かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

非意味的なコミュニケーションがもたらすもの--映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ

 

* その人だけのもやもやとした感情に、名前をつけること

 
最果タヒさんの詩は何というのか、言葉の手前にある「過剰な何か」を救い出そうとしているように思えます。この点、栗原裕一郎氏が指摘するように「歌詞のようにポップだが、文が意味を結びそうになる手前で理解から逃れていく」最果作品の特性は、おそらく「もやもやしたものをもやもやしたまま差し出す、いわば未然の感情を未然の状態のまま届けるべく言葉を並べようと」するその詩想に由来するものなのでしょうか(虚構という『系』から『きみ』を救い出すこと 最果タヒ小論:早稲田文学2015年夏号)。
 
ここで栗原氏のいう「未然の感情」とは、言葉にしてしまった瞬間に「死んでしまう」ような極めて繊細な感情のことです。この点、2014年に公刊された第三詩集「死んでしまう系のぼくらに」のあとがきで最果氏はこう述べています。
 
意味の為だけに存在する言葉は、時々暴力的に私達を意味付けする。その人だけのもやもやとした感情に、名前をつけること、それは、他人が決めてきた枠に無理やり自分の感情をおしこめることで、その人だけのとげとげとした部分は切り落とされ、皆が知っている「孤独」だとか「好き」だとかそういう簡単な気持ちに言い変えられる。
 
(「死んでしまう系のぼくらに」より)
 
すなわち、この詩集の表題にある「死んでしまう系」とは「その人だけのもやもやとした感情=未然の感情」にに「名前をつけること」で「死んでしまう」という「系=システム」のことを指しているのだと思われます。そして、2016年に公刊された最果氏の第四詩集「夜空はいつでも最高密度の青空だ」を題材としたこの映画も、まさにこうした「系=システム」以前にある「未然の感情」を映像的なアプローチから露わにしようとする一つの試みであったのではないでしょうか。
 

*「どうでもいい奇跡」を紡ぐ物語

本作の舞台は渋谷と新宿であり、主人公は二人の若い男女です。美香(石橋静河)は看護師として病院に勤務しながら、経済的に厳しい実家に仕送りをするため夜はガールズバーのアルバイトをしています。そして、慎二(池松壮亮)は工事現場の日雇い労働者として働き、木造アパートでギリギリの生活をしています。
 
ある日、看護師の同僚と合コンに行った美香は席を外した際、一人客で来店していた慎二とすれ違いざまに目が合います。その後、慎二は工事現場の同僚の智之(松田龍平)らと成り行きでガールズバーに行くことになり、たまたまその店で働いていた美香と遭遇します。その帰り道、人身事故で終電を無くして深夜の渋谷を歩いていた慎二は、仕事が終わり帰宅する途中の美香に声を掛けられます。
 
「なんでこんなに何回も会うんだろうね。東京には1000万人も人がいるのに、どうでもいい奇跡だね」
 
その後、現場で脳卒中を起こして亡くなった智之の葬儀で慎二と美香は再会し、さらに後日、現場で怪我をした慎二が病院に行くと看護師として働く美香と出くわすことになります。
 
「また会えないか」と言う慎二に美香は「まあ、メールアドレスだけなら教えてもいいけど」と答え、2人はぎこちない交流を始めます。
 

* 非意味的なコミュニケーションがもたらすもの

 
慎二は左目が見えておらず社会に適応できない不安を抱いています。そして場の空気がうまく読めず突然、脈絡のないことをとめどなく喋り始めてしまう癖を持っており、周囲から顰蹙を買うこともしばしばです。
 
一方で、美香は幼少時に母を亡くし、死に対する不安を感じながら育ち、今は患者の死を当たり前のように受け入れなければならない日々を過ごしています。慎二が喋らないと美香は不安になり、代わりに自分が脈絡のない事をとめどなく喋り始めたりもします。
 
この映画の大きな特徴の一つには、このような非意味的なコミュニケーションがあります。ここでいう「非意味」とは「無意味」とは少し異なります。すなわち「無意味」は「意味がなくなる次元」をいいますが「非意味」とは「意味ではない次元」をいいます。
 
慎二も美香も不安に駆られて非意味的に言葉を発し、時にはお互いの発する非意味な言葉同士が衝突したりもします。けれども、このような衝突からやがて2人の間に「分かり合えなさを分かりあう」という逆説的なコミュニケーションがもたらされることになります。
 
こうした本作が描く非意味的なコミュニケーションのあり方には、おそらく最果さんの詩と共通するアプローチを見出すことができるでしょう。ここで思い起こされるのは最果さんの次のような言葉です。
 
詩を書くようになって、もっと曖昧なものを作るようになって、何言ってんのかわかんないって言われることも時々あったけれど、私はたぶんすべての人に対して何言っているかわかんないって思っている。むしろ何言っているのか分かったら気持ち悪いな、吐いちゃうな、ときっとどこかで考えている。分かってもらえないことや、わかってあげられないことが、ちゃんと心地よいままでいたい。わかんない部分があるからあなたと私は他人なんです。そういう態度でいたかった。
 
(「君の言い訳は最高の芸術」より)
 

*「青空の詩」から考える

 
そして、このような非意味性は、この映画のモチーフとなっている最果さんの第四詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」の冒頭に置かれた「青色の詩」にも極めて印象的な形で現れてます。
 
都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
 
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
 
 
きみがかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、
 
君はきっと世界を嫌いでいい。
 
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。
 

 

この詩が概ね意味するところはフランスの精神分析家、ジャック・ラカンの名高いテーゼ「性関係の不在」からひとまず読み解くことができるでしょう。
 
ラカン曰く、人は言語の主体となることで言語によって捉えることのできない「何か」を喪失します(「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。」「塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。」)。
 
その「何か」をラカン精神分析的意味における「欲動」が満足した状態としての「享楽」といいます。けれども人は言語の主体である以上、決して「享楽」の境域に到達することはあり得ず、その周囲をひたすら空回りすることになります。この「享楽の不可能性」をめぐり空回りするだけの果てしない徒労を称して人生といいます(「きみがかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、」「君はきっと世界を嫌いでいい。」)。
 
そしてこのような「享楽の不可能性」を男女関係で言い表せば「性関係の不在」ということになるわけです(「そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。」)。
 
ここには極めて逆説的なメッセージを読み取ることができるでしょう。人はどう足掻いたって「享楽」に辿り着けない、だから君が世界を嫌っていても全然おかしくない、性関係などどこにもない、恋愛なんて所詮はまやかしだ、世界はそもそもそういう風にできているんだから・・・そして、これは本作において「愛」をどこか嘘くさいものと思っている美香の諦念とも重なり合います。
 

* よくわからないけど何故かよくわかる

 
けれども同時に、この詩には以上のような「意味」に還元できない「非意味」があります。ここで鍵となる言葉がまさにこの詩の中心にやや唐突に置かれた「夜空はいつでも最高密度の青色だ」という「文字列」です
 
この一文の「意味」を強いて解釈すれば「隠極まれば陽となる」とか「絶望は転じて希望となる」などというやはり逆説的なメッセージです。けれども、その「意味」をそのまま詩の中に書いてしまっても、それはその辺に普通にありがちな、極めて凡庸なメッセージにしかならないでしょう。
 
重要なのは「夜空はいつでも最高密度の青色だ」というこの「文字列」自体が持つ視覚的・聴覚的な力強さ、美しさ、気持ち良さです。すなわち、この非意味的な「文字列」が詩の中心に置かれることによって「青色の詩」という布置全体に「隠極まれば陽となる」とか「絶望は転じて希望となる」などという説教臭い凡庸な「意味」を超えたところにある「よくわからないけど何故かよくわかる」という謎の肯定感を与えているのではないでしょうか。そして、このような布置をどうにか物語にした試みがあるいは本作であったように思えます。