かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

物語を紡ぎ出す力--私が語り伝えたかったこと(河合隼雄)

 

 

 
 

* はじめに

 
我が国の臨床心理学の礎を築いた知の巨人、河合隼雄氏の思索の軌跡をまとめた一冊です。
 
本書は氏の逝去後に、生前の講演やインタビューなどをご子息である河合俊雄氏が編纂したものであり、テーマは心理療法の他、教育、宗教、芸術、養生術など多岐に渡っています。
 
これらは一見バラバラのことを述べているようにも思われますが、深いところではきちんとリンクしています。
 
河合先生は何を語り伝えたかったのでしょうか?本書の表題に対する解は読み手に委ねられています。
 
むしろ我々読み手が自分なりに氏の残したメッセージを読み解き自分のものにしていく過程こそが、この不透明な時代を生き抜くための「知の資産」になるんだと思います。
 
そういう意味で本書は河合隼雄氏の我々への「遺言状」とも言えるでしょう。
 
 

* アイデンティティと物語

 
「私は私である」というアイデンティティというのは一見よくわかったようで実はよくわからない概念です。「私は私である」というその確信の源泉は何処にあるのでしょうか?
 
この点、アイデンティティという言葉を普及させた、米国の発達心理学者エリク・H・エリクソンアイデンティティというのはエゴ・アイデンティティ(自我同一性)であるといいました。
 
エゴ・アイデンティティが確立している人とは「主体的な個人として社会にコミットできる人」のことです。具体的にいえば、真っ当な職業を持って、きちんと家族を養い、そして社会に対する自分の意見、判断力を持ち責任を取れる人を言います。
 
こうしたエリクソン的エゴ・アイデンティティ概念は「父(市民)になる」という近代的成熟観に立脚したもので理念としては正しい核心を持っていると思います。けれど少なくとも今日の日本においてあまりリアリティのあるものとして響かないようにも思われます。
 
これに対して河合氏は、エゴ・アイデンティティ概念の重要性は認めつつも、ファンタジーの重要性を強調しています。ここでいうファンタジーとは人が持つ内的な幻想のことであり、端的にいえばその人が持っている自分なりの「物語」のことです。
 
つまり、人が生きていく上で紡ぎあげていくその人なりの「物語」こそが「私が私である」というアイデンティティの源泉となるということです。こうした河合氏の考え方は現代における多様なライフスタイルを包摂する成熟のあり方といえるでしょう。
 
 

* 日本人の宗教観

 
こうした「物語」を創り出すにあたり、氏は宗教的価値観の重要性を強調します。ここでいう宗教とは何々教とかいう具体的な教団、宗派ではもちろんなく、超越的存在への畏敬という価値観のことを指しています。
 
この点、かつて日本においては、日常生活に根ざした素朴な宗教観が人のアイデンティティを支えていました。例えば「もったいない」という観念や「死んだらご先祖様になる」という信仰です。
 
しかし現代社会においてこうした宗教観は失われつつあります。これは各人が「物語」を創り出す上である種の困難をもたらします。けれども物語なきところでは人は根源的な不安に襲われる。こうして人は自力でなにがしかの物語を作り上げざるを得ず、時にそれはどこか歪なものにもなる。
 
人は物語に救われる事もあれば、物語に殺される事もあります。メンタルヘルスの不調や問題行動を解決する上で重要なのは「原因の解明」などではなく、その人なりの物語の紡ぎ直しを援助していく点にあるということです。
 
 

* 包み込む母性と切り離す父性

 
日本の教育は長きにわたり「民主的な平等主義」を錦の御旗として、子どもに偏差値を「平等に」に適用した結果、子どもを数字や順位のみで序列化していく風潮を生み出しました。つまりここで平等教育と序列教育は表裏の関係に立っているわけです。
 
中央教育審議会委員、文部科学省顧問、文化庁長官といった立場で教育行政にも携わってきた河合氏はこうした序列教育を批判しつつも、かといって「通知表は全員オール3」とか「みんな揃ってゴールイン」などという評価を放棄するような教育からも距離をおきます。
 
氏は、教育における評価は評価として行いつつも、そうした一連の評価とその子の尊厳は全く関係ないものであることを、腹の底まで理解して子どもに接しなければならないと強調します。
 
これは長年にわたり多くの「問題児」にカウンセラーとして関わってきた河合氏の経験と倫理からくる主張なのでしょう。真の意味で平等な教育とは、一人一人の子どもの特異性を大切にする教育であるということです。
 
こうした観点から、現場の先生方には母性原理と父性原理が統合された態度が必要であると述べます。
 
まず教師においては子どもの自主性を尊重し見守っていく母性原理的な優しさが必要となってくる。
 
氏は「思春期さなぎ説」というものを提唱しています。人間も子どもから大人になる前には蛹のように外殻を作って閉じこもる内閉期が必要であり、こうした蛹の時期には「見守る」という姿勢が重要になります。
 
時には外殻を作ることを手助けしたりする必要はあるかもしれないが、間違っても、外殻を剥がし取ろうとするような真似をしてはいけないということです。
 
こうして育ってきた個性が外に出る時、社会の常識とうまく調和せずどこかギクシャクしたものとして出てくることもあるでしょう。時に個性というのは悪の形で出てくるということです。
 
そこで、教師は本当に止めるべきを見極めて、その時はきちんと「それはダメだ」と断固と言える父性原理な強さも持たなければならない。
 
このように教育においては、いわば包み込む母性と切り離す父性という、一見相反する態度を高い次元で統合しながら子どもと関わって行く態度が必要になるということです。
 
 

* 自己実現の過程

 
河合氏の属するユング派を創始したスイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは意識体系の枢要である「自我」に対して、無意識をも含めた心全体の中心部に「自己」という元型を仮定します。
 
「自我とコンプレックス」「男性性と女性性」といった、心の中で様々に相対立する葛藤というのは、ユングによれば、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。
 
自己とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力となります。こうした過程を個性化の過程、自己実現の過程と呼びます。
 
この点、ユングによれば、ある個人の自我が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、内界で起きている心的事象に呼応するような外的事象が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種のこころの不調かもしれませんし、人間関係の軋轢かもしれませんし、人生における挫折や喪失かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、これらの事象の裏には自我がいよいよ自己との対決を試みている努力の表れがあるということです。
 
そこでユング心理学では、このような内的-外的に生じた事象を自己実現に向けた一つのコンステレーション(布置)として共時的に把握することを重視するわけです。
 
 

* コンステレーションを読み抜く時、物語は紡がれる

 
幸福のロールモデルが崩壊した現代社会において自らの生をコンステレーションする生き方はますます重要性を増しているでしょう。
 
内的-外的に生じた事象をひとつのコンステレーションとして読み抜いた時、そこには「物語」が生じてくる。
 
すなわち、現代における「生きる力」とは他者と関係性の中に「意味のあるめぐりあわせ」を見出し自らの生の物語を自在に紡ぎだし、書き換えていく力であるということです。
 
どのような物語を生きるかによって世界は生きづらさに満ちたものにも、自由と可能性に満ちたものにもなるでしょう。
 
幸せの青い鳥は「ここではない、どこか」はなく、いつも「いま、ここ」にいます。生きていればいろいろと嫌なこと、不安なこと、大変なこともあるでしょう。でも折角の人生です。この時代、この社会に生まれ落ちた「めぐりあわせ」を大事にしながら日々、生きていきたいものです。