* 遅いインターネット(2020年)
⑴ AnywhereとSomewhere
宇野常寛氏は鮮烈なデビュー作となった『ゼロ年代の想像力』(2008)以降、特撮やアニメーションなどのポップカルチャー批評を通じて現代日本社会においてに求められる想像力のあり方を提示し、国内批評シーンをリードし続けている批評家の1人です。そして初の社会批評の著作となる本書『遅いインターネット』は現代の情報環境におけるオルタナティヴとして提示される「遅いインターネット」というグランドデザインのもとに、これまでのポップカルチャー批評において展開されてきた議論が改めて位置付け直されています。こうした意味で本書は氏のゼロ年代から2010年代までの集大成である一冊であると同時に2020年代における出発点となる一冊でもあります。本書が問題設定として描き出す2020年代の現実とは以下のようなものです。
イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートはグローバル化と情報化の極まった今日の世界において人々は「Anywhere」な人々(「どこでも」生きていける人々)と「Somewhere」な人々(「どこか」でしか生きられない人々)に分断されていると指摘します。
「Anywhere」な人々の典型は「カルフォルニアン・イデオロギー」を起源に持つシリコンバレーの起業家をはじめとした今日の情報産業や金融業のプレイヤーたちです。新しい「境界のない世界」を生きる彼らはグローバルな市場にイノベーティブな商品やサービスを投入することにより、いわば「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」を持つことができます(少なくともその可能性を信じることができる立場にあります)。
これに対して「Somewhere」な人々の典型は20世紀以前の製造業を中心とした古い産業に従事する旧西側諸国の労働者階級です。「境界のない世界」を生きることのできない彼らは自身の仕事を通じて「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」を持つことができません(少なくともそう実感せざるを得ない立場にあります)。
それどころか「Somewhere」な人々は「境界のない世界」の拡大により、これまで積み上げてきたスキルが秒速でゴミになるという不安にも日々晒されています。それゆえに彼らは「境界のある世界」を志向し、自らに都合の良いフェイクニュースを掻き集め、フィルターバブルの中に閉じ籠り「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」を回復しようとします。
そんなものは愚かな現実逃避でしかないと「意識」の高い「Anywhere」な人々はきっと言うのでしょう。けれども、こうした彼らの「意識の高い語り口」はますます「Somewhere」な人々のカンに触るだけでしかないでしょう。
そして、こうした「Somewhere」な人々の受け皿となるのが「民主主義」というシステムです。かくしてフェイクニュースとフィルターバブルに汚染された民主主義の機能不全が、2016年に米国で「トランプ/プレグジット」という現象を生み出したと本書は分析します。
なお日本はどうかというと、本書はこの国は世界的な「グローバル化→その反作用」というターンそれ自体に乗り遅れているというかなり辛辣な評価を下し、平成という時代を「失敗したプロジェクト」であると断じ去ります。すなわち、平成という「失われた30年」とは、政治的には政権交代可能な二大政党制の実現に失敗した時代であり、経済的には20世紀的工業社会から21世紀的情報社会への転換に失敗した時代であるということです。
そしてこうした失敗の原因を本書はテレビ/インターネット・ポピュリズムによる民主主義の機能不全にあると分析します。ここでいうポピュリズムとは、週替わりで失敗した人間に安全圏から石を投げつけるワイドショー的ポピュリズムと、特定のイデオロギーから世界を単純に友敵に切り分けるカルト的ポピュリズムです。
⑵ 現代の情報環境における民主主義の機能不全
こうして本書の立場からは「トランプ/プレグジット」に代表される世界的なグローバル化へのアレルギー反応の噴出も、平成という時代が「失敗したプロジェクト」に終わったのも、ともにその根底には現代の情報環境における民主主義の機能不全があるということになります。
ウィンストン・チャーチルがアイロニカルに述べるように、もとより民主主義は軍国主義や独裁主義など様々な政治体制と比較して、よりマシな制度であることは間違いないのでしょう。けれど、今日において民主主義という名の宗教が世界を分断し、自由と平等を圧殺する装置と化している事もまた事実であるといえるでしょう。
この点、本書は「境界のない世界」の拡大は不可避であるという前提に立ちます。そして、その変容過程において、フェクニュースとフィルターバブルの中で「境界のある世界」を夢想する民主主義の機能不全をいかに是正していくのでしょうか?このような問いに対して本書は三つの処方箋を提示します。
まず第一の処方箋は民主主義と立憲主義のパワーバランスを後者に傾けるということです。具体的には現在の違憲審査制を付随的審査制から抽象的審査制に近づけて、基本的人権をはじめとする立憲主義を擁護する体制を強化するということです。
次に第二の処方箋は情報テクノロジーを用いて新しい政治参加の回路を構築することです。それも個人が「(意識の低すぎる)大衆」でも「(意識の高すぎる)市民」でもない「(ありのままの)人間」として、選挙やデモという「非日常」ではなく生活という「日常」の中で、政治に参加する事が可能となる回路です。その例として本書は台湾の「vTaiwan」や「Join」などインターネットを介して市民が公的ルールの設定に参画するクラウドローというサービス群を挙げています。
そして第三の処方箋が本書独自の提案である「遅いインターネット」です。すなわち、それはインターネット以前の人の知的活動の基本、すなわち「読む」「書く」という根源的なレベルまで立ち戻り、ここからインターネットという言論空間を「量」から「質」へと転換させていく取り組みであるといえます。端的に言えばそれは「インターネットの育て直し」であるといえるでしょう。
当然のことながらその提案の委細に関しては様々な議論の余地もあるでしょう。けれど少なくともこの提案を支える論理は極めて堅牢に出来ているという点はここで指摘しておきたい所です。
⑶ 日常における自分の物語を紡ぐということ
この点、本書では「文化の四象限」という枠組みで議論を整理しています。

まず、本書は現代を「拡張現実の時代」であると規定します。情報テクノロジーの進化は「虚構と現実」の関係を対立関係から統合関係に変容させました。かつて虚構は「ここではない、どこか」を仮構する回路を担っていましたが、いまや虚構は「いま、ここ」を多重化する回路として機能しているということです。
こうした「拡張現実の時代」において人の欲望の重心は「他人の物語」への没入から「自分の物語」の発信へと移動することになります。そこで次なる問題は「自分の物語」をどの領域で発信するかということです。ここで同書は上図における第三象限の「日常×自分の物語」に注目します。
例えば別に仕事でもないのにフェイクニュースの拡散に熱心に従事する人々の多くは「生活」という「日常」の領域が満たされていないが為に「政治」という「非日常」の領域で仮初めの承認欲求を満たそうしているわけです。要するに問題の本質は語れるだけの「日常」がないという事に他なりません。すなわち、いま必要なのは「非日常」ではなく「日常」の領域において「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」を成立させるということです。
ここで本書は吉本隆明氏による共同幻想論を参照し、吉本氏のいう「自己幻想(個人)」「対幻想(対人関係)」「共同幻想(共同体)」という三幻想はそれぞれSNSのプロフィール、メッセンジャー、タイムラインに対応しているとして、今や問題は「(零落した)共同幻想」からの自立ではなく「(肥大化する)自己幻想」のマネジメントであるとして、いま必要なのは「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」ことにあるといいます。
そして、こうした「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」という営みに本書は「批評」という言葉を当てます。昨今のソーシャル・メディアにおいて主流をなすのは「共感」を軸とした発信です。これに対して「批評」とはこうした「共感」の外側に立つ態度です。
既存の答えを追認するだけの行為を「共感」というのであれば、新たな問いを創造する行為が「批評」であるといえます。すなわち「遅いインターネット」とは、こうした「批評」という切り口から「日常」の領域において「自分の物語」を豊かに創出するためのプロジェクトであるといえるでしょう。
* 砂漠と異人たち(2022年)
⑴ 動員の革命から相互評価のゲームへ
2020年代という時代は新型コロナ・ウィルス(COVID-19)の出現とともに幕を開けました。このコロナ・パンデミックは図らずも世界的危機が「危機そのもの(COVID-19による生命と健康への危機)」よりも、その「危機についてのコミュニケーション(COVID-19をめぐる情報がもたらす社会的な混乱)」として出現するということ明らかにしました。
こうした状況を宇野氏は本書『砂漠と異人たち』において「相互評価のゲーム」と名指しています。同書は「第一部 パンデミックからインフォデミック」において今日における「Infodemic(インフォデミック)」と名指されるような傾向は世界中がコロナ・パンデミックに踊らされる遥か以前から、すなわちSNSが普及し始めた2010年台初頭から始まっていたと述べています。
当時、一世を風靡した「動員の革命」という言葉には新聞やテレビといったマスメディアを介したトップダウン的動員ではなく、市民一人ひとりが自発的に発信するソーシャルメディアを介したボトムアップ的動員から生まれる新しい民主主義への希望が込められていました。果たして「アラブの春」から東日本大震災の反原発デモまで世界を席巻した「動員の革命」の手法はやがて市民運動だけにとどまらず、政治、経済、文化全般へと波及していきました。
しかしながら今日において、かつての希望は失望と化し「動員の革命」を可能としたSNSのプラットフォームは新しい民主主義どころか、むしろ民主主義の行き詰まりに加担しているとさえいえます。いまやSNSは一方ではフィルターバブルによって自分たちが見たいものだけを目に入れて聞きたいものだけを耳に入れることで精神を安定させたい人々にフェイクニュースや陰謀論という名の麻薬を与える装置となり、もう一方では正義の名のもとに他の誰かに石を投げる私刑の快楽を手放せなくなった人々に安価で高性能な投石機を与えています。
こうしてSNSの普及により「他人の物語」に感情移入することよりも「自分の物語」を発信して他者に承認されることに快楽を見出した人々は閉じたネットワークの中での相互評価のゲームに夢中になり、一人でも多くの他のプレイヤーの共感を獲得して自分の影響力を最大化しようとします。そこでは、ある人は経済的な集客のために、ある人は政治的な動員のために、ある人は何者でもない自分が世界に一石を投じるために--あるいは誰かに自分の価値をほんの少しだけでも認めて貰いたいために--このゲームに参加します。
そして、このような情報環境においては常に「問題そのもの」ではなく「問題についてのコミュニケーション」の方がクローズアップされて世論を形成することになります。なぜならば「問題そのもの」の解決や再設定を試みることよりも「問題についてのコミュニケーション」に対する賛否を表明した方が遥かに容易く多くの他者の共感=承認を集めやすいからです。こうして今日の民主主義においては「問題についてのコミュニケーション」ばかりが重視され「問題そのもの」を議論することが難しくなっています。
こうしたことから同書はこの閉じたネットワークにおける相互評価のゲームの外側に脱出するには、その「時間的な外部」に立ち、情報に対する「速度」の決定権を取り戻す必要があるといいます。もとより氏が以前から推進している「遅い」インターネットという草の根的な運動はこうした問題意識に根ざしていました。
けれども氏がその「遅い」インターネットという運動を本格的に実行し始めたまさにその時に世界はこのコロナ・パンデミックにより、さらに「速い」インターネットに呑み込まれていくことになります。こうした状況において「遅い」インターネットを実現するための前提として、氏はもっと根源的な人間の在り方、世界の見方のようなものを提示することが必要なのではないかと考えるようになったといいます。
そこで同書は閉じたネットワークにおける相互評価のゲームの「時間的な外部」に立つための知恵をまずは二人の先人の「失敗」の歴史から学んでいきます。その二人の先人の一人目が今日において「アラビアのロレンス」の名で知られる第一次世界大戦時に活躍したイギリスの陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンスであり、二人目が現代日本を代表する不世出の作家村上春樹です。
⑵ ロレンスと村上春樹
こうして「第二部 アラビアのロレンス問題」ではロレンスという人物の数奇で毀誉褒貶に満ちた生涯が辿られます。1988年、イギリスのウェールズ地方に私生児として生まれ、複雑な家庭環境で育ったロレンスは高い知力と強靭な精神力を持つ青年に成長します。アラブの城塞を調査したオックスフォード大学の卒業論文が高く評価されたロレンスは卒業後は考古学者の卵としての道を歩み、次第にアラブ世界の「砂漠」に魅せられていく事になります。
こうして複数回に及ぶ長期の発掘調査を通じてロレンスは若くして当時中東にもっとも精通したイギリス人の一人になっていました。そのため第一次世界大戦が勃発するとロレンスはその知識を買われ、イギリス軍の情報将校(スパイ)としてアラビア半島に派遣されることになります。当時のアラビア半島はドイツを中心とした同盟国の一角を占めるトルコ(オスマン帝国)の支配下にあり、協商国の盟主にして当時のエジプトを実質的に支配していたイギリスが侵攻を試みている地域でした。そのためイギリスはトルコからの独立の機会を狙うアラブの諸民族の蜂起を実現させる必要があり、ロレンスの任務はアラブの諸民族の反乱を焚きつけ支援することにありました。
アラビアに派遣されたロレンスはその大半を砂漠の遊牧民ペドウィンが占める反乱軍の中に現地の衣裳を身にまとい行動を共にするようになります。ロレンスの戦略はアラビア半島におけるトルコ軍の生命線であるヒジャーズ鉄道の爆破を反復することでトルコ軍の補給を妨害しつつ、その戦力の少ない部分を鉄道の防衛に集中させることにありました。ロレンスはペドウィンたちを扇動してトルコ軍の基地が置かれた戦略拠点であるアカバを攻略した後、目論見通りヒジャーズ鉄道に対する破壊活動を加速させ、シリアの首都ダマスカス占領に大きな役割を果たすことになります。
大戦後、ロレンスは砂漠の英雄「アラビアのロレンス」として時の人となりますが、その一方で彼は戦争神経症やアラブの人々を扇動したことへの罪悪感、アラブ独立をめぐる政治闘争に敗北した挫折感などからすっかり精神を病んでしまっていました。その後、ロレンスは偽名を用いて一兵卒として英国空軍に従軍する傍らで、私生活ではオートバイ、ブラフ・シューペリアを駆りスピードの快楽に取り憑かれていきます。そして1935年、ロレンスは軍を退役し本格的な隠遁生活に入った矢先に突然の事故死を遂げることになります。
今日において「アラビアのロレンス」と呼ばれるかの人物の評価は毀誉褒貶に満ちています。ある人は砂漠の英雄として信仰し、ある人は帝国主義の走狗としてアラブの人々を利用したペテン師だと罵倒します。こうした中でロレンスという数奇な運命をたどった近代人を通して20世紀という時代に人間が直面した問題を論じる試みも数少ないながらも存在します。
こうしたことから同書ははハンナ・アーレントとコリン・ウィルソンのロレンス論、そしてデヴィッド・リーンが監督した映画『アラビアのロレンス』を検証し、ロレンスの失敗は第一世界大戦という〈グレート・ゲーム〉のなかに「自己解放」を見出した結果、彼が「砂漠」をこの世界の「内部」ではなく「外部」として消費してしまったことに起因すると総括した上で、今日の情報社会において身体から切り離された精神(SNSアカウント)を用いて21世紀における〈グレート・ゲーム〉であるところの「相互評価のゲーム」に没入する現代人は誰もがロレンスのような存在であるとして、ロレンスの敗北から抽出した「ここではない、どこか(外部)」ではなく「ここ(内部)」でいかにして「砂漠」を発見できるかという問いを「アラビアのロレンス問題」と名付けました。
続く「第三部 村上春樹と「壁抜け」のこと」ではこの「アラビアのロレンス問題」を解くための手がかりを「デタッチメントからコミットメントへ」と形容される村上氏の作家人生の中から見出していきます。よく知られるように1995年前後に村上氏は「デタッチメント」から「コミットメント」へとその倫理的作用点を転換させています。この阪神淡路大震災や地下鉄サリンに象徴される1995年とは戦後日本社会が大きな転換を迎えた年であると見做されています。
「政治の季節」が終焉した「60年代末の記憶」から出発した作家である村上氏がまず打ち出したのが「デタッチメント」という態度です。それは端的にいうと例えば「マルクス主義」のような20世紀を席巻したイデオロギーによって人々を動員するビッグ・ブラザー的な「悪」からの「デタッチメント」です。このような「デタッチメント」を一つの倫理として提示した作品が村上氏の代名詞ともいえる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)であり、ここから逆算して「60年代末の記憶」を精算した作品が村上春樹を国民的作家に押し上げたベストセラー『ノルウェイの森』(1987)ということになります。
そしてあの1995年に完結した『ねじまき鳥クロニクル』(1994〜1995)において村上氏はマルクス主義に代表されるビッグ・ブラザー的な「悪」に対する「デタッチメント」からオウム真理教が象徴するリトル・ピープル的な「悪」に対する「コミットメント」へと転回します。
同作で提示されたコミットメントのモデルは歴史を物語(=他人の物語)ではなくデータベースとして捉え直すことで普遍的な「悪」に対峙する「個」の物語(=自分の物語)を読み出していくという意味で今日のインターネット的な世界観を先取りするものでした。けれどもそれは同時に陰謀論や歴史修正主義といった今日のインターネットが抱える問題を先取りするものでもありました。さらに氏がここでコミットメントの根拠としたヒロインによる承認は主人公の自己実現のコストをヒロインに丸投げしてしまうという難点を抱えていました。
こうしたことから宇野氏は村上氏の想像力はこのとき「暗礁に乗り上げ、そしてまだ帰還していない」と述べています。さらには『海辺のカフカ』(2002)『1Q84』(2009〜2010)『騎士団長殺し』(2017)といった近年の作品においてはそのコミットメントはもはや中年男性のナルシシズムの確認にまでに縮退してしまっており、肝心のリトル・ピープル的な「悪」への対峙という本来の主題を半ば放棄してしまっているといいます。
⑶ 「遅い」ランナーとして世界を「走る」ということ
そして本書の結語となる「第四部 脱ゲーム的身体」は「ランナー」としての村上春樹に対する批評でもあります。村上氏は熱心な市民ランナーとしても知られており『走ることについて語る時に僕の語ること』(2007)というエッセイ集も出版しています。
この点、本書は村上氏にとって「走る」ことは--まさに彼の近年の作品と同様に--競技スポーツとライフスタイルスポーツの中間にある--ある種の理想的な自己像を維持して確認するための行為としての--いわば「ナルシシズムスポーツ」であると位置付け、その上で村上氏とは別の仕方での「走る」主体として「遅い」ランナーというべき主体を提案します。
ここでいう「遅い」ランナーとはタイムを気にすることなく走ることに疲れたら休むランナーであり、すなわち、それは相互評価のゲームから降りた主体であり、かつそれでいながら人間を世界から切断する「速さ」の呪縛からも逃れて「遅さ」を受け入れることで世界に開かれている存在を指しています。
もちろん本書のいう「走る」とは単なる比喩に過ぎません。すなわち、真の意味での「自立」を果たす上で重要な条件とは、その「遅さ」によってこの世界に「移住者」のように接して歴史に「見られる」ことであり、そしてその「遅さ」により生じる自己変容を受け入れた時に、人は初めて住み慣れた街の中に時間的な外部としての「砂漠」を発見することができるということです。
ここで本書は空間的内部の中に時間的外部を見出すための三つの具体的実践を提案しています。その第一の実践は人間以外の事物に触れることです。すなわち、相互評価のゲームがもたらす承認への中毒を解毒するためにはまず事物と「虫の眼」でコミュニケーションすることで孤独に世界に接する時間を回復する必要があるということです。そして、ここで大事なのは事物の「消費(事物を単に受け取り用いること)」ではなく「愛好(事物に対して独自の問題を設定し探求すること)」であるといいます。
続く第二の実践は人間以外の事物を「制作」することです。人は「虫の眼」をとりわけ事物(作品)を「制作」するときに発揮することができるということです。そして第三の実践は「制作」を通じて他者と接することです。すなわち、人間そのものではなくその人が制作した事物(作品)とのコミュニケーションに注力することで人間同士の相互評価のゲームとは異なるチャンネルでの対話が可能になるということです。
ここから本書は様々な事物とのコミュニケーションが発生する場を「庭」という比喩で捉えています。こうして「遅い」インターネットという環境が支援する「日常×自分の物語」と「遅い」ランナーという主体が見出す「砂漠」は「庭」という比喩によって統一的に把握されることになります。
* 庭の話(2024年)
⑴〈グレート・ゲーム〉の二重構造
昨年12月に公刊された氏の新著である本書『庭の話』では『砂漠と異人たち』の最後に見出された「庭」というテーマを様々な角度から思考する一冊です。
本書が提示する問題の所在は次のようなものです。『砂漠と異人たち』でも述べられているように今日の人類社会はソーシャルメディア上で展開されているユーザー間の情報発信による相互評価の連鎖と、その結果としての世論形成が支配的な力を持っています。それはいわば全てのプレイヤーが参加する「相互評価のゲーム」に他なりません。今日の情報発信においてあらゆるユーザーは受信者であると同時に潜在的な発信者でもあります。そしてこの時ユーザーには自己の発信に他のプレイヤーから反応を得るインセンティヴが多かれ少なかれ発生します。
つまり誰もが他のユーザーからのリアクションを潜在的に期待しているということです。そしてこのような相互評価のゲームによるインスタントな承認中毒という人類が覚えた新しい「麻薬」の効果を用いて政治的、経済的な「動員」が行われた結果、民主主義という制度が迷走をはじめていると本書はいいます。
この30年のあいだに冷戦からパクス・アメリカーナへ、そしてその崩壊へと時代は移ろい、いまや人類社会の最上位レイヤーはローカルな国民国家からグローバルな市場へと変化し、そして世界を変える究極の手段はそのローカルな国民国家の法を選挙や革命で変える政治から、グローバルな市場にイノベイティヴな商品やサービスを投入する経済へと移行しました。
そしてこのようなローカルな国家からグローバルな市場への移行に対するアレルギー反応として本書は2016年に顕在化したトランプという固有名詞とプレグジットと呼ばれる事件を位置付けます。ここには『遅いインターネット』でも述べられている「Anywhere」な人々と「Somewhere」な人々という大きな分断を見出すことができます。
そして本書はこうした従来の議論から引き継いだ「相互評価のゲーム」による承認中毒と「Anywhere」な人々と「Somewhere」な人々の分断という論点を〈グレート・ゲーム〉の二重構造という観点から統合的に把握します。
今日の世界は巨大なひとつのゲームとして捉えることができます。そしてこのゲームは二層に分かれた構造を持っています。それは「Anywhere」な人々のプレイするグローバルな金融資本主義というゲームと「Somewhere」な人々がプレイするローカルな相互評価のゲームです。そしてこの相互評価のゲームのなかでもっとも低コストで強い承認を得られる人気のプレイスタイルこそが「民主主義」です。
何より重要なのは「Somewhere」な人々がプレイするローカルな相互評価のゲームが、より上位の「Anywhere」な人々のプレイするグローバルな資本主義というゲームの一部として提供されている点にあると本書はいいます。「Anywhere」な人々は「Somewhere」な人々の承認への欲望を可視化し、彼らのプレイする相互評価のゲームによって収益を上げる構造を作り上げており、その構造こそがソーシャルメディアに代表されるプラットフォームに他なりません。
つまり下位のゲーム(相互評価のゲーム)の設計者を兼ねたメタプレイヤーたち(「Anywhere」な人々)はこのゲームをプレイすることを自己目的化したプレイヤーたち(「Somewhere」な人々)を動員して収益を上げ、上位のゲーム(金融資本主義)をプレイしているということです。これがグローバルなゲームの二重構造です。そして本書はこの構造は21世紀に出現した新たな現象ではなく、ある意味では古くて新しい問題であると述べます。
20世紀を代表する政治哲学者の一人であるハンナ・アーレントは1951年に公刊した『全体主義の起源』で19世紀後半以降の帝国主義拡大の原動力を〈グレート・ゲーム〉を自己目的化してゲームそれ自体への没入した当時のヨーロッパ人の精神性にあったといいます。そして本書はこのような帝国主義の末期から100年を経た今日のプラットフォーム上の相互評価のゲームをプレイする人々の多くもまた、おそらくアーレントのいう〈グレート・ゲーム〉に没入した植民地下のヨーロッパ人と同じ状態にあるといいます。
「Somewhere」な人々は現在の承認を求めて相互評価のゲームをプレイし「Anywhere」な人々もまた未来の評価(株価)を求めて金融資本主義のゲームをプレイしています。すなわち、ここでアーレントのいう〈グレート・ゲーム〉は今日の情報技術と金融資本主義の結びつきの中で二重化されているということです。
アーレントが『全体主義の起源』で示したのはこのようなゲームの自己目的化が人間とその社会を決定的に愚かにするという事実でした。そして今日における相互評価のゲームもまた多くの場合、世界における問題そのものや事物そのものを思考することよりも二項対立に単純化された問題についての賛否をめぐるコミュニケーションが重視され、その結果閉じたネットワークの内部でシェアされる情報は多様性を失っていき、承認だけが延々と交換されていくことになります。
こうした相互評価のゲームに支配されたプラットフォームの時代を内破する方法について考えることが本書の主題となります。そしてその方法は「庭」という比喩によって語られます。
⑵ なぜ「庭」なのか
ではなぜ「庭」なのでしょうか。プラットフォームには人間間のコミュニケーションしか存在しません。しかし「庭」は異なります。「庭」は人間外の事物であふれる場所です。草木が茂り、花が咲き、そしてその間を虫たちが飛び交います。「庭」にはさまざまな事物が存在し、その事物同士のコミュニケーションが生態系を形成しています。しかし同時に「庭」とはあくまで人間の手によって切り出された場です。完全な人工物であるプラットフォームに対して「庭」という自然の一部を人間が囲い込み、そして手を加えた場は人工物と自然物の中間にあります。
だからこそ人間は生態系に介入し、ある程度まではコントロールできます。しかし完全にコントロールすることはできません。「庭」とはその意味で不完全な場所です。しかし、だからこそプラットフォームを内破する可能性を秘めています。つまり問題そのもの、事物そのものへのコミュニケーションを取り戻すためにはいまプラットフォームを「庭」に変えていくことが必要であると本書はいいます。
「庭(ニハ)」という言葉はかつては現代における「場」と同じ意味で用いられていたそうです。例えば狩りの場は「狩庭」、漁労の場は「網庭」、稲作の場は「稲庭」といった具合にです。共通するのはそこは人間が何かの事物とコミュニケーションを取るための場所であったということです。この性質は今日の主に鑑賞を目的に造られる庭にも引き継がれています。そして庭が「場」を示すものから「観る」ためのものに変化したとき「庭」はそこに暮らす人々の世界観を象徴的に表現するものとして機能するようになります。
本書は世界最古(平安時代末期)の造園指南書ともいわれる『作庭記』に記された造園の基礎となる心得を引き、その内容を本書の文脈に即して次のように述べます。まず「庭」とはその家屋の置かれた地形に基づいて造られた実際の自然のミニチュアであるということ、次にその造形には造園家や家主の世界観が反映された作品であること、そして最大の参照先はさまざまな土地に実在する景勝地であるということです。つまり『作庭記』における「庭」とはまずその土地の個性を引き出し、そこに人間のメッセージを、他の場所に存在する自然の生み出した美を掛け合わせることで表現されるものであるということです。
かつてのバロック庭園が人間理性を体現し、園林が桃源郷を体現したように、人類の歴史のなかで「庭」とはその時代の人間が考える理想の世界象を体現する場として造られてきました。そこで本書はいまこの時代にあるべき「庭」とは何かを問います。
⑶ 庭の条件から人間の条件へ
言うまでもないことかもしれませんが、ここでいう「庭」とは「やっぱり庭のある暮らしはいいね」とか、そういう類の話ではもちろんありません。本書では「庭」という比喩により、人と事物の関係性をいかにデザインし直すかという問題が論じられます(もちろん文字通りの「庭」をつくる上でも本書はかなり参考になるでしょう)。
本書ではジル・クレマンの「動いている庭」、エマ・マリスの「多自然ガーデン」、岸由二氏の「小網代の森」、鞍田愛希子氏の「ムジナの庭」、鞍田嵩氏の民藝論、伊庭崇氏のパターン・ランゲージ論、國分功一郎氏の退屈論/中動態論、そして吉本隆明氏の共同幻想論/自立論といった様々な領域における実践や理論を参照しつつ「庭」の条件が論じられます。その条件とは次のようなものです。
まず「庭」とは第一に人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に人間がその生態系に関与できるが、完全に支配することはできない場所である必要があります。
そしてここでは人間が事物に対して「受動的な存在」になる時間が生まれる場所である必要があり、さらにそこは「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」にする場所でなければならないとされます。このような「庭」において人は事物とのコミュニケーションを通じて疑似的な「変身」を遂げることになると本書はいいます。
もちろん「庭」の条件はひとつの場所ですべて満たされる必要はなく、むしろいくつかの機能を持つ「場所」の複合体としての都市があり、そのなかにどれだけこの「庭」の条件をある程度満たす場所を作ることができるかが問われます。
そして、共同体における「である」ことへの承認からも、市場における「する」ことへの評価からも共に切断された「自立」の回路を本書は事物を「制作」することに見出し、ここから「庭の条件」を機能させるための「人間の条件」をアーレントが1958年に公刊した『人間の条件』で示した「労働」「制作」「行為」という人間の活動における三つのカテゴリーのアップデートが「制作」を軸として試みられることになります。
以上のように「遅い」インターネットから出発し「遅い」ランナーを経て「庭」に至る一連の社会批評は現代における「民主主義の機能不全」という「政治」の問題を扱うものであると同時に現代における「人間の条件」という「文学」の問題を扱うものでもあるといえるでしょう。そして、こうした「政治と文学」の問題は氏がデビュー以来展開するポップカルチャー批評においてもさまざまな角度から論じられています。
* ゼロ年代の想像力(2008年)
⑴ ノートの中央に1本の線を引く
ゼロ年代を代表する批評家である東浩紀氏は代表作である『動物化するポストモダン』(2001)において現代のオタク系文化における「シミュラークル(二次創作物等)」と「データベース(萌え要素等)」の二層構造はポストモダンにおける世界構造に対応しているといい、 さらにこのような「シミュラークル」と「データベース」の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた「シミュラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望に二層化されていると主張しました。
そこで同書は当時オタク系文化の中心を担っていた美少女ゲーム(ノベルゲーム)のユーザーを範例として「シミュラークル」の水準での動物的欲求と「データベース」の水準での(形骸化した擬似的な)人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けました。
周知の通り動ポモは幅広い反響を巻き起こし、ゼロ年代日本におけるポップカルチャー批評を強力に牽引することになりました。しかしその一方で同書に対しては、オタクの消費行動を過度に一般化しているとか、あるいはオタクの消費行動の実態を捉えていないとか、さらにはデータベース理論そのものが妥当ではないなどといった批判が向けられてもいました。こうした中で動ポモに向かって決定的な批判の矢を放ったのが宇野氏のデビュー作である『ゼロ年代の想像力』です。
本書はゼロ年代、つまり2000年から2008年ごろまでの国内文化、とりわけ小説、映画、漫画、テレビドラマ、アニメーションなどの「物語」に着目し、その想像力の変遷を追う一冊です。その目的は「まずは90年代の亡霊を祓い、亡霊たちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の「いま」と正く向き合うこと。そして最後に来るべき10年代の想像力のあり方を考えること」にあります。
続いて本書は「かつて村上春樹がそうしたように、私もまずノートの中央に1本の線を引こうと思う」と宣言し、その右側には1995年から2001年ごろまでこの国の文化空間で支配的だった「古い想像力」が位置付けられ、その左側には2001年ごろから芽吹き始めた「現代の想像力」が位置付けられることになります。このような本書のいう「古い想像力」と「現代の想像力」とはそれぞれ1995年頃と2001年頃に生じた社会像の変化に対応しています。
⑵ 古い想像力としての新世紀エヴァンゲリオン
日本国内においては1970年代以降、消費社会の浸透とそれに伴う社会の流動性上昇により、社会全体をまとめ上げる「大きな物語」が機能不全に陥る「ポストモダン状況」が進行しつつありました。ここでいう「大きな物語」とは伝統や戦後民主主義といった国民国家的なイデオロギー、あるいはマルクス主義のように歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系のことを指しています。
言うなれば1970年以降この国の社会は「モノがなくても物語(生きる意味、信じられる価値)のある社会」「不自由だが暖かい(わかりやすい)社会」から「モノがあっても物語のない社会」「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」へ徐々に変化してきたということです。そして1970年代以降の国内においてもっともこのポストモダン状況が進行したのが1995年前後であるとされています。
本書によればこの1995年前後の変化は「政治(平成不況の長期化による経済成長神話の崩壊)」の問題と「文学(地下的サリン事件に象徴される社会不安の前景化)」の問題という二つの意味において性格づけられることになります。こうしたことから90年代後半は戦後史上もっとも社会的自己実現への信頼が低下した時代として位置付けられ、その結果「〜する」「〜した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく「〜である」「〜ではない」こと(状態)をアイデンティティとする考え方が支配的になると本書はいいます。
このような90年代後半的な社会的自己実現への信頼低下を背景とした想像力が本書のいう「古い想像力」です。その代表として本書は1995年に放映された『新世紀エヴァンゲリオン』を挙げています。同作においては「〜する/した」という社会的自己実現ではなく「〜である/〜でない」という自己像(キャラクター)の承認によるアイデンティティの確立が選択され、さらに「何がを選択して誤る(他者を傷つける)くらいなら何も選択しない」という否定神学的な倫理が打ち出されています。このような同作が描きだした「引きこもり/心理主義」という傾向と「〜しない」という倫理が本書のいう「古い想像力」の二大特徴です。
⑶ データベースからコミュニケーションへ
けれども2001年前後、この「引きこもり/心理主義」的モードは徐々に解除されていくことになります。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ、小泉政権による一連のネオリベラリズム的な「構造改革」路線、それに伴う「格差社会」意識の浸透などを背景として「引きこもっていると殺されてしまう(生き残れない)」というある種の「サヴァイヴ感」ともいうべき感覚が社会に広く共有され始められたと本書はいいます。
こうした現実を前に人々はもはや歴史や国家といった「大きな物語」に根拠づけられない(究極的には無根拠である)「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していくことになります。そうでなければ「政治」の問題として生き残れないし「文学」の問題としてはそもそも「何も選択しない」という立場は論理的に成立しません(それは単に「何も選択しない」という「小さな物語」を選択しているに過ぎないからです)。
こうしたことからゼロ年代においては「サヴァイヴ感」を背景として生き残るために究極的には無根拠であることは織り込み済みで「あえて」特定の価値を選択するという「開き直り/決断主義」的な傾向を体現する作品が前景化することになります。これが本書のいう「新しい想像力」です。
このような「新しい想像力」を象徴するゼロ年代の作品として2003年から2006年にかけて週刊少年ジャンプで連載された『DEATH NOTE』を挙げています。そして同作自身がまさにそうであったように決断主義という不可避の困難をいかに克服するかが「ゼロ年代の想像力」における課題なのであるといいます。
こうした観点から本書は東氏が「現代の想像力」として取り上げるゼロ年代初頭に一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる作品群を「引きこもり/心理主義」の系譜に属する「古い想像力」であると断じます。さらに本書はポストモダンの世界構造として東氏のいうデータベースモデルの妥当性自体は認めつつも、東氏はデータベースから生成される「小さな物語」同士の関係性=コミュニケーションの重要性を見落としているといいます。
すなわち、東氏は「動物化」した人間はコミュニケーションによる意味の備給を必要とせず生きていると主張するけれども、果たして本当にそうなのか?現に東氏が一連の議論の例証として持ち出す当のオタクたちがまさしく皮肉な事にもパズルゲームでもアクションゲームでもなく美少女ゲームに耽溺し、二次元美少女たちとの疑似的なコミュニケーションを欲望しているではないか、むしろポストモダンの本質とは東氏が目を逸らした「小さな物語」同士のコミュニケーションの困難性にこそあるのではないか、ということです。
このような「データベースからコミュニケーションへ」という問題設定の下、決断主義的に選択された「小さな物語」の動員ゲームを乗り越えるための「ポスト・決断主義」としての「ゼロ年代の想像力」の可能性が検証され、そこから「家族(与えられたもの)から擬似家族(自分で選択するもの)へ」「ひとつの物語=共同性の依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ」「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へ」といったゼロ年代を生きる上でのキーワードが浮かび上がってきます。
このように本書はゼロ年代における想像力の変遷を総括する一冊であるとひとまずは言えますが、その狙いはたかだか5年10年の変化を整理するためではなく、むしろ時代が変化しても決して逃れられない普遍的な問題を浮き彫りにすることにあると宇野氏はいいます。
人は「物語」から逃れることはできません。人は誰しもが何かしらの「物語」に囚われて生きています。それゆえに「生きる」とは自身の生を規定する「物語」に対する態度を不断に問い直し、その「物語」を外に開くという選択の連続に他なりません。こうした意味で本書は人が自身の「物語」を生きる上での知恵を論じた書であるともいえるでしょう。
* リトル・ピープルの時代(2011年)
⑴「大きなもの」を捉える想像力
2011年3月11日、宮城県牡鹿半島の東南沖130kmを震源とする東北地方太平洋沖地震が発生し、東北地方を中心に死者・行方不明者合計22000人を超える甚大な被害をもたらしました。そして、地震発生の約1時間後に遡上高14-15mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所では全交流電源を喪失したことで炉心融解(メルトダウン)が発生し、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展しました。こうして4月1日、日本政府は地震と原発事故を含めた一連の災害の名称を「東日本大震災」とします。
戦後未曾有の大災害が起きた4ヶ月後に公刊された本書『リトル・ピープルの時代』は、その冒頭で「地震と津波に伴って発生した事故によって制御不能に陥った原子炉たちは、震災後の日本社会を支配する見えない力の象徴」であるとして「私たちは今日常と非日常の境界が融解した、危機とともに生きるための想像力を必要としている」と述べます。
そこで本書は村上春樹氏が1995年に起きた阪神淡路大震災後に発表した連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収録された「かえるくん、東京を救う」という短編を取り上げます。この小説には「みみずくん」と呼ばれる東京歌舞伎町の地下に住んでいて腹を立てると大地震を起こす怪物的存在が登場します。本書は今の日本社会にはこの「みみずくん」のような世界の〈外〉ではなく〈中〉に存在する非人格的で非物語的な「大きなもの」を捉える想像力が欠如しているのではないかといいます。
かつて人間の生を決定する「大きなもの」としては近代的な国民国家という擬似人格化された装置が支配的でした。この擬似人格化された存在が「大きな物語=歴史」を語り個人の生を意味づけることで個人は「国民」としてのアイデンティティを成立させていました。
ところが現代においては国民国家より大きなものが確実に存在します。例えばグローバル資本主義の成立はかつて国家に従属していた市場を国家の上位に押し上げ、いまや貨幣と情報のグローバルなネットワークは世界をひとつにつなげ、国家はその相対的な下位に存在しています。
けれどもこのグローバル資本主義というシステムは国家と異なり物語を持たず、そこには非人格的な構造だけが存在する「みみずくん」のようなものであり、具体的な形でイメージをすることが困難です。だからこそかつての村上氏は「かえるくん、東京を救う」において「物語の力」でこうした難題に答えようとしたのではないかと本書はいいます。
しかし、その一方で本書は村上氏が2009年にエルサレム賞の授賞式で行った「壁と卵」と呼ばれるスピーチにおける「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」という一節を引き「春樹の「壁」と「卵」の比喩の用い方にある種の性急さを感じずにはいられない」といいます。
すなわち、かつて村上春樹という作家は「壁」と「卵」の共犯関係に「悪」を見出し、その共犯関係からの「デタッチメント」という「倫理」を志向していましたが、いまの彼は翻って「壁」と「卵」の間を分断し「壁」から「卵」を守るために極めて強い意志をもって「コミットメント」という「正義」を志向しているということです。
本書は「その試みはあまりうまくいっていない」としつつ「だが、その挫折にこそ今語るべきことが存在する」と述べます。こうして本書は村上氏の「壁」と「卵」を切り分けるのでは「ない」方向で、現代における「壁=大きなもの」への想像力を手に入れるための議論を展開することになります。
⑵ ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル
本書は「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という独自の概念を使って議論を整理します。ここでいう「ビッグ・ブラザー」とは「国民国家イデオロギー」のメタファーであり、ジョージ・オールウェルの小説「1984」に登場する国民統合の象徴としての疑似人格体に由来する概念です。かたや「リトル・ピープル」とは「グローバル資本主義」のメタファーであり、村上春樹氏の小説『1Q84』に登場する超自然的幽体に由来する概念です。
こうした観点から本書は戦後日本社会を「ビッグ・ブラザーの時代(1945〜1968)」「ビッグ・ブラザーの解体期(1968〜1995)」「リトル・ピープルの時代(1995/2001〜)」に区切っていきます。「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変遷とは、言うなれば単一的な「大きな物語」を唱導する「偉大な父性」が君臨する時代が終わり、複数的な「小さな物語」を扇動する「矮小な父性」が乱立する時代への変遷を意味します。
そしてこの時代区分を前提に、同書は、村上春樹作品における「デタッチメント」から「コミットメント」へという転回を「ビッグ・ブラザーからのデタッチメント」と「リトル・ピープルへのコミットメント」として位置付けます。まず村上氏は「ビッグ・ブラザーへのデタッチメント」という「政治=正義と悪の記述法」と「文学=ナルシシズムの記述法」の切断から出発しました。ところが1995年以降、村上氏は「リトル・ピープルへのコミットメント」へと展開し「政治=正義と悪の記述法」と「文学=ナルシシズムの記述法」の再統合を志向します。
ところが、村上氏の提示した「コミットメント」はリトル・ピープルの本質を的確に捉え切れていないと本書はいいます。すなわち、村上作品における「コミットメント」とは、ヒロインへそのコストを転嫁することで主人公を「父」にさせる想像力ですが、ビッグ・ブラザーという偉大な父が死に絶えて、リトル・ピープルという非人格的システムが支配するこの世界においては、もはや「父」になるとかならないとかではなく、自動的に機能してしまう「複数の父達」の衝突を調整する想像力が求められます。こうしたことから本書は、村上氏はビッグ・ブラザーの衰退については誰よりも敏感であったけれども、このリトル・ピープルに対応する想像力はいまだに提出できてないと結論します。
⑶ 拡張現実の時代
では、こうしたリトル・ピープルの時代においてポップカルチャーはいかなる想像力を提出したのでしょうか。ここで本書はビッグ・ブラザー的な想像力とリトル・ピープル的な想像力をそれぞれ体現した典型的ヒーロー像として取り上げるのがウルトラマンと仮面ライダーです。
この点、ウルトラマンは宇宙の彼方の光の国から来訪し、次々と攻めてくる怪獣から日本社会を守ってくれるヒーローです。これに対して、仮面ライダーは悪の秘密結社ショッカーの改造人間でありながらも、人間の自由のためショッカーに反旗を翻したヒーローです。
すなわち、ウルトラマンとは秩序の外部から文字通りの超越者として介入するビッグ・ブラザーであり、仮面ライダーとはシステムの内部から生成されたリトル・ピープルという位置付けになります。このように仮面ライダーが当初から持っていたリトル・ピープル的ヒーロー像は、まさにリトル・ピープルの時代である現代においてその真価を発揮する事になります。
2000年から始まった「平成仮面ライダーシリーズ」は正義なき時代に正義を描かざるを得ないというジレンマに応えた結果として「政治=正義と悪の記述法」と「文学=ナルシシズムの記述法」の問題を「仮面ライダーの複数化」と「〈変身〉の再定義」へとそれぞれ読み替えることでリトル・ピープルの世界を深く、鋭く描き出すことに成功します。
一方で同シリーズは複数の仮面ライダー同士のバトルロワイヤルにより偉大な父性=ビッグ・ブラザーを失い無数の矮小な父性=リトル・ピープルたちが乱立する世界観を表現します。ビッグ・ブラザーという擬似人格を装うことがなくなった巨大なシステムは非物語的で非人格的なアーキテクチャ(環境)として世界をひとつのゲームボード(貨幣と情報のグローバルなネットワーク)の上に統合し、このゲームボードの上で矮小な父たち=リトル・ピープルは究極的には自己目的化した終わりなきコミュニケーション=ゲームを繰り広げることになります。無限に拡張を続けるゲームへのコミットは不可避であり、ゲームボードの外部はもはや存在しません。
他方で同シリーズは「変身」という日本的/アジア的想像力をリトル・プープルの時代において再定義することで〈外部=ここではない、どこか〉を喪った世界で〈いま、ここ〉を多重化していく想像力を手にすることになります。リトル・ピープルの時代におけるシステムの変革とは、ありもしないシステムの〈外部=ここではない、どこか〉を祈るのではなく、システムの〈いま、ここ〉に深く〈潜る〉ことでシステムをハッキングして書き換えることに他なりません。そしてこのような〈いま、ここ〉を多重化していく想像力の回路を本書は「拡張現実」と名付けます。
本書のいう「拡張現実」とは「虚構」と「現実」の二項対立を問い直す想像力の回路であるといえます。かつての「虚構」はもっぱら「現実」からの逃走先である「仮想現実」へと位置付けられていましたが、今日の情報テクノロジーの進展によって「虚構」は「現実」を多重化する「拡張現実」へと位置付け直されることになります。こうして「拡張現実の時代」である現代において「虚構」と「現実」は従来のような対立関係ではなく統合関係として捉えられることになります。
* 母性のディストピア(2017)
⑴ 矮小な父性と肥大化した母性
そして、この「拡張現実の時代」において「政治と文学」はいかなるかたちで再設定されるのかという問題を、戦後アニメーションと戦後日本思想との連関の中で論じた大著が『母性のディストピア」です(文庫版は2分冊になっています)。
かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは当時、日本社会の精神性を「12歳の少年」と呼びました。そして、その後「アメリカの影(サンフランシスコ体制と日米安保)」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本はその経済的身体だけをぶくぶくと肥大化させてきました。こうした状況を本書は「幼形成熟(ネオテニー)」と呼びます。
そこで戦後日本が見出した成熟像とは「12歳の少年」による成熟の仮構であったといえます。それは「アメリカの影」による実質的な「政治」の消去を「文学」内部での自己完結的な「政治ごっこ」運動で代替し、あたかも表面的には政治と文学が接続されているように見せるという極めてアイロニカルな成熟像です。
ここでは徹底的に私的なことだけが公的であり、現実的には無価値なものこそが反現実的な価値を生むという逆説が機能します。戦後日本を長らく規定した左右のイデオロギーにおいて、こうした偽物こそが本物であるというような逆説は「(現実的にはそれが不可能と知りながら)あえて」その「偽悪(例えば憲法9条改正/再軍備)」ないし「偽善(例えば憲法9条護持/武力放棄)」を引き受けるという「あえて」の論理として現れます。
このような「あえて」の論理の下で、いわば「空位の玉座を守る」というような自己完結運動によって「矮小な父性」が「偉大な父性」を仮構するという戦後日本的な「成熟」には、その不毛なる演技を無条件に承認してくれる「肥大化した母性」を必要としました。このような「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託構造を本書は「母性のディストピア」と呼びます。
⑵ 戦後アニメーションとアトムの命題
この点、戦後日本において奇形的な発展を遂げた「アニメーション」という表象文化は「アメリカの影」を抱え込みながらも戦後日本的「成熟」の形式を追求する表現ジャンルでもありました。19世紀が「文学の世紀」であるならば、20世紀とは「映像の世紀」と呼べるでしょう。19世紀末に発明された「映像」という新たな技術は、20世紀という時代を映し出し、劇映画は世界と個人をつなぐ物語的な回路としての役割を担いました。そしてあらゆる事物と事象が作家の意図なしには存在できないアニメーションとは、いわば究極の劇映画であり「映像の世紀」の臨界点に位置しているといえます。
そして手塚治虫氏により確立されて以降、我が国の戦後アニメーションを無意識のレベルで支配する「記号によって成長や死をいかに描くか」という「アトムの命題」とは「12歳の少年」のまま成熟を仮構せざるを得なかった戦後日本のネオテニーの変奏でもあります。すなわち、戦後アニメーションの中には戦後日本を規定してた「母性のディストピア」が強く表現されているということです。こうした視点から本書は宮崎駿、富野由悠季、押井守といった戦後アニメーションを代表する作家の軌跡を検証します。そして、その評価は概ね以下のようなものです。
宮崎駿氏は自らを「飛べない豚」と位置付け、母の胎内でしか飛ぶことのできない少年たちの物語(カリオストロの城/天空の城ラピュタ/紅の豚)を反復する一方で、少女たちに「飛ぶこと」の希望を託していました(風の谷のナウシカ/魔女の宅急便)。それは戦後日本の根底に存在したアイロニカルな成熟像そのものでもありました。いわば宮崎氏は「母性のディストピア」を「母性のユートピア」として読み替えた作家であったということです。
富野由悠季氏は「母性のディストピア」を「モビルスーツ(偽の身体)」と「宇宙世紀(偽の歴史)」による成熟の仮構装置として描き出し、その巨大なシステムを内破する希望を「ニュータイプ」に見出しました(機動戦士ガンダム)。しかし富野氏はこの「ニュータイプ」たちの生を「呪われたもの」として描き続け、ニュータイプが持つ可能性を自ら放棄してしまいます(機動戦士Zガンダム/機動戦士Vガンダム)。
押井守氏は「母性のディストピア」の呪縛(うる星やつら)を情報論的アプローチに変換して突破しようとしました(機動警察パトレイバー)。しかしその後、時代は「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」へと変遷することになります(攻殻機動隊)。こうした情報環境の変化の中で氏は「ネットワークの世紀」に対しては消極的なモラルの提示にいまだとどまっています(イノセンス/スカイ・クロラ)。
そして「ネットワークの世紀」が全面化した現代においては、もやは戦後的アイロニズムによる成熟の仮構という方法論すら成立していないと本書は述べます。情報技術という新しい「肥大化した母性」の膝元で、人々は信じたい物語(というよりも情報)だけを享受する「矮小な父性」としてネットワークの海から承認を調達することになります。これが現代情報環境を支配する「母性のディストピア」です。
⑶ 政治と文学から市場とゲームへ
いまや戦後アニメーションの批判力は失われつつあると本書はいいます。それはグローバルなレベルでは「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」へという情報環境の変容による劇映画そのもの批判力の低下によるものです。そしてローカルなレベルでは今や経済大国=ネオテニーですらなく、単なる成熟=近代化に失敗しただけの「12歳の少年」でしかない日本における「アトムの命題」の機能停止によるものです。その結果、現代のアニメーションは「震災」の記憶を忘却すること(君の名は。)や、喪われた「終わりなき日常」のノスタルジーへ逃避すること(聲の形)や、あるいは「母性のディストピア」のルーツを追認することしかできなくなっているとされます(この世界の片隅に)。
しかし一方で、戦後アニメーションには怪獣映画から継承したもう一つの命題を内在させていると本書はいいます。『ゴジラ』(1954)を起源とする怪獣映画は常に戦後社会そのものを潜在的に問い直す装置としても機能しており、ここには戦後という偽り(偽善/偽悪)の時間の中で結果的に生まれた「虚構を経由することでしか捉えられない現実を描く」というもう一つの命題があります。この逆説を本書は「ゴジラの命題」と呼びます。
そしてこの「ゴジラの命題」を現代において再生したのは他ならないゴジラ自身でした。かつての怪獣映画が「核兵器」や「サンフランシスコ体制」という「現実」を描き出したように、庵野秀明氏が手掛けた『シン・ゴジラ』(2016)においては「原発」という「現実」が極めてアクロバティックなポリティカル・フィクションとして、すなわち「あり得たかもしれない3.11」として描き出されることになります。
一方で「映像の世紀」から「ネットワーク世紀」へという情報環境の変化は、虚構が現実の一部に回収された「拡張現実」という新たな想像力の回路を生み出しました。こうした「拡張現実の時代」においては人は「自分を変える」のみならず「世界を変える」可能性を再び手にしました。ここでかつて失われた「政治と文学」の接続可能性は別の仕方で開かれることになります。
ここで本書は吉本隆明氏の共同幻想論を参照し、かつての「国家」という共同幻想が書き手と読み手が固定化された一方通行的な「物語的存在」であったとすれば「市場」という非幻想とはプレイヤーとデザイナーが常に流動的に入れ替わる双方向的な「ゲーム的存在」であるとします。
つまり「国家」という共同幻想が零落し「市場」という非幻想(非物語的なデータベース)が浮上する現代においては「政治と文学」は「市場とゲーム」として再設定されることになります。そしてここから本書は吉本氏のいう「対幻想」を手がかりとして「母性のディストピア」を解除する鍵となる「市場とゲーム」における物語と成熟像が模索されていくことになります。
こうしてみると現代とは「偉大なる父性(ビッグ・ブラザー)」が解体され「矮小な父性(リトル・ピープル)」と「肥大化した母性(母性のディストピア)」が結託した時代であるといえるでしょう。そうであれば「Anywhere」と「Somewhere」の分断と「相互評価のゲーム」から生じる「政治と文学=市場とゲーム」の問題とは、こうした歴史的なパースペクティブから捉え直されるべき問題であるといえるのではないでしょうか。






