かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

哲学と反哲学

 

*「哲学」の起源

 
「哲学」という言葉は直接的には「Philosophy」という英語に由来します。しかしこの「Philosophy」という言葉も元を辿れば「Philosophia」という古代ギリシア語をそのまま引き写したものに過ぎません。そしてこの「Philosophia」という言葉は「philein(愛する)」という動詞と「sophia(知恵ないし知識)」という名詞の組み合わせから成り立っています。従って「Philosophia=哲学」という言葉はもともと「知を愛すること=愛知」という意味に由来します。そしてこの「Philosophia=哲学=愛知」という言葉を最初に用いたのが古代ギリシアの哲学者、ソクラテスです。
 
ソクラテスが生きた当時のギリシア都市国家アテナイでは過度に発達した民主政の下で「ソフィスト」と呼ばれる知識人たちが選挙や裁判に勝つための詭弁術を金持ちの子弟に教えていました。こうした時代においてソクラテスは市民が詭弁を弄して各々の権利を主張することで民主政が衆愚政治と化し、アテナイが精神的共同体としての統一性を失うことを危惧しました。そこで彼はいわば民主政治のイデオローグともいうべきソフィストたちに挑戦することを決意します。そして「Philosophia」という抽象名詞もこうしたソクラテスの挑戦の中で持ち出されたものでした。
 
この点、ソクラテスによれば「Philosophia」とは、己の無知の自覚の上で知を愛し求める「無知の知」としての営為です。すなわち、ソクラテスは自らを「愛知者=哲学者」と規定することで、ソフィストとの論争において絶対に敗れることのない立場を確保しようとしたわけです。
 
当時のアテナイではこうしたソクラテスの戦略を「エイローネイアー」を呼びました。これがのちに「アイロニー(皮肉)」と呼ばれる言葉の由来となります。つまり「哲学」とは、元々はソフィストを嘲弄するための「アイロニー(皮肉)」の技術として登場したわけです。
 

* ソクラテスアイロニーは何を否定したのか

 
このようにソクラテスアイロニーを駆使して徹底的に否定したものとは当時のギリシア人が常に暗黙の前提としていた「自然(フュシス)」に依拠した世界観です。ここでいう「自然(フュシス)」とは今日の自然科学的対象としての自然ではなく、人間や国家や神々をさえ含めた存在者の真の「本性」を意味しています。「フォアゾクラティカー」と呼ばれるソクラテス以前の思想家たちの思索はこの「本性」たる「自然(フュシス)」の究明に向けられていました。
 
この点「自然(フュシス)」という言葉は「生成する(フュエスタイ)」という動詞に由来することから、おそらく古代ギリシアの思想家達は存在者の全体を、それぞれが何らかの〈生成〉の原理を内蔵した「成る」ものとしての「生きた自然」と見ていたと考えられます。
 
すなわち、彼らにとっての「自然」とは昼夜の交代や四季の移ろいから国家の命運や神々の諍いなどに至る世界の運動すべてを支配する根源的な原理であったと考えられます。このような古代ギリシアの世界観を今日では「自然的存在論」と呼びます。
 
ところがその後、ソフィストらの時代になると、その関心は「本性」としての「自然」の探求ではなく、むしろ「本性」に対する「仮象」であるところの現実社会(ノモス的世界)における利益の最大化に向けられてしまいました。ソクラテスアイロニーはこのような堕落した「自然的存在論」に鋭く向けられていたわけです。
 

* イデアと制作的存在論

 
ソクラテスが堕落した「自然的存在論」を駆逐した哲学者なのだとすれば、彼の弟子であるプラトンは従来の「自然的存在論」に代わる新たな存在論を立ち上げた哲学者といえます。そしてこのプラトンが立ち上げた新たな存在論の枢要に位置するのが「イデア(idea)」という概念です。
 
ここでいう「イデア」とは、言うなれば「たましいの眼」によってのみ洞察可能な事物の本来的で純粋な「すがたかたち」を意味します。この点、プラトンは全ての事物にイデアを認め、さらには物の性質や関係に関しても「正しさのイデア」とか「美しさのイデア」といったものを考えました。そしてプラトンはこの現実世界を超えたところにあるイデアだけで構成される「イデア界」を想定し、現実世界における全ての事物はこのイデア界から借用してきた「形相(エイドス)」と自然界の「質料(ヒュレー)」との合成物であり、その存在を左右するのはあくまで「形相」であり「質料」ではないと考えました。
 
こうしたプラトンの立ち上げた新しい存在論はいわば全ての個物はイデアという設計図に基づいて「製作」されたものであるという「制作的存在論」とでも呼ぶべきものです。そして従来の「自然的存在論」における「本性」としての「自然(フェシス)」はプラトンの「制作的存在論」においては単なる制作材料としての「物質」に格下げされることになります。
 

* 世界の究極の目的

 
もっとも本来無構造な質料がイデア由来の形相によって構造化されるというプラトン存在論は建物や道具などの制作物の存在構造は上手く説明できますが、もともとそれ自体が形相なのか質料なのかよくわからない自然物の存在構造には馴染みにくい難点があります。その意味でプラトンの制作的存在論ギリシア伝来の自然的存在論と真っ向から対立するものでギリシア人にとっては「異国風」と思われました。
 
そこでプラトンの弟子のアリストテレスは制作物にしか適用できない「形相」と「質料」というプラトン存在論のカテゴリーを修正して、自然的存在者にも適用できるものにしようと試みます。つまりプラトンの制作的存在論の行き過ぎを巻き戻してギリシア伝来の自然的存在論との調停を図ろうとしたわけです。
 
この点、プラトンは「形相」と「質料」の関係を切り離していましたが、アリストテレスは「質料」はそれぞれなんらかの「形相」を可能性として含んでいる「可能態(デュナーミス)」であると考え、そしてその可能性が現実化された状態を「現実態(エネルゲイア)」と呼びます。つまりアリストテレスは「質料-形相」という図式を「可能態-現実態」という図式に組み替えるわけです。
 
こうしてアリストテレスは自然物であれ制作物であれ全ての存在者は「可能態」から「現実態」へ向かう運動のうちにあると考え、その運動が目指している目的(テロス)をアリストテレスは「純粋形相」とか「神」と呼びます。この「純粋形相」とは己の含む全ての可能性を現実化し尽くした、もはや現実化されていない可能性を全く残していない「不動の動者」というべき存在であり、他の全ての存在者の運動を己へと引き寄せる世界の究極の目的とされる存在です。
 
この意味で純粋形相はもはや一切の生成消滅を免れている超自然的な存在であり、その限りでプラトンイデアと同質ということになります。すなわち、プラトンイデア論アリストテレスは批判的に継承したといえます。
 

*「哲学=形而上学」の鳴動

 
そして、このようなアリストテレスが確立した思考様式は「第一哲学」と名付けられ、後世において「形而上学」と呼ばれることになります。すなわち「自然」の外部に「超自然的原理=形而上学的原理」を設定し、これを参照しながら「形而下」としての「自然」を理解しようとする思考様式です。
 
こうしてソクラテスプラトンアリストテレスというギリシア古典時代における3人の思想家の下で「形而上学=哲学」という思考様式が鳴動を始めます。そしてその「超自然的原理=形而上学的原理」は、その時々の時代ごとに「イデア」「純粋形相」「神」「理性」「絶対精神」などと、その呼び名を変えてゆくことになりますが、この思考パターンそのものは、その後多少の修正を受けながらも一貫して受け継がれ、近代ヨーロッパ文化形成の基本的構造を描いていくことになります。
 
また、このような形而上学的思考様式の下では自然とはそれ自体では非存在であり、超自然的原理の側から形成され構造化されることで初めて存在者となりうるという「物質的自然観」が取られることになり、この「物質的自然観」が近代になると数学的表現によって量的に規定可能な「機械論的自然観」となり、近代自然科学の発展を基礎付ける事になります。
 
さらに、プラトンが区別した「形相」によって規定される存在(「…デアル」という意味での存在)と「質料」によって規定される存在(「…ガアル」という意味での存在)はアリストテレステレスの下で「それが何であるかという存在(ト・テイエ・エステイン)」と「それがある(かないか)という存在(ト・ホテイ・エステイン)」という言葉で概念化され、この二つの存在概念はのちの中世のスコラ哲学において「本質存在(エッセンティア)」と「事実存在(エクシステンティア)」の区別へ引き継がれます。こうして「存在」という概念は「ある」という単純性を失い「本質存在(デアル)」と「事実存在(ガアル)」に分岐し、そこでは概ね前者が後者に優越するという構図が想定される事になります。
 

* 形而上学的思考様式の完成形としての「近代理性主義」

 
普通「哲学」というと世界と人間に関する普遍的な知をイメージしたりするわけですが、こうしてみると実際のところの「哲学」とはヨーロッパという一地域にたまたま生じた「形而上学」という特殊な思考様式に過ぎないわけです。そしてこの形而上学的思考様式の完成形が「近代理性主義」です。
 
人間の歴史における「近代」を創建した哲学者がルネ・デカルトであり「近代」を確立した哲学者がイマヌエル・カントであるとすれば「近代」を完成させた哲学者がゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルということになるでしょう。デカルトが神の後見の下に見出した神的理性は、カントによって神から切り離された人間理性へと純化され、ヘーゲルの下で絶対的自由を獲得した超越論的主観へと昇華されます。
 
この点、ヘーゲルは晩年の著作となる「法哲学講義(1821)」において「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というテーゼを掲げています。すなわち、理性の認めるものだけが現実に存在する権利を持つ以上、現実に存在する全てのものは理性的であり、理性によって隈なく認識可能となり合理的に制御可能となるということです。こうしてヘーゲルはいまや人間はついに世界を統べる理性を獲得したことを力強く宣明して「近代理性主義」の完成を寿ぐ凱歌を上げました。
 

* 近代理性主義批判と「生きた自然」の復権

 
ところがヘーゲルが歿した1830年代前後からフランス革命に対する失望や急速に拡大しつつあった技術文明社会への懸念を背景として近代理性主義に対する批判が様々な角度から展開されるようになります。
 
例えばかつてのヘーゲルの盟友でもあったフリードリヒ・シェリングは長らくヘーゲルの盛名の影で不遇をかこっていましたがヘーゲル歿後に表舞台に返り咲き、近代哲学を事物の「本質存在」だけを問題する「消極哲学」であると批判し、近代哲学が目を背けた事物の「事実存在」を根源的に問い直す「積極哲学」を展開しました。また当時、ヘーゲル哲学に疑念を抱えながら悩み多き青年期を過ごしていたセーレン・キルケゴールシェリングの講義に触発される形で事実存在としての自分自身の「実存」を軸とした独自の思索を深め「死に至る病」をはじめとした実存主義の先駆けとなる著作を多数残しました。同じく当時、急進的な論客として頭角を現しつつあったカール・マルクスは従来の機械論的唯物論ヘーゲル的観念論を統合した自然主義人間主義的立場に立脚し、資本主義社会において疎外された労働者が本来的人間性を取り戻すための新たな唯物論を打ち出しました。
 
こうした中で近代理性主義=形而上学思考様式の限界を乗り越えようとする新たな思想をもっとも壮大なスケールで立ち上げたのがあの「神は死んだ」という警句で知られる19世紀の思想家、フリードリヒ・ニーチェです。
 
ニーチェは当時のヨーロッパを覆っていた雰囲気を「心理的状態としてのニヒリズム」と呼んでいます。そしてニーチェはいまやヨーロッパ文化全体を覆うニヒリズムの原因は一時的な時代のモードではなく、ヨーロッパ社会を長らく支配してきた形而上学的な思考様式が限界に突き当たったことによるとして、この事態を極めて端的に「神は死んだ」と宣明します。
 
そしてニーチェニヒリズムの克服のためには「神」とか「理性」といった形而上学的原理に一切頼ることなく、この世界における現実がそれ自身で有している意味や価値をありのままに積極的に肯定し、形而上学的原理により「物質」に貶められる以前の、それ自身のうちに〈生成〉の原理を内包した「生きた自然」から全ての存在者を基礎付ける新しい存在論が必要なのだと考えました。すなわち、ニーチェの提出した「力への意志」や「等しきものの永遠回帰」といった有名な概念はまさにこれまでの形而上学的思考が覆い隠してきた「生きた自然」の復権を企図するものであったといえるでしょう。
 

* 哲学と反哲学

 
そして20世紀に入り、このようなニーチェの描いた構想はマルティン・ハイデガーによって緻密に理論化されることになります。ハイデガーは「哲学=形而上学」という知がヨーロッパという一地域における特殊な思考様式であることを徹底的に跡付けて、この思考様式の必然的帰結が現代の科学至上主義であるとして、今日の原子力を始めとする巨大技術文明の先行きへの懸念から、今やこの「哲学」と呼ばれてきた思考様式の克服が急務なのであると主張しました。そしてハイデガーの影響を受けた現代思想の潮流の中で「哲学」という名の知は、もっぱら「乗り越えるべき対象」として見做されるようになりました。
 
このような意味で「哲学の批判」「哲学の解体」を目指す現代的志向を木田元氏は「反哲学」と呼びます。
 
「反哲学」とは「哲学=形而上学」によって「物質」に貶められてしまった「生きた自然」のいわば復権運動ともいえます。こうして考えると反哲学的な思考は日本的ないし東洋的感覚にむしろ馴染み深いものがあるのではないでしょうか。例えば古事記の最古層には「葦牙の萌え上がるごとく成る」という記述が見られますが、このような自然観を古代日本では〈ムスヒ〉と呼んでいます。高御産霊神などの神名に含まれる〈ムスヒ〉とは「苔ムス」「草ムス」などいう場合の「ムス」と原理を意味する「ヒ(霊)」が結合した言葉です。おそらく古代日本人もまた、ありとしあらゆるものを〈ムスヒ〉という「生きた自然」として捉えていたと思われます。
 
そして木田氏はこのような「反哲学」の立場から見た「哲学」の歴史はこれまでとは違って見えてくるに違いないと述べています。こうしたことから、もし「哲学」に興味はあるけれど、その敷居の高さを感じるのであれば、むしろ「反哲学」という批判的な視点から「哲学」に入門してしまうのもひとつの手であるといえるかもしれません。