かぐらかのん

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「アドラーをじっくり読む(岸見一郎)」を読む。〜本当の意味でアドラーを理解するために必要なこと。

 

アドラーをじっくり読む (中公新書ラクレ)

アドラーをじっくり読む (中公新書ラクレ)

 

 

* はじめに

 
「嫌われる勇気」の大ヒット以来、一挙に時代の脚光をあびる事になったアドラー心理学
 
トラウマはない。過去(原因)は変えられないが、未来(目的)は変えることができる。勇気さえあればいまの境遇は打開できる。人は変われる。なんでもできる。
 
こういったアドラーのシンプルでパワフルなメッセージは多くの人に勇気と光明をもたらした事は間違いないでしょう。
 
けれども、シンプルであるが故に真の理解は難しく、逆に様々な誤解も生じてくるわけです。
 
1番まずいのがアドラーを中途半端に読み齧って「感激」した人が、うつ病になってしまった部下に「うつ病だから会社に来れないのではなく、会社に来たくないからうつ病になったのだ」とか、協調性に欠ける部下に「お前は共同体感覚が欠如している」などと言い放ったり、口には出さずともそういう上から目線の態度を取ってしまう事でしょう。
 
また、パワフルであるが故に期せず誰かを傷つける可能性を孕んでいるということです。
 
例えば、さまざまな不遇からメンタルヘルスに不調をきたしてしまった人が、アドラーの「人は変われる」というメッセージを言葉通りに受け止めてしまうと、変われない今の自分をますます責めてしまいかねません。
 
こういった弊害を避けてアドラーを正しく理解するためには、一度きちんとアドラー本人の著作を読んでアドラー理論の原典に立ち還る必要があるでしょう。けれども初学者がいきなりその作業をやるのはさすがにハードルの高い話です。
 
この点、本書は岸見先生がこれまで訳されてきたアドラーの各著作の解説文を改訂してまとめたものであり、アドラー理論のエッセンスがコンパクトに凝集された一冊と言えます。アドラー本人の著作へと進む上での良き手引き書となるでしょう。
 
 

* 優越性の追求とライフスタイル

 
精神分析を創始したジークムント・フロイトは人の根本衝動を「性欲動」だと規定しましたが、これに対して、アルフレッド・アドラーは人の根本衝動は「優越性の追求」だと主張します。
 
「優越性の追求」とは人の持つ「もっと成長して理想的な自分に近づきたい」という動機の事です。ここから今の自分に対する「劣等感」が生じてくる。
 
そこで人はこの「劣等感」を補償しようとして生きていくことになる。このような「劣等感の補償」に駆動された結果、形成されていく傾向あるいは動線というべき個人のパーソナリティをアドラーは「ライフスタイル」と呼ぶ。
 
「ライフスタイル」というのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って差し支えないでしょう。
 
こうして、人の行動は自らのライフスタイルを正当化し維持する「目的」に規定されることになる(目的論)。
 
また、人はライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(認知論)。
 
よく言われる「トラウマは存在しない」というキャッチコピーが意味するのは、過去の出来事は現在のライススタイルに適合的な形で認知されるため、結果、同じ事実がある人にとっては「美しい思い出」に、ある人にとっては「忌むべきトラウマ」になるという事です。
 
つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての「個人」の在り方が問われている(全体論)。
 
そして、人は「主体」としてライフスタイルをいつでも選び直すことができる(主体論)。
 
「ライフスタイル」という呼び方自体も、着せ替え可能な「軽さ」を強調するためと言われます。
 
そして、ある人がいかなるライフスタイルを形成するかは、その人が「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。
 
 

* 劣等コンプレックスと共同体感覚

 
この点、対人関係を「縦の関係」として、すなわち他者を「敵」と看做して「支配・評価」という関係で捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成されていきます。
 
「劣等コンプレックス」は「私は〜だから〜できない」という公式で言い表されます。そしてその裏側には「私は〜さえなければ、なんでもできる」という「優越コンプレックス」が潜んでいます。
 
こうして、人は「人生の課題」を回避したり、他者の注目を集めて虚栄心を満たすという「目的」を達成するため、消極的性格の人は神経症という症状を作り出し、積極的性格の人は問題行動を起こすということです。
 
逆に対人関係を「横の関係」として、すなわち他者を「仲間」と看做して「尊敬・感謝」という関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成されていきます。
 
すなわち、アドラー心理学の実践とは、ライフスタイルの誤りを洞察し、共同体感覚を涵養にする事に他ならないわけです。
 

* 課題の分離

 
アドラー心理学の実践は、自分と他人の問題領域を切り分ける所から始まります。いわゆる「課題の分離」です。
 
この点、課題の分離には二つの側面があります。
 
まず第一に「他者の課題に踏み込まないこと」。いわゆる「承認欲求を否定する」というのもここに通じるものがあります。「嫌われる勇気」でも強調されている通り「他者があなたをどう評価するか」というのは「他者の課題」に他なりません。
 
そして第二に「自分の課題に誠実にとり組むこと」。これこそが「勇気付け」の実践です。
 

* 勇気付け

 
「勇気付け」の実践は、まずはいまの自分を勇気づけるところから始まります。現状のあるがままを直視し、それでも「わたしには価値がある」と確信を持ってイエスを言うこと。すなわち「自己受容」です。
 
自分を勇気づけることができるようになれば、次のステップとして他者を勇気づけます。つまり、他者に対して「共感」を寄せ「あなたには価値がある」という「尊敬・感謝の念」を表明する。すなわち「他者信頼」「他者貢献」です。
 
この点「他者信頼」というのは他者にイエスマンのごとく追従する態度とは全く異なります。アドラー派に「結末技法」というものがありますが、相手の存在を尊敬・信頼することと、相手の間違った行為を間違っているときっぱり断じ去ることは全く別のことです。
 
「他者貢献」は最も重要です。実際に何かを貢献したかどうかではなく、重要なのは「貢献感」が得られたかどうかです。人は「貢献感」を得ることで「わたしには価値がある」ことを強く実感できるわけです。
 
こうして「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。この三要件が揃って初めて、人は劣等コンプレックスの磁場を抜け出し、共同体感覚の領域に遷移していくということができる、ということになります。
 

* 「なんでもない日々」が試練となる

 
共同体感覚を規範的な理想として捉えることには意味がある。その本来的な意味は、人と人とが結びついているということであるが、現実の世界においては競争がはびこり、無辜の人が犯罪者の刃に倒れることがあるというような時代において、アドラーがいうように、他者は敵ではなく、仲間であるとは到底思えないという人はあるだろう。しかし、そのような現実をそのまま肯定することなく、理想が現実から遠く離れていても、あるいは現実とは違うからこそ、なお理想を高く掲げてそれに近づく努力をして行くというのが理想主義である。
 
(本書より・Kindle位置:1149)

 

 
確かに本当の意味での完全な共同体感覚というのはアドラーの言うように「到達できない理想」と言えるでしょう。
 
どんなに「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を意識して日々を過ごそうとしても、何か面白くないことが起これば、やっぱり妬みや僻みというネガティブな感情は大なり小なり出てきます。
 
こうして我々凡人は劣等コンプレックスと共同体感覚という両極の隘路をウロウロするのが実際のところなんでしょう。
 
フランスの諺にあるように、人は変われば変わるほど変わらない。人がほんの少しだけでも変わるというのは大変な営みです。もし誰かを変えたいのであれば、まず自分が変わらなければならない。
 
従って重要なのは、日常の中で少しでも多くの瞬間において、共同体感覚「的」な態度を持とうとする意識付けと努力なのではないでしょうか。「幸せになる勇気」の中で哲人が言っているように、そこには「なんでもない日々」が試練となるわけです。
 

* おわりに

 
禅の言葉に「不立文字教外別伝」というものがあります。本当の教えの極意は文字や言葉にすることができないという事です。
 
同様に、本当の意味でアドラーを理解するためには、「劣等コンプレックス」とか「共同体感覚」などといった知識を得て「アドラーを知る」ことのみならず、日々のいたるところで「アドラーを生きる」ことが必要なんだと思います。
 
自分のあるがままをこれでよいと受け入れる事。他者に共感を持って接し、尊敬と感謝の言葉を伝える事。見返りを求めず小さな善行を積み重ねていく事。
 
このように日々あらゆる場面をていねいに生きていくことこそが本当の意味でアドラーを理解するということなんだと思います。