かぐらかのん

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大本営発表と「つぎつぎになりゆくいきほひ」--辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』

* 大本営発表とは一体何だったのか

 
先の戦争における「大本営発表」といえば終戦から80年が経った今日においても「あてにならない当局の発表」のメタファーとして盛んに用いられています。2011年3月に発生した福島第一原発事故に関して経済産業省原子力安全・保安院東京電力などの発表が「大本営発表」として批判されていたことを憶えている人は多いでしょう。「大本営発表」が今も強い印象を残しているのはそのデタラメぶりがあまりに酷かったからに他なりません。
 
もっともこの大本営発表の発信元である「大本営」なる組織の実態は比較的あまり知られていないように思えます。ここでいう「大本営」とは明治における日清戦争日露戦争など戦時に際して特別に設置された日本軍の最高司令部を指しており、昭和に入ってからは日中戦争初期の1937年11月に設置され、以後太平洋戦争の敗戦まで存続していました。
 
この点、明治の大本営天皇の特旨によって首相も参加し、名実とともに日本の戦争指導の中心機関でした。これに対して昭和の大本営は敗戦の年まで首相の参加を認めず、天皇臨席の形式的な会議を開くばかりで、その実態は陸海軍の寄り合い所帯に過ぎませんでした。すなわち、陸軍参謀本部と海軍軍令部がそれぞれ事実上、大本営陸軍部と大本営海軍部を名乗り、引き続き個別に戦争を指導していました。そのため昭和の大本営は単なる表看板に等しく陸海軍を統合して運用する機能を持っていませんでした。
 
そして「大本営発表」の実務を担った大本営報道部でも事情はほとんど同じであり、やはり陸軍省新聞班と海軍省軍事普及部がそれぞれ大本営陸軍報道部と大本営海軍報道部を名乗り、個別に大本営発表を行っていました。それゆえに一口に「大本営発表」といっても、その名称は長らく「大本営陸軍部発表」と「大本営海軍部発表」に分かれており、陸海軍が共同で発表する場合も「大本営陸海軍部発表」という名称が使われていました。このふたつの大本営報道部はその後何度か改編されたものの一向に交わることはなく、両者が統合されたのはなんと太平洋戦争の敗戦3ヶ月前の1945年5月でした。
 
果たして「大本営発表」とは一体何だったのでしょうか。そして、今日において我々はその栄枯盛衰から何を学び取るべきなのでしょうか。
 

* 真珠湾攻撃大本営発表

近現代史研究者の辻田真佐憲氏は本書『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』において「大本営発表は、日本メディア史の最暗部である」といい、太平洋戦争時の大本営発表を5つの時期に分けてその変遷を追っています。まず第1期(1941年12月〜1942年4月)は、日本軍の優勢を背景に、大本営発表がもっとも正確だった時期であるといえます。
 
例えば当時「ハワイ海戦」と呼称された1941年12月8日の真珠湾攻撃は同日午後8時45分の大本営海軍部発表によってその詳細が早くも発表されています。この時に発表された真珠湾攻撃の戦果は「戦艦二隻轟沈」「戦艦四隻大破」「大型巡洋艦約四隻大破」「敵飛行機多数を撃墜撃破」「航空母艦一隻を撃沈せるもののごときもまだ確実ならず」となっています。ところがその戦果はその後、3度にわたって修正されることになります。
 
まず13日午後3時の大本営海軍部発表で「戦艦二隻轟沈」が「戦艦三隻轟沈」へと上方修正されていますが、その時の説明が「ハワイ海戦において主力艦の撃沈せられしもの三隻なりとは米側において逸早く発表せるところなるが、我が海軍においては十分慎重を期し、各方面の報告を待つてその実証を確かめたる上、今回の発表を見るに至りたるものなり」となっています。つまり米国の発表を鵜呑みにせずに慎重に精査した結果、大本営は戦果を上方修正したということです。
 
次に18日午後3時の大本営海軍部発表で真珠湾攻撃の総合戦果が発表されています。それは戦艦5隻撃沈、戦艦3隻大破、戦艦1隻中破という衝撃的な内容でした。海軍報道部が「米太平洋艦隊並に布哇方面敵航空兵力を全滅せしめたること判明せり(註:布哇=ハワイ)」と豪語したことも無理からぬことでしょう。
 
この大本営海軍部の発表は史実上でも概ね正確だったとされています。実際の損害は戦艦8隻(うち撃沈・着底4隻)で、しかもその差の1隻は旧戦艦の標的艦を現役の戦艦と誤認したものでした(もっとも米海軍はその後撃沈された戦艦を引き上げて修理し、戦線に復帰させているため、完全喪失艦は2隻のみということになります)。
 
さらに18日の発表ではなんと戦果の下方修正もされています。「八日撃沈せるも確実ならずと発表したる敵航空母艦は沈没を免れ◯◯港内に蟄伏中なることが判明せり」。上方修正とは異なり下方修正は大本営の判断ミスを認めたということになります。この頃の大本営報道部は自らのミスを認めるほど「正確な報道」を心掛けていたということです。
 

* 大本営発表の末路

 
ところが第2期(1942年5月〜1943年1月)に入ると、大本営発表の信頼性は早くも揺らぎ始めることになります。日米戦力の伯仲を受けて、日本軍は損害を隠蔽し戦果を誇張するようになります。主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失した1942年のミッドウェー海戦はその象徴として有名ですが、実際には同年後半のガダルカナル島周辺の制海権をめぐる諸海戦(第一次ソロモン海戦、第二次ソロモン海戦、サボ島沖開戦、南太平洋海戦。第三次ソロモン海戦、ルンガ沖開戦)でその傷口は大きく広がることになります。
 
続く第3期(1943年〜12月)は、大本営発表の破綻が決定的になった時期です。日米の戦力差は広がるばかりで、日本軍は何とか劣勢をごまかそうとして、時に守備隊の撤退や全滅を「転進」や「玉砕」などと言い換え、あるいは前線部隊からの曖昧な報告をそのまま大戦果として発表しました。国民もこの頃より大本営発表を疑い始め、今日における「あてにならない当局の発表」としての大本営発表のイメージはこの時期に形成されました。
 
そして第4期(1944年1月〜10月)は、第3期の状態をより悪化させた時期といえます。戦局の急激な悪化を受けて、損害の隠蔽と戦果の誇張はますます増大し、もはや取り返しがつかないものになってきます。大惨敗を大勝利として報じた台湾沖航空戦と連合艦隊が事実上壊滅したレイテ沖海戦はその象徴であり、この時期において大本営発表の信頼は地に落ちてしまっています。
 
最後の第5期(1944年11月〜1945年8月)になると、これはもう悲惨の一言に尽きます。ついに本土空襲が本格的に始まり、米軍による夜間の無差別絨毯爆撃で主要な都市は一晩で焼け野原となり、数千、数万の単位での犠牲者が続出することになります。それでも大本営は被害の程度をどうにか矮小化することに執心し、およそ10万人もの犠牲者を出した1945年3月10日の東京大空襲に至っては、被害の程度に言及すること自体を放棄してしまいます。その一方で神風特別攻撃隊に象徴される体当たり攻撃や各地守備隊の切り込み攻撃が勇ましい美辞麗句に彩られて発表されますが、もはやそれは断末魔の叫びとしかいいようがない様相を呈していました。
 

* 大本営発表はなぜ破綻したのか

 
かくして太平洋戦争の終戦時において、大本営発表と現実との乖離は恐るべきレベルに達していました。まず日本海軍の主力艦喪失数は大本営発表に従えば、空母4隻と戦艦3隻です。ところが実際に日本海軍は空母19隻と戦艦8隻を喪失しています。さらに連合軍の主力艦喪失数は大本営発表に従えば、なんと空母84隻と戦艦43隻に及びました。しかし実際のところ連合軍は空母11隻と戦艦4隻しか失っていませんでした。
 
しかも連合軍が喪失した空母11隻のうち正規空母は5隻のみで1942年の南太平洋海戦以降は1隻も沈んでいません。残りは巡洋艦改造の空母が1隻と護衛空母が5隻です。また連合軍が喪失した戦艦4隻(真珠湾で後に引き上げられた戦艦2隻は除外)は1941年12月8日の真珠湾攻撃と同月10日のマレー沖海戦の結果によるものです。つまり開戦3日目で連合軍の戦艦喪失はストップしたということです。
 
こうした損害の隠蔽と戦果の誇張は巡洋艦以下の小型艦艇、飛行機、陸上兵力などの発表にも共通して見られます。要するに数字の上でも日本海軍は連合国海軍にほとんど太刀打ちできておらず、太平洋戦争下の大本営発表はまさにデタラメ以外の何ものでもなかったということです。
 
本書は大本営発表がここまで破綻した原因として①組織間の不和対立と②情報の軽視という内的原因に加えて③戦局の悪化と④軍部と報道機関の一体化という外的原因を挙げています。
 
①組織間の不和対立について。当時の日本軍においてはまず陸軍と海軍という組織間の対立があり、軍の内部でも統帥部と省部の対立があり、さらに同じ統帥部でも例えば作戦部と情報部、あるいは作戦部と報道部が反目しあっている有り様でした。その結果、各組織に配慮したお手盛りで妥協的な内容の発表文が「自然の成り行き」で出来上がることになりました。
 
②情報の軽視について。情報とは本来、広く収集され、厳しく査定され、そして有効に活用されなければならないところ日本軍にはこの機能すべてに問題があったと本書はいいます。現地部隊から上がってきた曖昧な情報を大本営は厳しく査定することなく鵜呑みにしてしまい、その結果、蓋を開けてみれば考えられないほどの架空の戦果が積み上げられていきました。
 
③戦局の悪化について。初期のように勝利を重ねていた時は、日本軍の組織的な欠陥が露呈することはあまりありませんでしたが、やがて各地で敗退を重ねるようになるとたちまち、組織間の不和対立と情報の軽視が顕著となり、大本営発表はどんどん現実から乖離していくことになります。
 
④軍部と報道機関の一体化について。とりわけ1931年の満州事変以降、軍部の懐柔と統制に屈した報道機関が本来果たすべきチェック機能を手放して、大本営の下請けに成り下がってしまった結果、大本営のデタラメに歯止めが掛からなくなってしまいます。そして、これこそが大本営発表が破綻した最大の原因であると本書は述べています。
 
しかしそれにしても、こうして原因だけを取り出してみると、どれもこれも官公庁やJTCといった日本的な組織において、わりとありがちな事象であることに気付かされます。こうした意味で日本社会は現代においても--原発事故をめぐる一連の報道がまさに「大本営発表」と揶揄されたように--依然として「大本営発表の病理」を抱え込んでいるといえるでしょう。
 

* 大本営発表と「つぎつぎになりゆくいきほひ」

 
改めて大本営発表とは一体何だったのでしょうか。本書は大本営発表を主に次の三要素に整理します。第一は「狭義の大本営発表」です。これは1937年11月から1945年までの間、大本営報道部が「大本営発表(「大本営陸軍部発表」「大本営海軍部発表」「大本営及帝国政府発表」を含む)」の名の下に行った戦況の報道を指します。第二は「狭義の大本営発表」に連なる軍部の発表です。これは報道部員たちによる「当局談」や、講演会、座談会、ラジオ放送、省部の発表である「陸軍省発表」「海軍省発表」、現地部隊の発表である「支那派遣軍報道部発表」「東部軍司令部発表」などを指します。第三は軍部の下請けと化した新聞社などをはじめとするマスメディアによる報道です。
 
本書はこの三要素は実際の運用面では不可分であったといい「軍部と報道機関が一体化し、様々な手段を使って行った戦況の報道」を「広義の大本営発表」と呼びます。そして「狭義の大本営発表」を支えた「広義の大本営発表」こそが大本営発表の本質であり、これこそが今日まで伝わる大本営発表のデタラメぶりを生み出したといいます。
 
戦後知識人を代表する政治学者の丸山眞男は「歴史意識の『古層』」という論文で日本文化を特徴づける言葉として「つぎつぎになりゆくいきほひ」というフレーズを提案しています。ここでいう「つぎつぎ」とは「継続性」を指し「なりゆく」とは「生成性」を指し「いきほひ」と「空気」を指しています。つまり、ものごとがなんとなく自然に生まれてつながっていくという発想が日本の思想や政治を動かしてきたということです。こうした意味で軍部と報道機関が一体化した「広義の大本営発表」とは、まさに丸山のいう「つぎつぎになりゆくいきほひ」がほとんど最悪のかたちで現れた例であるといえるでしょう。
 
ところで本書の著者である辻田氏が聞き手と構成を務めた『訂正する力』(2023)において東浩紀氏はこうした「つぎつぎになりゆくいきほひ」が上手くいった例として明治維新を取り上げ、この国には「つぎつぎになりゆくいきほひ」という自然生成性や主体性のなさを肯定する風土があるとしつつも、この「つぎつぎになりゆくいきほひ」の素朴な肯定は国家主義に結びつくというジレンマがあるといいます。
そこで東氏は同書のテーマである「訂正する力」からこの「つぎつぎになりゆくいきほひ」を再解釈することで、単に過去に無責任に居なおるのでもなく、さりとて過去を全否定するのでもなく、様々な変化を受け入れつつもなお一貫性を保つことで過去と現在を繋ぎながら未来へと進む「第三の道」が開けてくるのではないかといいます。
 
こうしてみると、かつて丸山が見晴るかした日本文化の本質としての「つぎつぎになりゆくいきほひ」とは、毒と薬の両方の側面を持ったパルマコンであるといえます。そして、このようなパルマコンをうまく使いこなすうえで大本営発表が遺した教訓には今なお学ぶべきものが多いといえるでしょう。