かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

自然主義的現実とデータベース的現実

 

* 風景の発見と内面の発見

 
柄谷行人氏は「近代日本文学の起源(1980)」において、近代文学におけるリアリズムとは「風景の発見」と「内面の発見」によって支えられているといいます。
ここでいう「風景」とは、ただ単に外界に存在する客観物ではなく、むしろ「客観/主観」という区別それ自体を生じさせる認識論的な布置を指しています。近代日本文学においてこのような意味での「風景」を見出した先験例として柄谷氏は明治31年に発表された国木田独歩の「武蔵野」と「忘れえぬ人」を取り上げます。
 
「忘れえぬ人」の結末が示唆するように、氏は「風景」とは「外」にではなく、むしろ「内」によって見出されるという、知覚の様態におけるある種の価値転倒ないし倒錯により生じるものであるといいます。すなわち「風景」とは、それまでの外界を疎遠化することで生じる「内面」の中において見出されることになります。
 
ここでいう「内面」とは、自らの声を聴く体験をいいます。そして氏はこのような「内面」の成立には精神分析の始祖、ジークムント・フロイトのいうところの「抽象的思考言語」が必要であるといい、それは我が国においては「言文一致」という近代的な制度によって生み出されたと主張します。
 

* 透明な言葉

 
「言文一致」とは明治20年前後の近代的諸制度の確立が言語レベルで表れたものをいいます。この点「言文一致」とは単純に「話し言葉」と「書き言葉」を一致させることではありません。それはすなわち、全く新たな「言=文」という「抽象的思考言語」を創出するという一種の「文字改革」のことをいいます。
 
こうした意味での「言文一致」の運動の起源は幕末の前島密による「漢字御廃止之儀」の建白に求められます。この前島の提言は「言文一致」の本質をよく捉えています。「漢字御廃止」とは、文字通りの意味というよりも、我が国伝統の漢字中心の形象思考を転倒させ、「文字(漢字)」よりも「音声」が優位するという西洋流の「音声中心主義」を確立する思想に他なりません。
 
幕府反訳方を務めていた前島が注目したのはアルファベットのもつ経済性、直接性、民主性にありました。彼にとって西欧の優位性はその音声中心主義に求められ、従って日本の近代化において「音声中心主義」を確立することこそが緊急の課題とみなされたのです。そして一旦「音声中心主義」が確立されたのであれば、もはや漢字を実際に廃止するかどうかは二次的な問題に過ぎません。
 
そして、この「音声中心主義」を完全に内化する事で初めて人は「内面」という幻想を見出す事になります。そして同書は、このような「内面」から聴こえてくる声を記述した言葉を「透明」の言葉といいます。その意味で独歩が見出した「風景」とは「透明」な言葉によって記述されたものでした。
 
しかし、私が問題にしてきたのは、写すということがいかなる記号論的布置において可能なのかということである。事物があり、それを観察して「写生」する、自明のようにみえることのことが可能であるためには、まず「事物」が見出されなければならない。だが、そのためには、事物に先立ってある「概念」、あるいは形象的言語(漢字)が無化されねばらない。言語がいわば透明なものとして存在しなければならない。「内面」が「内面」として存在するようになるのは、このときである。
 

 

すなわち、近代以前における言語は意味や歴史に満ちた「不透明」なものとして主体と世界を隔てる障害として立ち塞がっていましたが「言文一致」という制度の導入はその障害を取り除き、言語を「透明」なものへと純化して主体と世界の直結を可能にしました(少なくともそうだと人々に想像させました)。
 

* ライトノベル

 
以降、長らくのあいだ文学とは「風景」や「内面」といった「現実」を写生する営為であると見做されてきました。ところが1970年代以後、戦後児童文化の中で発達した漫画やアニメーションといった「虚構」を写生しようとする新たな文学観が台頭し始めます。こうした新たな文学観が全面化した小説の代表格が現代において「ライトノベル」と呼ばれる作品群です。
 
ライトノベル」とは漫画的なあるいはアニメ的なイラストが添付された中高生をはじめとする若年層を主要読者と想定する小説であると一般的に定義されます。その起源は1970年代のソノラマ文庫コバルト文庫に見出され、1988年に創刊された角川スニーカー文庫富士見ファンタジア文庫が現在のライトノベルの基本的スタイルを決定付けることになります。
 
そして1990年代以降、ライトノベルはアニメやゲームの市場と連携しつつ徐々に文芸市場において徐々に存在感を示し始め、ゼロ年代に入ると「ライトノベルブーム」と呼ぶべき時代が到来し、夥しい数のライトノベル作品がアニメ化されることになります。
 

* まんが・アニメ的リアリズム

 
この点、大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方(2003)」においてライトノベルの記述法を「まんが・アニメ的リアリズム」と呼びます。従来の近代文学自然主義的な「現実」を写生する「自然主義的リアリズム」に規定されているとすれば、ライトノベルは漫画やアニメといった「虚構」を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」に規定されているということです。そして大塚氏は近代文学における「私小説」との対比からライトノベルを「現実=私」ならぬ「虚構=キャラクター」を写生する「キャラクター小説」であると定義しました。
また氏によれば「まんが・アニメ的リアリズム」とは、日本における文学史と漫画・アニメ史が交差するところで生じた想像力とされます。すなわち、そこには一方で、田山花袋の「布団」に起源を持つ「私小説における私」の誕生によって抑圧された「キャラクターとしての私」の文学史的回帰があると同時に、その他方で、手塚治虫の「勝利の日まで」に起源を持つ記号的でありながらも自然主義の夢を見る漫画・アニメ史的矛盾があるということです。
 
それゆえに「自然主義的リアリズム」を経由したところで成立している「まんが・アニメ的リアリズム」においては氏が「アトムの命題」と呼ぶ漫画表現における記号的-身体的な両義性が抱え込まれることになります。
 

* 半透明な言葉

 
そして、東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において、ライトノベル(=キャラクター小説)とは本質的にポストモダン的な小説形式であると位置付け、自然主義的現実ではなくポップカルチャーのデータベースから成り立つ人工環境に依拠して制作されるライトノベルの文体は従来の近代文学の文体と異なった特性を持っていると論じます。
この点、柄谷氏は前近代の物語の言葉は「不透明」で、近代文学あるいは自然主義の描写は言葉を「透明」にすることで生まれたといい、大塚氏は、キャラクター小説はその過程で抑圧された可能性の回帰であるといいました。つまりキャラクター小説の誕生によって言葉は再び「透明」でなくなったことになります。しかしそれは単純に「不透明」に戻ったということではありません。
 
キャラクター小説を規定する「まんが・アニメ的リアリズム」は漫画表現のそのまた模倣として作られた言語であることから、ここにもまた漫画表現における記号的-身体的な両義性が抱え込まれることになります。すなわち、キャラクター小説は不透明で非現実的な表現でありながらも、現実に対して透明であろうとする矛盾が抱え込まれた言語で作られているということです。
 
そこで東氏は前近代の語りの言葉が「不透明」で、近代の自然主義文学の言葉が「透明」だという柄谷氏の比喩を拡張して言えば、キャラクター小説の文体は、近代の理想を前近代的な媒体に反射させ、その結果を取り込んだという屈折した歴史のゆえに「半透明」の言葉ではないかといいます。
 

* 現実の乱反射

 
この点、東氏はこのような「半透明」な言葉に支えられた想像力の範例として、ゼロ年代初頭に一世を風靡した「セカイ系」という想像力を挙げています。
 
ここでいう「セカイ系」とは主人公やヒロインの平凡な日常的関係を社会や国家のような中間項を介在させることなく「世界の危機」「この世の終わり」といった非日常的大問題へ直結させる想像力を指しています。このような日常と非日常を直結させるという一見荒唐無稽なセカイ系という想像力は、身体を持ちながら記号的であり、人間でありながら人間ではない曖昧な存在としてのキャラクターを描き出すことのできる「半透明」な言葉によって成立するということです。
 
すなわち、氏がいうように「まんが・アニメ的リアリズム」は、現実から完全に遊離しているのではなく現実に「半分」だけ接しており、そしてその「半分」こそが「自然主義的リアリズム」の文体では不可能な日常と非日常が隣接した独特の作品世界を可能にするわけです。
 
そして氏はキャラクター小説における文学的な可能性とは、現実を自然主義的に描写することではなく「透明」の言葉を使うと消えてしまうような現実を発見し、そのような現実を「半透明」の言葉を利用して、非日常的な想像力の上に散乱させることで炙り出すような、屈折した過程にあると考えられないかと述べ、キャラクター小説の魅力を、非現実的なキャラクターによる「現実の乱反射」に見出したいとしています。
 

* 自然主義的現実とデータベース的現実

 
このようにライトノベル(=キャラクター小説)で駆使される「半透明」な言葉とは「自然主義的現実」ではない現実を、いわば「データベース的現実」を写生する言葉であるといえます。そして今やライトノベルというジャンルに限らず文芸一般でも、このようなデータベース的現実に依拠した作品が多数見受けられます。
 
例えば2019年に「むらさきスカートの女」で161回芥川賞を受賞した今村夏子氏の文体は、平明でありながらもどこかある種の「不穏さ」を孕んでいます。この「不穏さ」の正体をあえて註釈するのであれば、それはおそらく精神病理学でいう「自明性の喪失」と呼ばれる状態に近いでしょう。
ここでいう「自明」とは、わざわざ証明したり深く考えたりする必要がないことを言いますが、なぜ「自明」なのかはよく考えれば別段はっきりとした根拠があるわけでもなく、ひとたび何らかの原因でこの「自明」が失われた時、我々はあらゆる事物の根拠をいちいち問い直さないといけなくなり、世界は我々の前に謎に満ちた異様な場として立ち現れてくることになります。
 
そして、このような「自明性」に満ちた世界と「自明性」を失った世界の対置は、自然主義的現実とデータベース的現実の対置に相当します。すなわち、今村作品における文体はデータベースにより構築された現実を自然主義的に写生するという「半透明」の言葉によって成り立っているのではないでしょうか。
 
こうした意味で「むらさきスカートの女」をはじめ「こちらあみ子」や「星の子」といった多くの今村作品では「透明」の言葉からは決して捉えることのできない「現実」を「半透明」の言葉によって捉えた「現実の乱反射」の中に映し出しているように思います。