かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【感想】すずめの戸締まり

* 村上春樹から考える

 
現代を代表する作家である村上春樹氏はかつて1995年前後に「デタッチメントからコミットメントへ」という文学的転回を果たしていることで知られています。
 
村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から始まるいわゆる「鼠三部作」と呼ばれる初期作品において鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」と呼ばれる倫理です。すなわち、ここでは近代文学を規定してきたいわゆる「政治と文学」の問いから「政治(正義と悪の記述法)」を一旦切り離し「文学(自己の記述法)」へ特化するという選択が取られています。 そしてこの「デタッチメント」の倫理は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」においていよいよ完成を見ることになり、1000万部のベストセラー「ノルウェイの森(1987)」ではさらなる深化を遂げました。
 
ところが1995年前後において氏はそれまでの倫理的作用点を大きく転回して、かつて切り離した「政治と文学」の再統合を志向するようになります。こうした文学的転回の下で世に問われた長編小説が「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」です。これまでの村上作品は喪失したものを静かに受け入れていく「諦観の物語」という側面が強かったように思えます。けれども、この「ねじまき鳥クロニクル」という作品は全く違います。いわば本作は、喪失したものを何が何でも奪い返そうとする明確な「コミットメント」の意志に満ちた「奪還の物語」といえます。
 
そして、この1995年は阪神大震災地下鉄サリン事件に象徴される年としても記憶されています。この二つの出来事は因果的には何の関連性もないはずですが、もしもこれを共時的に見るとすれば、そこには日本社会において長年のあいだ厳重に「戸締まり」されてきたはずの「何か」が一気に噴出してきたかの如き観を呈しているようにも思えてなりません。
 

* かえるくん、東京を救う

 
こうした意味で村上氏の短編集「神の子どもたちはみな踊る(2000)」で描き出されたものたちは、いわば「1995年的なもの」としての「何か」に他なりません。そして同書を構成する6つの短編のうちの一つに「かえるくん、東京を救う」という作品があります。
そのあらすじはこうです。東京で銀行員として働く冴えない中年男性である片桐はある日アパートに帰るとそこには人間大の巨大なカエルが待ち構えており、彼は自分がここにきたのは東京を壊滅から救うためだといいます。「かえるくん」と自称する彼によれば片桐の勤める信用金庫の地下には「みみずくん」と呼ばれる大地震を起こす巨大ミミズが棲息しており「みみずくん」との闘いには片桐の持つ「勇気と正義」が必要なのだと力説します。この点、東京に壊滅的な災厄をもたらす存在である「みみずくん」について「かえるくん」が語る次の一節は、1995年の日本社会で噴出した「何か」の本質を極めて明晰に言語化しているといえるでしょう。
 
誤解されると困るのですが、ぼくはみみずくんに対して個人的な反感や敵対心を持っているわけではありません。また彼のことを悪の権化だとみなしているわけでもありません。友だちになろうとか、そういうことまでは思いませんが、みみずくんのような存在も、ある意味では、世界にとってあってかまわないのだろうと考えています。世界とは大きな外套のようなものであり、そこには様々なかたちのポケットが必要とされているからです。しかし今の彼は、このまま放置できなくらい危険な存在になっています。みみずくんの心と身体は、長いあいだに吸引蓄積された様々な憎しみで、これまでにないほど大きく膨れ上がっています。おまけに彼は先月の神戸の地震によって、心地の良い深い眠りを唐突に破られたのです。そのことで彼は深い怒りに示唆されたひとつの啓示を得ました。そして、よし、それなら自分もこの東京の街で大きな地震を引き起こしてやろうと決心したのです。
 
(「かえるくん、東京を救う」より)

 

そして、この一節は、今年公開された新海誠氏の最新作である「すずめの戸締まり」という映画を読み解く上で極めて重要な示唆を含んでいるように思えます。
 

* 新海映画におけるデタッチメントとコミットメント

 
おそらくは村上氏の作風変遷と同様に、これまでの新海映画における作風変遷も、端的に言えばやはりまた「デタッチメントからコミットメントへ」として名指すことができるでしょう。
 
この点、ゼロ年代における「ほしのこえ(2002)」「雲のむこう、約束の場所(2004)」「秒速5センチメートル(2007)」といった作品では、当時しばし「セカイ系」と名指されたように、喪失したものを浄化的反省によって受け入れていくという「デタッチメント」が描き出されました。
 
ところが2010年代前半における「星を追う子ども(2011)」「言の葉の庭(2013)」といった作品では喪失したものを強い意志をもって奪還しようとする「コミットメント」が打ち出されました。さらに2010年代後半における「君の名は。(2016)」「天気の子(2019)」といった作品では、その「コミットメント」の対象は「災害」や「天気」といった公共的なものへ向けられていくことになります。
 
そして、この新海映画における転換期にあたる2011年は東日本大震災福島第一原発事故に象徴される年として記憶されています。
 
この点「神の子どもたちはみな踊る」という短編集は「1995年的なもの」に対する村上氏からのひとまずの回答でした。こうした意味で本作「すずめの戸締まり」は新海映画における「コミットメント」の現時点での到達点であり、かつ「2011年的なもの」に対する新海氏からのひとまずの回答であったともいえるのではないでしょうか。
 
(以下の記述では本作についてのネタバレが含まれています)
 
 
 

* 災厄を鎮める「戸締まり」の旅

 
本作のあらすじは次のようなものです。九州は宮崎の静かな町で叔母と暮らす17歳の少女、岩戸鈴芽(すずめ)は登校中に長髪の青年とすれ違います。その青年は「このあたりに廃墟はありませんか?」とすずめに尋ねます。彼の後を追ってすずめが迷い込んだ山中の廃墟には、ぽつんとたたずむひとつの古ぼけた扉がありました。
 
この「後ろ戸」と呼ばれる扉は「現世(現実世界)」と「常世(全ての時間が混ざり合う幻想空間)」をつなぐ扉であり、この扉が開くと、そこから巨大なミミズ(一般人には不可視の存在)が出現して地震を起こすのでした。
 
そして青年、宗像草太は「後ろ戸」に鍵をかける「閉じ師」として各地を旅していました。そして二人の前に突如現れた謎の喋る猫のダイジンは「すずめすき」「おまえはじゃま」といい、果たして草太は小さな椅子に姿を変えられてしまいます。
 
逃げるダイジンを追って草太とすずめはフェリーに乗り込み宮崎を離れ愛媛に向かいます。こうして不思議な扉と小さな猫に導かれ、日本各地の厄災を鎮めていくすずめの「戸締まり」の旅が始まりました。そして最後に辿りついた場所ですずめを待っていたのは、長らく忘却していたある真実でした。
 

* 本作は何にコミットメントしたのか

 
本作において地震をもたらす巨大ミミズは村上氏の「かえるくん、東京を救う」に登場した「みみずくん」を容易に想起させる存在です。この点「みみずくん」は、1995年1月17日に起きた阪神大震災を契機として深い眠りから目覚めた存在として設定されていました。
 
翻って本作の根底には2011年3月11日に起きた東日本大震災の記憶があります。主人公のすずめ自身も幼少期に震災で親を亡くしており、そのため彼女は長年にわたり自分の命などいつどうなってもいいというある種のサバイバーズ・ギルトに囚われていました。
 
そして何より「後ろ戸」が出現する廃墟という場所は風化した記憶が滞留する場所であり、そこで「後ろ戸」を「戸締まり」するには、その場所にかつていた人々の声を傾聴し、その生の記憶を弔う必要があります。
 
こうしたことから、本作からは「あの3.11にいかに向き合うのか」といった問いが強く鳴り響いてきます。「君の名は。」や「天気の子」でも常に伏在していたこの問いを、ついに本作では真正面に押し出してきたといえます。
 
けれども、その一方で本作は東日本大震災という「出来事それ自体」のみならず、あの震災を契機に噴出した日本社会における「2011年的なもの」へのコミットメントを志向した作品であります。そしてここに村上氏と新海氏の作風変遷を重ね合わせるのであれば、この「2011年的なもの」の本質を捉えるためには、やはりあの「1995年的なもの」の本質に再び立ちかえる必要があるでしょう。
 

* 1995年におきた社会像の変化

 
国内批評において1995年とは日本社会においてポストモダン状況がより加速した年として位置付けられています。ここでいうポストモダンとは社会全体を規定する「大きな物語」が失墜して、社会全体が共有する規範や価値を見出せなくなった時代をいいます。ではこうしたポストモダン状況が加速した社会においては何が起きるのでしょうか。
 
この点、哲学者/批評家の東浩紀氏は「動物化するポストモダン(2001)」において1995年における変化を「ツリーからデータベースへ」という転回から捉えます。東氏は近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘した上で、オタク系文化における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造は、そのままポストモダンにおける世界構造と対応しているといいます。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「小さな物語=シュミラークル」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となっているということです。
また、社会学者の大澤真幸氏は「不可能性の時代(2008)」において1995年における変化を「第三者の審級の撤退から回帰へ」という観点から捉えます。ここでいう「第三者の審級」とは特定の共同体を意味づけ正当性を付与する超越的他者を指します。そしてこのような意味での「第三者の審級」が、社会における「規範の制定者」の位置から撤退した時、我々の社会は「リスク社会」となります。リスク社会とは人が「真の意味で」自己選択と自己責任を強制される社会です。「真の意味で」というのはその選択の責任を「神の名」や「父の名」といった「第三者の審級」に帰することができないという意味です。こうして規範なき「リスク社会」における自己選択と自己責任の帰結として、必然的に個人の行為は己の享楽の最大化へ向かうことになります。そして、ここでは「規範の制定者」から撤退したはずの「第三者の審級」が今度は「享楽の強制者」としていわば裏口から回帰することになります。
そして、批評家の宇野常寛氏は「リトル・ピープルの時代(2011)」において1995年における変化を「ビック・ブラザーからリトル・ピープルへ」という変化から捉えます。氏は村上氏が2009年にエルサレム賞受賞式において行った「壁と卵」という名で知られる有名なスピーチを引きつつ、かつて近代における「壁」とは、単一のイデオロギー大きな物語)の語り手としての「ビッグ・ブラザー(疑似人格体)」であったが、ポストモダン状況の加速する現代においては、かつての「壁」である「ビッグ・ブラザー」が解体されていく一方で、新たな「壁」として無数の「卵」たちの無限連鎖によって形成される不可視の環境である「リトル・ピープル(非人格的システム)」が浮上するとして、このような「リトル・ピープル」から解き放たれた不可視の力こそが、現代においては時に「悪」として作用するといいます。
なお、ここで宇野氏のいう「リトル・ピープル」とは村上氏の長編小説「1Q84(2009〜2010)」に登場する超自然的な幽体に由来する概念であり、その意味で「かえるくん、東京を救う」に登場する「みみずくん」とはまさに後の「リトル・ピープル」の前駆的存在であったといえるでしょう。
 

*「正しさ」と「正しくなさ」の脱構築

 
以上の三者の議論はそれぞれが対立する箇所も少なくない一方で、その議論の中にはある種の連続性を見出す事もできます。
 
すなわち、東氏が「大きな物語」なきポストモダンにおいて個人がその生を基礎付ける「小さな物語」を生成するシステムとして「データベース」を想定したのであれば、大澤氏はこうした物語を生成するシステムの作動原理として「(享楽の強制者としての)第三者の審級」を想定し、宇野氏は物語とシステムの共犯関係が生み出す病理現象を「リトル・ピープル」と名指したことになります。
 
そして、無数の「卵」の無限連鎖からなる「リトル・ピープル」は表面的には「壁」に対峙する「卵」が掲げる「正しさ」を伴うものとして出現します。こうした「正しさ」という名の「リトル・ピープル」は2011年の震災以降、ソーシャルメディアの普及により日本社会において一層加速していき、果たして2010年代は無数の「正しさ」がこの世界を友敵に切り分けていく「動員と分断の時代」であったといえるでしょう。
 
こうしたことから本作が真に「戸締まり=コミットメント」しようとしたものとは、ある面ではこの「2011年的なもの」として噴出した「正しさ」だったのではないかと思えてなりません。
 
この点、特筆すべきは本作では2022年現在における一般的な「正しさ」からすると、おおむね不適切だったり不道徳であると見做されそうな数々の行動や風景が肯定的に、あるいは誇張的に描き出されている点です。
 
ここにはひとつの「正しさ」ですべてを統べようとするのではなく、むしろ無数の「正しくなさ」がゆるやかに共存していくための一つの倫理が提示されているようにも思えます。こうした意味で、いわば本作は「正しさ」と「正しくなさ」という二項対立的価値観にある種の脱構築を志向する物語であったといえるのではないでしょうか。