かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

日本文学における実存と構造

 

* 実存主義の起源

 
実存主義」とはいわば「哲学への叛逆」から始まりました。周知の通り、古代ギリシアにおいてソクラテスによって創始された「哲学」なる営為は、その後継者であるプラトンアリストテレスを経由して、やがて後世において「形而上学」と呼ばれるようになります。
 
ここでいう「形而上学」とは我々の生きる世界を構成する「自然」の外部に「超自然的原理=形而上学的原理」を設定し、ここから演繹的に「形而下」としての「自然」を理解しようとする思考様式です。この「超自然的原理=形而上学的原理」は、その時々の時代ごとに「イデア」とか「純粋形相」とか「神」とか「理性」とか「絶対精神」などと、その呼び名を変えてゆくことになりますが、この思考様式そのものは多少の修正を受けながらも近代ヨーロッパ文化の中で一貫して受け継がれていく事となります。
 
普通「哲学」というと世界と人間に関する普遍的な知をイメージしたりするわけですが、実際のところ「哲学」とはヨーロッパという一地域にたまたま生じた「形而上学」という名の特殊な思考様式に過ぎないということです。そしてこの形而上学的思考様式の完成形が「近代理性主義」です。
 
人間の歴史における「近代」を創建した哲学者がルネ・デカルトであり「近代」を確立した哲学者がイマヌエル・カントあるとすれば「近代」を完成させた哲学者がゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルということになるでしょう。デカルトが神の後見の下に見出した神的理性は、カントによって神から切り離された人間理性へと純化され、ヘーゲルの下で絶対的自由を獲得した超越論的主観へと昇華されます。
 
ところがヘーゲルが歿した1830年代前後からフランス革命に対する失望や急速に拡大しつつあった技術文明社会への懸念を背景として、近代理性主義に対する批判が様々な角度から展開されるようになります。
 
例えばかつてのヘーゲルの盟友でもあったフリードリヒ・シェリングは長らくヘーゲルの盛名の影で不遇をかこっていましたがヘーゲル歿後に表舞台に返り咲き、近代哲学を事物の「本質存在」だけを問題する「消極哲学」であると批判し、近代哲学が目を背けた事物の「事実存在」を根源的に問い直す「積極哲学」を展開しました。
 
また当時、ヘーゲル哲学に疑念を抱えながら悩み多き青年期を過ごしていたセーレン・キルケゴールシェリングの講義に触発される形で、神の前にただ一人立つ「単独者」としての真理の在り処を究明しました。
 
そして「神は死んだ」という警句で知られるフリードリヒ・ニーチェは当時ヨーロッパ文化全体を覆ったニヒリズムの根源を古代ギリシア以来の「哲学=形而上学」という思考様式それ自体に求め、これを克服すべく「力の意志」と「永遠回帰」からなる世界像と「超人」という主体像を提唱しました。
 
こうして「近代理性主義」への批判は、その基盤である「哲学=形而上学」の克服へと発展していく事になり、このような「反哲学」と呼ぶべき潮流の中に「実存主義」の起源を見出すことができます。
 

* 実存は本質に先立つ

 
そして「実存主義」は第二次大戦後に全面的に開花することになりました。ジャン=ポール・サルトルが1945年に行った「実存主義ヒューマニズムか?」と題する講演は「実存主義」という言葉を世界的に有名にしました。
 
この講演においてサルトルは次のように言います。いま仮にここに1本のペーパーナイフがあるとする。これがどのようにして作られたのかというと、職人がまず頭の中にこれから作るペーパーナイフの姿を、いわばその「本質」を思い浮かべてから制作に取り掛かったはずである。すなわち物品の場合、その「本質」は「実存」に先立つ事になる。
 
ところが、人間の場合は全く逆である。もし神が天地の創造者だとすれば、神は一人の職人になぞらえることができる。そうであれば神は人間を創造する前に、自分がこれから作り出す人間の「本質」をあらかじめ知っていなければならない。従って人間の「実存」に先立ち、神の思考のうちに人間の「本質」が存在しなければならない。
 
けれども、今ここで仮に神の存在を括弧に入れるのであれば、全ての人間に共通した一つの「本質」というものが始めに存在することはあり得ないことになる。したがって人間の場合は物品の場合と異なり「実存は本質に先立つ」と言わねばならない、ということです。
 
この点、サルトルは人間の「実存」とは一つの企てであるといいます。すなわち、事物が単に「あるもの」で「ある」に対して、人間は、自分が現に「あるもの」で「あらぬ」ように、かつ「あらぬもの」で「ある」ように、自己の外にある彼方へ向かって常に「自己」から「脱出」していく「脱自」的な存在であるという事です。それゆえにサルトルは実存は「アンガージュマン(社会参加)」によって、多くの人と連帯して理想の社会を切り開いていかなければならないと力説するのでした。
 

* 構造主義の登場

 
こうしてサルトルの唱導する「実存主義」は大戦によって荒廃した世界に「自由」という風を呼び込むことになりました。ところが、これに対して真っ向から鋭い批判を提起したのがクロード・レヴィ=ストロースに代表される「構造主義」です。
 
レヴィ=ストロースは学位論文「親族の基本構造(1949)」において従来の人類学において難問とされていた2つの謎を解明しました。その一つが「インセスト・タブー」と呼ばれる、なぜ近親間で婚姻が禁止されるのかという謎です。そしてもう一つはなぜ多くの部族で「平行イトコ婚(母の姉妹の子ども、父の兄弟の子ども)」が禁止され「交叉イトコ婚(母の兄弟の子ども、父の姉妹の子ども)」が奨励されるのかという謎です。
 
ここでレヴィ=ストロースはロマーン・ヤコブソンの音韻論を手掛かりに理論を構成し、これをブルバキ派の現代数学によって論証したことで、世界中の様々な親族関係を規定する一連の規則的な変換パターン、すなわち「構造」の存在を明らかにします。
 
「構造」の発見は、それまで素朴に信じられてきた「進んだ西洋社会」と「遅れた周辺社会」という西洋中心主義的世界観を転倒させることになります。周辺社会の人々が現代数学でようやく解明できた「構造」に基づく思考によって親族関係を作り上げていた事が明らかになり、もはや知的レベルの優劣で西洋社会と周辺社会を区別する事は適切ではなくなりました。そしてこうした「構造」に基づく思考をレヴィ=ストロースは「野生の思考」と呼びます。
 
この点、サルトルによれば主体的決断の「正しさ」はマルクス主義という「現代的な思想」が明らかにした「歴史」の審級によって保証されるとされています。けれどレヴィ=ストロースに言わせれば、その「歴史」の「正しさ」など「構造」という点では周辺社会の部族民の掟と何ら変わらないということです。
 

* 神話という構造

 
またレヴィ=ストロースは神話の中にも「構造」を発見しました。神話の体系の中では同じ構造が何度も繰り返されたり、同じ条件下においては異なる神話の体系の中に同じ構造が出現したりするということです。
 
こうした神話の「構造」は当時の人々の潜在意識によって規定されることになります。例えば「父殺しの物語」が何度も反復されるのは政権交代という潜在的願望であり、各地の沿岸地域に魔物退治の物語が現れるのは海賊撃退という潜在的願望の現れということです。
 
そして神話体系というものは長大な年月を扱った年代記になっており、近代小説のような「主人公」は存在せず、各年代のエピソードには中心となる「英雄」が出てくるけれども、長大な年代記の全体を眺めれば小さな「英雄」がずらりと並んでいるだけです。つまり神話とは「大きな物語(枠物語)」の中に「小さな物語(エピソード)」が詰め込まれている「幕の内弁当」のようなものであると言えます。
 
つまり、いかに悲劇的なエピソードであろうとも神話体系の全体から見れば何度も繰り返されてきた「よくある話」でしかなく、神話体系の中で「実存」の苦悩は「構造」の中に回収される事になります。
 

* 日本文学における実存と構造

 
そしてまた、我が国の文学史においても「実存」と「構造」は重要なキーワードとなります。戦前の日本文学は二つの潮流に分かれていました。一つは私小説や心境小説の類で、書き手の日常性の中から人間存在についてのテーマを見つけて、淡々とした筆致で捉えるものです。もう一つはプロレタリア文学を始めとした社会小説と呼ばれるもので、貧しい労働者の生活を描き、社会改革の必要性を訴えるものです。
 
この二つの潮流は同じく近代文学のリアリズムを基盤とするものの、その志向は完全に真逆であるといえます。こうしたことから、プロレタリア文学私小説を自虐の中に引きこもるだけで何一つ社会の変革に寄与しない文学であると批判し、私小説プロレタリア文学社会主義の宣伝に過ぎず人間の真実を捉えていない文学であると批判していました。
 
ところが先の敗戦により、私小説がそのまま社会小説になるという特異な状況が生じることになります。敗戦後の混乱期において人は誰もが理不尽な状況の中で追い詰められた孤独な実存として生きることを余儀なくされ、それゆえにありきたりな日常を描くことが、そのまま国家や社会に対する告発になり、人間とは何かを描き出す実存の文学となりました。
 
戦後の日本文学では、まず終戦直後に「第一次・第二次戦後派」と呼ばれる作家達が現れ、その後にやや遅れて「第三の新人」と呼ばれる作家達が登場することになりますが、この時期の文学は全てが実存主義的な要素を孕んでいたといえるでしょう。そして敗戦から10年の歳月が流れた1950年代半ば、二人の若手作家が彗星の如く出現します。石原慎太郎氏と大江健三郎氏です。
 

* 石原慎太郎大江健三郎

 
第34回芥川賞を受賞した石原氏のデビュー作「太陽の季節(1955)」は、既存道徳の枠組みを逸脱して性と暴力に耽溺する若者の生態をセンセーショナルに描き出した作品です。同作は映画化され若年層の幅広い支持を得て社会現象となり「太陽族」や「慎太郎刈り」という流行語を生み出しました。
 
もし仮に石原氏が「光」とすれば、大江氏は当初「影」のような存在であったといえます。卒業論文サルトル論であったことからも分かるとおり、大江氏は意図的に実存の文学を推進した書き手として世に出ることになります。もっとも大江氏がデビューした時期は終戦直後からすでに10年が経過しており、世間は日常性を取り戻し、世の中は高度経済成長に向かいつつありました。こうした平和な時代において、なお実存の文学を描くのであれば、日常から解離した特異的な状況をあえて設定する必要性が生じることになります。
 
この点、大江氏の初期作品においては、犬殺しのアルバイトとか病理研究のための死体処理とか痴漢犯罪に手を染める知識人などといった特異的な状況が描かれます。そして、このような状況の中で病的なほどに孤立した「実存」の姿を追い求めるその作風は一部のファンから熱狂的に支持されることになります。
 
このように大江氏は小説という虚構において日常に埋没した「実存」を描く一方、現実においてはサルトルから学んだ「アンガージュマン(社会参加)」の方途を模索するようになります。その試みが原爆の悲惨さを訴えた「ヒロシマ・ノート(1965)」というルポタージュや、当時の大きな社会問題であった60年代安保反対闘争への積極的関与に現れています。
 
そんな中、作家としての大江氏の転換点となったのが「万延元年のフットボール(1967)」という作品です。この作品はそれまでの「実存」を追求してきた氏の作風に「構造」という新たな要素が導入された記念碑的作品であったといえます。
 

* 万延元年のフットボール

万延元年のフットボール」という作品では頭の中では過激なことを考えているのに現実には何も行動できない兄と人間的魅力に溢れ行動力に富んだ弟という極めて対照的な性格の兄弟を軸に物語が展開していきます。もっとも、これだけだと従来からありがちな主人公の「実存」を描く単なる挫折小説に過ぎません。
 
ところが大江氏はここに「構造」を導入します。主人公の故郷に伝わる「万延元年の百姓一致」という伝承によれば一揆の指導者として処刑された庄屋の弟は英雄に祭り上げられていますが、主人公がたまたま見つけた古文書から実は庄屋の弟は途中で逃亡していたという事実が判明します。
 
ここで主人公の立ち位置は神話的な「構造」の中に位置付けられ、その「実存」における苦悩は神話的な「構造」の中で幾度も反復されてきた「よくある話」へと相対化されることになります。
 
このような「構造」を文学に導入した同作は世界的に見ても、ガルシア=マルケスの「百年の孤独(1967)」と並んで当時の文学における最先端に位置する試みと言われています。その後も大江氏は「同時代ゲーム(1979)」という明らかに神話的な「構造」に全面的に依拠した作品を発表します。そして大江氏の最高傑作という呼び声も高い「新しい人よ眼覚めよ(1983)」という作品では主人公の私小説的日常がウィリアム・ブレイクの預言詩と重ね合わされ、そこで「実存」の苦悩は「構造」の中で救済されることになります。
 
大江氏は「実存」の袋小路から脱出するための一つの答えとして「構造」を見出しました。個人的な問題も、一度神話的な繰り返しの構造の中に埋め込んでしまば、悩んでいるの自分一人ではないことがわかり、同じような悩みを抱えているすべての人がいわば「同志」となります。かくて実存は孤独という地獄から救済されるということです。
 

* 中上健次が描き出した神話

 
1960年代に入ると、ベトナム戦争の激化に伴い「政治の季節」が到来し、この時期には「ベ平連作家」とも呼ばれる社会派小説の書き手が一世を風靡します。その後「政治の季節」の終焉に伴い、政治的イデオロギーから一定の距離を置いた「内向の世代」と呼ばれる作家が登場します。もっとも「ベ平連作家」も「内向の世代」も石原氏や大江氏と同世代の作家であり、彼らに続くような若手作家がなかなか現れない時期が続きました。
 
こうした中で久々に現れた有望若手作家が中上健次氏です。初期の中上作品は都会で生きる地方出身者の孤独と苛立ちというごくありきたりなテーマが描かれるばかりでしたが、中上の故郷である和歌山県新宮を舞台にした「岬(1976)」という作品で戦後生まれ作家として初の芥川賞を受賞すると、一躍脚光を浴びることになります。
 
そして中上氏の評価を格段に高めたのは「岬」の続編にあたる長編小説「枯木灘(1977)」です。多くの読者は「枯木灘」の出現によって「岬」の中に既に伏在していた中上氏の壮大な構想に気づくことになります。
 
中上氏は枯木灘シリーズを執筆するにあたり、意図的に神話の構造を作品の中に織り込んでいきます。神話の構造とは繰り返しの構造です。同シリーズは「路地」と呼ばれる被差別部落のゾーンを舞台に、父と子、兄と弟、そして兄と妹の愛憎入り混じる関係の反復を描き出し、このような反復の中で主人公は神話的構造の無限連鎖の中に自らを埋め込んでいくことになります。
 

* 千年の愉楽

こうした中上作品における構造的手法の一つの到達点が「千年の愉楽(1982)」という作品です。同作はオリュウノオバという語り手が複数の物語を語る連作短編という形式をとります。オリュウノオバは路地と呼ばれるゾーンの産婆であり、ここで生まれ育った人々はすべてオリュウノオバの手によってこの世に生まれ落ちています。また、オリュウノオバは驚異的な記憶力の持ち主で、自分の手でこの世に誕生した赤ん坊の名前もさらにその後の人生までも、全てを克明に記憶しているという設定になっています。こうしてオリュウノオバは「路地」に発生する多くの物語の語り部となります。すなわち、オリュウノオバの存在そのものが「路地」の人々の物語の「枠物語」となっています。
 
同作を構成する六つの短編にはそれぞれ主人公がいます。その全員が「中本の血」を受け継ぐ同じ親族に属していますが、互いの関連はそれほど密ではありません。この主人公たちがオリュウノオバの視線の中で次々に立ち現れ、そして、あっけなく死んでいきます。
 
これらの短編は独立しているように見えながら、作者の巧妙な仕掛けによって数珠のようにつなぎ合わされ、全体が神話的な構造に規定された広大な物語空間を構成しています。そして物語の最後にはオリュウノオバの死が語られ、物語の円環は閉ざされたかにも見えますが、最後の物語ではアイヌのコタンの話が挿入されてユーカラと呼ばれる神話についての言及がなされます。そのことによって、ひとつの物語の円環がここで閉じられつつも、その背後にはより大きな物語が広がっているという、まさしく曼荼羅の如き広大深遠な世界観が示唆されることになります。
 

* そして構造は変化する

 
このようにみると、大江氏も中上氏も実存的苦悩から出発して構造的救済へと至った作家であったといえるでしょう。ここに日本文学におけるひとつの到達点を見出すことが出来るでしょう。そして、このような文学における「実存」から「構造」への遷移は戦後日本社会における精神性の変化ともある程度の対応関係を見出せるように思います。
 
この点、戦後社会学を牽引した見田宗介氏は戦後日本社会を「理想の時代(1945年〜1960年)」「夢の時代(1960年〜1975年)」「虚構の時代(1975年以降)」という三つの時代に区分するテーゼを提唱しています。そして、この見田氏のテーゼを発展的に継承した大澤真幸氏は「夢の時代」はその「夢」という言葉が持つ両義性から「理想の時代」と「虚構の時代」へと解消することが可能であるとして「理想の時代」と「虚構の時代」を1970年を境に再区分しています。
 
このような区分を前提とすれば、いわば「理想の時代」において人々は一個の「実存」として自身の目指す何かしらの「理想」を素朴に追求する事が可能であったといえます。これに対して「虚構の時代」になると、もはや信じるに足る「理想」は失われ、人々は言語や記号からなる「構造」によって相対化された「虚構」の中を生きているともいえるでしょう。
 
確かに実存は構造に規定されているといえます。けれども、構造とは一定不変のものではなく、変化するものであり、変化させることができるものです。そして、このような「ある構造」から「別の構造」へという変化の運動の中には再び「実存」のダイナミズムが再帰することになるでしょう。こうした視点から大江氏と中上氏以降の文学が描き出した軌跡を捉えていく試みは、現代という時代の本質を思考する上で決して無益な試みではないように思えます。