かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

二層構造の時代における新たな公共性--「哲学の誤配(東浩紀)」

 

 

* 二層構造の時代における哲学

 
1994年、かつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏と柄谷行人氏が編集委員を務める「批評空間」第Ⅱ期第3号に「幽霊に憑かれる哲学--デリダ試論」と題された論文が掲載されました。著者の名は東浩紀。当時まだ東大教養学部の大学院生でした。
 
東氏はその後も「批評空間」に一連のデリダ論を発表。これらの論考は大幅な加筆修正を経て98年に「存在論的、郵便的--ジャック・デリダについて」として上梓されます。近代を規定した「否定神学システム」の外部を問う同書は浅田氏による激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の俊英として脚光を浴びることになります。
 
ところがその後、東氏は浅田氏や柄谷氏と対立を深め距離を置くようになり、2000年代における氏の活動はインターネットの普及を背景とした情報社会論やアニメ・ゲーム・ライトノベルを中心としたサブカルチャー論が中心となります。
 
東氏の代名詞的著作とも言える「動物化するポストモダン(2001)」において提示されたのは「データベース的欲望」と「シュミラークル的欲求」の乖離というポストモダンにおける二層構造モデルでした。こうした「二層構造の時代」における新たな民主主義を構想したのが、ゼロ年代における氏の総決算とも言える「一般意志2.0(2011)」です。
 
そして2010年代における氏の活動は自ら創業した「ゲンロン」を拠点としたある種の哲学的実践へとシフトします。このような実践を踏まえて「二層構造の時代」の時代における主体的成熟のあり方を「観光」という概念へ昇華したのが近著「観光客の哲学(2017)」ということになります。
 
 

* 誤配とは自由である

 
本書は「一般意志2.0」と「観光客の哲学」の韓国語版刊行の際に行われたインタビューと、中国における講演の草稿を加えた構成になっています。
 
韓国での氏はもっぱら「動物化するポストモダン」のイメージが強く、いまだ「サブカルチャー批評」の書き手として受容されているそうです。本書のインタビューはそうした「誤解」を解く目的もあるにはあるけれども、氏自身としてはそうした誤解が「正される」ことをそれほど望んではいないと言います。
 
そうした「誤解」により日本では届かなくなってしまった人に氏の文章が「誤配」されるのであれば、それはそれで素晴らしいと氏は言います。「誤配」とはすなわち「自由」であり、政治や公共的な感覚もまた本来はそのような「誤配=自由」の上でしか育たないということです。
 
ポストモダンにおいてはもはや「大きな物語」は機能しておらず、人は「大きな非物語(データベース)」から産出される無数の「小さな物語(シュミラークル)」の中で自足するしかない。東氏は「存在論的、郵便的」以降、一貫してこうした無数の「小さな物語」同士の横断的コミュニケーションの中で生じる郵便的超越性--すなわち「誤配」について原理的な考察を行ってきた人でした。乱立する「小さな物語」同士の中で「誤配」をいかにして産み出していくか。本書のタイトルである「哲学の誤配」とはまさにそういうことなのでしょう。
 
 

* 熟議とデータベースのあいだ

 
「一般意志2.0」においてはデータベースと熟議が交差する新たな民主主義の形が構想されました。ここで同書は社会契約説で知られる18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーが提出した「一般意志」という概念に参照点を求めます。
 
ルソーによれば人民相互が社会契約を締結した結果「人民の特殊意志の総和=全体意志」から「相殺しあうもの」を除した上で残る「数学的差異の総和=一般意志」が成立するとされます。
 
そして統治システムとはこうした「一般意志」を忠実に執行する機関に過ぎず、人民は統治システムが「一般意志」を忠実に執行していないと判断すればいつでも統治システムを改変できる「革命権」を持っている事になります。
 
しかし18世紀当時は「一般意志」などどう考えても具現化不可能な仮設的概念に過ぎず、ルソーの主張は荒唐無稽な空想の域を出ませんでした。けれども現代における情報テクノロジーの進展は「一般意志」をある種のデータベースとして具現化させる事が可能だと同書は言います。これが「一般意志2.0」です。
 
もっとも、よくある誤解のように本書は従来型の議会制民主主義から「一般意志2.0」による直接民主主義への転換を説くものではありません。むしろ従来型の議会制民主主義における「熟議」の再興を図るものです。
 
従来、政治においては「熟議(理性的討論)」によるコミュニケーションこそが私的利害の集積を公共善へと変化させると信じられてきました。けれども、ポストモダン状況が加速して公共性の多様化、複雑化が進む現代社会においては「大文字の公共」というべき熟議の前提条件が喪失し、今や民主主義における熟議は機能不全に陥っています。
 
そこで同書は社会に蠢く様々な「つぶやき」を可視化した「データベース(一般意志2.0)」を構築することで、「熟議」と「データベース」が並走してせめぎ合う新たな公共性の創出を提案しているわけです。
 
 

* 強いつながりと弱いつながり

 
熟議とデータベースのせめぎ合いによる新たな公共性の創出。2010年代当初、東氏はこうした「夢」を当時普及し始めたSNSに託していました。
 
そして10年。周知の通りSNSに対する評価は「期待」から「失望」に変わっていきました。今やSNSは人間関係を友敵に切り分け、見たいもの信じたいものだけに囲まれて、ただだた際限なく自己幻想を肥大化させていくだけのツールになってしまいました。要するにこの10年で明らかになったのは、いくら情報テクノロジーが進化したところで、使う人間が進化しなければ世界は何一つ変わらないという、普通に考えてみればごくあたりまえの事実でした。
 
この点「存在論的、郵便的」の頃の東氏は「誤配」はネットワークの効果として自然に発生すると考えていました。けれどもネットワークの現実はむしろ「誤配」を排除する方向に作用することが明らかになったわけです。
 
こうした状況を前提として、2010年代の東氏は情報空間と現実空間を組み合わせることで「誤配」を考えるようになります。ここでキーワードとなるのが「弱いつながり(2014)」において提示される「観光」という概念です。
 
結局のところSNSがもたらしたのはその内側には同調圧力が発生し、その外側には排除の論理が作動するという「強いつながり」でした。こうした「強いつながり」から自由となり、ネットの海により深く潜る為に必要なのは、むしろネットの外の現実にある「弱いつながり」ということになります。そして「観光」とはこうした「弱いつながり」の中で「誤配」の確率を能動的に高めていく営みに他ならないということです。
 
 

* 郵便的マルチチュードとしての観光客

 
こうして浮上した「能動的誤配」としての「観光」というキーワードを哲学的概念にまで錬成したのが「観光客の哲学」です。同書はナショナリズムグローバリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズム、規律権力と環境管理型権力といった様々な観点から「二層構造の時代」の特質を明らかにした上で、こうした「二層構造の時代」における抵抗の基点として同書は「郵便的マルチチュード=観光客」を位置付けます。
 
マルチチュード」とは今世紀初頭、世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリマイケル・ハートの共著「〈帝国〉」において、グローバル環境で生じる市民運動を哲学的に評価する為に用いられた概念です。もっとも同書によればネグリ的なマルチチュードは実際のところ「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学マルチチュード」であり、その内実は「愛」「無垢」「歓び」などといったよくわからないものに頼る、端的に言えば感動的だが無意味な、ある種の信仰告白でしかないわけです。
 
そこで同書は「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」といった現代ネットワーク理論に依拠することで「否定神学マルチチュード」が抱える理論的・実践的困難を乗り越えたものとして「郵便的マルチチュード=観光客」を提示することになります。
 
 

* 「憐れみ」によって手を取り合うということ

 
出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考える。一見、無意味な回り道こそが思いがけない豊かな可能性を開いていく。こうした「観光客」のあり方は「一般意志2.0」の根底にある人間観とも繋がります。「一般意志2.0」で参照されたルソーは人間嫌いの思想家でした。彼はそもそも人間とは他人が嫌いで、孤独を愛する生き物だと考えた。にも関わらず、なぜ人は社会を作るのか。
 
ルソーが示した答えは「憐れみ」でした。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ、深く考えることなく手を差し伸べる感情のことを言います。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったということです。そういった意味で「観光客」のもたらす「誤配」とは、本来的に分かり合えない人と人が--イデオロギーによる連帯でも共感によるつながりでもない--「憐れみ」から手を取り合う事で新たな公共性を創出する起点となるということでしょうか。
 
「観光」という言葉はとても良い響きを持っていると思います。まさしくそれは否定神学システムの外部に光を観るということです。誤配のない世界において人は自分が想定した以上の出来事に出会うことはなく、そこに本当の意味での思考も創造性も生まれないでしょう。「正解」を求める人生から「誤配」を愛でる人生へ。東氏の批評活動はフランス現代思想に始まり情報社会論、サブカルチャー論、公共哲学、人生哲学とこれまで多岐に渡っていますが、一見バラバラに見えるこれらの領域は、その深層では驚くほど相互にリンクしあっています。本書はこうした東哲学の核心点と時代毎の処方の変遷の関係を現時点から振り返る事ができる良き(再)入門書として読めるのではないかと思います。