かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「ここではない、どこか」から「いま、ここ」へ

 

 

 
人はその想像力をもって世界を照らし出し、自分なりの物語を創り出すことによって「私は私である」「私はここにいる」という生のリアリティを獲得します。
 
すなわち、人が生きていく上でどういった想像力を参照するかは大きな問題です。では、現代を生きるための想像力とはなんでしょうか?
 
 

* 世界は有限である

 
まず、現代において我々が直面しているのは「世界は有限である」というひとつの事実です。
 
地球という環境下にある以上、人間という種も生物学的なロジスティック曲線の支配下にあります。「近代」という人類の爆発期はロジスティック曲線の第Ⅱ期に相当します。そして現代とは第Ⅱ期から第Ⅲ期へ向かう過度期ということになります。
 
 
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 (見田宗介現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと」Kindle No.204より)
 
20世紀後半は近代期の最終局面であり、この局面において資本主義は「情報による消費の自己創出」というシステムの発明によりその内在的矛盾を克服し、社会主義を退けて未曾有の物質的繁栄を実現しました。
 
しかしこうした資本主義の無限循環はやがて資源と環境の有限性に直面します。
 
地球という球面はどこまでいっても際限がありませんが、それでも一つの「閉域」です。グローバル資本主義システムという無限性の追求の果てに露見したのは世界の有限性でした。
 
このアポリアをどう乗り越えればいいのでしょうか?すなわち現代においては、世界の有限性を引き受けるための新たな想像力が要請されているということです。
 
 

* 「ここではない、どこか」

 

近代社会における基本的特質は、かのマックス・ウェーバーが言うように人間の生のあらゆる領域における「合理化」の徹底にありました。
 
これは生産主義的、未来主義的、手段主義的な社会のあり方と人の生き方をいいます。すなわち「豊かな素晴らしい未来」という目的実現のため、現在の生を手段化するということです。
 
確かに1970年代くらいまでは「豊かな素晴らしい未来」という夢想が素朴に信じられた時代であり、人は「ここではない、どこか」にあるはずの未来へとその生のリアリティの根拠を先送りすることで現在の生を満たすことが可能だったのでしょう。
 
けれども、グローバル化と情報化が極まった現代において人々はついにその未来を失い、現在の生がいかに空疎であるかに気づいてしまったわけです。
 
つまり、これまでの「未来への疎外(目的のための生の手段化)」の上に、さらに「未来からの疎外(目的そのものの消失)」が重なる状態となります。この「二重の疎外」こそが現代における生のリアリティ解体の構造と言えます。
 
 

* 新しい「ここではない、どこか」

 
この閉塞性を突破する方法の一つのして環境容量のさらなる拡大があるでしょう。人はこれまでも古代の農業革命と近代の産業革命において環境容量を劇的に拡大してきました。現在においても、テクノロジーの抜本的革新による環境容量の拡大可能性は十分に考えられます。
 
例えば一方で宇宙開発による「外延的拡大」という方向性があります。他方で、生命の最少単位である遺伝子や物質の最小単位である素粒子の操作による「内包的拡大」という方向性もあるでしょう。
 
特に後者は環境容量の抜本的な拡大の可能性を秘めており、ここから「多段式ロジスティック曲線」なるものを想定することも不可能ではないかもしれません。
 
こうした新しい「ここではない、どこか」の可能性は確かに魅力的ではありますが、強引な環境容量の拡大にはリスクが伴います。まさに原発とかがそうだったように危機を無理やり突破しようとする行動自体が新しい危機を誘発するという危機の悪循環に陥ってしまうことになります。
 
 

* 「いま、ここ」

 
要するに「ここではない、どこか」という想像力だけでこの時代を生きていくというのはちょっと苦しいわけです。ならば他に何があるのでしょうか?
 
この点において社会学者の見田宗介氏は、現代において人が生のリアリティを獲得する上で重要なのは、経済成長による物質的富の増大以上に、日々の生活風景の中に幸福の原層というべき〈単純な至福〉を自在に見い出していける「幸福感受性」であると言います。
 
つまり、それこそ日々の中にあるありふれた、美味しいご飯を食べた時、素敵な本を読んだり音楽を聴いた時、道端に綺麗な花が咲いているのを見つけた時、誰かの優しさに触れた時など、そういった何気ない「いま、ここ」の中に色彩豊かな物語を見いだしていく「洗練された幸福の感性」こそが現代において求められる想像力であるという事です。
 
「ここではない、どこか」から「いま、ここ」へ。こうした想像力のパラダイム転換は近年に行われた様々な青年層の意識調査のデータ上ですでにその萌芽が認められています。また、近年の多くのサブカルチャー作品でも食事や雑談などの日常描写を重視し、数々の「いま、ここ」を鮮明に描き出す傾向が見てとれたりもします。
 
 

* 有限の中にある無限

 
こうして現代とは「ここではない、どこか」を目指し成長を追求する力動と、「いま、ここ」の中で成熟を深める力動が拮抗している時代と言えるでしょう。
 
問題はこの両者のバランスをどう取っていくかということです。ここからロジスティック曲線第Ⅲ期を安定平衡の高原期として切り開いていけるのか、それとも有限な資源を使い尽くし種としての衰退に向かって行くか。大げさでなく我々はまさに岐路の時代を生きているということになります。
 
日々の中に〈単純な至福〉を見いだしていくということ。確かにその一つ一つの断片だけを切り出せば取るに足らない営みかもしれません。しかしこうした有限の世界の中で無限の可能性を見出していくような生き方が社会全体で共有された時こそ、人はロジスティック曲線を「歓ばしい曲線」とする方向で、無数の〈単純な至福〉が花咲く高原として生きていくことができるではないでしょうか。