かつて教養が持っていたこうした機能の喪失があることは確かでしょう。
しかしその一方で本書が終章で述べるように教養の持つ機能はこうした周囲への「適応」のみならず、その他に単なる実用性を超える「超越」や、自らの妥当性や正統性を疑う「自省」という機能があることもまた確かです。こうしたことから本書は「教養の意味や機能ということになると、旧制高校的教養主義から掬い上げるべきこともある」と述べます。
2003年に刊行された本書は周知のようにシンガーソングライターの米津玄師氏が「べらぼうに面白かった」と評したことをきっかけに、今年に入り再び話題の本となりました。竹内氏は三宅氏との対談「先生、教養主義ってなぜ没落したんですか」(中央公論2025年5月号掲載)で刊行から20年以上の歳月を経た本書の予想もしなかった再ヒットに「狐につままれたような気持ちです」と述べつつ「本当の『教養』が残ったのが、今かもしれませんね」といい、続けて次のように述べています。
「かつての教養主義には邪心がありました。インテリとして認められたいとか、偉い人なら難しいことを言う必要があるとかの、立身出世と絡んだエリート文化の要素があったわけです」「でも今はそうした下心や雑念が消え、本来の柔らかな理想主義や人格主義に戻ってきたのではないか。三宅さんの『なぜ働いていると〜』はそういう層に届いたのでしょう」「先生、教養主義ってなぜ没落したんですか」より
國分功一郎氏は『暇と退屈の倫理学』(2011)において「暇と退屈」を生み出すとされる社会の「豊かさ」の条件である「贅沢」の意味をフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「浪費」と「消費」の区別から問い直しています。ここでいう「浪費」とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することをいいます。これに対して「消費」は物それ自体ではなく物に付与された観念や意味としての「記号」を消費します。ここから同書は現代消費社会に対する抵抗を「消費」とは一線を画する「浪費=贅沢」に見出しています。
こうした同書の「消費」と「浪費」の区分からいえば、かつての「教養主義」は一見、純粋に知識を受け取る「浪費」のように見えて実は「ファッション」としての「記号」の「消費」であったともいえるでしょう。そうであればむしろ教養「主義」が没落した現代において初めて「教養」という知そのものを純粋に「浪費」できる条件が整ったといえるかもしれません。
換言すれば、かつて「象徴的暴力」として作用していた「教養主義」が完全に没落したところで、純粋な知識欲を満たすものとして、あるいはアニメやゲームと同じようなエンタメとしての「教養」が回帰しつつあるということです。これがおそらく「教養」の現在地なのではないでしょうか。