かぐらかのん

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「問題」としての文学--仁平千香子『読めない人のための村上春樹入門』

* 村上春樹はむずかしい?

 
いまさらいうまでもないことかもしれませんが、現代日本人作家の中で村上春樹氏ほど特異な存在感を放つ作家はいないでしょう。発行部数1300万部のベストセラー『ノルウェイの森』(1987)をはじめとして『羊をめぐる冒険』(1982)、『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)、『ねじまき鳥クロニクル』(1994〜1995)、『海辺のカフカ』(2002)、『1Q84』(2009〜2010)など、ほとんどの長編小説がミリオンセラーになっており、氏の作品が国内の文芸市場そのものを牽引していると言っても決して言い過ぎではないでしょう。『BRUTUS』という雑誌の村上春樹特集号(2021年11月号)によれば、国内で発行された村上作品のすべてを積み上げるとその高さは1780キロメートルになり国際宇宙ステーションを通り越してしまうそうです。
 
さらに現在では国内よりもむしろ海外での人気の方が驚くべき規模になっています。村上作品はこれまで50ヶ国語を超える言語に翻訳され、その作品は英語圏やフランス語圏のみならず、中国語圏や旧ソ連圏でもベストセラーになっており、新作が発表されるやいなやその翻訳権を巡ってオークションが行われる国もあり、そこでは版権を得ればテレビのニュースに取り上げられるほどに出版社同士が版権の獲得に鎬を削っているそうです。
 
その一方で氏はフランツ・カフカ賞エルサレム賞カタルーニャ国際賞など世界的に有名な文学賞の数々を受賞し、プリンストン大学ハワイ大学を始め複数の有名大学より名誉博士号を授与されており、その文学性は世界的にも高く評価されています。英語で書かれた村上作品の研究論文は数えきれないほどあり、研究者や翻訳者が集う学会は世界中で開催されています。日本語や日本文化に関する授業を提供する大学は海外に数多くありますが、学生に日本について学ぶ動機を与えているのは多くの場合、ジブリアニメか村上文学だそうです。
 
このように世界的に見ても極めて高い市場的価値と文学的価値を併せ持つ稀有な作家が村上春樹という作家です。ところが実際に村上作品を読んでみると奇妙な世界観や突拍子もないストーリー展開や謎めいた台詞といった描写がスムーズな読解を許さないところがあり、それゆえに「むずかしい」と感じてしまう読者も少なくないようです。
 
一般的に村上氏の作風の変遷は「デタッチメントからコミットメントへの転回」として理解されています。すなわち、氏はデビュー当初は社会に対するデタッチメント(関わりのなさ)を打ち出したけれども、阪神大震災地下鉄サリン事件が起きた1995年前後から社会に対するコミットメント(関わり合い)へと転回したという理解です。
 
この理解はもちろん間違っていません。しかしこの理解から個別の作品をきれいに読み解けるわけでもありません。例えば『ノルウェイの森』は時期的にはデタッチメントに属する作品であり、実際大きくはそのようにも読めなくもないですが、仔細に見てみると同作はむしろ「デタッチメントの乗り越えを試みた作品」として、あるいは「デタッチメントからのデタッチメントを志向する作品」として読めます。
 
要するに「デタッチメントからコミットメントへの転回」は村上作品全体の説明概念としては便利ですが、個別作品を読解する上での参照枠としては必ずしも万能ではないということです。批評家の加藤典洋氏がいうように、村上作品の読解は実際のところ「むずかしい」ということです。
 
では結局のところ村上作品はどのように読めば良いのでしょうか。こうした問いに真正面から答える一冊として「自由」というシンプルなキーワードから極めて平易な言葉で村上作品を読み解いていく本書『読めない人のための村上春樹入門』を挙げることができるでしょう。
 

* 自由を生きる文学

『読めない人のための村上春樹入門』というタイトルを冠する本書は2種類の「読めない人」を想定しています。すなわち、有名な村上春樹の作品が気になっているけれど普通に日常生活が忙しくて読み始められない方と、すでに村上春樹の作品の読者ではあるけれど読み終えられていないとか、村上氏の描く世界に馴染めないとか、そもそも村上作品の良さがよくわからないと首をかしげている方々です。
 
そして本書は村上作品を丁寧に読んでいくと村上氏はデビュー以来一貫して同じテーマを扱っているということが見えてくるといいます。その一貫したテーマとは「自由を生きる」ということです。
 
「自由」をテーマにした文学というと幾分と平凡に聞こえるかもしれませんが、村上氏は「自由を得るために権力に抵抗しろ」とか「自由を得るために権力から逃走せよ」などと読者を煽ったり説教するわけでもなく、むしろ「自由を生きる」ことの困難さを描いていると本書はいいます。
 
しかし そこでは「自由を生きる」という理想の追求が断念されているわけではなく、村上氏は様々な人間の様々な側面を描くことによって彼らの何が不自由なのか、何に気がつけば彼らはその不自由を克服できるのかを読者自身が考えるための俯瞰的な視座を提供しています。こうした観点から本書は村上作品の勘所と読み方のコツを明らかにしていきます。
 

* 自由の困難性を描く文学

 
村上春樹という作家は第1作目で群像新人賞を受賞するという華々しいデビューを飾りますが、その内容も文体も既存の日本文学とは全く異なる新しい作風であったためか、国内文壇においては軽薄なベストセラー作家として冷遇されてきた時期が長く続いていました。にもかかわらず村上作品が世界的に多くの読者を獲得していったおもな理由として、彼らが村上文学の何かに「共感」したからであると本書はいます。
 
ここでいう「共感」とは対象と自分を重ね合わせることで生まれる感情をいいます。たとえ人種や年齢や性別や社会的地位が異なる作中の人物であっても、その生活や人生を追体験する中で、読者は他者の物語の中に自分自身の姿を見出すことがあるでしょう。
 
人々が物語に「共感」を求めるのは、そこに自分を理解するための手がかりがあると感じるからです。「共感」を通じて自己と他者のつながりを再発見し、人生をより深く考える機会が生まれます。そして、このような深い自己理解は「自由」を手に入れるための大きな助けとなります。
 
この点、村上作品の特徴として初期作品から一貫して描かれるのが「主体的に生きる主人公たち」の存在が挙げられます。実はこの「主体性の実践」こそが現代社会において最も困難な行動の一つであるといえますが、その理由は個人の側というよりも社会の側にあります。
 
特に村上氏が作家として注目され始めた1980年代は日本において消費社会が爛熟した時期にあたります。こうした消費社会においては個人は自由に消費しているかように見えて、その需要はマスメディアによって意図的に作り出されたものでした。さらにソーシャルメディアが普及し、生成AIが台頭しつつある2020年代の情報社会において個人は日々、虚実入り混じる莫大な情報の洪水の中で翻弄され続けているといえるでしょう。
 
このような消費社会/情報社会において「主体性の実践」としての「自由を生きる」という営みは多くの人にとって理想でありながら困難な課題になります。こうしたことから本書は村上作品の世界的人気の背景には現代社会を生きる人々の「自由」への渇望があるのではないかといいます。
 

* 自己理解のための文学

 
本書の著者である仁平千香子氏は東京女子大学の英文科を卒業後、オーストラリアの大学院に留学して村上春樹をテーマとした博士論文で学位を取得しています。オーストラリアでの研究生活で求められたものとは「科学的根拠」から思考を出発させる習慣を徹底するということであったと氏はいいます。
 
ここでいう「科学的根拠」とは「客観的事実」とも言い換えられ、さらにそこには「論理的整合性」が求められます。これらを基本原理として論文を書かない限り、どんなに独創的だと思われるアイデアでも論文の査読では「非学問的」と評価されてしまいます。
 
しかしながら仁平氏は研究生活の傍らで文学が持つ「大切な部分」に迫るには「科学的根拠(客観的事実)」や「論理的整合性」を重んじる文学研究とは「別のやり方」があるのではないかとうすうす感じており、オーソドックスな文学研究のスタイルでは捉えられない文学の「真実」がある気がしたと述べています。
 
そもそも文学は苦しみ悩む人々に寄り添い、人生と向き合えるよう背中を押す作用を持っており、文学が読まれるのは読者が登場人物に共感を覚え、他者の声に耳を傾けることで他者が自分の鏡像のように現れてきてそれを見つめることで自己理解が深まり苦悩が軽減されるからです。
 
こうした問題意識から出発する本書は「苦しみ悩む人々に寄り添い、人生と向き合えるよう背中を押す文学」として村上作品を「自由を生きる(困難さ)」という観点から読み直していきます。
 

*「問題」としての文学

 
千葉雅也氏は近著『センスの哲学』(2024)において小説を含む様々な芸術作品を鑑賞する上で作品の持つ「意味」の手前で展開される「強度=リズム」に注目しています。ここでいう「強度=リズム」は「差異」と「反復」から成り立っています。すなわち、芸術作品には一方で鑑賞者の予測を裏切る「差異」があり、他方で常に変わらない「反復」が宿っています。
そして同書は芸術が人を捉え、深く思考させるのは作品が何かしらの「問題」の複雑さ、執拗さを表現しているからであるといいます。そして「強度=リズム」という観点からいえば、このような「問題」とは繰り返し浮上してくるもの、反復するものとして現れます。
 
「問題」が変形されてさまざまな形に変奏されていくということ。そこでは何かが繰り返されて、それが色々な差異によって表現されているということです。この意味で芸術とは作り手の抱える特異的な「どうしようもなさ」を表現するものであり、そこから何らかの必然的な反復が生じてくるということです。
 
そうであれば村上作品の根底で反復し続ける「強度=リズム」とはまさに「自由を生きる(困難さ)」という「問題」であるといえるでしょう。そして氏が小説の中で打ち出すデタッチメントとかコミットメントなどといった「メッセージ」はこうした「問題」に対するひとまずの「解答」にあたります。
 
もちろん読者は氏の打ち出す「メッセージ=解答」とは異なる「別解」を考えることもできますし、さらには「問題」そのものを再設定してしまうこともできるでしょう(「批評」とはまさにこうした思考を起点にして書かれた文章です)。
 
いずれにせよ村上作品がいまも世界中で数多くの読者を魅了し続けている理由のひとつには、氏の小説が打ち出す「メッセージ=解答」以上に「自由を生きる(困難さ)=問題」を極めて高い解像度から豊穣に描き出しているという点があるのではないでしょうか。