かぐらかのん

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デタッチメントとコミットメントの間--村上春樹・河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく(新潮文庫)
 

 

 
 

* 1995年という転回点

 
本書は村上春樹氏の代表作「ねじまき鳥クロニクル」完結直後の時期に行われた河合隼雄氏との対談であり、あの有名な「デタッチメントからコミットメントへ」という転向の経緯が語られています。
 
ねじまき鳥クロニクル」が完結した1995年という年は、一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件により若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された年でもあります。
 
現代思想的な観点からいうと、この1995年以降、日本においては、ポストモダン状況がより加速したと言われています。哲学者の東浩紀氏が言う「動物の時代」、社会学者の大澤真幸氏が言う「不可能性の時代」、批評家の宇野常寛氏の言う「拡張現実の時代」が幕を開けるわけです。
 
こうした転換期において、村上春樹という国民的作家が何を考え、河合隼雄というこれまた国民的知の巨人がどう応じたかを読み返してみるというのは、ますますポストモダンが極まった現代における成熟のあり方を考える上で重要ではないでしょうか。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
初期の村上春樹作品は「政治の季節」の極相を迎えた「60年代末の記憶」に対するアンチテーゼから出発していると言われています。
 
デビュー作「風の歌を聴け」から「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」に至る、いわゆる「鼠三部作」で村上氏が打ち出したのは世の中に対して「やれやれ」と嘯いてみせる「デタッチメント」という倫理的作用点でした。
 
次いで「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のラストでは、徹底したデタッチメントこそが倫理的なコミットメントであるという逆説が提示されます。
 
そして1000万部のベストセラーとなった「ノルウェイの森」は、まさしくこうしたデタッチメント文学の到達点に位置する作品とも言えます。
 
ところが村上氏は1990年代に入ると自身の倫理的作用点を「デタッチメントからコミットメントへ」と転回させる。この時期に書かれたのが「ねじまき鳥クロニクル」という作品です。
 
これまでの村上作品は、挫折、失敗、喪失といったものに向き合う「諦観の物語」という側面が強かったように思えます。
 
ところが本作は違う。本作には、失った物は何が何でも取り返すんだという明確なコミットメントの意志が満ちている。いわば本作は「奪還の物語」と言えます。
 
こうした転換の契機について村上氏は海外滞在経験が大きかったと述べています。もしかして外から閉塞する日本を眺めていて、これはもう「やれやれ」とか言ってる場合じゃないと、変わりゆく時代の潮目に気づいていたのでしょうか。
 
 

* コンプレックス・コンステレーション・コミットメント

 
こうした村上氏のコミットメントというテーマに関連して河合氏がユング心理学の3つのCとしてコンプレックス・コンステレーション・コミットメントをあげているのは興味深いところです。
 
コンプレックスがまったくない人はそんなにいないと思います。誰だって自分の抱えているコンプレックスと向き合うことは苦しい経験でしょう。けれども河合先生はコンプレックスにこそ、新しい可能性の在り処が示されているといいます。
 
こうした自らのうちにあるコンプレックスと対決していく上で重要なのは、日常的なめぐり合わせ、つまりコンステレーションの中で、現実とのコミットメントを重ねていく営みです。
 
この点、ここでいう現実とは、普段の生活や対人関係といった外的な現実のみならず、自分の心の中にある内的な現実をも含みます。
 
つまり、ここでいうコミットメントとは、仕事、家事、趣味といった「外的な現実」を懸命にやり抜きつつも、心の中で絶えず生起する「内的な現実」との対話を丁寧に重ねていくという営みに他なりません。
 
こうした内的開発のプロセスを得ることで、人は自らに内在する新しい可能性をものにしていくことができるということです。これが河合先生がいう「自らの物語を見出す」という事です。
 
 

* デタッチメントとコミットメントの間

 
「コミットメント」というと何かみんなでワイワイとやっているリア充的イメージを思い起こしがちですが、本書でお二人が強調する「コミットメント」とは、そういう浅はかな意味ではもちろんないわけです。
 
「ゆるやかでていねいなコミットメント」もあれば「深く静かなコミットメント」もある。重要なのはいかに自分らしく世の中にコミットメントできるかということです。
 
一方で、あえて「やれやれ」とデタッチメントしてみせるという倫理もあるわけです。例えば、心理療法とはクライエントの表層にある「要求」にデタッチメントしつつも、その深層にある「欲望」にコミットメントしていく側面があります。これはある種、愛に満ちた「やれやれ」という態度とも言えます。
 
社会学者の見田宗介氏のいうように我々にとって他者とは二義的な存在です。我々はある誰かに対して、異なる物語を生きる「尊重する他者」としてデタッチメントすべき時もあれば、同じ物語を生きる「交歓する他者」としてコミットメントしていく時もあるわけです。
 
つまり「デタッチメントかコミットメントか」ではなく「デタッチメントもコミットメントも」という事です。大切なのは両者をいかに使い分け、洗練させていくという統合的な倫理です。こうした観点から村上氏の小説を読み解いていけばまた新たな発見があるのではないでしょうか。