かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「美少女ゲームの臨界点」の向こう側--『AIR』

* データベース的動物と美少女ゲーム

 
ゼロ年代批評を代表する批評家である東浩紀氏は『動物化するポストモダン』(2001)においてコミック、アニメ、ゲーム、コンピューター、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と名指した上で、こうしたオタク系文化における「シミュラークル」と「データベース」の二層構造は「大きな物語」が凋落しポストモダン状況が加速している現代における世界構造と対応しているといい、ポストモダンにおける人間像を「シミュラークル」の水準での動物的欲求と「データベース」の水準での(形骸化した擬似的な)人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付け、現代は「動物の時代」であると主張しました。
そしてこのような「データベース的動物」のモデルを構築する際に同書は当時オタク系文化の中心を担っていた「美少女ゲーム」と呼ばれるメディアの構造を参照しています。ここでいう美少女ゲームの起源は1980年代に遡りますが、1990年代後半以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となります。この種の「泣きゲー」や「萌えゲー」とも呼ばれる美少女ゲームにおいてユーザーは多くの場合、一方で主人公のキャラクターに同一化して特定のシナリオにおいてヒロインと繰り広げるウェルメイドな恋愛ドラマに没入し、他方でプレイヤーとして複数のシナリオ=ヒロインの攻略を目指すことになります。
 
ここには「データベース的動物」における「シミュラークル(シナリオ)」に没入するキャラクターレベルでの動物的欲求と「データベース(システム)」を攻略するプレイヤーレベルでの人間的欲望の解離的共存が容易に見出されます。そしてこのような特性を持つ「美少女ゲーム」というジャンルの「臨界点」を示すものとして東氏は2000年にゲームブランドKeyから発売された『AIR』という作品に注目します。
 

* 視点を変えて反復する物語

 
本作は感動に特化したシナリオが支持を集め2000年度の年間セールスが10万本を超えるヒットとなり、その後、ドリームキャストPlaystation2Playstation PortablePlaystation Vita、Nintendo Switchなど数多くのコンシュマー機へ移植され、iOSAndroidにおいてスマートフォンアプリとしてもリリースされた美少女ゲームの名作です。2005年に本作を原作として京都アニメーションによって制作されたTVアニメもまた高く評価されています。
 
本作原作ゲームは三部構成となっています。まず第一部「DREAM」では「空のどこかにいる翼の生えた少女」を探して放浪を続ける法術使いの青年、国崎往人と海辺の田舎町で出会った少女達とのひと夏の交流譚が描かれます。
 
本作のメインヒロインである神尾観鈴は母親と死に別れ、叔母である神尾晴子の元に預けられています。観鈴は誰かと仲良くなれそうになると癇癪を起こしてしまう不安発作を抱えながらも、往人と出逢ったこの夏を特別なものにしようと健気に無理を重ねます。やがて観鈴は原因不明の病で倒れてしまい、往人は観鈴をどうにか延命させるべく全ての法術の力を使い果たし消滅してしまいます。
 
続く第二部「SUMMER」では、一転して1000年前の夏の出来事が描かれ、観鈴はまさに往人の探していた「最後の翼人」である神奈備命の転生体であり、観鈴の病の正体は神奈にかけられた「翼人の呪い」に由来していることが明らかになります。そして第一部を「そら」というカラスの視点で反復する第三部「AIR」では、往人の消滅後に観鈴と晴子が織りなす擬似母娘関係のドラマが描き出されます。
 

* 美少女ゲームの臨界点

本作について東氏は2004年に開催されたコミックマーケット66で頒布した『美少女ゲームの臨界点』という自費出版評論集(同人誌)における「萌えの手前、不能性にとどまること--『AIR』について」という論考で「『AIR』は「泣きゲー」「萌えゲー」といったわかりやすいレッテルとは裏腹に、実は美少女ゲームの本質を揺るがすきわめて「批評的」な作品だった」と述べています。
 
先述のように美少女ゲームのユーザーは多くの場合、一方で主人公のキャラクターに同一化して特定のシナリオにおいてヒロインと繰り広げるウェルメイドな恋愛ドラマに没入し、他方でプレイヤーとして複数のシナリオ=ヒロインの攻略を目指すことになります。
 
ひらたく言えばここで美少女ゲームのユーザーはキャラクターレベルにおいて1人のヒロインに「泣き」ながらも、同時にその裏ではプレイヤーレベルにおいて複数のヒロインに「萌え」ていることになります。そして同論考によれば本作の批評性とは、こうした「泣き」の裏に「萌え」があるという、ある意味で矛盾した態度から目を背け続ける「自己欺瞞」を抉り出したところにあります。
 
この点、同論考において氏は本作のあらすじを概観した上で「『AIR』は物語としては、父の不在あるいは無能力の上で新しい「家族」の構築を試み、そして失敗する作品だと要約できる」としつつ「しかしこの作品で真に重要なのは、シナリオのレベルで強調されるこの「父の不在」のテーマが、システムの工夫の利用して、「プレイヤーの不在」というもう一つのテーマと重ねられている点にある」といいます。
 
すなわち、本作ではその第一部において主人公は観鈴を延命させた代償として物語からの退場を余儀なくされます。ここでプレイヤーはまずキャラクターレベル(=オブジェクトレベル)で物語から疎外されることになります(父の不在)。さらにその第三部においては主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかありません。ここでプレイヤーはプレイヤーレベル(=メタレベル)においてAIRというゲームそれ自体からも疎外されることになります(プレイヤーの不在)。
 
こうしたAIRにおける「父の不在」と「プレイヤーの不在」という異なるレベルにおける二重疎外は本来的な美少女ゲームのユーザー体験である「泣き」の裏に「萌え」を密輸入するという「自己欺瞞」を抉り出し「萌えの手前」にある「不能性」をユーザーに突き付けることになります。それゆえに氏は本作を「特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう」という「批評的=臨界的」な「美少女ゲームの臨界点」に位置する作品であるとします。
 

* 安全に痛い自己反省パフォーマンス

 
このように本作はシナリオとシステムの二層構造を逆手に取って批評的介入を試みる東氏のいうところの「メタ美少女ゲーム」としての側面を持っていることは確かです。しかしその一方で本作もやはり「美少女ゲーム」が抱え込むジャンル的制約から完全に逃れることは出来ていないこともまた確かです。例えば宇野常寛氏はそのデビュー作『ゼロ年代の想像力』(2008)において本作を次のように極めて辛辣に評価しています。
同書はポストモダン状況の加速により社会をまとめ上げる「大きな物語」が失墜が自明となったゼロ年代とは「究極的には無根拠を承知であえて中心的価値観を選択」するという「決断主義」が前面化した時代であるとして、こうした「決断主義」の前面化に伴う「価値観の不透明な世の中に耐えるため、あなたひとりだけ(特定の共同体だけ)には完全に承認されたい(所有したい)」という「所有」の欲望がもたらす暴力を問題にします。
 
そこで同書は東氏が上記論考などで展開した「美少女ゲーム擁護論」を「「所有」の自己反省が作品に批評的視点を与え、強度を生むという主張」であるといい「この着眼点自体は、むしろ東浩紀が極めて正確に、戦後サブカルチャーのクリティカル・ポイントを把握していた証拠」であるとしつつも、その「自己反省」は実際には「反省」として機能しておらず、むしろ「マチズモ的(家父長的)」な「所有」を強化温存する「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎないものであると批判します。
 
そして『AIR』について「同作の第一部は、自分より弱い白痴の難病少女を所有し、セックスするという家父長的な欲望に忠実に設計され」つつも「第三部は、主人公の消滅(自己滅却)という回路を用いて、少女の死を傍観するしかない無力感が描かれる」が、このような「自己滅却という回路は、むしろ完成された悲劇として所有を永遠のものに強化温存する」といいます。なぜならば「「所有の達成と同時に消滅する」ことによって、「所有」の欲望自体は否定されないまま、(ユーザーに対しては)その暴力性を隠蔽することができる」からです。
 
つまり、本作における「自己反省」とは「「少女が主人公の男性を絶対的に必要とする」という、「所有」構造の根底をなす部分は反省の対象にならない」という「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎず、仮に「本当に痛い」自己反省を行うならば「往人は観鈴に絶対に拒絶されなければならない」「孤独な難病少女を所有する、という態度自体が「拒絶」されなければならない」ことになるはずですが「第三部の作用はむしろ、第一部の物語からこの拒絶という「本当に痛い」自己反省の機会を永遠に奪うためのものでしかない」ものであり「そこにはマチズモの強化温存回路しか存在しない」ということになります。
 

* 美少女ゲームと対人性愛中心主義

 
以上のように東氏は本作を美少女ゲームのユーザーが目を背けてきた「自己欺瞞」を抉り出す「批評的=臨界的」な作品であると評価しますが、宇野氏はその批評性も所詮は美少女ゲームのユーザーが「孤独な難病少女を所有する」ことを正当化する単なる「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎないものであると断じ去ります。
 
確かに美少女ゲーム美少女ゲームである限り、そこに宿るいかなる批評性も「安全に痛い自己反省パフォーマンス」の枠を逸脱することは不可能でしょう。なぜならその枠を逸脱してしまえば、その作品はもはや美少女ゲームとは呼べないからです。こうした意味で「安全に痛い自己反省パフォーマンス」という言葉は美少女ゲームというジャンルが抱え込む限界性を極めて正確かつ怜悧に表現したものであるといえます。
 
もっとも、ここまでみてきたゼロ年代における本作の評価をめぐる議論は2025年の現在からみると、ある一つの前提が自明のものとして共有されているように思われます。それはすなわち「美少女ゲームのユーザーがヒロインに抱く性的あるいは恋愛的な欲望とは、現実世界において異性ないし同性の他者に抱く性的あるいは恋愛的な欲望の代償行為に他ならない」という前提です。しかしながら少なくとも現在において、そのような前提は果たして本当に自明のものなのでしょうか?
 
例えば社会学者の松浦優氏は『アセクシュアル・アロマンティック入門』(2025)において「アセクシュアル(他者に性的に惹かれないという性的指向)」や「アロマンティック(他者に恋愛的に惹かれないという恋愛的指向)」など「Aro/Ace」と総称される性的マイノリティに光を当てていくことで、社会においてしばし自明のものとして見做されがちな「誰もがセックスや恋愛を欲望するはずだ」というセクシュアリティに関する「常識」を問い直していく議論を展開しています。
その中で同書が取り上げるものとして「対人性愛中心主義」という概念があります。これはマンガやアニメなどのいわゆる「二次元」の性的創作物を愛好しつつも生身の人間に性的惹かれを経験しないという人々の造語実践を踏まえた概念であり「生身の他者に対して性的-恋愛的に惹かれることが規範的なセクシュアリティとされること」を指しています。
 
こうした「対人性愛中心主義」という観点からいえば美少女ゲームのユーザーがヒロインに抱く性的あるい恋愛的な欲望は必ずしも現実世界において他者に抱く性的あるいは恋愛的な欲望と直結しているとは限らないといえます。
 

*「する」と「見る」の間の破れ目

 
また同書はこのようなAro/Aceという視点からメディア表現や歴史資料を読み解く方法として(Aro/Aceを自認しているかに関わらず)ある人物(キャラクター)におけるAro/Ace「的」な瞬間を拾い上げ、それがどのように描かれているか、どのように扱われているかといった点に注目するアプローチを提唱しています。
 
この点、松浦氏の論考「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向--仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」(『現代思想』2021年9月号「〈恋愛〉の現在」所収)では、実際にAro/Aceという視点から仲谷鳰氏の『やがて君になる』という作品を読み解いています。
同作は他者に恋愛感情を抱けないことに悩む小糸侑と、自分を肯定できないことで他者からの好意を受け入れられずにいる七海燈子と、七海に恋をする佐伯沙弥香との関係を描く百合漫画です。同作では「恋愛とは何か」という問いがテーマとなっており、恋愛を自明のものとして扱っておらず、作中では恋愛は誰もが当然するものだという固定観念を相対化する場面がいくつか描かれています。
 
本論考はこうした同作のテーマを考える上で槙聖司というキャラに注目します。槙は他人の恋愛を見たり恋愛相談に乗ったりするのが好きですが、自分が恋愛をしたいという欲望はなく、また恋愛感情を経験しないことを素直に肯定しています。
 
彼が好んでいるのは「舞台の上の物語」としての「役者」がする恋愛であり、それゆえに自身が他人から恋愛感情を向けられた時には「役者が観客に恋するなんて、がっかりだ そんなのはいらない 僕は客席にいてただ舞台の上の物語を見ていたい」と拒否感を露わにします。
 
ここで描かれているのは恋愛を「する」と「見る」の間にある「破れ目」であると同論考はいいます。このことは性愛規範と創作 物との関係を考える上で極めて重要な意味を持ちます。すなわち、恋愛要素のある創作物を求める欲望はしばしば漠然と「恋愛に対する欲望」として認識されてしまいます。この漠然とした認識のもとでは「恋愛に対する欲望」は「恋愛をしたいという欲望」へと両者の差異が認識されないまま還元されることになります。これに対して「する」と「見る」の間の破れ目が突きつけられるとき、恋愛は必ずしも「する」ものではないということが露わになります。
 

*「美少女ゲームの臨界点」の向こう側

 
このような『やがて君になる』という作品における「性愛を実践する営みを基準とした枠組みにもとづいて性愛/恋愛的創作物の受容者を解釈することは、ある意味で性愛規範的なのではないか」という問題提起はAIRをめぐる東氏と宇野氏の議論にも(当時の感覚からすればもちろん仕方ないとは思いますが)同様に突き刺さることになります。すなわち、現実で恋愛を「する」という欲望と美少女ゲームの恋愛を「見る」という欲望の間には明らかな「破れ目」があるにもかかわらず、恋愛とは当然「する」ものであるという性愛規範がこの「見る」という欲望を抹消しているということです。
 
そして、このような観点からいえば本作の第三部では、一方で恋愛を「する」という欲望を「安全に痛い自己反省パフォーマンス」という形であれ、ともかくも退けつつ、その向こう側に本作は他方で観鈴と晴子がおりなす擬似母娘関係を(ある種の百合的な関係性として)カラスという「不能」の視点から「見る」という欲望が迫り上がっているとも解釈できるでしょう。
 
実際、ゼロ年代中盤以降のオタク系文化において美少女ゲームと入れ替わるように一大潮流を形成した「日常系」というジャンルを支えていたものがまさにこのような「見る」という欲望です。この日常系というジャンルを美少女ゲームの側から見た時、それはいわば主人公=プレイヤーがカラスの視点からヒロインたちの日常をただただ「見る」だけの(想定上の)美少女ゲームを漫画化/アニメ化したものとしても捉えることができます。
 
このような美少女ゲームから日常系に至る想像力の連続性は本作のアニメを手がけた京都アニメーションがその後、本作と同じくKeyから発売された『Kanon』『CLANNAD』という美少女ゲームを原作としたアニメを手がけると同時に、美少女ゲーム的な想像力と日常系的な想像力がせめぎ合う『涼宮ハルヒの憂鬱』を経由してゼロ年代における日常系を代表する『らき☆すた』『けいおん!』といった作品を手がけるに至るという一連のフィルモグラフィーからも跡付けることができます。
 
いわばある面においてゼロ年代のオタク系文化における想像力のパラダイムシフトとは、美少女ゲーム的な「する」という想像力から日常系的な「見る」という想像力へのパラダイムシフトとして捉えることもできるでしょう。こうした観点からいえば『AIR』という作品における真の革新性ないし創造性とは「美少女ゲームの臨界点」の向こう側に切り開かれた「見る」という欲望を先駆的に胚胎させていた点にあったといえるのではないでしょうか。