かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

様々な「正義」の泡立ちの中で--流浪の月(凪良ゆう)

 

*「常識」という名の予断と偏見

 
言うまでもなく小説には「語り手」が必要です。読者はあくまで語り手の描写や解説を通じて小説世界内の出来事や人物を知ることになりますので、その語り手がどの程度信頼できるかは一つの文学的な問題となります。この点、読者に疑いを引き起こすような語り手は「信頼できない語り手」と呼ばれます。そして、ある語り手を「信頼できない語り手」と看做す根拠として、その語り手の年齢や属性や性格などが挙げられたりします。
 
しかし少なくとも小説の語り手が小説世界内に属する一人称である場合、彼/彼女は常にある意味で「信頼できない語り手」であると言っていいのではないでしょうか。なぜならば一見、その語り口が我々の常識に照らし合わせて極めて信頼できる妥当なものだとしても、その「常識」それ自体が社会全体が共有する巨大な予断と偏見の産物だったりもするからです。そして本作はこうした予断と偏見に満ちた我々の「常識」に対して真正面から揺さぶりをかけるような一冊といえます。
 

* 出会ってはいけなかった二人

 
本作はプロローグ以外は一人称で語られ、章によって語り手が変わっていきます。そのあらすじは次の通りです。
 
本作の主人公、家内更紗は9歳の時に両親を喪い、母方の伯母の家に引き取られることになった。両親とは全く教育方針が異なる伯母の家に馴染めない更紗は学校が終わるといつも公園のベンチで本を読んで過ごしていた。そこには同級生から「ロリコン」と呼ばれる青年がやはりいつも自分と同じように本を読んでいた。
 
ある雨の日、公園でびしょ濡れになっても帰ろうとしない更紗に青年は傘を差し出し「帰らないの」と訊く。「帰りたくないの」と答える更紗に対して青年は「うちにくる?」と声を掛ける。こうして更紗は2か月もの時を青年の家で過ごすことになる。
 
青年の名は佐伯文。文は19歳の大学生で近所のマンションで一人暮らしをしていた。更紗にとって文の家にいることは当初、伯母の家に帰りたくないという消極的な理由であったが、次第に更紗は文の人柄に惹かれていき、文の家に自分の居場所を見出すようになっていった。
 
しかしその間、更紗は「家内更紗ちゃん誘拐事件」の被害女児として全国に実名報道されていた。やがて文は誘拐犯として逮捕され、更紗は「保護」されることになる。そして事件の後、更紗はずっと周囲から「ロリコンに誘拐された可哀想な被害者」として扱われるようになった。
 
そして事件から15年が過ぎ、更紗は24歳となり恋人もでき、それなりに幸せな日々を過ごしている。そんなある日、更紗は偶然文と再会することになった。
 

* 本作は「そういう話」ではない

 
我々の社会における圧倒的常識は小児性愛者を忌むべき危険な存在であると看做しています。そしてこうした常識の下で、おそらく多数の読み手は本作をその終盤まで小児性愛者の青年と天衣無縫な少女が紡ぎ出すイノセントな交歓の物語として読み解き、そこから例えば「確かにロリコン=危険という決めつけは良くない」とか、あるいは「小児性愛を過度に美化している」などといった類の感想を抱いたりするわけです。
 
しかしながら、本作を最後まで読めば明らかな通り、本作はまったく「そういう話」ではありません。ではなぜ読み手は本作を途中まで「そういう話」として読んでしまったのでしょうか。
 
それは第一に本作中盤までの語り手である更紗が文をロリコンであると認識しているからであり、第二に確かに我々の一般的な常識に照らし合わせても、文の様々な言動は悉く彼の小児性愛的な嗜好を指し示しているからです。
 
けれども、本作を読み終えた時、読み手は文のこれまでの言動を小児性愛的な嗜好とはまったく別の意味から捉え直す事になるはずです。人は皆、常日頃から「常識」という予断と偏見によって勝手に世界を決めつけて他者を理解したつもりになっています。こうした我々が依拠する「常識」がいかに危ういものであるかを本作は気付かせてくれるでしょう。
 

* 本作の問う「正義」の在り処

 
もちろん本作における文の行為は、とにかくは現行刑法における未成年誘拐罪の少なくとも構成要件に該当します。例えその「真の目的」がわかったところで、その手段までもが正当化されるわけではありません。むしろ文はかなり身勝手な理由で更紗を利用していたと言わざるを得ないでしょう。そして幼少時における更紗の選択も作中で言及があるように、いわゆる「ストックホルム症候群」ではないかという解釈も完全に退ける事は難しいように思えます。
 
しかし、そうだとしても既に法的制裁を受けた「悪」に対してさらなる「私刑」とも呼ぶべき社会的制裁を下す「正義」にいかなる倫理的正当性があるのでしょうか。近年のソーシャルメディアにおける炎上事件でしばし見られるように、人は違法ではない行為さえにも「正義」の名の下に「悪」に対して安全圏から嬉々として石を投げつけたりもするわけです。
 

* 様々な「正義」の泡立ちの中で

 
しばし人は世界で生起する出来事を「正義/悪」という二項対立に還元して「正義」の名の下に「悪」を糾弾したりもします。すなわち、それは「正義」が成立するには倒すべき「悪」が必要であることを意味しています。けれどもむしろ実際には「正義」と「悪」の関係は常に相対的であり、ある「正義」にとっての「悪」とは別の「正義」だったりもします。
 
そしてまた、ある「正義」が成立するには守るべき「被害者」が必要になります。ゆえに「被害者」はとにかく徹底して「かわいそう」な存在でなければならなりません。けれども世間一般の考える「正義」と当の「被害者」の考える「正義」が異なることだってあるでしょう。そこで「被害者」が更紗のように「私は可哀想なんかじゃない」と声をあげようものなら、その声はしばし多方向から様々な理屈やレッテルによって激しく否定されることもあります。
 
結局のところ、我々は様々な「正義」という「他者性」が泡立つ世界を生きているということです。そんな世界においてせめて我々にできる事があるとすれば、ひとつの絶対的な「正義」の中に安住することなく、様々な「正義」という「他者性」の泡立ちを織り込んだ上での仮留めの「正義」を日々丁寧に更新しながら生きていくしかないのでしょう。こうした意味で本作は一見して明白ともいえる「悪」を題材とすることで「正義」という名の思考停止に警鐘を鳴らす作品であったともいえます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

村上春樹作品における母的ヒロインと娘的ヒロイン--女のいない男たち(村上春樹)

* 性別化の式とファルス関数

 
精神分析における「男性」とは基本的に「去勢」された存在であるとされています。この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンはその晩年において次のような「性別化の式」と呼ばれる男女のセクシュアリティに関する図式を提示しています。
 

 
この図式における「男性側の式」の左下(∀xΦx)は「すべての男性はファルス関数に従属しており、彼らが得ることができる享楽はファルス享楽だけである」という命題を示しています。
 
つまり「(精神分析的な意味での)男性」とは「言語の世界(象徴界)」における主体となる代償として「言語以前の世界(現実界)」における「絶対的享楽」の喪失を齎す「去勢」に、すなわち「(象徴的な)ファルス」の欠如に直面した存在です(ファルス関数)。その結果、男性は「絶対的享楽」の残滓としての「対象 a 」に切り詰められた享楽で満足するほかなくなります(ファルス享楽)。
 
ここでいう「対象 a 」とはファルスの欠如の隠蔽し「欲望の原因」となるフェティッシュな対象のことをいいます。男性はこの「対象 a 」をパートナーとすることで「幻想($♢a)」を構成し、自らの「ファルス」の欠如からひとまず目を背けることができる、ということです。
 
この点、男性がこの「対象 a 」の位置に、ある任意の女性を置いた時、その「幻想($♢a)」は一般的に「恋愛」とか「性愛」などと呼ばれることになります。けれどもラカンの示す図式からすれば、男性がパートナーにできるのはあくまでも「対象 a 」であり「女性そのもの」ではありません。
 
ここから「性関係はない」という後期ラカンのよく知られたテーゼが導かれます。そして男性が「対象 a 」としての女性を喪失した時、これまでのささやかな「幻想」は破綻し、彼は再び「ファルス」の欠如に直面することになります。
 

* 村上春樹作品における母的ヒロインと娘的ヒロイン

 
この点、村上春樹作品においてはしばしこうした意味での「対象 a =ヒロイン」を喪失した男性主人公が「幻想=生の物語」を記述し直していくという構図が見られます。そして、ここで鍵を握るのが「もう一人のヒロイン」です。
 
例えば「ノルウェイの森(1987)」では、ヒロインの直子が精神病になり最後は自死してしまうわけですが、その間、主人公のワタナベを支える存在が大学の同級生である緑です。また「ダンス・ダンス・ダンス(1988)」では、失踪したヒロインのキキを捜索する途中で知り合ったユキという娘が主人公 の「僕」を振り回しながらも、その特殊能力でキキの消息を突き止めます。
 
あるいは「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」では、主人公であるオカダ・トオルは突然失踪した妻、クミコを取り戻すため、彼女の兄であるワタヤ・ノボルと対決することになりますが、その過程においてオカダは笠原メイという近所に住む不良少女から多くの示唆を受けます。そして「1Q84(2009〜2010)」では主人公の天吾がもう一人の主人公にしてヒロインである青豆と再会する上で鍵となる存在が「空気さなぎ」という物語を生み出したふかえりという不思議少女です。
 
これらの村上春樹作品においては直子、キキ、クミコ、青豆が主人公にとっての「母的ヒロイン」だとすれば、緑、ユキ、メイ、ふかえりは主人公にとっての「娘的ヒロイン」です。要するにこれらの作品では「母的ヒロイン」の喪失を「娘的ヒロイン」が一時的に埋めわせているかのような構造が共通しているわけです。
 

*「女のいない男たち」の悲喜劇

 
そして6つの短編からなる本作「女のいない男たち(2014)」における男性主人公も何らかの形でヒロインの喪失に直面します。けれども、そこには都合の良い「もう一人のヒロイン」は登場しません。すなわち、本作の主人公達は「娘的ヒロイン」の支援なしで「母的ヒロイン」の喪失を受け入れていき、あるいは受け入れることができずにいます。本作はこうした意味での「女のいない男たち」の悲喜劇が描き出されていきます。
 
この点、戦後日本を代表する文芸評論家である江藤淳氏は主著「成熟と喪失」において、近代的な「成熟」の感覚を「母」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を引き受ける事だと定義しました。そして江藤氏は「父」になれない自覚の下にあえて「父」である「かのように」振る舞う成熟の主体を「治者」と呼びました。
 
江藤氏のいう「治者」とは確かに「成熟と喪失」刊行当時の高度経済成長期においては適合的な成熟モデルであったかもしれません。けれども戦後的なロールモデルが崩壊した現代においては、むしろ「治者」とは異なった成熟モデルが要請されているといえます。
 
こうした意味で、本作における主人公たちは、それぞれが「母(的ヒロイン)」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を「治者」とは別の仕方で引き受けていく複数人の「女のいない男〈たち〉」であったといえるのではないでしょうか。
 

* 映画「ドライブ・マイ・カー」と原作小説の相違点

 
本作の冒頭を飾る短編「ドライブ・マイ・カー」は周知の通り昨年映画化され、カンヌ映画祭脚本賞アカデミー賞国際長編映画賞をはじめとした数々の賞を受賞し、日本映画史上歴史的な作品となりました。
この点、映画では、原作短編以外の別の短編の要素も取り込まれており、ストーリー自体も原作とはかなり異なるものとなっています。
 
原作小説の方は主人公の中堅俳優、家福が彼のドライバーを務めるみさきに、かつて自身の妻を寝取った後輩俳優である高槻という男との妻の死後から始まった奇妙な交流を回想録的に語るという流れになっています。この時点で家福が過去に負った精神的な傷は既に自身でほとんど克服しており、基本的にみさきは家福の回想の聴き役に留まっています。
 
これに対して映画版で家福と高槻の交流が始まるのはみさきが家福のドライバーになった後のことです。映画版で家福は売れっ子の舞台演出家という立ち位置になっており、彼は自身が演出を務める多言語演劇の主役に高槻を抜擢して、そこから2人の交流が始まります。
 
つまり、この時点で家福の精神的な傷は未だ癒やされてはいないわけです。そして家福は高槻との交流ではなく、むしろ、みさきとの交流の中で自身の傷を癒していくことになります。
 

* 原作小説以上に村上春樹的な作品になった映画

 
この点、原作小説の中核的テーマは先述のとおり、主人公が従来の村上春樹作品のように「もう一人のヒロイン」の支援のないところで自らの生の物語を記述し直していく点にありました。
 
ところが映画はむしろ従来の村上春樹的な構図に積極的に回帰しているように思われます。映画において家福の妻、音が「母的ヒロイン」だとすれば、みさきは「娘的ヒロイン」です。しかも原作でも映画でも、みさきは家福の夭折した実娘と同い年という設定なので、いわば彼女は緑やユキやメイやふかえり以上の「娘的ヒロイン」といえます。
 
おそらく原作小説の中核的テーマからすれば、映画におけるこうしたアレンジには賛否があるところでしょう。けれども見方を変えれば、従来の村上春樹的な構図へ積極的な回帰を志向した映画「ドライブ・マイ・カー」はある意味で、原作小説以上に村上春樹的な作品になったともいえるかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【書評】成熟と喪失(江藤淳)

* 戦後派文学から第三の新人

 
昭和20年8月15日、約3年9ヶ月にわたる太平洋戦争は連合国に対する日本の無条件降伏によって終結しました。その後、GHQによる占領諸政策の下、終戦から昭和20年末までの僅か4ヶ月半の間で、日本国内における主要な論調は「皇国主義」「軍国主義」から「民主主義」「平和主義」へと急速に転換されることになります。そして当時多くの人々は既成価値の崩壊に戸惑いながらも、これからやってくるかもしれない明るい未来を信じて懸命に日々の貧困と苦境を生きていました。こうした敗戦の混迷の中から、来るべき時代の絶望と希望を照らし出す新たな文学的思潮として「戦後派文学」は産み出されました。
 
第一次、第二次からなる「戦後派文学」の特色といえば「戦場」「投獄」「焼土」「飢餓」といった極限的な状況を舞台に作家自身の「これだけはどうしても言わねばならぬ」という強い内的必然性や自己表白性の下で「人間」「社会」「革命」「愛」「世界」「神」といった大文字の理想や真理の探求が従来の文学的常識を覆す極めて斬新な方法で遂行された点にあります。
 
こうして一躍脚光を浴びることになった「戦後派文学」は、ここからさらに先進西洋諸国に負けない気宇壮大な本格的ロマン大作を志向するようになります。しかし同時に、この頃から「戦後派文学」はその原点であるはずの「これだけはどうしても言わねばならぬ」という強い内的必然性や自己表白性を喪っていき、やがてその文学的発展は空転ないし停滞していくことになります。
 
やがて戦後の混乱が収まり、徐々に世の中が落ち着きを取り戻しつつあった相対的安定期と呼ばれる1950代になると、戦後派文学が目指した大文字の理想や真理の探究から一歩引いたところで、市井を生きる名も無き人々の日々の平凡な暮らしにていねいに描き出していくという新たな文学的思潮が現れました。こうした新たな文学的思潮の担い手たちは「第三の新人」と呼ばれました。
 
もっとも、この「第三の新人」は登場当初はあまりぱっとせず、当時の批評家からは「即物性、単純性、日常性、生活性、現状維持性、伝統性、抒情性、単調性、私小説性、形式性、非倫理性、非論理性、反批評性、非政治性」などと散々にこき下ろされ、このような思想性も政治性もない退嬰的な文学などどうせすぐに消え去る運命にあるだろうと思われていました。けれどもその後、戦後派からベ平連に至る反体制文学隆盛の陰で彼らは地道に創作に取り組み続け、1960年代になると文壇において確固たる位置を築き上げていました。
 
そしてこの時期に「第三の新人」にとって強力な援軍として現れたのが、評論家の江藤淳氏です。江藤氏が1967年に発表した本書「成熟と喪失」は極めて深い洞察によって「第三の新人」の文学性に新たな光をあてた文芸評論の名著として知られています。

*「圧しつけがましさ」と「恥づかしさ」

 
では江藤氏は「第三の新人」の文学の中に何をみたのでしょうか。それは畢竟、アメリカと比べて「母」と「子」の関係が密接であるとされる日本社会における「成熟」の感覚です。例えば江藤氏は「第三の新人」を代表する作家の1人である安岡章太郎氏の「海辺の光景」を題材として「母」の「子」に対する「圧しつけがましさ」と、その裏にある「恥づかしさ」を論じています。
 
「圧しつけがましさ(束縛)」と「恥づかしさ(蔑視)」。これはすなわち、近代社会に直面した「母」の動揺の表れに他なりません。階層秩序が固定化されていた前近代社会と異なり、学校教育制度が導入された近代社会においては、誰もが「出世」によって上位階層に移ることができる「フロンティア」が(建前の上では)開かれることになりました。
 
ゆえに近代社会における「母」は低い階層に甘んじる夫に「恥づかしさ」を感じ、また、そのような人物としか結婚出来なかった自分自身に「恥づかしさ」を感じるようになります。
 
そこで「母」は「恥づかしさ」から逃れるため「子」の「出世」を望み、息子を少しでもいい学校に入れようと奮闘することになるわけですが、その裏で「母」は「教育」を受けた「子」が自分の手を離れた遠い存在になってしまうことを密かに恐れていたりもします。
 
こうした二律背反の中で「母」は「子」に対して「圧しつけがましさ」を持つようになります。そして「子」の側も「母」の持つ裏の欲望を先取りして、いつまでも幼児のように「母」の肉感的な世界に安住しようとします。そこに「子」は限りない「自由」を感じることになります。
 

*「悪」を引き受けるということ

 
江藤氏の整理によれば「戦後派文学」が「父」との葛藤を軸とした文学なのだとすれば「第三の新人」とは「母」との密着を軸とした文学である、ということになるのでしょう。この点「海辺の光景」は近代社会に直面した「母」の動揺と崩壊を描き出した作品であり、同時に「母」の肉感的な世界の中で「自由」を享受していた「子」が「個人」になることを強いられて無限に「不自由」になっていく過程を描き出した作品でもあります。
 
こうして「母」の「喪失」に直面した「子」には「波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬ杙が黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立つてゐた」という風景に表象された「喪失感の空洞」だけが残ることになります。
 
そして江藤氏はこのような「喪失感の空洞」の中に湧いてくる「(母を見棄てるという罪悪感としての)悪」を主体的に引き受ける態度こそがまさしく戦後日本社会における「成熟」の感覚であり「母」を喪失した「子」が「自由」を再び回復する道なのであると主張します。
 

* 治者の文学

 
そして江藤氏はこうした「悪」を引き受ける「成熟」の主体を「治者」と呼びます。この点、氏はやはり「第三の新人」を代表する作家の1人である庄野潤三氏の小説「夕べの雲」に「治者の文学」を見ることになります。同作の主人公はすでに「母」が崩壊してしまった世界であたかも「父」である「かのように」日々を生きています。
 
この点、伝統的に父性原理の強い西欧社会における「成熟」とは「子」が「父=近代的市民」になる事を指しています。けれども本書の立場に依拠するのであれば、伝統的に母性原理の強い日本社会における「成熟」とは「子」が「父=近代的市市民」になるのではなく、むしろ「母=前近代的世界観」を見棄てるという「悪」を引き受ける事で、あたかも「父」である「かのよう」に振る舞う点にあるといえるでしょう。
 
この点、氏はまさしくこの、あたかも「父」である「かのように」という点に日本的な「成熟」の主体を、すなわち「治者」を見出していたといえるでしょう。そしてそこには、たとえそれが究極的には無意味である事を知りつつも「あえて」それを行うところに何かしらの美学を見出すという戦後的なアイロニズムのひとつの変奏曲を見出す事ができるでしょう。
 

* そして「治者」とは別の仕方で

 
こうした本書の立場は確かに1960年代当時、農村共同体が解体され産業都市化が進んだ高度経済成長期には適合的な成熟モデルであったように思えますが、バブル崩壊後の長期にわたる経済低迷の中で、終身雇用や年功序列といったかつての戦後的ロールモデルが崩壊した現代日本においては必ずしも適合的な成熟モデルとはいえないでしょう。端的に言えば、もはや経済大国でさえない現代日本においては「父」である「かのように」振る舞うためのインフラさえもが決定的に喪失しているということです。
 
けれどもその一方で現代においては江藤氏がかつて見棄てたはずの「母」が「肥大化した情報環境」という形で強力に回帰してきました。いまや戦後的アイロニズムにおける「あえて」の論理に依拠することなく、誰もが「母=肥大化した情報環境」に支援される形で、自分の信じたい物語だけを信じ込み幼児的万能感の中で仮初めの「父」になる夢をみることができるようになりました。宇野常寛氏はこうした肥大化した母性と矮小な父性の結託構造を「母性のディストピア」と名づけています。
こうして再び「母」が肥大化して「母性のディストピア」が全面化した現代においてはかつて江藤氏が提示した「治者」とは別の仕方で「母」から離脱するための新たな成熟モデルが問われることになります。こうした現代的な観点から再び「第三の新人」の作品群を読み直すのであれば、そこにはまた新たな意義の発見があるようにも思えてきます。そして、そのための歴史的な参照点として本書も今なお、その名著としての輝きを失ってはいないでしょう。
 
 
 
 
 
 
 

なぜ「一気」に「短期」に「完璧」になのか--人生がときめく片付けの魔法(近藤麻理恵)

*「環境」を変えることで「自分」を変える

我々が日々行なっている行動というのは一見して自由な主体的選択に見えて、実はかなりの部分を周囲の「環境」に規定されています。東浩紀氏が「弱いつながり(2014)」で述べているように、人は自分のいる「環境」から予想されたパラメータの集合でしかありません。
 
我々は外側から見れば単なる「環境」の産物でしかない。それなのに内側からはみな「かけがえのない自分」として、そんな「環境」から自由でありたいと思ってしまうわけです。ここに人間を苦しめる大きな矛盾があると、東氏はいいます。すなわち我々がもし「今の自分を変えたい」と願うのであれば、まずは、今の「自分」を規定するこの「環境」をラディカルに変えてみることから始めるべきである、ということです。
 
この点、東氏はその「環境」を変えるための方法として、様々な場所を訪れて、見ないものを見て周り、考えるはずのないことを考える「誤配」の経験としての「観光」を提案しています。もちろんこれはその通りだと思うのですが、このコロナ禍のご時世だと、人によっては今はちょっとハードルが高いと思う向きもあるでしょう。
 
「環境」を変えるための方法はひとつではありません。そしてそれはまさにこのコロナ禍によって改めて注目された「おうち」の中にあります。そう、もっとも生活に密接した「おうち」という環境のラディカルな再構築。それが「片付け」です。
 

*「祭りの片付け」と「ときめき」

 
いまや世界的ベストセラーになった近藤麻理恵さんの著書「人生がときめく片付けの魔法(2010)」は「自分の人生を丸ごと変える一大プロジェクト」として「日常の片付け」とは別の「祭りの片付け」の実践を提唱しています。普段の「日常の片付け」で苦労しないためにも、この「祭りの片付け」を一日でも早く終わらせてしまうべきだと、本書は述べています。
 
この点、本書のいう「祭りの片付け」は、まず初めに「片付け」の根源的な目的である「理想の暮らしを考える」ところから始まります。そして実際の作業においてやるべきことは「モノを捨てるかどうか見極める」「モノの定位置を決める」の二つです。ここで大事なことは「捨てる」が先ということ。まず「捨てる」を完璧に終わらせるまでは収納については考えないということです。
 
そして「捨てる」という作業は「場所別」ではなく「モノ別」に行います。家中のモノを「洋服」「本類」「書類」「小物」「思い出品」といった「モノ別」にかき集めて、そこで何を捨てて何を残すかを判断する。そしてその際の判断基準は今やグローバルスタンダードとなった「ときめき」です。
 
結構誤解されがちですが、ここでいう「ときめき」というのは、単純に「うっとりする」とか「かわいい」とか「ワクワクする」というファンシーな感覚だけではなく、デザインや機能に「安心する」とか「便利」とか「しっくりくる」とか「役に立ってくれている」という安心感や信頼感といった感覚も含まれます。もちろん他人から見れば完全に意味不明なモノでも、そこに何かしらの「ときめき」を感じるのであれば、それは堂々と取っておけばいいということです。
 

* モノの役割を考えてみる

 
こうした「ときめき」をモノを触った瞬間に感じるかどうかで捨てるか残すかを判断するわけです。ここではきちんと「触る」という身体的な感覚が重要になります。自分の頭の中では「ときめき」のカテゴリに入っているはずのモノも実際に触ってみると、もはや「ときめかない」こともあるでしょう。
 
「ときめかないけど捨てられないモノ」についてはそのモノの役割をよくよく考えてみる。「あるに越したことはない」と思ったら「なくてもどうにかなるかも」と考えてみる。なぜこれを持っているのか?私のところにやってきたことにどんな意味があるのか?こういうことをよくよく考えてみると、案外その役割はすでに終わっていることがわかる。こうして役割を終えたモノたちは感謝の念を持って送り出す。
  
ここで大事なのは「何を捨てるか」ではなく「どんなものに囲まれて生きたいのか」という視点です。こうした自らの内なる声に丁寧に耳を傾けていくプロセスの積み重ねにより、自分のモノの適正量や価値観がクリアになっていくわけです。
 
「何でもかんでも捨てる」ではなく、あくまで「ときめくモノをきちんと残す」ということ。この点で、こんまりさんの「片付けの魔法」は巷の「断捨離」や「ミニマリズム」とは、一線を画しているといえるでしょう。
 

* なぜ「一気」に「短期」に「完璧」になのか

 
そして、こんまりさんは「祭りの片付け」は「一気」に「短期」に「完璧」に終わらせないといけないと幾度となく強調されています。その直接的な理由は「リバウンド」の防止にあります。すなわち「一気」に「短期」に「完璧」に片付いた状態を劇的に体験すると、もう二度と散らかった家に住むのがイヤになり、決して「リバウンド」の状態に戻れなくなるということです。
 
この点、片付けを「環境」のラディカルな再構築と捉える立場からも、この「一気」に「短期」に「完璧」にというやり方は、極めて理にかなったものであるといえます。
 
確かに「日常の片付け」をただただ漫然と続けているうちは「自分」を取り巻く「環境」は常に過去の「環境」との連続性を持ち続けており、その「環境」の産物である「自分」を変えるほどのインパクトは持ち得ないでしょう。
 
ところが「祭りの片付け」によって「環境」をラディカルに--まさしく「一気」に「短期」に「完璧」に--再構築することで、その「環境」の産物たる「自分」もまたやはりラディカルに再構築されることになる、ということです。
 

* アイロニー・ユーモア・享楽的こだわり

 
こうした「片付けの魔法」のプロセスは、千葉雅也氏が「勉強の哲学(2017)」で提示した「深い勉強」のプロセスと極めて似ています。同書は「勉強」を「ある環境のコード」から「別の環境のコード」への移行と捉えた上で、その「間」に注目した「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」を「アイロニー(懐疑)」「ユーモア(連想)」「享楽的こだわり(特異性)」からなる「勉強の三角形」として概念化しています。
これは先に述べた東氏のいう「環境を変えることで自分を変える」という発想のより精緻な分析であるとも言えます。この点「片付けの魔法」における「理想の暮らしを考える」という行為は、これまでの「環境のコード」に対する「アイロニー(懐疑)」に相当し、従来の場所からモノを引き剥がして一箇所に集め、ひとつひとつモノを吟味していく過程は「ユーモア(連想)」に相当します。そしてモノを選択する上での最終審級としての「ときめき」とは「享楽的こだわり(特異性)」に相当するでしょう。
 
こんまりさんは「片付け」とは単なるモノの取捨選択といった「作業」ではなく、モノと自分の関係を見つめ直して微調整する「最高の学びの場(=勉強!)」であり、人は「片付け」によって「自分を好きになること」ができるといいます。
 
結局のところ、人は環境(のコード)の産物でしかないのかもしれません。それでも人はかけがえのない自分(という特異性)を生きていきたいと願ってやまない存在でもあります。こうした人生における根源的な矛盾を乗り越える為の実践哲学の書として、あるいは本書を読むことができるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

リトル・ピープルにおける正義の記述法--傷物語/偽物語/猫物語(黒)(西尾維新)

 

*「壁と卵」から考える

 
2009年2月15日、村上春樹氏はエルサレム賞の受賞式において「壁と卵」という名で知られる有名なスピーチを行っています。ここでいう「壁」とは「システム」であり「卵」とは「個人の魂」のことを指しています。このスピーチにおいて村上氏は当時のイスラエル政府によるガザ侵攻を暗に非難しつつ、自分は小説家として常に「卵の側」に立つと宣明しました。
 
村上氏のスピーチは当時の内外から大きな賞賛が集まりました。しかしその一方で「壁」とか「卵」などといったメタファーに頼ったその曖昧な意見表明を批判する声や、このスピーチ自体が安易な人気取りであると断じ去る声もありました。こうした中、このスピーチにおける政治的態度の当否などではなく、村上氏の想定する世界観そのものに疑念を呈したのが宇野常寛氏です。その論旨は概ね次のようなものです。
 
かつて「壁」が「ビッグ・ブラザー(単一の「大きな物語」を語る国家的存在)」だった頃、村上春樹という作家は「壁」と「卵」の共犯関係を見抜き、両者からの「デタッチメント(離脱)」を志向した。けれどもやがて「壁」が「リトル・ピープル(無数の「小さな物語」を生み出す市場的存在)」へと変遷した時、他ならぬ村上氏自身が「壁」と「卵」を対立関係として捉える「コミットメント(介入)」へと転回した。けれども現代における「壁=リトル・ピープル」とはむしろ無数の「卵」たちの無限連鎖によって形成された不可視の環境から産み出された力に他ならない、ということです。
 
宇野氏の想定する「リトル・ピープル」という世界観はフランス現代思想を代表する思想家の一人であるミシェル・フーコーの権力論と親和的な立場でもあります。フーコーは「監獄の誕生(1975)」「性の歴史Ⅰ(1976)」において「規律権力」と「生権力」という概念を提出し、近代以降、現代に至るまで権力とは「上から下」への外在的な支配ではなく、むしろ「下から上」への内在的な欲望として作動していると論じています。
 

* n通りの正義

 
確かに村上氏のスピーチを読むと、そこには「壁=悪」と「卵=正義」という二項対立が明確に走っているように思えます。けれども宇野氏やフーコーの議論に依拠するのであれば、この「壁=悪」と「卵=正義」という二項対立は「卵=n通りの正義」たちが織りなす「リトル・ピープル」という名の「権力のネットワーク」へと脱構築されることになるでしょう。ここには絶対的な「壁=悪」は存在せず、むしろ「卵=n通りの正義」達の接続過剰が相対的な「壁=悪」を産み出している世界があるということです。
 
この点、ゼロ年代サブカルチャーにおいて幾度となく反復された「正義」をめぐる問いにおいて常に追求されてきたのは、オブジェクトレベルにおける正義の決定不可能性を再縫合する、いわばメタレベルにおける正義の記述法であったといえるでしょう。
 
そしてゼロ年代を代表するライトノベルの一つである「化物語」の続編となる、いわゆる「物語シリーズ1stシーズン」を構成する「傷物語」「偽物語」「猫物語(黒)」の三部作は、こうした「ゼロ年代正義論」を俯瞰的位置から総括し明晰に言語化した作品でもあったといえます。
 

* コメットメントのコスト--傷物語

化物語」の前日譚に相当する本作ではシリーズ主人公である落ちこぼれの高校生、阿良ヶ木暦とシリーズヒロイン(?)の一人である無敵の吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが邂逅する「春休みの地獄」が描き出されます。
 
物語は文字通り「語り」です。単なる「事実」の羅列ではありません。そこには当然「語り手」というものが入ってきます。そして「語り手」が異なれば、同じ「事実」から見える景色は自ずと異なってきます。
 
本作の後半では、それまで「自明の前提」だと信じ込まれていたものが唐突に転覆されることになります。そして結果的に、阿良々木はキスショットを「助けない」。彼は「みんなが不幸になる」となる道を選択します。
 
先述のようにかつて村上氏は「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」へと時代が変遷する中で、その倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へ転回しました。ところが今や「リトル・ピープル」が全面化した現代においては、個人はその一部として自動的に機能し、否応なく相互に「コミットメント」を強制され、そこでは「コミットメント過剰」によるコストの処理法が問われる事になります。
 
この点、本作が提示する結末は「みんなが不幸になる」という傷を引き受けた逆説的なコストの処理法であったといえます。あるいは「幸福」とはある意味で「不幸」を分かち合うことによって、はじめて産み出されるものなのかもしれません。本作は全ての「物語シリーズ」の原点にして頂点に位置する物語といえるでしょう。
 

* 正義の在り処--偽物語

化物語」の後日談に相当する本作は阿良ヶ木の二人の妹、ファイヤーシスターズこと阿良ヶ木火憐と阿良ヶ木月火の活躍(?)を軸に様々な「正義」のかたちが描き出されます。
 
一口で「正義」といっても、仔細に観るとそこには様々な差異を見出すことができます。例えばファイヤーシスターズの掲げる「正義」も火憐と月火では対極です。火憐の場合は目的が正義であり、月日の場合は趣味が正義です。火憐は他人のために正義を実行し、月火は他人の影響で正義を実行します。
 
そして本作の敵役の一人である詐欺師、貝木泥舟は火憐の信奉する素朴な正義/悪の二項対立をポストモダニズム相対主義の論理でやすやすと「n通りの正義」へと脱構築してしまいます。相対主義の論理によれば、正義とはもはや普遍的な理念ではなく、ことごとく個人的な欲望へと還元されてしまうことになります。
 
こうした中、阿良ヶ木は正義の第一条件とは「正しさ」ではなく「強さ」であり、その「強さ」とはどう足掻いても「偽物の正義」しか背負えない劣等感と向き合う意志の強度にあると主張します。こうした阿良ヶ木の語りの中にはポストモダニズム相対主義のさらなる徹底として出現した「ゼロ年代正義論」の臨界を見出すことができるように思えます。
 
正義の味方には倒すべき悪が必要だ。けれど正義/悪という単純な二項対立に依拠した無邪気な正義は時として凶器となる。誰かにとっての「正義の味方」は別の誰かにとっての「正義の敵」でしかない。自分こそは「正義の味方」だと信じていたのに、ある日突然誰かから「倒すべき悪」として名指された時、人はどうすればいいのか。本作はこうした「正義の在り処」をめぐる問いをラディカルに読み手に突きつけます。
 
確かにオブジェクトレベルにおいては、あまねく正義はすべからく偽りでしかないないかもしれません。けれど、この偽りを引き受ける強度こそがメタレベルにおける正義を帰結するのでしょう。そして「偽り」とは文字通り、人の為、誰かの為であるということです。
 

*「本物」を演じる悲劇--猫物語(黒)

化物語」のもう一つの前日譚である本作では阿良ヶ木とシリーズヒロインの一人である究極の委員長、羽川翼が繰り広げる「ゴールデンウィークの悪夢」が描き出されます。「壁と卵」のメタファーでいえば「傷物語」がコミットメントのコストを引き受ける「傷物の卵」の物語であり「偽物語」が劣等感と向き合う「偽物の卵」の物語であったのだとすれば、本作はいわば「本物の卵」の物語です。
 
人は皆、何かしら「傷物」であり何処かしら「偽物」です。そして、そんな世界の中で「本物」を演じるとすれば、それはしばし「猫をかぶる」などと言われます。
 
本作は長年「猫をかぶる」ことを強いられてきた少女がまさしくその猫に魅入られた物語です。羽川の悲劇は、両親が何度も入れ替わるという特殊な家庭環境の中でカントのいう定言命法的理性の実践こそが「普通」であると思い込み「普通」という名の「本物」を演じた点にあったといえるでしょう。
 
そして彼女が「本物」を演じれば演じるほど、義理の両親にとって彼女は「化物」に見えたのでした。ここには「本物の卵」こそが「本物の壁」となるという逆説を見ることができるでしょう。
 

*「仮留めの正義」へ折り返すということ

 
傷物語」「偽物語」「猫物語(黒)」。この三部作が繰り返し描き出すように、我々の生きる現実世界においても「壁」と「卵」の関係とは常に相対的なものであるといえます。我々はしばし自分こそが「卵」だと思い込み、その「正義」を声高に主張したりもします。けれど「卵=正義」とは「別の卵=別の正義」にとっては端的に「壁=悪」でしかないということです。
 
そんな世界において、もし仮に「正義」の名に値する選択があるのだとすれば、それは、ひとつの「決定的な正義」の決断的選択ではなく、その場その都度限りの「仮留めの正義」の中断的選択でしかないのでしょう。「正義」とは何かという問題を先送りし続けるということ。「決定的な正義」から「仮留めの正義」へ折り返すということ。それこそがまさにこの三部作が到達した正義の記述法であったように思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

八正道と六波羅蜜は何がどう違うのか--寂聴仏教塾(瀬戸内寂聴)

* 渇愛から慈悲へ

 
仏教では愛を二つに分けます。ひとつは「渇愛」であり、もうひとつは「慈悲」です。人間は基本的に渇愛の生き物です。渇愛とは際限なく見返りの愛を求める利己的な愛です。こうした渇愛は恋愛関係に限らず親子関係でも職場関係でも生じます。渇愛は「煩悩」と呼ばれる欲望の源から生み出されます。人生の全ての苦しみ、悩みは渇愛から生まれるといわれます。
 
仏教ではこうした渇愛地獄を抜け出して見返りを求めない慈悲の心を説きます。現代風に言い直せば、渇愛が他者の愛を目的としたインストゥルメンタルな愛だとすれば、慈悲の心は他者を愛することそれ自体に充足するコンサマトリーな愛だといえるでしょう。
 
もちろん人は生きている以上、完全に渇愛を捨て去るというのは難しいでしょう。けれども、その渇愛を鎮める方法、煩悩の炎を穏やかにする方法はある、というのが仏教の教えです。この点、一般的に仏教というと写経や念仏や座禅といった「実践(=応用技術)」はなんとなく知っているけど、それらの根底にあるお釈迦様(ブッダ)の発見した「真理(=基礎理論)」はちょっとよく知らないという向きも多いように思われます。本書は「仏教塾」の看板に偽りなく、瀬戸内寂聴師が仏教の基礎理論を、まるで「塾」の授業のようにやさしい言葉で明快に解き明かす入門書です。
 

* お釈迦様は何を悟ったのか

 
お釈迦様の本名はゴータマ・シッダールタといいます。またブッダという尊称はサンスクリット語で「悟りを開いた人」という意味です。ゴータマは今から約2500年前、サーキャ族(釈迦族)の国王スッドーダナ王(浄飯王)と后マーヤー(摩耶夫人)の間に王子として生まれました。ゴータマを産んだマーヤーは出産後、産褥熱で亡くなってしまいます。そのためゴータマは長じた後、自分は母の命と引き換えに生まれてきたのだと考えるようになり、何かと人生に絶望するたいへんメランコリックな青年になってしまいます。見かねた父王は若きゴータマにありとあらゆる贅沢をさせますが、ゴータマの憂苦懊悩はまるで晴れることなく却って深まるばかりで、ついにある日突然王宮を抜け出して出家してしまいます。
 
その後、ゴータマは6年間、厳しい苦行を続ける中で、人はなぜ苦しみに満ちた人生を送らねばならないのかをずっとひたすらに考えてきましたが、一向に答えは見つかりません。そこでゴータマは「これは修行の方法が間違っている」と判断しました。周りの苦行仲間からバカにされながらも苦行に見切りをつけたゴータマは、アシヴァッタ(菩提樹)の木の下で静かに座禅を組んでいた時、ついにこの世界の真理に到達します。
 
この時、ゴータマはブッダになりました。そしてブッダは自身が悟った真理をまずはかつて自分をバカにした苦行仲間に説法し、彼らはブッダの最初の同志になりました。この時、ブッダが行った説法は「初転法輪」と呼ばれます。この瞬間に仏教は成立しました。
 

* 仏教における四つの真理

 
お釈迦様(ブッダ)が菩提樹の下で悟られた真理は「四諦」と呼ばれます。「四諦」とは「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という四つの真理の総称です。
 
第一の真理「苦諦」とは、この世は「苦しみ」に満ちているという真理です。人間は生きている以上「生老病死」の四つの「苦しみ」から逃れることはできません。さらにお釈迦様は「愛別離苦愛する人と別れる苦しみ)」「怨憎会苦(嫌いな人に出会ってしまう苦しみ)」「求不得苦(求める物が手に入らない苦しみ)」「五蘊盛苦(欲望が燃え盛る苦しみ)」という四つの「苦しみ」を挙げています。
 
最後の「五蘊盛苦」の「蘊(包み)」とは人間を成り立たせている「色・受・想・行・識」という五つの構成要素のことです。「色」とは物質を指し「織」は意識を指しています。そして「色」と「織」を繋ぐものが「受(感受作用)」「想(知覚表象作用)」「行(意志の作用)」です。この「色・受・想・行・識」のプロセスが煩悩を生み出し欲望が燃え盛るという「苦しみ」を作っているわけです。
 
第二の真理「集諦」とは、様々な「苦しみ」には「原因」があるという真理です。お釈迦様は「苦しみ」が生じるメカニズムを「因果」と「因縁」という考えで説明します。「因果」とは「原因」があるから「結果」があるという考え方です。様々な「苦しみ」はこの「因果」から生じます。ところが「原因」があれば、ただちに「結果」が生じるのではなく、その中間には「原因」が「結果」を産み出す「条件」が介在します。この中間項としての「条件」が「因縁」です。
 
この点、お釈迦様はこの「因縁」について「無明(煩悩を生む無知の心)」「行(煩悩が引き起こす作用)」「識(判断力)」「名色(精神と肉体)」「六入(感覚能力)」「触(外界との接触)」「受(感受作用)」「愛(渇愛)」「取(執着)」「有(独占欲)」「生(生命の誕生)」「老死(老化と死亡)」という12項目をあげています。これが集諦の要である「十二因縁」です。
 
第三の真理「滅諦」とは「苦しみ」の「原因」を消せば「苦しみ」という「結果」もなくなるという真理です。先の「集諦」における「十二因縁」を遡っていけば我々の苦しみの根本原因は「無明」に突き当たります。ならばこの「無明」を消滅させ、煩悩から脱却できれば、我々の「苦しみ」は生まれてこないわけです。このような「無明」を消し去った境地を仏教では「涅槃(ニルヴァーナ)」といいます。
 
第四の真理「道諦」では「無明」を消し去り「涅槃」へ到達するための方法が示されます。この方法を「八正道」といいます。八正道とは「正見(物事を正しく見る)」「正思(正しく考える)」「正語(正しい言葉)」「正業(正しい行い)」「正命(正しい生活)」「正精進(正しい努力)」「正念(正しい気づかい)」「正定(正しい精神統一)」からなる八つの「正しい生き方」です。
 
こう言葉にすると何かとてもあたりまえな事を言っているように思えます。けれども真理とはむしろ、言葉にすると「あたりまえ」といえるからこそ真理と呼ばれるのではないのでしょうか。そして問題は真理を「知る」事ではなく「悟る」ということです。そしてそれは言葉を超越した「何か」を理解した境地なのでしょう。
 

* 八正道と六波羅蜜は何がどう違うのか

 
このように八正道をきちん実践すれば「無明」を脱し「涅槃」に近づけることになるというのが基本的な仏教の考え方です。もちろん八正道を行うことは容易な事ではありません。そこで仏教では出家する事が大前提とされていました。お釈迦様の説かれた八正道を厳格に実践するため、お釈迦様と同じように出家して修行するのが本来の仏教です。けれども仏教の教えに心惹かれても、誰もが皆、出家できるわけでもないでしょう。そこで普通の人たちが在家のままで、お釈迦様の教えを実践できないかという需要が生じました。
 
この点、八正道に忠実な本来の仏教を「小乗仏教南伝仏教)」といいます。これに対してお釈迦様が亡くなられた500年後くらいに現れた新しい仏教の形を「大乗仏教(北伝仏教)」と言います。
 
「大乗」とは大きな乗り物という意味です。つまり出家者という「エリート」だけではなく、市井を生きる普通の人たちも救われるための仏教ということです。この大乗仏教は西暦250年頃、ナーガールジュナ(龍樹)という人により体系化されることになります。この時新しく作られた経典を大乗経典と言います。大乗仏教はインドからヒマラヤを越えシルクロードを渡り中国へもたらされました。日本の仏教も大乗仏教の流れに属しており「般若心経」「法華経」「浄土三部経」といったよく知られるお経も大乗経典です。
 
大乗仏教ではお釈迦様の説かれた「八正道」とは別に「六波羅蜜」という行を唱えています。その六波羅蜜は「布施(施しを行うこと)」「持戒(戒律を守ること)」「忍辱(辛抱すること)」「精進(努力すること)」「禅定(心を沈めるということ)」「知恵(正しい判断力を持つこと)」という六つの行からなります。
 

* とりあえずゆるふわに仏教に入門してみるための一冊

 
いわば八正道がプロシューマー用の教えとすれば六波羅蜜はコンシューマー用の教えという風にいえるのかもしれません。しかし凡人たる我々にとって六波羅蜜にしてもかなりハードルが高い行に思えてならないわけです。
 
けれども本書が勧めるのは、いわば六波羅蜜の「ゆるふわ」な実践です。「布施」は別にお賽銭じゃなくても、周囲への親切(心施)だったりすれ違う様の笑顔(顔施)でもいい。「戒律」はお釈迦様がどうせ守れないんだからせめて少しは努力してみろというつもりで設定しているのだから、できるだけ守ろうと努力してみて、その都度反省すればいい。そして「知恵」は他の5つの行を実践していく中で自ずとついてくる。こうした寂聴師のメッセージは凡人たる我々を勇気づけてくれます。
 
そして残りの「忍辱」「精進」「禅定」の3つ。これらは近年、精神医療からビジネスシーンに至る様々な分野で注目を集めている「マインドフルネス」のエクササイズと大きく重なっている領域です。もともとマインドフルネスはお釈迦様の教えをベースにして開発されました。そしてその様々なエクササイズは仕事や生活の合間などに実践可能なものばかりです。
 
こうしてみると六波羅蜜もゆるふわな実践であれば、どうにかいけそうな気がしてきませんか!?そして例え「ゆるふわ」な実践でもずっと継続していけば、少しくらいは「無明」を脱して「涅槃」の境地に近づく事ができるかもしれません。ここまで読んでくださって有難うございます。もしあなたがいま何かしらの「苦しみ」に悩んでいるのであれば、是非とも気軽な気持ちで本書から仏教に入門してみてはいかがでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

二人のアリス--カードキャプターさくら クリアカード編1〜12(CLAMP)

* 百合的な対幻想

 
大正期に確立した「少女小説」というジャンルは、旧来的な家父長制社会を支えていた「家の娘」という呪縛から逃れていく「少女」という新たな主体像を提示しました。その背景には「エス」と呼ばれた当時の女学校文化がありました。「エス」とはSisterhoodの頭文字Sに由来する隠語で、女学校の上級生と下級生、あるいは同級生同士など、少女同士の擬似姉妹的な関係性を指し、その特徴は高尚かつ清純な精神性の称揚にあります。その後、男女の自由恋愛が普及するにつれて文化としての「エス」は衰退していきますが「少女小説の精神」は連綿と受け継がれ、現代においては「百合」という一大ジャンルの中に流れ込んでいます。
 
こうした「エス」から「百合」に至る表象文化史は、吉本隆明氏のいう対幻想の視点から読み解くこともできるでしょう。吉本氏はその主著「共同幻想論」において国家を一つの幻想として捉えています。氏によれば人間の社会像は「自己幻想(個人)」「対幻想(家族的関係性)」そして「共同幻想(国家的共同体)」から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになります。そして氏のいう「対幻想」には時間的永続性を司どる「夫婦/親子的対幻想」と空間的永続性を司どる「兄弟/姉妹的対幻想」の二種類があります。
 
かつて吉本氏自身は共同幻想に逆立する為の起点として、それ自体で二者間の閉じた世界の中に完結する夫婦/親子的対幻想に着目しました。ところがその後、グローバル化/ネットワーク化という時代の流れの中、夫婦/親子的対幻想が共同幻想と癒着することで縮小する一方で、兄弟/姉妹的対幻想は共同幻想に回収されることなく拡大し始めました。
 
こうした兄弟/姉妹的対幻想の拡大傾向の中に「百合」というジャンルもまた位置付けられます。そして「百合的な対幻想」は現代サブカルチャーにおける様々なジャンルに多大な影響力を及ぼしています。ここではその一つの例として「カードキャプターさくら」の作風変化を取り上げてみたいと思います。
 
1996年から2000年まで少女雑誌「なかよし」で連載された同作は幅広い年齢層の熱狂的な支持を獲得し、連載終了となった後もその人気は全く衰える事がなく、2016年からはその正当なる続編である「クリアカード編」が再びまたも「なかよし」でまさかの連載再開となりました。
 
そして気がつけばクリアカード編も12巻目を迎え、いよいよ物語は佳境を迎えつつあります。正直なところ、連載再開当初はここまで重厚長大な物語になるとは思っていませんでした。そのあらすじは次のようなものです。
 

* クリアカードと禁忌の魔法

 
物語は前作の最終回から再びスタートします。友枝中学校に進学したさくら。長らく離れ離れになっていた小狼とも再会して、これからの中学校生活に期待を膨らませる矢先、さくらはフードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中にあった。そして「さくらカード」は透明なカードに変化して、その効果を失っていた。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。
 
そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。さくらと秋穂はお互い惹かれあうように交友を深めていく。その一方で、小狼は秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡の正体に疑念を抱く。
 
果たしてクリアカードを生み出していたのはさくらの魔力暴走だった。この事を事前に見越していた小狼はさくらの魔力暴走を抑制するため、さくらカードをあらかじめ隔離していたのであった。
 
一方で、海渡の正体は人並外れた魔力を持つイギリス魔法教会の魔術師であることが判明する。海渡は幼少より「時の魔法」の優れた使い手として知られていたが、現在は門外不出の「魔法具」を持ち去った事で協会を破門されていた。
 
海渡は「時の本」を動かして「禁忌の魔法」を発動させるため、さくらに「あるカード」を生み出させようと画策していた。そして、海渡がかつて協会から持ち去った「魔法具」の正体こそが他でもない秋穂であることが判明する。
 

* さくらと秋穂

 
本作は4巻くらいまでは比較的ゆっくりとした展開が続いていましたが、5巻以降ようやく物語の見晴らしが開けてきます。おそらく、いま思えば本作が中盤序盤のうちはあまり物語を動かさず、さくらと秋穂の交歓を極めて繊細に描いて来たのは、おそらくは秋穂というキャラへ読者が感情移入を深めていく為の準備作業だったのかもしれません。
 
秋穂は欧州最古の魔術師達と呼ばれる一族に生まれるも、全く魔術を使うことができず周囲を失望させることになります。両親はすでに亡く、秋穂は一族の中で孤立していました。だが海渡が幼い秋穂を「真っ白な本」と何気に評したことがきっかけで、秋穂はその身に様々な魔術を記録させることができる魔法具に改造されてしまうのでした。
 
こうした中、海渡は秋穂の監視兼護衛を名乗り出て、彼女を外の世界に連れ出し、そのまま協会から離反したのでした。しかし協会と一族の術からは逃れることができず、秋穂の意識は徐々に魔法具に乗っ取られつつあります。
 
幸せな棲家、幸せな人達、幸せな思い出そして未来。海渡はこれらの全てが秋穂にはなく、さくらにはあるといいます。海渡が禁忌の魔法に執着するのは、こうした秋穂の境遇と何かしらの関係があるのでしょう。
 
この点、前作では、さくらが小狼への恋愛感情の芽生えを発見していく過程に描写の重きがおかれていました。一方、今作においては、さくらと秋穂という二人の少女が同性間の交歓を深めていく過程に描写の重きが置かれています。さくらと秋穂。二人の関係性はかつての少女小説における「エス」を想起させるものがあり、ここには近年拡大しつつある「百合的な対幻想」の影響を見出すことができるでしょう。そして本作の特色は、こうした二人の関係性に「アリス」のイメージを重ね合わせている点にあります。
 

*「アリス」というイメージ

 
本作では、ルイス・キャロルの児童文学「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のモチーフが幾度となく反復されているのがその特徴です。
 
まず物語の鍵を握る「時の本」を秋穂は「時計の国のアリス」と呼んでいます。また秋穂はさくらが活躍する夢を、さくらは秋穂の過去の夢を、お互いに「アリス」の夢としてみています。またさくらは幻想の中で「ここはアリスの物語、アリスが語る物語、アリスが綴る物語」と虚げに語る秋穂を目にしています。
 
一方で、海渡は小さくなったさくらが生み出した「影像」のカードを「鏡」に出てくるジャバウォックだと評して、そこから彼は秋穂と初めて会った庭を「不思議」のアリスが迷い込んだ世界のようだったと回想します。
 
また、かつて秋穂の母は将来生まれてくるさくらと秋穂を「ふたりのアリス」と呼び「時の本」の守護者であるモモに2人を託しています。
 
こうしたエピソードの他、さくらと秋穂はしばしアリスの服を着た幻想的なイメージとして幾度となく描かれています。
 

* 二人のアリス

 
そして12巻ではさくらと秋穂はついにアリスのイメージと自覚的に向き合う事になります。全校交流会での劇の脚本と演出を任されたさくら達の同級生である柳沢奈緒子は桜と秋穂の姿にインスパイアされて「二人のアリス」という物語を思いつきます。
 
果たして奈緒子が書き上げてきた脚本は「『夢』の世界に迷い込んでしまう『アリス』」と「元居た世界に戻れなかった『もうひとりのアリス』」の物語でした。そしてその参照先がまさかの「時計の国のアリス」こと「時の本」です。
 
さくらと秋穂は奈緒子に依頼されアリス役を受けることになりますが、それぞれがどうも何かしら思うところがあるようで、特に秋穂は「もうひとりのアリス」の役にやたらと拘る様子を見せます。その一方で、海渡は時の魔法の使い過ぎで、自分にあまり時間がない事を悟りつつ、この「二人のアリス」という物語に何かを期しているようでもあります。
 
ここにきて虚構と現実の双方において「二人のアリス」が並走をはじめました。果たして、その物語は一体どこへ収束するのでしょうか。引き続き今後の展開を楽しみにしたいと思います。