かぐらかのん

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暮しと憲法感覚--山本昭宏『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』

*「戦後民主主義」とは何だったのか

 
戦後日本における「大きな物語」のひとつとして「戦後民主主義」というものがあげられます。「戦後民主主義」という言葉は論者や文脈によって様々な意味を帯びる言葉ですが、その最大公約数的な意味を取り出せば差し当たり日本国憲法の掲げる基本的人権の尊重や法の下の平等、そして戦争放棄による平和主義といった理念に基づく制度や価値を示す概念であるといえます。
 
この戦後民主主義の根底には多大な犠牲者を出した先の戦争体験がありました。そのため現実の国際政治から乖離していると批判されがちな戦争放棄の主張も少なくともある時期までは日本が世界に先駆けた理想の姿と捉えられ、知識人、マスメディア、教育現場を通して多くの人々を魅了したことは確かです。
 
その一方で戦後民主主義は占領期の「押し付け憲法」がもたらした「上からの民主化」という側面があることもまた否定し難い事実であり、それゆえに戦後民主主義に対する反発は1950年代以降、たびたび憲法改正論、自主憲法制定論という形で噴出することになり、やがて「戦後民主主義」という言葉自体が否定的に意味合いで用いられるようになります。
 
そして終戦から80年が経った令和のいま、先の戦争の記憶はもはや歴史の彼方へ過ぎ去ろうとしています。では「戦後民主主義」もまた過去の遺物に過ぎないものなのでしょうか。
 
本書『戦後民主主義』はこうした問いに答えるべく「戦後民主主義」という概念を固定的なものではなく、社会の変化に応じてその内実を変化させてきた動的なものとして捉え、制度改革や社会運動のみならず、政治家、知識人、文化人の言説、さらには映画や小説などにも注目することで戦後民主主義の根底をなす精神に迫る一冊です。
 

* 戦後民主主義日本国憲法

先述のように「戦後民主主義」の基盤には日本国憲法があります。しばし「押し付け憲法」とも呼ばれる現行憲法の制定過程はおよそ以下のようなものです。
 
1945年8月15日、日本政府のポツダム宣言受諾を伝える玉音放送によって太平洋戦争が事実上終結します。連合軍の占領と改革に対する人々の不安が渦巻く中、8月12日には占領軍の先遣隊が厚木に到着し、続いて30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に降り立ちます。
 
1945年9月2日、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書が調印され正式に戦争が終わりました。9月27日にマッカーサーと面会した昭和天皇は占領軍の平穏な進駐に謝意を述べ、ポツダム宣言の履行を約束します。他方でマッカーサーは円滑な占領統治のために天皇の戦争責任を問わない方針を固めていきます。
 
1945年10月11日、マッカーサーは新首相に就任した幣原喜重郎に対していわゆる「5大改革指令」と呼ばれる「婦人解放」「労働組合の奨励」「学校の民主化」「経済の民主化」「司法制度の民主化」を通達するとともに憲法改正を示唆し、これを受けて日本政府は松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設置します。
 
1946年2月1日、憲法問題調査委員会の試案が『毎日新聞』にスクープされ、マッカーサーはその保守的な内容に不満を抱き、GHQ民政局に対して独自に憲法草案を起草するよう指示します。その際に示されたものが「天皇は国家の最上位」「戦争の廃止、陸海軍の不保持、交戦権も不許可」「封建制廃止、皇族を除く華族の廃止」といういわゆる「マッカーサー三原則」です。
 
この「マッカーサー三原則」をもとに民政局が作成したGHQ案は1946年2月13日に日本政府に提示されることになります。GHQ案を拒絶すれば「天皇ノ身体」の保障はできないと通告された幣原はGHQ案を受け入れるほかはありませんでした。こうした経緯から現行憲法はしばし「押し付け憲法」とも言われます。
 
1946年3月6日、GHQ案に沿った日本政府案が「憲法改正草案要綱」として発表され、4月17日には同要綱に基づいた「憲法改正草案」が枢密院に諮詢されます。その後、衆議院貴族院の審議を経た「帝国憲法改正案」は10月7日に確定し、天皇の裁可を経て11月3日に「日本国憲法」として公布され、翌1947年5月3日に施行されることになります。
 

* 学校と戦後民主主義

 
こうして占領政策が掲げ新憲法に結実した民主主義は教育を通して人々に浸透していきました。1947年には新憲法の理念である個人の尊厳を掲げた教育基本法が制定され、同年から六・三・三制と呼ばれる単線型の学校体系が始まります。
 
新しい教育制度の下、文部省は中学一年生用の教科書として『あたらしい憲法のはなし』を1847年8月に刊行し、翌48年から2年間教科書として使用します。こうした啓蒙活動によって新憲法の理念は当時の子どもたちに感覚的なレベルで受け止められていくことになります。
 
例えば戦後日本を代表する作家であり自他共に認める「戦後民主主義者」である大江健三郎氏は1935年生まれで新制中学の第1期生にあたりますが、彼は中学で受けた憲法の授業が自身にとっていかに重要だったかをのちに次のように回想しています。
 
修身の時間のかわりの、新しい憲法の時間、という実感のとおりに、戦争からかえってきたばかりの若い教師たちは、いわば敬虔にそれを教え、ぼくら生徒は緊張してそれを学んだ。ぼくはいま、〈主権在民〉という思想や〈戦争放棄〉という約束が、自分の日常生活のもっとも基本的なモラルであることを感じるが、そのそもそもの端緒は、新制中学の新しい憲法の時間にあったのだ。
 
(「戦後世代と憲法」『朝日新聞』1964年7月16日)

 

また占領下における民主主義の大衆的なイメージを示す作品として1949年の映画『青い山脈』がよく知られています。同作は戦後すぐの女学校を舞台として原節子演じる新任英語教師である島崎雪子が旧態依然たる校風や教師たちに立ち向かっていくという筋書きの映画です。
 
学校という限定的な場所で民主主義が開花するというイメージは戦後民主主義が持つ啓蒙的な性格を如実に示しています。後年、戦後民主主義はしばしば「悪平等」の学校教育と結び付けられて批判されることになりますが、裏を返せばそれも戦後民主主義と学校の相性の良さを示しているといえるでしょう。ともかくも、このようにして戦後民主主義は若い世代を中心に受容されていくことになります。しかしその幸福な時間は長くは続きませんでした。
 

* 革新勢力の形成と改憲論の台頭

 
やがて米ソ間の冷戦開始に伴いアメリカの対日占領方針は「逆コース」と呼ばれる武装解除から再軍備へと転換します。このような占領政策の転換に伴い国内では独立後の日本のあり方をめぐる講和問題が世論の関心を引きつけていました。この講和問題をめぐる議論をリードしたのが岩波書店の雑誌『世界』です。
 
同誌の編集長であり『君たちはどう生きるか』の著者としても知られる吉野源三郎の呼びかけで1948年12月に発足した「平和問題討議会」はのちに「平和問題談話会」と名称を変え講和問題について「全面講和」「中立堅持」「国連加盟」「軍事基地反対」の4点を主張し、これらは戦後民主主義を構成する平和主義の代表的主張となります。この平和問題談話会を支持する社会党左派と日本労働組合総評議会(総評)が革新勢力を形成し、政府与党などの保守勢力に対峙することになります。、
 
その一方で1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、8月にはマッカーサーの指示により自衛隊の前身である「警察予備隊」が創設されます。こうして1950年代においては国内においても再軍備の主張が大きくなるなかで、憲法改正も論点として浮上することになります。
 
このような改憲論は保守勢力の知識人や政治家だけが掲げたわけではなく、むしろ国内世論の傾向とも合致していました。1951年3月の『読売新聞』による世論調査では「日本に国防軍を再建せよ」という意見について賛成が47.3%、反対が23.6%と賛成が反対を大きく上回り、1952年3月の『毎日新聞』による世論調査でも「軍隊を持つための憲法改正」について賛成43%、反対27%と同様の傾向を示しています。
 
1951年9月、サンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約が締結され、1952年4月28日に日本はポツダム宣言受諾から約7年ぶりに主権を回復しました。当時の首相であった吉田茂は西側諸国の一員として国際社会に復帰し、憲法9条を掲げてアメリカによる再軍備の圧力を和らげながら最低限の兵力は備えるという現実路線を選択します。講和条約が発効したその日、吉田は官邸で記者会見を行い、当面は日米安保条約によって日本の安全を確保し、国力が充実した時に軍備について考えると述べています。
 
ところが1953年10月における池田・ロバートソン会談を経て日本は事実上の軍備増強へと舵を切ることになります。1954年3月には日米相互防衛援助協定(MSA協定)により防衛庁が設置され、陸・海・空の三自衛隊が発足します。これに伴い自衛隊の発足に合わせて憲法を改正すべしという意見が高まり、当然、革新勢力はこれに反発します。
 

* 60年安保と憲法感覚

 
1950年代半ばは革新勢力による護憲運動、原水禁運動、基地反対運動など平和をめぐる社会運動が高揚した時期であり、こうした運動の基調を成していたのが「平和と民主主義」というスローガンでした。1955年2月に行われた総選挙では「憲法改正阻止」を掲げた社会党が左右合わせて衆議院全467議席の約3分の1に当たる156議席を獲得します。
 
そして1955年11月には社会党の統一を受ける形で保守勢力を代表する自由党民主党が合併し自由民主党自民党)が結党されます。自民党の結党大会で採択された政綱には「現行憲法の自主改正」が掲げられています。ここに改憲を掲げる自民党と護憲を掲げる社会党が向かい合う「55年体制」と呼ばれる政治体制が誕生します。
 
1957年2月には改憲論者である岸信介が首相に就任し、8月に憲法調査会が発足します。これに対抗して護憲派は1958年6月に憲法問題研究会を設立します。この研究会は単に憲法を研究するのではなく、岩波書店の『世界』を中心にして啓蒙活動を推進していくことになります。
 
岸政権と革新勢力は教職員の勤務評定問題や警職法の改正問題でたびたび対立し、岸政権が推し進める日米安保条約改定への革新勢力を中心とする反対運動はやがて戦後最大の社会運動である「60年安保闘争」へと発展していきます。こうした中、1960年5月20日未明、岸政権は警官隊を本会議場に導入し、座り込みをする社会党議員を排除した上で安保条約の改定案の承認と衆議院の会期延長を強行採決します。
 
これ以降、安保闘争は安保条約の改定に賛成なのか反対なのかという次元を超え、岸政権の強権的な政治姿勢から民主主義を守ることができるかどうかというより大きな問題が意識されていくことになり、こうした精神性は当時「憲法感覚」という言葉で捉えられました。ここでいう「憲法感覚」とは主権者意識を持って民主主義を実践するという「感覚」を指しています。すなわち「戦後民主主義」を根底で支えていたものこそがまさにこの「憲法感覚」に他ならないということです。
 

* 戦後民主主義とは虚妄なのか

 
1960年7月、岸内閣の総辞職を受けて首相に就任した池田勇人は経済優先の政策による政治の安定化を図り、12月には「国民所得倍増計画」を閣議決定し、太平洋ベルト地域を中心に工業化を進める方針を打ち出します。高い経済成長率が続いた1960年代において人々は豊かさを追い求め、この時期に企業に雇用されるサラリーマンとその配偶者である専業主婦からなる核家族という戦後日本を長らく支えたロールモデルが定着します。その一方で60年安保闘争以後、戦後民主主義は大きな曲がり角を迎えていました。
 
1961年10月、政府の憲法調査会は調査段階を終えて改正の可否についての議論に移り、1964年7月に政府に最終報告書が提出されますが、結局のところ、護憲と改憲の意見を併記するに留まります。この時期になると1950年代の改憲論に見られた憲法の全面的な見直しや国防軍の創設といったラディカルな主張は多くの支持を得られなくなっており、その背景には経済優先の池田路線から生まれた国民意識の変化がありました。
 
そして1960年代半ばにはかつて革新勢力が掲げた理想主義的な平和論とは異なる、国際政治の力学を前提とした現実主義的な安全保障論が影響力を持ち始めていました。こうした中で日本における民主主義が根本から問い直される論争が起きることになります。
 
その発端は経済学者の大熊信行による問題提起です。大熊は占領期の民主主義について「日本民族について」という論考で、戦争が終わった時期を玉音放送が流れた1945年8月15日ではなく、アメリカの占領が終わる1952年4月29日であると考えるべきであるとして、日本の民主主義は占領下に始まったという理解を退け、日本の民主主義は明治維新に始まり、軍事占領下で一旦途絶え1952年の講和条約によって再出発したといい、そのうえで占領下の日本に民主主義はあったのかと問い、次のように述べます。
 
軍事占領下に政治上の民主主義が存在したという考えかた。これは一言にして虚妄である。にもかかわらず、民主主義が樹立され、そしてそれが育ったかのように見えるとすれば、育ったもの自体が、そのなかに虚妄を宿しているのである。
 
(大熊信行「日本民族について」『世界』1964年1月号)

 

このような大熊の占領下に民主主義はなかったという理解は戦後民主主義に対する根本的な異議申し立てといえるでしょう。これを受けて『世界』1964年8月号では特集「占領時代 戦後史の出発点を顧みる」が組まれ、占領期の再検討が試みられます。こうした中、戦後知識人を代表する政治学者である丸山眞男は同年に公刊した『現代政治の思想と行動』の増補版あとがきで大熊の指摘を念頭に置きつつ次のように述べています。
 
最近の論議で私に気になるのは、意識的歪曲からと無智からとを問わず、戦後歴史過程の複雑な屈折や、個々の人びとの多岐な歩み方を、粗雑な段階区分や「動向」の名でぬりつぶすたぐいの「戦後思想」論からして、いつの間にか。戦後についての、十分な吟味を欠いたイメージが沈澱し、新たな「戦後神話」が生まれていることである。世界・財界・官界から論壇に至るまで、のどもと過ぎて熱さを忘れた人々、もしくは忘れることに利益をもつ人々によって放送されるこうした神話(例えば戦後民主主義を「占領民主主義」の名において一括して「虚妄」とする言説)は、戦争と戦争直後の精神的空気を直接に経験しない世代の増加とともに、存外無批判的に受容される可能性がある。
 
(中略)
 
私自身の選択についていうならば、大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。
 
丸山眞男『現代政治の思想と行動』増補版)

 

「虚妄」とまでいわれた戦後民主主義に「賭ける」という有名な「啖呵」を切った丸山は同書の別の箇所で「民主主義は議会制民主主義につきるものではない。議会制民主主義は一定の歴史的状況における民主主義の制度的表現である。しかしおよそ民主主義を完全に体現した制度というものは嘗ても将来もない」といい「その意味で「永久革命」とはまさに民主主義にこそふさわしい名辞である」と述べています。このように丸山は戦後民主主義を特定の政治体制や制度に限定するのではなく、多様な人びとによる不断の営為を含むものだと理解しています。
 
大熊と丸山が提出した議論には戦後民主主義をめぐるその後の議論の論点がほとんどすべて含まれていると本書はいいます。それは一言でいうと「戦後」と「民主主義」をどう理解するのかという問題です。「戦後」とはいつ頃始まっていつ頃終わるのか。「戦後」の「民主主義」は押しつけられたものなのか選び取ったものなのか。そこに可能性はあるのかないのか。こうして1960年代半ば以降「戦後民主主義」は日本社会を理解するためのキーワードとなっていきます。
 

* 暮しと憲法感覚

 
その後「戦後民主主義」という言葉は既存の支配体制を維持する装置として否定の対象となり、やがて利益誘導政治の温床として批判され、その一方で行き過ぎた個人主義悪平等をもたらすものとして批判され、挙句には戦後民主主義こそが日本が「普通の国」になれない原因だと見做されるように至り、今世紀に入ってからはこうした「戦後レジーム」からの脱却が叫ばれるようになります。
 
では、もはや戦後民主主義は過去の遺物なのでしょうか。確かに冷戦構造や保革対立や経済成長といった戦後日本を規定した枠組みはとうの昔に終焉し、グローバル化の拡大とポストモダン状況の進行により国民国家の存在感が相対的に低下した現代においては、社会をまとめ上げる「大きな物語」としての戦後民主主義は完全に過去の遺物となったといえるでしょう。
 
しかしながら戦後民主主義にはまた別の可能性を見出すことができるのではないでしょうか。本書はその終章「戦後民主主義は潰えたか」において戦後民主主義を次のように総括します。「戦後民主主義」の前提にあるのは当たり前ですが「民主主義」です。ここでいう「民主主義」における「民」とは誰のことを指すのかという問題は一つの大きな論点ではありますが、本書は民主主義を「自分たちのことは自分たちで決めるという広義の「自治」を求める政治参加の試み」として理解しています。そして、このような「民主主義」という言葉の上に「戦後」が加わるとき、次の3点が焦点化されることになります。
 
第一に戦争体験に結びついた平和主義です。平和主義を謳う現行憲法が広く受け入れられた要因として先の戦争における空襲や引揚げなどの戦争体験があったことは確かでしょう。第二に直接的民主主義への志向性です。これは換言すれば社会運動と地方議会を重視する姿勢を指しています。第三に平等主義です。とりわけ本書は経済と教育の平等を重視します。
 
そして本書は「戦後民主主義の精神が、いまほど求められている時代はないのではないか」といいます。すなわち「戦後民主主義は、民主主義が「統治」の手段ではなく、「参加」を通した「自治」の手段であること」を教えており、その根幹には「選挙以外の場での政治的意思表示から、コミュニティや集団に関わってより良い運営を模索する粘り強い社会的実践まで、生活の至るところに民主主義があるという感覚」があるということです。
 
例えば本書は戦後民主主義を批判的に継承したものとして『暮しの手帖』の初代編集長として知られる花森安治の仕事を位置付けています。花森は神戸に生まれ幼少期からモダニズム文化に親しみ、東京帝大文学部を卒業後は広告デザインの仕事を始め、大政翼賛会宣伝部で働いた経験も持っています。
 
戦後、花森は大橋鎭子とともに1948年に季刊誌『美しい暮しの手帖』を創刊します(1953年から『暮しの手帖』に改称)。1964年には80万部を超える人気雑誌となっていた同誌の名物企画に1953年から始まった商品テストがあります。これは日用品や生活家電を独自にテストし、生活者の視点から長所と短所を論評して企業に改善を求めるという企画です。この商品テストは高度成長期における日本の工業製品の品質改善のきっかけになったとも言われています。
 
花森は権威を監視し、採点する機能がない社会は不健全な社会だと考え、商品批評によって大企業をチェックし続けようとしました。それは花森なりの民主主義の実践だったと本書はいいます。
 
「一軒の家の味噌汁の作り方を変えることは、一つの内閣を倒すよりもむずかしい」--僕はこう考えています。内閣は投票で倒すことができるけれど、ある家庭の味噌汁の作り方は当人たちがまずいと感じていても、変ない(ママ)ものなのです。ぼくらが料理にちからを入れているのも、そこなのです。
 
花森安治「民主主義と味噌汁」『中央公論』1965年9月号)

 

このような生活者の視点を手放さずに商品や料理といった事物と向き合い「ひとつひとつ自分の目で判断する」という花森による民主主義の実践は「生活の至るところに民主主義があるという感覚」という戦後民主主義の根底にある精神をよりよく表したものであるといえるでしょう。そして、それは先述した主権者意識を持って民主主義を実践するという「憲法感覚」の批判的な継承であるともいえます。そうであれば、こうした日常の「暮し」に深く根ざした「憲法感覚」こそが戦後民主主義という巨大な遺産からいま我々が持ち帰るべき当のものであるといえるのではないでしょうか。