かぐらかのん

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宮廷愛から誤配へ--「イエスタデイをうたって afterword」

 

* まさかのアニメ化

 
独特の画風と世界観でカルト的な人気を誇る冬目景先生の代表作「イエスタデイをうたって」が連載完結から5年を経てまさかのアニメ化となりました。アニメで果たしてあの原作の雰囲気を再現できるのか少し心配でしたが、出来上がったアニメは想像以上のクオリティの高さでイエスタデイの物語を極彩色に描き出してくれました。
 
アニメでは一層際立つリクオのヘタレっぷり、圧倒的キープ力を誇る魔性の女と化した榀子先生、そしてひたすらマジ天使なハルちゃん。11巻の原作を1クールへと実に上手にまとめています。これもまた、ひとつのイエスタデイ。動画工房さんの仕事ぶりにはただただ脱帽するばかりです。
 
 

* 自己変革と愛の讃歌

 
原作のあらすじはこうです。大学卒業後、コンビニでフリーター生活を続けている魚住陸生(リクオ)は大学時代の同級生である森ノ目榀子に密かな恋心を抱いていたが、一方で榀子は早逝した幼馴染、早川湧との思い出にしがみつき、そこから前に進めないでいた。
 
一方、偶然の出会いからリクオを慕う野中晴(ハル)は、かつての副担任でもあった榀子にリクオを巡って「宣戦布告」をするが長らく二番手の位置から動けない。また、湧の弟である早川浪は榀子を追いかけて上京してくるが榀子は浪に対して弟以上の感情を持てずにいた。
 
こうしたなかなかもどかしい人間模様を軸として物語は進み戻りつつ、ゆっくりと進んでいく。本作のテーマは原作1巻のサブタイトルに大体集約されています。すなわち「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」「愛とはなんぞや?」です。
 
 

* ロストジェネレーション世代への応援歌として

 
本作の連載がスタートした90年代後半は、平成不況の長期化による就職氷河期の真っただ中で、世にはリクオのように大学を出ても就職するあてのないフリーターが急増した時代でした。
 
いま思うとあの時代は、これまでのように新卒一括採用で就職し、終身雇用や年功序列のレールの上で生きて行くという昭和的ロールモデルが崩壊して行く中、新たな社会的自己実現オルタナティブが模索されはじめていた過渡期でもありました。
 
そういう意味で本作は時代とのめぐり合わせ悪く不遇をかこった多くのロストジェネレーション世代への応援歌ともいえます。そして連載開始から17年の歳月を経て2015年に原作が完結。さらにそこから5年を経て今回のアニメ化に至ったわけです。それだけ本作には時代を超越した幅広い共感を呼び起こす魅力があるということなのでしょう。
 
 

* 冬目景ワールドへの導入本

 
本書「イエスタデイをうたってafterword」はアニメ放映にあわせて公刊されたファンブック的な書籍です。冒頭の「イエスタデイをうたって特別編-11・S14」は原作11巻最終話の後日談です。実にリクオとハルらしい、ぐだぐだしながらもちょっとずつ前に進んでいく日常が描かれています。
 
あとはアニメ化にあたっての冬目景先生インタビューと対談、作品紹介、イエスタデイ番外編と短編集。内容の半分くらいは10年くらい前に出版された「イエスタデイをうたってEX」の再掲となっています。
 
短編のうちの1本で、今回新規収録された「夏の姉」は隠れた良作。ジェンダートラブルという現代的な論点を扱っていて新境地を開いた感があります。アニメから入った方は是非、本書をとっかかりにして、退廃的かつ瑞やかな冬目景ワールドにぜひ触れていただきたいところです。
 
 

* 「羊のうた」から考える

 
この点、冬目景作品でまずお勧めなのが、イエスタデイと並ぶ冬目氏のもう一つの代表作である「羊のうた」です。イエスタデイの世界観、恋愛観を理解する上で同作は極めて重要な補助線となります。
 
同作のあらすじはこうです。本作の主人公、高城一砂は幼い頃に母親を亡くして以来、父親の友人である江田夫妻の元で育てられ、現在ではごく普通の高校生活を送っていたがある日、一砂は同級生の八重樫葉の左手の赤い絵の具を見て奇妙な感覚に襲われる。
 
そして久しぶりに訪れた高城の家で、一砂は1歳違いの姉、高城千砂と再会。そこで一砂は吸血鬼のように発作的に他人の血が欲しくなるという「高城の病」を知る。
 
千砂は幼少期から「高城の病」に犯されており、加えて生来病弱で余命幾ばくもない。そして一砂もまた「高城の病」の発病を感じていた。千砂は自らの手首を傷つけ一砂に血を与え、やがて2人はお互い寄り添うように暮らし始める。そして一砂に仄かな想いを抱く八重樫はただ状況を傍観するしかなかった。
 
このように「羊のうた」という作品においては、ひたすら破滅へと向かうかの如き重苦しい物語が展開されます。そしてその根幹にあるのは「死」という絶対的な「外部」が作品世界の全てを駆動させている否定神学構造です。
 
こうした否定神学構造はイエスタデイでもより洗練された形で反復されます。榀子は死んだ湧を、リクオはかつての榀子を、それぞれ至高の何かへと昇華してしまい、そこからなかなか動けない。このようにある他者を絶対的な「外部」と同一視してしまう否定神学的な恋愛観を「宮廷愛」と言います。
 
本作を読んでいて感じるもどかしさの源泉はここにあります。もっとも連載開始当時の90年代後半において、こうした恋愛観は「純愛」とか「セカイ系」などという形で、ポストモダン大きな物語の失墜に対する時代の処方箋、虚構の時代の名残雪として機能していた部分はあるにはありました。
 
 

* 宮廷愛から誤配へ

 
けれどもイエスタデイはこうした羊のうた的なもの、否定神学的な宮廷愛を乗り越える物語であったと言えるでしょう。
 
ハルは「コイなんて錯覚じゃん?一度錯覚したら何らかの結果が見えるまで止まんないんだと思う」と言います。恋は錯覚、単なる誤配。おそらくこれが身も蓋もない現実なのかもしれません。けれど人は面倒な生き物でして、こうした偶然的な現実の中にも何がしかの必然的な真実を見出したがったりするわけです。
 
こうした意味で、宮廷愛とはある意味で現実の隠蔽装置に他ならない。真実とは所詮、虚構にすぎない。恋は錯覚、単なる誤配。リクオも榀子も散々周り道をした挙句、土壇場でようやくこうした身も蓋もない現実を、2人は受け入れていくのでした。
 
誤配を誤配として素直に肯定する事は案外と難しいことです。翻って考えるに我々の人生も誤配の連続ではないでしょうか。けれども誤配を愛でるところから始まる関係性だってあるでしょう。イエスタデイの物語はそんな誤配だらけのぐだぐだな周り道を穏やかに肯定しているようにも思えたりもするわけです。