かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

鏡像段階と対幻想、あるいは内閉期における少女の物語--カードキャプターさくら・クリアカード編1〜6(CLAMP)

 

 

 
CLAMPさんの不朽の名作「カードキャプターさくら」がまさかの連載再開からもうすぐ3年です。昨年のアニメ化を経て単行本は現在6巻まで刊行中。4巻くらいまでは謎がどんどん積み重なっていくばかりでしたが、5巻、6巻で色々と急展開を迎え、物語もいよいよ佳境に入った感があります。
 
 

* あらすじ

 
友枝中学校に進学した木之本さくら。長らく離れ離れになっていた李小狼とも再会し、これからの中学校生活に期待を膨らませるその矢先、フードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中に。そして「さくらカード」は透明なカードに変化し効果を失っていた。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。
 
そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。二人はお互い何かを感じるところがあったのか次第に交友を深めていく。一方、秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡にはある目的があった。
 
 

* 異性間の恋愛から同性間の友愛へ

 
物語の核心に入るのはまだこれからなので現時点でこのクリアカード編という作品を正確に評価するのは難しいですが、ここまで読んできて思うのは、物語展開のフォーマットは前作を踏襲しつつ、前作と比べてキャラクター相互の関係性描写の重心が変化しているという印象です。
 
それは端的に言えば「異性間の恋愛から同性間の友愛へ」ということです。
 
前作では、さくらが小狼や雪兎、あるいはエリオル、藤隆との関係性をひとつひとつ言語化していく作業を通じて、異性間の恋愛という新しい感情を発見していく過程に描写の重きがおかれていました。
 
一方、今作においては、さくらと秋穂という二人の少女が相互に同性間の友愛を交歓していく過程に描写の重きが置かれてるように思えます。
 
この点、お互いの名前が〈木之本桜/詩之本秋穂〉という鏡像関係となっているのは注目すべき点でしょう。フランスの精神科医ジャック・ラカンが提唱した鏡像段階論がいうように、我々は他者を「鏡」として「〈私〉とは何か」という自己理解を深めていくわけです。
 
 

* 二つの対幻想

 
こうしたさくらにおける関係性描写の変化は、吉本隆明氏のいう共同幻想論的文脈で言えば夫婦的対幻想から兄弟姉妹的対幻想への変化を想起させるものがあります。
 
共同幻想論によれば、国家は一つの幻想として捉えられます。すなわち、人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(夫婦的・兄弟姉妹的関係性)、共同幻想(国家的共同体)から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになります。
 
吉本氏本人は国家的な共同幻想の呪縛を脱する拠点としての対幻想のうち、夫婦的対幻想を重視する一方、兄弟姉妹的対幻想は容易に共同幻想と接続するものとして警戒していました(例えば「同期の桜」という言葉の意味を考えてみれば良いでしょう)。
 
しかし、現代におけるグローバル化、情報化の進展は、国家的な共同幻想の存在感を零落させ、代わりに「市場」という非幻想を前景化させます。
 
この時、夫婦的対幻想は容易に共同幻想に転化し、自己幻想の幼児的万能感を肥大化させる危険を孕むことになります。
 
一方で、もうひとつの対幻想である兄弟姉妹的対幻想は、国家的な共同幻想ではなく市場という非幻想へ接続されることで、国家的な共同幻想へ転換することなく対幻想のまま展開することになります。
 
ここで個人と個人は共同幻想を媒介とすることなく、お互いが相補的な片割れとしてアイデンティティゲームによって繋がりをもっていくことになる。
 
批評家の宇野常寛氏が「母性のディストピア」で指摘しているように、こうした兄弟姉妹的対幻想の拡大現象は漫画やアニメなどのサブカルチャーの想像力の中にもジャンル横断的に確実に立ち現われています。
 
例えば、近年のロボットアニメにおける美少年同士のボーイズラブや、日常系アニメの微百合展開などは、歪な形ではありますが、確かにこうした文脈の中で了解可能と言えます。
 
 

* 内閉期における物語としてのさくら

 
CLAMPさんはこうした時代の想像力の変化を的確に捉えていたのでしょう。だからあえて、前作と同様「なかよし」での連載再開だったのではないのでしょうか?連載再開に至る経緯についての詳しい事情はよくわかりませんが、なんだかそういう風にも思えてしまうんですね。
 
これだけ成功したコンテンツですから、青年誌とかでさくらをノスタルジー的に消費してくれる客層相手に連載したほうがどう考えても楽だし確実なビジネスです。一方「なかよし」の読者の多くはさくらのさの字も知らないでしょう。
 
けれども、個人のアイデンティティのあり方においては、どういった想像力を参照するかという問題が深く関わってきます。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏が指摘するように、特に10代前半という時期は人格形成にとって重要な「内閉の時期」と言われています。この時期、子どもはあたかも「さなぎ」のような「こころの殻」を形成し、その内側で子どもから大人へとその精神を変容させていくわけです。
 
そうであればこそ、そうした繊細な時期を迎える子どもたちにこそ、本作品を何のバイアスもなしに純粋に一つの物語として読んでもらいたい。
 
もしかしてそんな想いがどこか、CLAMPさんの中にあったのかもしれませんね。
 
6巻ラストでは物語の核心ともいえる秋穂ちゃんの正体がついに詳らかにされました。月並みな感想で恐縮ですが、今後の物語の展開を楽しみにしたいと思います。