かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

セカイ系と「かわいい」の誤配--星か獣になる季節(最果タヒ)

 

* セカイ系の継承者としての最果タヒ

 
ゼロ年代の現代詩シーンに彗星の如く現れた最果タヒ氏の作品はしばし「セカイ系」と呼ばれることがあります。この点「セカイ系」という言葉が初めて公に用いられたのは2002年10月31日、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の掲示板に投稿された「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドだとされています。そこで管理人のぷるにえ氏は「セカイ系」とは「エヴァっぽい作品」に、わずかな揶揄を込めつつ用いる言葉であるとして、これらの作品の特徴には「たかだが語り手自身の了見を「世界」などという誇大な言葉で表現したがる傾向」があると述べています。
ここでいう「エヴァ」というのは言うまでもなく、あの「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」のことを指しています。端的に言えば「セカイ系」とは、TV版エヴァ終盤において全面的に展開された「自意識」をめぐる問いへの返歌であるということになります。つまり、巨大ロボット、戦闘美少女、ミステリーといったオタク系文化におけるジャンルコードの中でキャラクターが「自意識」を過剰に語る作品群こそが本来的な「セカイ系」と呼ばれる作品といえます。けれどもゼロ年代において文芸批評の分野で注目を集めた「セカイ系」は次のように再定義されることになります。
 
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的大問題に直結する作品群
 
批評家の東浩紀氏らが中心となり発刊された同人誌「美少女ゲームの臨界点(2004)」において打ち出されたこのセカイ系の定義は、東氏の主唱する「象徴界の失墜」という理論に対応しています。すなわち、現代思想に大きな影響を及ぼすフランスの精神分析家、ジャック・ラカンは人間の精神活動を「想像界(イメージ領域)」「象徴界(言語領域)」「現実界(言語領域の外部)」という三つの位相で捉えていますが、東氏によれば「大きな物語」が失墜したポストモダン状況が加速する現代においては、このラカンにおける「象徴界」の機能が失調しており、あたかも「想像界」と「現実界」が直結したかのような感覚が強くなっているということです。東氏は次のように述べます。
 
僕たちは象徴界が失墜し、確固たる現実感覚が失われ、ニセモノの満ちたセカイに生きている。その感覚をシステムで表現すればループゲームに、物語で表現すればセカイ系になるわけだ。
 
 (「美少女ゲームセカイ系の交差点」より)

 

要するに、ここでセカイ系は「社会」や「組織」といった「世界観設定(象徴界)」を積極的に排除して「ヒロイン(想像界)」と「世界の果て(現実界)」を直結させる構造として再定義されることになります。そしてこうした構造の下では主人公の実存はヒロインの母権的承認によって担保され、主人公の「自意識」をめぐる問いはヒロインを救えない己の無力さへと向けられることになります。
 
そして2015年に公刊された最果氏初の小説となった本作『星か獣になる季節』もまた、こうしたかつてのセカイ系を継承した物語です。けれども同時に本作はその「外部」を開く物語でもあります。
 

*「かわいい」だけで「平凡」なアイドルをめぐる物語

 
君はかわいいだけだ。凡庸で貧弱な精神、友達だけが社会で、ぼくらのことを光のかたまりぐらいにしか見ていない。だからぼくは軽蔑ができた。遠くにいたって踊っていたって、きみのことを好きだと思たんです。どうして、人を殺したんですか。
 
(『星か獣になる季節』より)

 

本作の主人公、山城翔太は誰一人友達がおらず孤独で灰色の青春を送る男子高校生です。そんな彼の唯一の生きがいと呼べるものは自分と同い年の地下アイドル、愛野真実(まみちゃん)を応援することでした。
 
もっとも山城のまみちゃんへの愛情はかなり捻くれています。山城にいわせればまみちゃんは外見が「かわいい」以外にロクな特徴がないとことん「平凡」な存在です。だからこそ山城は愛野をただただ「かわいい」だけの「平凡」な存在として上から目線で愛でることができていました。
 
ところがそんなまみちゃんが殺人容疑で逮捕されたという衝撃的なニュースが入ります。慌ててまみちゃんの家(!)に駆けつけた山城は盗聴器(!!)の向こう側から「ゆうちゃんを殺して、ばらばらにして、星の形に並べたの。このまえテレビが来ていた、痣山神社のパワースポットの木の下で。そしたらかわいいとおもって」などと殺人の動機を淡々と述べるまみちゃんの声を聴いてしまいます。
 
山城にとって「かわいい」だけの「平凡」な存在であるべき彼女が独力で殺人という恐るべき所業を成し遂げたことは、安全圏から一方的に彼女を蔑むことで保たれていた彼の「自意識」を脅かす認め難いものでした。このねじくれた態度から山城はまみちゃんが殺人犯ではないということを確かめるべく行動に出ます。
 
一方、同じくまみちゃんのファンである山城のクラスメイトの森下はまみちゃんの罪を肩代わりするため、一般には公開されていないまみちゃんの殺人の手口を模倣した連続殺人を始めます。スクールカースト上位に君臨する森下とクラスの日陰者である山城は学校ではまるで接点がありませんでしたが、その一方で山城はしばし森下がまみちゃんのライブに来ているところを目撃していました。やがて森下の計画を知った山城は彼に協力を申し出ます。そして最終的に森下が自首する前の最後の被害者として自ら殺されることになります。
 

* 宮廷愛としてのセカイ系

 
山城からまみちゃんへの長い手紙という形式で記された本作の構図はある面でいわゆる「宮廷愛」と呼ばれるものを想起させます。ここでいう「宮廷愛」とはもともとは12世紀ヨーロッパに起源を持つ詩歌の一つのジャンルであり、高貴な既婚女性を対象とする肉体関係抜きのプラトニックな愛をいいます。そして、こうした「宮廷愛」をラカンはそのセミネール20「アンコール(1971~1972)」において「性別化の式」における「男性側の式」の中に位置付けています。
 
まず男性側の式の左下(∀xΦx)は「すべての男性はファルス関数に従属しており、彼らが得ることができる享楽はファルス享楽だけである」という「普遍」に関する命題を示しています。ここでいう「ファルス関数」とは完全な欲動満足である「絶対的享楽」を禁止する機能を持ちます。このファルス関数によって、すべての男性は「絶対的享楽」に関して去勢され、彼らの享楽は「対象 a 」に切り詰められた残滓としての「ファルス享楽」で満足するほかなくなります。ここから「性関係の不在」という後期ラカンのよく知られたテーゼが導かれます。
 
そして男性側の式の左上(∃xΦx)は「少なくとも一人以上、ファルス関数への従属を免れている例外が存在する」という「例外」に関する命題を示しています。そしてその「例外」は「絶対的享楽」から去勢されておらず「ファルス享楽」ではない「〈他〉の享楽」を得ていると想定されます。
 
そしてこの「例外」の位置には、典型的には精神分析の始祖であるジークムント・フロイトの論文「トーテムとタブー」に登場する「原父」のような存在が想定されますが、男性にとって「例外」として機能するのは何も「原父」とは限りません。「原父」と同様に「宮廷愛」における「La femme(女性なるもの)」も男性にとっての「例外」として機能します。ラカンは「La femme」は「〈父〉のバージョン違い」であると述べています。
 
すなわち、ここである女性を接近不可能な「La femme」の高みに引き上げる「宮廷愛」とは「性関係の不在」の隠蔽装置として作用することになります。この点につきラカンは宮廷愛を「性関係の不在を補填するためのまったく洗練された方法」「男性にとっては、性関係の不在からエレガントに抜け出すための唯一の方法」と述べています。
 
この点、かつてのセカイ系は「ヒロイン(想像界)」と「世界の果て(現実界)」の直結構造から、主人公にとってのヒロインは「La femme」に相当し、その物語は自ずと「宮廷愛」の構図となっていました。そして、本作においても山城はまみちゃんを「かわいい」だけで「平凡」な、いわば「無垢であり無能の極み」として「La femme」の位置に祭り上げてしまっているわけです。
 
こうして本作はかつての「セカイ=宮廷愛」という構図を極めてねじれた形で反復するところから始まり、山城は自分の構築した「セカイ=宮廷愛」の崩壊をどうにか修復するために奔走することになります。けれども、やがて物語が進むにつれ彼の「セカイ=宮廷愛」は完全に破綻することになります。
 

*「かわいい」という言葉が孕むもの

 
けれどもその一方で、山城は最期になってまみちゃんにこれまでの「かわいい」ではない、別の仕方での「かわいい」を見出すことになります。
 
よく知られるように最果作品では「かわいい」という言葉が頻出します。この点、一般的に「かわいい」という言葉は普通は幼いものや未熟なものを指すときに用いられます。またイマヌエル・カント以降の西洋美学における「崇高(ある対象がもたらす壮大さや巨大さへの畏敬を伴う感覚)」と「美(ある対象がもたらす形式的調和への慈愛を伴う感覚)」という二項対立の中で「かわいい」とはひとまずは「美」の前駆体に相当するものであるといえます。
 
こうした意味での「かわいい」とは、対象がまるでドールハウスの人形か何かのようにある形式的調和の中で安らいでいる状態を上から目線で慈しむような鑑賞態度をいいます。
 
もっとも、足立伊織氏は「最果タヒと『かわいい平凡』の詩学ユリイカ2017年6月号)」という論考で最果作品における「かわいい」とは「平凡」との両面を成しているとした上で、最果氏はこの「かわいい」と「平凡」いう言葉に「なにか大きなものを賭けているように見える」と述べています。
 
この点「かわいい」という概念は美学的にも足立氏が指摘するように「客観的かつ主観的、性質の記述でもあり評価でもあり、概念的かつ感覚的」という両極の間で揺れ動く複雑な概念でもあります。すなわち、さまざまな文脈において個々に発される「かわいい」という「平凡」な言葉たちには対象の属性の客観的な記述としての側面が強いものから、より主観的でまるで祈りの言葉のような発話行為として機能するものまでのグラデーションが存在するということです。
 
そして同論考において足立氏は「森下やまみちゃんのことを正しく理解することができないということを積極的に引き受けることこそが、その理解不可能性において森下とまみちゃんを共鳴させ、二人のどちらのためなのか判然としないような山城の決断を生んだのではないか」と主張します。どういうことでしょうか。
 

* かわいい平凡の詩学

 
ぼくは、森下の言葉の意味がわからなかった。森下は何を思っているんだろうか。きみのことをなんだと思っているんだろうか。まるで崇拝するみたいな目をして、きみのなまえを呼んでいた。それで人すら殺せると、言っていた。恋じゃないと、言っていた。きみはアイドルだって言っていた。僕はどれも知っている、でも森下みたいな気持ちは知らない。どこにもない、そんな感情ぼくのどこにも、存在していない。森下がねじまがった空間みたいに、そこに立っているんだ。
 
(『星か獣になる季節』より)

 

この点、殺人を犯した当のアイドルはこの小説のテクスト上に直接その姿を表すことがなく、岡山というストーカーが仕掛けた盗聴器と盗んだ日記の声と文字を介してのみその姿を窺い知ることができます(山城と森下はさらにそれを盗み聴き、盗み見ています)。
 
従って、読み手の前には決してアイドルの姿それ自体は現前することなく、いわば本作はもっぱら「愛野真実」という「空虚な中心」の周りをめぐる山城と森下の言葉によって駆動されていくことになります。そして「愛の真実」とも読みうる名を持つまみちゃんが作品の冒頭から終始不在であることに対応するかのように、本作は「真実」が不在であるかのようなある種の断念が孕まれています。
 
まず、まみちゃんに対する山城の「かわいい」と森下の「かわいい」は異なる「かわいい」です。山城は森下の「かわいい」を理解できないし、逆もまた然りです。そして山城にせよ森下にせよ、一介のファンに過ぎない彼らにとって愛野真実の「真実」など理解しようがなく、彼らの発する「かわいい」はどう足掻いても「平凡」な言葉以上のものにはならないでしょう。
 
もっとも「アイドル」とは--少なくとも現代においては--その対象自体が持つ若さとか美貌とか技術というような内在的な属性ではなく、むしろその対象が「アイドルファン」によって支持されているという外在的な関係性によって成立するものであるといえます。
 
すなわち、ここでは「アイドル」の内在的な属性の正しい把握を究極的には断念した上で「アイドルファン」が「アイドル」に向ける身勝手で結局のところは間違いにすぎないけれど何とか誠実であろうとする無数の「かわいい平凡」と、これらの「かわいい平凡」を受け入れる「アイドル」という二項の関係性が「アイドル」と「アイドルファン」を同時的に生み出すことになります。
 
そしてその「真実」を究極的に捉えることが不可能なアイドルは、その理解不可能性という空虚さによって、ファンのそれぞれが持つ相互に理解不可能な無数の「かわいい平凡」が交通する容れ物のように機能することになります。
 
こうして「かわいい平凡」の交通の場としての「アイドル=偶像」は「美」というよりも、むしろ有象無象の「かわいい平凡」の全体集合としての「崇高(数学的崇高)」を感じさせる存在となります。足立氏はこの出来事こそが最果作品における「かわいい平凡」の詩学ではないかと述べています。
 

* セカイ系と「かわいい」の誤配

 
 きみが好きです。かわいいだけの、かわいい、たったひとりのきみが好きです。きみがなにを得られるのか、なにを笑っていくのか、わからない。きみがこれから、釈放されて、えん罪ということになって、またアイドルにもどるのか、それとも死んでしまうのか、苦しむのか、悲しむのか、ぼくのことをただの被害者だと、森下を軽蔑するのかわからないけど。ぼくはきみのことが好きで、恨んでもいない。ほんとうは、ただまっすぐに努力をしてアイドルとして、階段をのぼって、失敗しても成功しても、ここまでやったもんね、って言ってほしかった、ありがとうなんていらないし、ぼくはその姿にありがとうと言いたかった。きみにありがとうと伝えて、それできみがちょっとでも、やってよかったとおもえるように、伝えたかったんだ。きみの微笑み、きみの努力、汗、涙、なにかがたくさんふりつもって、できていた、きみ。今だって十分に、君に言える。ありがとう。好きです。
 
(『星か獣になる季節』より)

 

本作は途中でまみちゃんの殺人の真相らしきものが明らかにされることになりますが、何にせよいかに言い繕ったところで、まみちゃんも森下も山城も法律的にも倫理的にも決して「正しい」とはいえないでしょう。けれども少なくともまみちゃんが山城の孤独で灰色の青春に生の手応えを呼び起こした存在であった事は彼の中では確かな「真実」であったのではないでしょうか。
 
こうして山城のまみちゃんに対する「かわいい」は当初の「無垢であり無能」を愛でる「かわいい」から「憧憬と感謝」としての「かわいい」へと変容することになります。言い換えればここで山城はこれまでの「セカイ」を内破して、その「外部」への跳躍を果たしているとも言えるでしょう。
 
この点、かつてのセカイ系は概ね「ぼく」と「きみ」の二者関係に閉じていました。これに対して本作は「ぼく(山城)」と「きみ(まみちゃん)」の二者関係に第三項としての「他者(森下)」を介入させることで「セカイの外部」を切り開くのでした。そしてそれは「かわいい」というエクリチュールをめぐるコミュニケーションの誤配の結果に他ならないでしょう。
 
こうした意味で本作は「かわいい」をめぐる誤配の物語といえます。そして最果作品が広く支持されるひとつの理由もまたこのような「かわいい」をめぐる誤配にあるのではないでしょうか。