かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

関係性のアンサンブルが産み出す可能性--ひだまりスケッチ1〜9(蒼樹うめ)

 

 

 

* 「日常系」のトラディショナル

 
「日常系」なるジャンルは、もともとゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏において「セカイ系」と「サヴァイブ系」を止揚するような形で現れた想像力です。こうした想像力の変遷はポストモダン的成熟観と密接に関連しています。
 
社会共通の「大きな物語」が完全に失効したゼロ年代以降の成熟観を語る上でのキーワードとして前景化したのは、異なる「小さな物語」を生きる他者との関係性のあり方でした。
 
この点、そもそも他者を拒絶し母性的承認の中に引きこもる想像力がポスト・エヴァンゲリオン的「セカイ系」であり、一方、他者との間で正義の奪い合いに明け暮れる想像力がデスノート的「サヴァイブ系」であったと言えます。今思えばどちらもなんとも極端な話です。
 
これに対して、他者とのごくありふれたつながり自体の中にこそ代え難い価値を見出していく想像力が「日常系」です。本作はこうした「日常系」というジャンルのトラディショナルと呼ぶべき作品です。
 
 

* 可能性が生まれる場所としてのひだまり荘

 
本作の主人公、ゆのは憧れのやまぶき高校美術科に合格後、学校の前にある学生アパート「ひだまり荘」に入居します。ゆのは自分の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えています。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロたちとの賑やかな日々を過ごして行く中で、ゆっくりとしかし着実に自分の在り方を見出していきます。
 
ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育ったバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違います。
 
この点、スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは「外向的」「内向的」という2つの基本的態度に「思考」「感情」「感覚」「直観」という4つの心理機能を掛け合せ、人の特性を8つのタイプとして類型化しました。
 
こうしたユング的タイプ論から観ると、ひだまり荘のキャラクターバランスの設計はほぼ完璧と言えます。
 
ゆの(内向的感覚型)の直接的なパートナーはタイプ論的には完全に対極をなす宮子(外向的直感型)であり、その背後を別の対極性を持つ沙英(内向的思考型)とヒロ(外向的感情型)が支えています。
 
その後、沙英とヒロの基本的態度をひっくり返した乃莉(外向的思考型)となずな(内向的感情型)が、さらには、ゆのとは逆の基本的態度でありながら同一の心理機能を持つ茉里(外向的感覚型)が加わり、より複雑な関係性のアンサンブルが構成されていきます。
 
このような異なる物語を生きる者同士の相互補償的交歓の中で生まれる可能性に対する信頼こそが、本作を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えています。
 
 

* ゆるやかでていねいなコミットメント

 
臨床心理学者の河合隼雄氏は心理療法のプロセスとして「3つのC」があると述べています。「3つのC」とはすなわち、コンプレックス・コンステレーション・コミットメントです。
 
河合先生はコンプレックスとは苦しいものであるが、それは同時に新しい可能性のありかを示しているといいます。
 
そして重要なのは日常的なめぐり合わせ、つまりコンステレーションの中で、自らのコンプレックスと対決し、外的・内的な現実とのコミットメントを重ねていく営みです。こうした内的開発のプロセスを得ることで、人は自らに内在する新しい可能性をものにしていくことができるということです。
 
本作が計算され尽くされたキャラクターバランスの中で描き出す「ゆるやかでていねいなコミットメント」は 、萌えサプリメント的な癒しに止まらない、数々な豊かな気づきを読み手に与えてくれます。この辺りに「ひだまり」が何度もアニメ化され長らく愛されている普遍的な理由があるのではないかと思うわけです。
 
 

* それでも私たちは助け合える

 
思えば「ひだまり」が初めてアニメ化されたゼロ年代中葉当時というのは、社会の至る所で何かにつけ「自己責任」が叫ばれ、一方、アニメを観れば「間違っているのは世界の方だ!」的なサヴァイブ系作品が一斉を風靡していた時代でした。
 
こうした状況において、ゆのちゃん達が提示した「それでも私たちは助け合える」という他者との関係性のあり方は、時代に対するある種の批判力であったと同時に、ポストモダン成熟観に対するサブカルチャー側からの優れた回答であったとも言えるでしょう