かぐらかのん

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存在の問いと生の在り処--「ハイデガー『存在と時間』入門(轟孝夫)」

 

 

 
 

* 未完の欠陥商品

 
そのいかにも哲学書然とした荘厳なタイトルに重厚な記述。「20世紀最大の哲学書」として今も多くの人を魅了するマルティン・ハイデガーの主著「存在と時間」。同書は出版されるや否やドイツ内外で大きな反響を呼び、公刊後90年以上経った現在でも圧倒的な存在感を持って思想界に君臨し、ある人は同書を実存主義聖典と崇拝し、また、ある人は同書を禅の道に重ね合わせたりもします。
 
しかしこの本は、深く練成された哲学的思索の末に満を持して書かれた畢竟の書とかではなく、むしろバタバタと執筆された本であり、しかもその執筆動機はハイデガーの正教授就任という極めて世俗的な理由によるものでした。
 
1925年、マールブルク大学哲学部は当時、気鋭の若手哲学者として知る人ぞ知るところとなっていたハイデガーを正教授ポストの第一位として独文部省に提案するも、文部省はハイデガーの業績不足を理由に提案を却下します。そこでとにかく何か業績らしきものを出すようにと大学から急かされたハイデガーが、慌てて執筆し始めたのがこの「存在と時間」です。
 
執筆と印刷と校正が慌ただしく五月雨式で進んでいく中、何とかハイデガーは1926年6月にその一部のゲラ刷りを文部省に提出します。ところがその後、ハイデガーは何を思ったのか7月を過ぎた頃に突然、輪転機を止めさせて原稿の「書き換え」を始めます。その結果「存在と時間」の出版計画は急遽、上下巻の二分冊へと変更されることになります。
 
そして1927年4月、どうにか上巻の公刊にこぎつけるも、その後、自らの構想の破綻に気づいたハイデガーはついに下巻の刊行を断念します。つまり、いま我々が有り難がっている「存在と時間」という書物はあくまで「存在と時間(上)」でしかなく、しかもその全体の構想が破綻している本ということになります。すなわち、同書はこう言っては何ですが「未完の欠陥商品」であるとも言えます。
 
 

*「書かれなかった部分」から「存在と時間」を読み解く

 
このように「存在と時間」の成立過程は、傍目で見ると行き当たりばったりのような感すらあります。そして同書が未完に終わった主たる原因は執筆途中で生じたハイデガーの「書き換え」によるものだとされます。果たして「存在と時間」を書き進める中でハイデガーの中でどのような構想の変化が生じ、そのどこに破綻があったのでしょうか?
 
本書はこうした「書かれなかった部分」から「存在と時間」を読み解くハイデガー哲学入門書です。まずその第一章で「存在と時間」の成立過程が詳らかにされ、続く第二章、第三章、第四章では「存在と時間」の既刊部分の内容が検討され、これを受けて第五章では「存在と時間」の未刊部分の謎に迫ります。
 
この点、本書が一貫してこだわるキーワードが、まさにハイデガーの思索をハイデガーの思索たらしめる根本問題、すなわち「存在の意味への問い」です。つまり本書はハイデガーが遺した謎を、他でもないハイデガーに即して究明しようとする試みであるということです。
 
 

* 存在の意味への問い

 
ハイデガーは「存在と時間」とは「存在の意味への問い」を明らかにする書であると規定します。そしてハイデガーによれば、この「存在の意味への問い」とは、これまで二千数百年ものあいだ、西洋哲学の歴史の中で全く問われたことのなかった問いであるといいます。
 
もちろん、これまでの西洋哲学においてもアリストテレスの第一哲学以降、文字通りの「存在論」というジャンルが連綿と形成されてきました。けれどもハイデガーに言わせれば、これらが問うてきた「存在」とは「真の存在」ではなく、むしろ西洋哲学の歴史とは「存在忘却」の歴史ということになります。
 
この点、伝統的な存在論において「存在」とは「SはPである=本質存在(デアル)」と「Sがある=事実存在(ガアル)」という二つの意味に即して分析されてきました。けれども「本質存在(デアル)」にせよ「事実存在(ガアル)」にせよ、まず何らかの「存在者」が実体として先行して、その後に「本質存在(デアル)」や「事実存在(ガアル)」が了解されることになります。
 
これに対して、ハイデガーは、その「存在者」を実体としてではなく、その活動空間を構成するネットワーク全体のなかで了解します。どういうことでしょうか?
 
 

* 存在のネットワーク

 
本書が例示する「鳥が飛んでいる」というケースで考えてみましょう。ここで「鳥」は「存在者」であり、そして「飛んでいる」という「鳥のあり方」が「存在」ということになります。
 
この点、我々が「鳥」という「存在者」を思い浮かべるとき、常にそこには「鳥のあり方」という「存在」も同時を了解していることになります。このような了解によって「存在者」は「存在」するものとして現象することが可能になるます。
 
そして鳥が「飛んでいる」とはそれだけで独立した振る舞いではなく「餌を啄んでいる」「鳴いている」といった他の振る舞いとも結びついており、我々は鳥が飛んでいるのを見るときには、それと連関した他の振る舞いも一緒に理解しているわけです。さらにこの「飛んでいる」とは「森の中を飛んでいる」とか「海面を飛んでいる」など必ずその振る舞いは他の存在者のただなかにおいて起こっています。
 
つまり「鳥が飛んでいる」というあり方は、鳥のその他のあり方や他の存在者といった「存在のネットワーク」の中に関係づけられることによって、初めて了解されることになります。これがハイデガー存在論です。
 
 

* 存在の意味とは時間である

 
伝統的存在論ハイデガー存在論。このような両者の「存在の意味」の違いは「時間」をどのように把握するかに起因する、とハイデガーはいいます。「存在の意味とは時間である」。これが「存在と時間」における根本テーゼです。
 
この点、伝統的存在論における存在了解は「本質存在(デアル)」にせよ「事実存在(ガアル)」にせよ、存在者が今、目の前にありありとあるという「現前性」を意味しており、これは「現在」という時間によって規定されているということになります。これに対してハイデガー存在論における存在了解は存在者をその後景にある「存在のネットワーク」込みで了解する事を意味しており、これは「現在」のみならず「過去」や「将来」とも関わっているということです。
 
こうした洞察に基づいてハイデガーは伝統的存在論の限界を照らし出します。伝統的存在論は存在をもっぱら現前性としてのみ理解していますが、存在の根源的な現象には、単にある存在者が現前しているだけではなく、周囲の存在者との関係の中でその存在者が取りうる様々な可能的様態も含まれるということです。
 
 

*「未完」の原因と「転回」の真実

 
存在と時間」における「存在の意味への問い」という問題設定は同書を執筆していく中で生成されてきたものでした。そして、これを当初の問題設定である我々人間の「現存在」としてのあり方を問う、人間学的な実存論的分析に無理やり接続させて、どうにか一つにまとめようとしたけれども、いよいよ「存在の意味への問い」を深めていくうちに、まさにその実存論的分析こそが「存在の意味」の正しい認識を阻害していることが判明してしまいます。こうしてハイデガーは下巻の刊行が不可能であることを悟るわけです。
 
そういうわけで実は「存在と時間」という本は「存在の意味への問い」の解明を謳いながら、その解明の準備部分の時点で挫折してしまい、本来、解明するはずだった主題を解明する前に終わっているということです。
 
もちろんハイデガーは「存在の問い」それ自体を放棄したわけではなく「存在と時間」の挫折以後も「存在の真理を単純にいう」という試みが追求されていきます。ところが多くの人は「存在と時間」における実存論的分析をハイデガー哲学の中心的テーマそのものと見做してしまったため、こうした後期ハイデガーの試みは、何かもうわけのわからない神秘主義的言説にしか聞こえず、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきました。
 
けれども「書かれなかった部分」という観点から「存在と時間」を照らし出す時、ハイデガーは決して変節したのではなく、むしろそこには「存在者」と「現存在」の関係を統合的に把握しようとする一貫した問題意識を見出す事ができるでしょう。
 

 

*「あらしめる」ということ

 
「存在の問い」とは、我々の生の核心へと迫る問いでもあります。通常、人は周囲の存在者を自分の生にとって有用なのかそうでないかという位相だけで捉えてしまいます。けれども、これはハイデガーに言わせれば「現存在の非本来的な在り方」に他ならないわけです。こうした「存在忘却」は「死の忘却」を必ず伴っているからです。
 
当たり前ですが人はいつか死ぬ。けれど通常、多くの人にとって死は恐ろしいものです。だからからなるべく「死の可能性」を忘れていたい。けれどもハイデガーのいう「現存在の本来的な在り方」は「死の可能性」から目を背けない態度です。これは無闇に死に急いだり、ましてや死を賛美するとか、そういう態度とは全く違います。ここで問われているのは、常に「死の可能性」があるという現実を現実として受け止める静けさに他なりません。
 
こうした態度をハイデガーは「先駆的覚悟」といいます。すなわち「死の可能性」へと先駆するということです。そして「先駆的覚悟」により我々は「良心の呼び声」に従って生きることができる。こうした時、我々はあらゆる存在者をまさにそれ固有のあり方において「あらしめる」ことができるとハイデガーは言います。それは「死の可能性」を受け入れる事によって、むしろ「生の可能性」を拡大させる事ができるということです。
 
そして今まさしく、ハイデガー哲学の真価が問われる時代を我々は生きています。新型コロナ・ウィルスが全世界を席巻し、日常の至る所に「死の可能性」が転がっているこの現実に、否応なくとも我々は向き合わざるを得ない。こんな不安に満ちた時代を生きる上で、本書はきっと様々な示唆と、何かしらの光明を与えてくれる一冊となるでしょう。