* ポストモダンの倫理学
現代の日本社会においては「大きな物語」と呼ばれる社会的な価値基準が失墜し、様々な「小さな物語」が乱立するポストモダン状況が一層加速しつつあるといわれています。こうしたポストモダンにおける人間像について東浩紀氏は『動物化するポストモダン』(2001)において「シミュラークル(物語)」の水準での動物的欲求と「データベース(環境)」の水準での人間的欲望を乖離的に共存させた「データベース的動物」と呼び、現代を「動物の時代」であるといいます。
その一方で宇野常寛氏は『ゼロ年代の想像力』(2008)において「大きな物語」に根拠付けられることのない「小さな物語」の無根拠的かつ排他的な選択を「決断主義」と名指し、現代における想像力の課題とは様々に乱立する「小さな物語」同士が衝突することで不可避的に繰り広げられる決断主義的な動員ゲームの克服にあると論じました。
このようにポストモダン状況の加速は「大きな物語」なき「動物の時代」において「小さな物語」を「決断主義」の罠に陥らずに生きるにはどうすればよいかという問いを生み出すことになります。そしてこうした問いを巨視的かつ領域横断的に検討することで「ポストモダンの倫理学」を構想する一冊が國分功一郎氏が2011年に公刊し、ベストセラーとなった哲学書『暇と退屈の倫理学』です。
* 暇と退屈をめぐる問い
本書はまず序章において「暇と退屈」をめぐる問いを次のように構成します。人類の歴史とは大きくいえば「豊かさ」を目指して努力してきた歴史であるといえます。しかし人類が目指してきたはずの「豊かさ」が達成されてしまうと人は幸福になるどころか逆に不幸になってしまうという逆説があります。例えばイギリスの哲学者バートランド・ラッセルは『幸福論』(1930)の中で現代(20世紀初頭)のヨーロッパ諸国の若者は自分の才能を発揮する機会がないため不幸に陥りがちだけれども、ロシアや東洋諸国はこれから創造するべき「新世界」があることから世界中のどこよりも幸福であるという趣旨のことを述べています。
つまりここでラッセルが言っているのは既に成熟した社会であるヨーロッパ諸国の若者はもはやこの先にやるべき仕事が残ってないので不幸であり、これから社会を作っていくロシアや東洋諸国の若者はこれからやるべき仕事があるので幸福であるということです。
もしも仮にラッセルのいうことが正しいのであれば「豊かさ」が実現された社会において人々は不幸になることになります。そうであればむしろ「豊かさ」など初めから追求しない方がいいということになります。しかしこれは何かがおかしくはないでしょうか。人類は「豊かさ」を目指してきたのになぜその「豊かさ」を素直に喜べないのでしょうか。
そもそも「豊かさ」とは何なのでしょうか。国や社会が豊かになればそこには二つの余裕が生まれます。金銭的な余裕と時間的な余裕です。ではこのような「豊かさ」を手にした人たちはその余裕を何に使うのでしょうか。「自分の好きなことをする」という答えが返ってきそうです。けれども、その「好きなこと」とは本当にやりたかった「好きなこと」なのでしょうか。ただ「暇」を潰し「退屈」を紛らわすため、それが「好きなこと」だと見做しているだけなのではないでしょうか。そもそも、なぜ人は「暇」のなかで「退屈」してしまうのでしょうか。こうして「暇」のなかでいかに生き「退屈」とどう向き合うべきかという問いが現れることになります。
* 人間は部屋にじっとしていられない生き物である
本書は続いて第一章において「考える葦」という有名な一節で知られる17世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカルがその主著『パンセ』(1669)で展開した議論を参照し「暇と退屈」の根底にある問題を明らかにしていきます。
パスカルによれば人間の不幸はどれも「部屋にじっとしていられない」がために起きます。つまり「部屋にじっとしていられない」ゆえに人は例えばウサギ狩りをしたり賭け事をした戦争をしたりと何かしら熱中できる「気晴らし」を求めるということです。そしてパスカルは人間はこのような「気晴らし」のために追い求めているものの中に本当に幸福があると思い込んでいるといいます。
このようなパスカルの主張をより一般的に定式化するば、ここでは「欲望の対象」と「欲望の原因」の混同が生じていることになります。例えばウサギ狩りにおいて「欲望の対象」とは言うまでもなくウサギです。人はウサギが欲しいからウサギ狩りに行くとのだと思い込んでいます。しかしウサギは「欲望の対象」ではあるけれども「欲望の原因」ではありません。
この場合「欲望の原因」は「部屋にじっとしていられない」ことです。にもかかわらず人は「気晴らし」に熱中することでこのような「欲望の対象」を「欲望の原因」の混同から目を背けてしまいます。そしてそのような「欲望の対象」と「欲望の原因」の混同を分け知り顔で指摘することもまた同じく「気晴らし」であり、しかもそのような指摘をする人は自分だけはそのような混同に陥っていないと思い込んでいる分、パスカルに言わせれば「この人たちこそ、この連中のなかでもっともおろかな者である」ということになります。
* 暇と退屈の起源と展開
このように退屈は人間と切り離し難い現象であり、退屈しない人間はおらず、生きることは退屈との戦いであるとすらもいえます。では退屈はいつどうやって発生したのでしょうか。
本書は第二章において西田正規氏の「定住革命」という仮説を参照し、人が定住生活を始めた約1万年前に退屈の起源を見出しています。この仮説によればそれまで長らく遊動生活を営んできた人類は約1万年前、気候変動により定住生活を余儀なくされ、この遊動から定住へという過程は人類の行動様式を一変させる革命的出来事となったとされます。
続いて第三章では、その後の歴史の中で人間が「暇と退屈」に向き合っていったのかが特に経済史の観点から論じられます。ここで本書は日常においては漫然と混同されがちな「暇」と「退屈」をそれぞれ客観的な条件と主観的な状態として峻別した上で、改めて両者の関係を問い直します。すなわち「暇」な人間は必ず「退屈」するのか、あるいは「退屈」している人間は必ず「暇」なのかということです。
そして第四章では消費社会と退屈の関係について考察が行われます。まず本書は「豊かさ」の条件としての「贅沢」という言葉の意味をボードリヤールの「浪費」と「消費」の区別から問い直します。
ここでいう「浪費」とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することをいいます。そして物の受け取りは物理的な限界があるため「浪費」はどこかでその享受者に「満足」をもたらします。
これに対して「消費」は物それ自体ではなく物に付与された観念や意味としての「記号」を消費します。それゆえに消費に物理的な限界はなく、その享受者にいつまでも「満足」をもたらしません。つまり消費社会とは人々がむしろ「浪費」による「贅沢」することを妨げる社会であるといえます。
* ハイデガーの退屈論
第五章では本書が「退屈論の最高峰」と呼ぶマルティン・ハイデガーの退屈論が検証されます。ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』においてまず「退屈」を二つに分けて考えることを提案します。すなわち、まず「何かによって退屈させられている」という退屈の第一形式、次に「何かに際して退屈する」という退屈の第二形式です。
まず退屈の第一形式の例としてハイデガーは片田舎の駅で長時間列車を待ちながら周囲をウロウロしたり地面に絵を描いたりといった気晴らしをしている場面をあげています。次に退屈の第二形式の例としてハイデガーはパーティーで食事や会話や音楽を楽しんで帰宅した後、このパーティーで本当は退屈していたと気づく場面をあげています。
このように退屈の第一形式とは我々の外側から訪れる退屈であり、退屈の第二形式とは我々の内側から立ち昇ってくる退屈であるといえます。その意味で第一形式より第二形式の方が深い退屈であるともいえますが、退屈の第二形式もまだ気晴らしが可能な退屈です。
ところがハイデガーはここからさらに、もはや気晴らしすら不可能な最高度に深い退屈について考えようとします。それが「何となく退屈だ」という退屈の第三形式です。何となく退屈だ。なぜこれが最高度に深い退屈なのでしょうか。
この点、ハイデガーによれば先の二つの退屈は何らかの具体的な状況と関連していました。これに対してこの最高度に深い退屈は具体的な状況にかかわらず「何となく退屈だ」という声として突発的に現れ、さらにこの退屈においては気晴らしはもはや許されず、我々は退屈の声に耳を傾けることを強制されているといいます。
しかしこのような「何となく退屈だ」という最高度に深い退屈こそが人間におけるある可能性の表れであるとハイデガーは考えました。そしてその可能性とは「自由」のことに他なりません。人間は退屈できるがゆえに自由であるということです。そしてこの自由を最大限に発揮すべくハイデガーは「決断」せよと主張しました。
* 環世界と退屈
第六章ではハイデガーの退屈論の根幹をなす彼の人間観が批判的に検討されることになります。この点、動物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、ある生物が一個の主体として経験している具体的な世界像を「環世界」と呼び、全ての生物はそれぞれが異なる「環世界」を生きていると主張しました。
これに対してハイデガーは動物はある衝動に〈とりさらわれ〉ている〈とらわれ〉から世界と限定的にしか関わることができない「世界貧乏的」な存在であるが、人間はそのような〈とらわれ〉とは無縁であることから世界そのものを受け取ることができる「世界形成的」な存在であるとして、ユクスキュルのいう「環世界」は動物に対しては適用されるが、人間に対しては適用されないといいます。
しかしながら、人間もそれぞれの仕方で世界に関わっているといえます。例えば満天の星空を見上げる詩人と天文学者と宇宙物理学者がいたとすれば、彼らが眺めている星空は全く異なった風景として立ち現れているはずです。やはりユクスキュルがいうように人間も何かに〈とらわれ〉た存在であり、それぞれの「環世界」を生きていると考えるのが自然であるといえます。
ではなぜハイデガーは無理をして人間だけを特権視するのでしょうか。それは人間も「環世界」に囚われた存在でしかないとすれば、彼のいう人間は退屈することができるゆえに自由である=決断できるという主張と整合性が取れなくなるからです。
もちろん人間も動物も同じく「環世界」を生きる存在であるとしても、人間と動物はどこかやはり異なる存在であるといえるでしょう。この点、本書は生物の進化の過程とは環世界の移動が伴うことからあらゆる生物には環世界を移動する能力があるといい、人間はその他の動物に比べて極めて高い「環世界移動能力」を持っているといいます。
このように人間と動物との差異は相対的なものに過ぎませんが、同時に量的にはかなり大きな差があるといえます。このような差異にこそ人間と動物との区別が見出されることになります。
つまり人間はハイデガーがいうように世界そのものを受け取ることができるがゆえに「自由」であり「退屈」するのではなく、高い環世界移動能力を持っているがゆえに人間は「自由」であり、一つの環世界にとどまることができないため「退屈」するということです。
* 暇と退屈の倫理学
そして第七章「暇と退屈の倫理学」ではここまでに得られた知見をもとに実際に〈暇と退屈の倫理学〉を構想することになります。第五章でみたようにハイデガーは退屈の第三形式における「決断」の重要性を強調します。しかし本書はハイデガーには「決断」を行った人間が「その後どうなるか」という視点がないことを指摘します。
例えばある何かしらの「決断」をした人間がいるとします。いったん「決断」を下した以上、彼はその内容に何としても従わなくてはなりません。ここで彼は「決断」の奴隷となります。そして、その決断を実行する過程でやがて彼にはまた再び第一形式の退屈が訪れてくることになります。つまり第三形式と第一形式は一つの同じ運動の一部であると捉えることができるということです。
ここで第二形式の特殊性が際立ってきます。気晴らしと退屈が独特な仕方で絡みあった退屈の第二形式こそは退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものです。よくよく考えれば人間は普段この第二形式を生きているといえます。
ハイデガーはこうした人間の姿を否定的に描きます。けれどもこれは不当な評価ではないでしょうか。なぜなら退屈の第二形式において描かれた気晴らしとはむしろ、人間が人間として生きることのつらさをやり過ごすために開発してきた知恵であるからです。
そして、その一方で人間に残された可能性はそれだけではありません。それは辛い人間的生から外れてしまう可能性です。人間は高い環世界移動能力を持っています。それゆえに退屈し、第二形式のような気晴らしと退屈の絡みあった日常を生きています。しかしこの人間らしい生が崩れることがあります。それは何らかの衝撃によって己の環世界を破壊された人間が、そこから思考し始める時です。
この点、フランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する哲学者であるジル・ドゥルーズは思考を引き起こす契機として何かにショックを受ける「不法侵入」を挙げています。すなわち、ある人の生きる環世界に「不法侵入」してきた何らかの対象がその人を掴み離ない時、人はその対象によって〈とりさらわれ〉てしまい、その対象について思考することしかできなくなります。つまりこうした意味で人間は〈動物になること〉があるということです。
こうして本書は三つの結論に至ります。その一つ目は本書を通読することで涵養された知見を用いて自分自身の〈暇と退屈の倫理学〉を開いていくことです。その二つ目は「消費」の外部としての「贅沢=浪費」を取り戻すことであり、そのためにはハイデガーのいう退屈の第二形式の中で「楽しむための訓練」を行うということです。その三つ目は〈動物になること〉を待ち構えることです。
* 人間であることと動物になること
このように「動物の時代」において「人間」であることの条件を「贅沢=浪費」に見出すと同時に「動物」になることに発展的な可能性を見出す本書の結論は2011年の当時においてポストモダン状況の加速に伴う「決断主義」の台頭を中和するための処方箋としてひとつの到達点を示していたといえるでしょう。
もっともその一方で公刊から14年が経過した現在、本書の議論もそろそろアップデートの時期を迎えつつあることも確かです。例えば宇野氏は昨年暮れに公刊した新著『庭の話』においてソーシャルメディアに代表されるプラットフォーム上で繰り広げられる「相互評価のゲーム」が社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こしているという問題意識の下で、こうしたプラットフォームの時代を内破する拠点として事物とコミュニケーションが生じる場としての「庭」を位置付け、こうした「庭」の条件を検証する過程で本書の議論を取り上げています。
そして同書は本書の公刊当時から情報環境が劇的に変化した現在では「退屈」を克服するだけでは済まなくなった「後の」問題が生じるとして「消費」から「浪費」への回帰という戦略のさらにその先に事物の「制作」を位置付けます。そしてこのような「制作」の動機は事物の「浪費」に「満足」することなく失敗し続けることで生じるとして、このような「浪費」に失敗し続けるための場として事物とのコミュニケーションを通じて継続的な「変身」が生じる「庭」を位置付けています。
確かにいまや時代は「大きな物語」の失墜した消費社会から「相互評価のゲーム」の蔓延した情報社会へと変遷したことは疑いないでしょう。もっとも、こうした「相互評価のゲーム」も畢竟「決断主義」の罠から生じるものであり、ハイデガーのいうところの退屈の第三形式と第一形式の循環に相当するものであることは変わりはないでしょう。そうであれば、その相対化の戦略もやはりハイデガーのいうところの退屈の第二形式が起点となってくるはずです。
こうしてみると「大きな物語」の失墜から「相互評価のゲーム」の蔓延へと時代が変遷した現在において我々はいまもなお、いえいまだからこそ、プラットフォームの時代におけるエチカを構想する上で本書が展開する議論から数多くの知見と知恵を得ることができるのではないでしょうか。



