かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

規律権力と生政治

 
 

*「人間学的思考」の起源を問い直す

 
1960年代、フランスにおける思想界のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は人が独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しましたが、クロード・レヴィ・ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないというものでした。そして、こうした中で「実存」としての人間がいかなる「構造」によって規定されているのかを歴史的文脈においてラディカルに問い直した思想家がミシェル・フーコーです。
1950年代にフーコーはそのキャリアを心理学者としてスタートさせました。当時、フーコーが発表したいくつかのテクストでは「意識から逃れ去る夢の解読」や「社会の中で疎外される人間性の回復」のような、いわば「喪失したもののの回収」という「人間学的思考」を主題としており、こうした「人間学的思考」は概ね当時のフランスを席巻してた実存主義人間主義マルクス主義へと送り返すことができます。ところが1960年代に入るとフーコーはかつて自らが依拠していた「人間学的思考」の起源を問い直すことになります。
 
フーコーの実質的なデビュー作と見做される「狂気の歴史(1961)」では近代的意味での「狂気」と「人間学的思考」との間にある共犯関係が明るみに出され、かつてのフーコーが依拠していた「人間学的思考」が、歴史的な文脈の中で検討に付すべき一つの問題として扱われることになります。
 
そして「臨床医学の誕生(1963)」においては「人間学的思考」が依拠する「見えるもの(ポジティヴなもの)」と「見えないもの(ネガティヴなもの)」という二項対立それ自体が問いに付されることになります。
 
すなわち「人間学的思考」において我々の世界を構成する事物としての「見えるもの」は、その背後の「見えないもの」に規定されているという二項対立が想定があります。ところが、ここに至って「見えないもの」とされるものは、別に根源的なものでも何でもなく、畢竟「見えるもの」しかなかったところに事後的に生じる一つの効果に過ぎないものであることが詳らかにされます。ここでフーコーはかつて自らも依拠した「人間学的思考」から決定的に離脱する一歩を踏み出すことになります。
 
さらにその後、フーコーは、こうした「人間学的思考」の起源へと向かいます。「見えるもの」と「見えないもの」との垂直的関係は、歴史の中でどのように成立したのか。そしてそこから至上の主体であると同時に特権的な客体でもあるようなものとしての「人間」が西洋の知の中にどのようにして登場することになったのか。こうした問いに答えようと試みたのが構造主義ブームの最盛期に出版された「言葉と物(1966)」です。「人間の終焉」という挑発的なテーゼを打ち出した同書は難解な専門書であるにもかかわらず大反響を得て、フーコーは「構造主義の司祭」とまで持ち上げられることになります。
 

* 言説分析から権力分析へ

 
こうして人間学的思考からの脱出プロセスに一つの区切りをつけた後、1970年代に入るとフーコーは自身の研究テーマをこれまでの知と言説をめぐる分析から、知と権力の関係をめぐる分析へと転回させることになります。
 
フーコーは1970年、アカデミズムの最高峰、コレージュ・ド・フランスの教授に就任し、同年12月に行われた開講講義では言説が孕む権力と言説の産出を制御する権力が問われました。すなわち、フーコーにとって権力の問題はまずはこれまでのフーコーの言説をめぐる分析の延長線上に出現したともいえます。
 
その一方で、1968年に起きたいわゆる「パリ5月革命」を契機とする世界的な学生運動の盛り上がりを受けて、社会的闘争に身を投じるようになったフーコーは1971年に監獄に関する情報収集を目的とした「DIP(監獄情報グループ)」を創設します。またコレージュ・ド・フランス講義においても1971年-1972年講義「刑罰の理論と制度」以降、数年にわたり西洋における刑罰制度の歴史をテーマとして扱うようになります。
 
こうした実践と理論の連関の中で、やがてフーコーは権力における「抑圧」や「排除」というネガティヴな側面から、むしろ権力における「生産」というポジティヴな側面に注目するようになります。そしてこのような観点から権力のメカニズムを捉え直した研究の成果をまとめたのが「監獄の誕生(1975)」です。
 

* 君主権的権力から規律権力へ

西洋の刑罰制度は18世紀末ごろから、かつて公衆の面前で身体に苦痛を与えるという身体刑中心の刑罰制度から、個人を監獄に閉じ込めつつ矯正することを目指す自由刑中心の刑罰制度へと変貌を遂げます。このような移行については、従来、文明の進歩や近代啓蒙思想といった観点から説明がなされてきました。
 
これに対してフーコーは「身体刑から自由刑へ」という処罰形式の転換を「君主権的権力から規律権力へ」という権力のメカニズムの歴史的変容との連関から解明しようとしました。
 
まず、かつての身体刑は、実は単なる野蛮さの印ではなく当時の「君主権的権力」のもとで明確な機能を果たすものでした。ここでいう「君主権的権力」とは、君主と臣下の間の非対照的な力関係において作用する権力をいいます。そのような権力形態において法律とは至上権を持つ君主の命令であり、法律違反としての犯罪とは君主への反逆であり、その犯罪に対する処罰は反逆者への報復を意味しています。
 
そしてその際、その反逆者に対して君主自身が被った損害よりもはるかに大きい損害を公の場において与えることで、君主の持つ支配力が再確認され強化されることになります。すなわち身体刑とは犯罪によって損なわれた君主権を修復する儀式のようなものであったということです。
 
以上のような「君主権的権力」に対して、17世紀から18世紀にかけて、それとは全く異なるタイプの権力が登場し、西洋社会の中で大きな広がりを獲得したとフーコーはいいます。「規律権力」と呼ばれるその新たな権力は、一方の他方に対する支配力を誇示する代わりに、すべての人々を一様に監視し管理することで、「従順かつ有用な個人」を作り上げることを目指します。
 
このようなものとしての「規律権力」が社会全体を覆うようになり、それに伴い「規律権力」を担う「しつけ」の装置としての監獄における自由刑が処罰のための自明な手段として急速に広がることになります。
 

* パノプティコン

 
監獄のそうした範例的役割を端的に表しているものとして描き出されたのが、功利主義で知られるイギリスの哲学者ジェレミーベンサムによって考案された「パノプティコン」です。「パノプティコン」とは中心に監視用の塔を置き、周囲の円環状の建物の中に受刑者を留め置くための居室を配置した建築物です。
 
この建築物においては中央の塔からすべての居室を余すところなく見渡すことができますが、その一方で各居室からは塔の中も他の居室も見ることができません。こうして受刑者は自分が誰にみられているのか、そしてそもそも誰かに見られているのかどうかもわからない状態で常に監視されているという意識を持つことになります。
 
見られずに見ることを可能としたこのシステムによって、いわば権力が没個人化すると同時に自動化することになります。もはや誰が監視しているかわからない以上、監視しているのは誰でもよく、極端に言えば、誰も監視しなくても構わないわけです。
 
以上のような規律権力を作動させるものとしてパノプティコンはもはや監獄専用の施設ではなく、一般化可能なモデルとなりえます。病院や工場や学校など、個々人に働きかけて一定の行動様式を課すことが必要とされる様々な場所においてパノプティコン的な建築モデルが極めて効率的で経済的なシステムとしてその効力を発揮することになります。
 

* 権力が生み出す知

 
そしてこのパノプティコン的なシステムは従順で有用な個人を作り上げる機能を持つと同時に、観察や分類、記録や検査によって個々人を「個人化(客体化)」する機能を持ちます。こうして躾けるべき個人が同時に知るべき客体として構成されます。
 
つまりここでパノプティコン的なシステムは個々人に関する知の産出を可能とするシステムとして機能しています。権力のメカニズムと知の形成とがわかちがたく結びついているということ。このことこそが「監獄の誕生」においてフーコーが提示する最も重要なテーゼの一つです。
 
こうしてフーコーは監獄における「非行性」を例に、パノプティコン的なシステムにおいて実際に個人が知の客体として出現するプロセスを明るみに出していく一方で、そのようにして構成された知の方もまた権力に対して作用を及ぼすということを明らかにして、知の形成と権力の増強の間には不断の相関関係があるということも強調します。
 
権力と知は互いに絡み合っていうということ。相互的で循環的なプロセスに従って知が形成され、権力が増強されるということです。
 
この点、60年代におけるフーコーの言説分析の全体においては、歴史の中で人間と真理がどのような関係に立ち、そこから人間をめぐるどのような探求がなされたのかという点が問われてきました。
 
そして、この問題を刑罰制度の歴史をめぐる考察の中で改めて取り上げ直すことになったのが「監獄の誕生」です。ここでは、権力のメカニズムの中で人間が自らの「魂=固有の真理」に縛り付けられた主体として構成されていくプロセスを詳らかにすることで「人間の出現」という出来事が、新たな権力関係の成立によってもたらされた帰結として捉え直されることになります。
 

* 規律権力と生政治

 
「監獄の誕生」の翌年に出版された「性の歴史1知への意志」では、引き続きやはり権力の問題を扱いながら、今度は刑罰制度ではなく、セクシュアリティをテーマとして設定して「規律権力」に関する探求がさらに深められていきます。
その一方で同書においてフーコーは西洋において「規律権力」にやや遅れて成立したとされるもう一つの権力形態を描き出していきます。そして彼はそれら二つの形態をその両極とするものとしての包括的な権力を標定し、それは人間の「生」に積極的に介入しようとするものとして特徴づけようとします。
 
同書によれば、かつての「君主権的権力」は人々の「生」に対して消極的なやり方でしか働きかけていなかったといいます。君主は臣民の生に関して自らが保持する権利を、命を奪ったり奪わなかったりすることによってのみ行使していました。つまり「生」に権力が介入するのは、その「生」に終止符を打つ時に限られていたわけです。
 
けれども時代が進むにつれ、人間における様々な力を増大させためにその「生」に対して積極的に介入しようとする新たな権力が登場することになります。人々の「生」を然るべきやり方で管理、運営しようと企てるその権力をフーコーは「生権力」といいます。彼によれば「生権力」は17世紀以来、何をその標的として定めるかに従って二つの主要な形態において発展してきたといいます。
 
その一方に見出されるのが「身体」を標的とした「規律権力」です。監視や調教によって身体を従順かつ有用なものに作り替えたり、その力を強奪して効果的な管理システムに組み込もうとする「規律権力」のメカニズムが、ここでは人々の「生」に介入する一つの手段として捉え直されることになります。
 
そして他方に見出されるのが「人口」を標的とした「生政治」です。ここでいう「人口(Population)」とは通常、一定の地域に住む人々の総体や特定のカテゴリーに属する人々の総体、さらには統計学的調査の対象になるような生物学的個体群を指しています。そうした語義を踏まえてフーコーは「人口」という語を生物学的法則によって支配されているものとしての人間集団という意味で使用しています。
 
こうした意味での「人口」に介入して管理しようとする権力が、個々の身体に働きかけてそれを作り替えようとする権力の傍らに新たに標定されることになります。こうして「身体」をめぐる「規律権力」と「人口」をめぐる「生政治」を両極として、人々の「生」を全面的に囲い込もうとする権力が組織化されることになります。
 

* 権力は下からくるということ

 
通常「権力」というと「支配する者」と「支配される者」という二項対立を前提として、前者による後者への「上から下へ」という外在的な支配を想定します。ところがフーコーが明らかにしたのは、近代から現代に至るまで権力とは「上から下へ」という外在的な支配ではなく、むしろ「下から上へ」という内在的な欲望として作動しているということです。すなわち「支配される側」である多くの人々は実はただ単に支配されることを消極的に受忍するのではなく、むしろ、支配されることを積極的に欲望してしまうような構造があるということです。
 
権力は下からくるということ。すなわち、権力の関係の原理には、一般的な母型として、支配する者と支配される者という二項的かつ相対的な対立はない。その二項対立が上から下へ、ますます極限された集団へと及んで、ついに社会の深部にまで至るといった運動もないのである。むしろ次のように想定すべきなのだ。すなわち生産の機関、家族、極限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっているのだと。
 
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ』より)
 
いわばここでフーコーは「支配する者」と「支配される者」という二項対立を脱構築して、権力を無数の力の関係からなるネットワークのように捉え直しています。そして、こうしたフーコーの権力分析は、現代の日本社会において声高に叫ばれる「コンプライアンス」とか「多様性」とか「安心・安全」などといった様々な「正しさ」をより高い解像度で捉え直すための視点を提示しているのではないでしょうか。