かぐらかのん

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少女の〈あはれ〉と天使の〈まなざし〉--私に天使が舞い降りた!1〜8(椋木ななつ)

 

気ままな天使たち/ハッピー・ハッピー・フレンズ(通常盤)
 

 

 
 

*「エス」から「おねロリ」へ

 
近代教育システムの確立に伴う「少女期」の出現や、1899年に公布された高等女学校令などを契機して、明治時代後期においては少女雑誌の創刊が相次ぎ、ここに「少女小説」というジャンルが誕生しました。「少女世界」「少女画報」といった少女雑誌には多くの著名な作家が文章や絵画を寄せ、少女小説は従来の家父長制社会における「家の娘」という呪縛から少女を解放して、近代的自意識の発露へと導く役割を果たしました。
 
初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性の一つとして知られるのは、少女同士の友愛や関係性を魅力的に描いている点にあります。そしてその背景には「エス」と呼ばれた当時の女学校文化があります。
 
エス」とはsisterhoodの頭文字Sからきた隠語で、女学校の上級生と下級生、あるいは同級生同士など、少女同士の擬似姉妹的な関係性をいい、その特徴は高尚かつ清純な精神性の称揚にあります。これは当時「変態性欲」として問題視されていた同性愛との差異化を図る意味合いと、家父長制社会が押し付ける「良妻賢母」という模範的女性像に抗う少女同士が結び合うというカウンターカルチャーとしての意味合いを持っていました。
 
戦後、男女の自由恋愛が普及するにつれて文化としての「エス」は衰退していきますが、その精神性は80年代において少女小説復権を掲げた氷室冴子作品を経て、その後「百合」というジャンルに引き継がれ、ゼロ年代以降は「マリア様がみてる今野緒雪)」や「ゆるゆり(なもり)」などの成功を受けて、現代サブカルチャー文化圏を規定するコードの一つとして定着するに至ります。
 
こうした中、かつて「エス」が宿していた「擬似姉妹的な関係性」をラディカルに強調した百合のサブジャンルが登場しました。これが「おねロリ」と呼ばれるジャンルです。
 
「おねロリ」が一つのジャンルとして認識されるようになったのはだいたい2017年頃だとされていますが、その前年11月から「ゆるゆり」と同じ「百合姫」で連載が開始され、2019年にはアニメ化を果たし、このジャンルの認知度を一気に引き上げた作品が本作「私に天使が舞い降りた!」です。
 
 

*「もにょ」っとした気持ち

 
本作の主人公である女子大生、星野みやこは小学5年生の妹、星野ひなたがある日連れて来た同級生である白咲花にかつてない不思議な気持ちを覚え、みやこは花とどうにかして仲良くなろうと努力するも、重度の人見知りが災いして挙動不審な言動を繰り返してしまう。
 
花にとってみやこの第一印象は最悪極まりないものでしたが、美味しいお菓子に釣られて流されるままに、花はみやこのコスプレ趣味に付き合わされることになります。自作衣装を着せた花を気持ち悪いくらいに興奮しながらカメラに納めていくみやこですが、あれほど人見知りな自身がなぜ花だけとは仲良くなりたいのかを自問した時、彼女は自分の中に「もにょ」っとした気持ちを発見することになります。
 
この「もにょ」っとした気持ちとは一体なんなのでしょうか?実は先に述べた少女小説の原点である「花物語」の中にも似たような構造を持ったお話があります。「山梔(くちなし)の花」というお話です。
 
 

*「花物語」における〈あはれ〉

 
とある地方の温泉地を病気療養のため訪れた年若き新進気鋭の女流彫刻家である滋子は、湯煙の中に一人の不思議な美しさを持つ物言わぬ少女と邂逅する。その少女の姿を人魚と重ね合わせた滋子は強いインスピレーションに打たれます。
 
この瞬間を同作は〈あはれ〉という言葉で表現しています。そして生来、口が聞けない少女の境遇に思いを寄せた滋子は、何かに取り憑かれたように一心不乱に少女をモチーフにした人魚像を彫り上げ、この畢竟とも言える作品を自らの名を告げることなく少女に進呈します。そしてこの物語は次のように結ばれます。
 
「審しんで、母なる人がその薄絹の覆いの布を颯と取り除くと、あっ、そこには、美しい大理石に刻まれた、生けるが如き人魚の像!左右に髪を分けて肩に流して、水より半身を浮かばせて、やさしき瞳に言葉に語れぬ悩みをこめた、その気高く寂しい顔よ、それは誰が俤に生き写しであったろう?あはれ。」
 
花物語より)
 
最後でまたしても〈あはれ〉という言葉が反復されます。人魚像を制作する滋子の情熱を駆り立てたのがまさにこの〈あはれ〉という感情でした。
 
なんとなく美談風に纏められた「山梔の花」から、一見して完全に遠い位置にあるみやこのコスプレ撮影ですが、両者は自らのうちに生じた内的事象を、どうにか美のかたちとして外的事象へ結晶させようと涙ぐましい努力を重ねる点で、その構造を共通にしていると言えるでしょう。すなわち、みやこを駆り立てる「もにょ」っとした感情の正体も、まさしくこの〈あはれ〉なのではないでしょうか。
 
 

*「不思議の国のアリス」と〈まなざし〉

 
そして同時に、花のコスプレ撮影に勤しむみやこの姿は「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロルの姿を想起させます。キャロルは童話作家としての顔の他に、むしろこちらが本業の数学者として顔、そして夥しい少女の写真を撮りまくったアマチュア写真家としてしての顔が知られています。また、キャロルとみやこはコスプレ趣味があることや、他人とのコミュニケーションが極端に苦手だった点でも共通しています。
 
この点、キャロルの少女写真の特徴として、しばしば少女の目線が撮影者であるキャロルへまっすぐに向けられている点から、キャロルにとっての少女が単なる撮影対象の関係以上の関係に見えることが指摘されています。こうした意味で、極めて印象的な目線をキャロルに向ける少女が、他ならない「アリス」のモデルとされる少女、アリス・プレザンス・リデルです。
 
童話のアリスといえばジョン・テニエル原案のふんわり金髪なロングヘア少女を想起しますが、実在のアリスの方は直毛黒髪なおかっぱ少女です。そして多くの写真においてアリスはまったく愛想がなく、むしろ不機嫌そうな表情でキャロルを睥睨しています。この辺り、みやこに写真を撮られる時の花の表情もまさにそんな感じです。
 
実際のところ、キャロルとアリスがどのような関係にあったのかはよくわかっていません。ただ「不思議の国のアリス」出版から15年後の1880年、アリスが他の男と結婚することになった年、キャロルはパッタリと写真をやめたそうです。
 
少なくともキャロルにとってアリスが特別な存在だったことは間違い無いでしょう。こうしてキャロルはアリスの〈まなざし〉に導かれるように、かの世界的名作を生み出したとも言えるでしょう。そしてそのスケールの違いはあれ、みやこも花の〈まなざし〉に導かれるように、少しずつですがその生き方を変容させていくことになります。
 
 

* 転移としての百合

 
従来のみやこの人見知りぶりは尋常ではなく、初対面の人とは目も合わせられない、近所のよく知っているおばさんとすらまともに会話ができない、買い物は喋らずに済ますことができる店じゃないと無理、人混みではマスクとサングラスが必須という有様です。
 
また、みやこは極度のネガティブ思考の持ち主であり、ひなたのクラスで「理想の姉」にでっち上げられているのを聞いた瞬間、すぐさま実際の自分が子供たちから幻滅されてボロカスに嘲笑される姿を想像して憂鬱になる始末です。
 
この点、社交不安障害(SAD:Social Anxiety Disorder)の特徴として、他人からネガティブな評価への過剰な恐怖心があります。SADの人の生活全般は「いかにして他人のネガティブな評価を避けるか」というテーマを中心に回っているとすら言えます。まさに、みやこもこれに近い状態と言えます。そしてこれは換言すれば「他者の欲望」を基準にして生きている状態です。
 
けれど、こうしたみやこの「欲望のあり方」を変える契機となったのが先にみた「もにょ」っとした〈あはれ〉でした。ここでみやこは自らの中に生じたこれまでにない感情の正体を掴みたいという「他者の欲望」ではない自らの欲望を懐きます。
 
こうして花に出会って以降、みやこは不器用ながらも確実に一歩ずつ、周囲の他者とのコミュニケーションを通じて、既知の場所から未知の場所へと自身を開き、新たな社会的紐帯を結び直していく試行錯誤の努力へと踏み出していきます。
 
そして、こうしたみやこの〈あはれ〉を生じさせたのが、花の〈まなざし〉でした。こうした構図を精神分析的なタームで言い表せば「転移」に相当します。すなわち、ここで花の〈まなざし〉はみやこの欲望の在り処として、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが言うところの「説明しがたいが私が君の中に愛している--君以上のもの」として、みやこの前に現前しているということです。こうした「転移としての百合」こそが、まさにかつての少女小説を駆動させていた「エス」の精神性だったのではないでしょうか。
 
 

* 包摂と調和の想像力

 
こうして見ると「私に天使が舞い降りた!」という本作のタイトルは、そして「天使のまなざし」というアニメ最終話サブタイトルは、本作のテーマをこれ以上なく的確に言い表しているといえるでしょう。
 
もっとも本作は、こうしたみやこと花の「転移としての百合」のみを特権的に「正統な百合」として位置付けているわけではありません。本作では他にも、みやことひなたの姉妹愛的な百合をはじめ、ひなたの同級生、姫坂乃愛のひなたに対する擬似恋愛的な百合や、同じく同級生の小乃森夏音と種村小依の共依存的な百合のみならず、みやこの同級生、松本香子のみやこに対する偏執狂的な百合さえも、決して全否定することはなく、むしろその関係性の過程をとても丁寧に描き出しています。
 
従来「百合」というジャンルはあえて明確な定義付けがされることなく、多様多彩な想像力を取り込みながら発展してきました。それは畢竟「百合」の精神が様々な百合の在り方を「排除」することなく「包摂」するものであったからではないでしょうか。こうした意味で本作は、多様多彩な百合が持つその特異性を包摂しつつ、なおかつ社会的紐帯という一般性へと、ゆるやかな調和を果たしていく豊穣な想像力を湛えているといえるでしょう。