かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

消費と情報の彼方、コンサマトリーな生、瑞やかな歓び。

 

* 「見はるかす」ということ

 
20世紀を代表するアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーは「ニーバーの祈り」で知られる次のような言葉を残しています。
 
「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。」
 
「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵」とはなんでしょうか。物事には常に表と裏の面があります。つまりはここで必要なのは、こうした表裏を「見はるかす」という視野ではないでしょうか。
 
不世出の社会学者、見田宗介氏の名著「現代社会の理論」は現代社会の考察を通じ物事を「見はるかす」ということとはどういう事かを考えるための格好の一冊です。
 
本書は、まず1〜3章において、現代社会の「光の巨大」と「闇の巨大」を「見はるかす」視座が示されます。そして、4章においては消費と情報のコンセプトをラディカルなレベルで再定義する事で、現代社会が抱えるアポリアを内破する処方が示されます。
 
 

* 消費化情報化社会という資本主義の到達点

 
古典的資本主義は需要と供給の矛盾を抱え込んでおり、これは「恐慌」という形で周期的に顕在化していました。つまり昔は資本主義体制を維持するには「戦争」という名の最終需要を期待するしかなかったわけです。
 
現代の「消費化/情報化社会」とはこうした資本主義システムの欠陥を克服する形で現れます。ゼネラルモーターズ社の「自動車は外見で売れる」という頻繁なモードチェンジ戦略が典型であるように、資本主義は自らの中に内在する欠陥を「消費化」と「情報化」の推進により「欲望の空間」を拓き、需要の無限の自己創出を可能とします。いわば情報化/消費化社会の到来により資本主義というシステムは初めて完成をみたと言えるでしょう。
 
しかし他方で消費化/情報化社会は多面において資源収奪的/他者収奪的な面を内包しています。結果「環境破壊」「貧困」「格差」という各種の社会問題を顕在化させるわけです。
 
 

* それでも魅力的な社会

 
けれど、本書はそれでも消費化/情報化社会の持つ魅力そのものまで否定すべきではないという立場をとります。長きに渡った冷戦を集結させたのは資本主義陣営の軍事的優位ではなく、消費化/情報化社会が持つ自由と煌びやかさであったことは確かです。
 
消費や情報を禁圧する社会は持続的な社会とはなり得ない。消費化情報化社会が有するこの「光の巨大」を否定するべきではない。問題は消費化情報化社会のシステムが抱える「闇の巨大」をいかに乗り越えるかであるということです。
 
そこで本書は「消費」と「情報」についてのラディカルな考察を通じて、消費化/情報化社会を資源収奪的、他者収奪的ではないもう一段上の新たなフェイズへ進化させる可能性を探っていく道を示します。
 
 

* 「生の直接的な歓びそのもの」としての「消費」

 
この点、まず本書は「消費」の二義性に着目します。フランスの現代思想家、ジョルジュ・バタイユは「消費」を「充溢し燃焼しきる消尽(consumation)」であると定義しました。ところがポストモダンを代表する思想家、ジャン・ボードリヤールバタイユに依拠しつつも「消費」を「商品の購買(consommation)」として定義します。
 
こうしたボードリヤール的な「(転義としての)消費」は、今一度、バタイユ的な「(原義としての)消費」を軸として転回される必要があると本書は言います。
 
「(原義としての)消費」は人々の日常のうちにある他者や自然との交歓や享受の営みの中に見出せます。バタイユは「たとえばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な町の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きに他ならないこともある」と述べています。
 
こうした「生の直接的な歓びそのもの」こそが消費というコンセプトの核心にありながらも「この観念自体を踏み抜いてしまう原義のごときもの」であるということです。
 
 

* 「かけがえのないもの」を可視化するものとしての「情報」

 
次いで、本書は「情報」は三つの位相を持っているといいます。第一に「認識情報(認知としての情報/知識としての情報)」。第二に「行動情報(指令としての情報/プログラムとしての情報)」。これら二つは基本的に「手段としての情報」と言えます。
 
ところが、第三に情報とは「美としての情報(充足としての情報/歓びとしての情報)」の側面があります。このように「かけがえのないもの」を可視化することで開かれる「知と感受性と魂の深さの領野」こそが情報というコンセプトの核心にありながらも「この観念自体を踏み抜いてしまう原的な領野のごときもの」であるということです。
 
 

* 「消費」と「情報」のクロスオーバー

 
以上のような消費と情報の考察を通じ、本書は次のような論理で消費化/情報化社会が進むべき未来図を展望します。
 
「消費」というコンセプトの彼岸は「あらゆる種類の効用と手段主義的な思考の彼方」であり、そして「情報」というコンセプトの彼岸は「あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方」である。
 
一方で、現在の「消費」の観念は「物質主義的」な消費イメージに拘束されており、同時に現在の「情報」の観念は「効用と手段主義的」な情報イメージに拘束されている。
 
そうであれば「消費」と「情報」のそれぞれのコンセプトが切り開く彼岸に向かって、相互のコンセプトを転回することで、世界観を一段階上のフェイズへと更新することが可能となる。
 
こうして「消費」と「情報」のクロスオーバーが切り開く新たな世界は、現在の消費化情報化社会を「ずいぶん不自由なものとして見返すことができる空間であるはずである」と本書はいいます。
 
 

* 日常の中にある瑞やかな歓び

 
本書が構想するのは「消費化情報化社会2.0」というべきものでしょう。本書で示された構想は後年の見田社会学おいて「軸の時代/軸の時代Ⅱ」として、更に巨視的な視点から展開される事になります。
 
グローバル化/ネットワーク化は自然収奪/他者収奪をより先鋭化させる一方、虚構と現実を融解させ、消費化と情報化の新たな局面を切り開きました。いまここで再びその「光の巨大」と「闇の巨大」が見はるかされる必要があるでしょう。
 
けれども、さしあたり本書が示す「インストゥルメンタルな生からコンサマトリーな生へ」という幸福感受性のパラダイムの転換は個人の生き方として一つの指針となると思います。
 
近代的な生のリアリティが「インストゥルメンタル」であること、つまり「ここではない、どこか」にある享楽だとすれば、現代的な生のリアリティは「コンサマトリー」であること、つまり「いま、ここ」にある享楽ということなのでしょう。
 
こうして現代における成熟とはまさにコンサマトリーな幸福感受性の涵養にあると言えるでしょう。過去でも未来でもない文字通りの「いま、ここ」に、より深く潜っていくということ。こうした営みこそがありきたりな日常の風景の中に、いくらでも瑞やかな歓びを汲み出していける力を産み出し、育んでいくということです。