かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

八正道と六波羅蜜は何がどう違うのか--寂聴仏教塾(瀬戸内寂聴)

* 渇愛から慈悲へ

 
仏教では愛を二つに分けます。ひとつは「渇愛」であり、もうひとつは「慈悲」です。人間は基本的に渇愛の生き物です。渇愛とは際限なく見返りの愛を求める利己的な愛です。こうした渇愛は恋愛関係に限らず親子関係でも職場関係でも生じます。渇愛は「煩悩」と呼ばれる欲望の源から生み出されます。人生の全ての苦しみ、悩みは渇愛から生まれるといわれます。
 
仏教ではこうした渇愛地獄を抜け出して見返りを求めない慈悲の心を説きます。現代風に言い直せば、渇愛が他者の愛を目的としたインストゥルメンタルな愛だとすれば、慈悲の心は他者を愛することそれ自体に充足するコンサマトリーな愛だといえるでしょう。
 
もちろん人は生きている以上、完全に渇愛を捨て去るというのは難しいでしょう。けれども、その渇愛を鎮める方法、煩悩の炎を穏やかにする方法はある、というのが仏教の教えです。この点、一般的に仏教というと写経や念仏や座禅といった「実践(=応用技術)」はなんとなく知っているけど、それらの根底にあるお釈迦様(ブッダ)の発見した「真理(=基礎理論)」はちょっとよく知らないという向きも多いように思われます。本書は「仏教塾」の看板に偽りなく、瀬戸内寂聴師が仏教の基礎理論を、まるで「塾」の授業のようにやさしい言葉で明快に解き明かす入門書です。
 

* お釈迦様は何を悟ったのか

 
お釈迦様の本名はゴータマ・シッダールタといいます。またブッダという尊称はサンスクリット語で「悟りを開いた人」という意味です。ゴータマは今から約2500年前、サーキャ族(釈迦族)の国王スッドーダナ王(浄飯王)と后マーヤー(摩耶夫人)の間に王子として生まれました。ゴータマを産んだマーヤーは出産後、産褥熱で亡くなってしまいます。そのためゴータマは長じた後、自分は母の命と引き換えに生まれてきたのだと考えるようになり、何かと人生に絶望するたいへんメランコリックな青年になってしまいます。見かねた父王は若きゴータマにありとあらゆる贅沢をさせますが、ゴータマの憂苦懊悩はまるで晴れることなく却って深まるばかりで、ついにある日突然王宮を抜け出して出家してしまいます。
 
その後、ゴータマは6年間、厳しい苦行を続ける中で、人はなぜ苦しみに満ちた人生を送らねばならないのかをずっとひたすらに考えてきましたが、一向に答えは見つかりません。そこでゴータマは「これは修行の方法が間違っている」と判断しました。周りの苦行仲間からバカにされながらも苦行に見切りをつけたゴータマは、アシヴァッタ(菩提樹)の木の下で静かに座禅を組んでいた時、ついにこの世界の真理に到達します。
 
この時、ゴータマはブッダになりました。そしてブッダは自身が悟った真理をまずはかつて自分をバカにした苦行仲間に説法し、彼らはブッダの最初の同志になりました。この時、ブッダが行った説法は「初転法輪」と呼ばれます。この瞬間に仏教は成立しました。
 

* 仏教における四つの真理

 
お釈迦様(ブッダ)が菩提樹の下で悟られた真理は「四諦」と呼ばれます。「四諦」とは「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という四つの真理の総称です。
 
第一の真理「苦諦」とは、この世は「苦しみ」に満ちているという真理です。人間は生きている以上「生老病死」の四つの「苦しみ」から逃れることはできません。さらにお釈迦様は「愛別離苦愛する人と別れる苦しみ)」「怨憎会苦(嫌いな人に出会ってしまう苦しみ)」「求不得苦(求める物が手に入らない苦しみ)」「五蘊盛苦(欲望が燃え盛る苦しみ)」という四つの「苦しみ」を挙げています。
 
最後の「五蘊盛苦」の「蘊(包み)」とは人間を成り立たせている「色・受・想・行・識」という五つの構成要素のことです。「色」とは物質を指し「織」は意識を指しています。そして「色」と「織」を繋ぐものが「受(感受作用)」「想(知覚表象作用)」「行(意志の作用)」です。この「色・受・想・行・識」のプロセスが煩悩を生み出し欲望が燃え盛るという「苦しみ」を作っているわけです。
 
第二の真理「集諦」とは、様々な「苦しみ」には「原因」があるという真理です。お釈迦様は「苦しみ」が生じるメカニズムを「因果」と「因縁」という考えで説明します。「因果」とは「原因」があるから「結果」があるという考え方です。様々な「苦しみ」はこの「因果」から生じます。ところが「原因」があれば、ただちに「結果」が生じるのではなく、その中間には「原因」が「結果」を産み出す「条件」が介在します。この中間項としての「条件」が「因縁」です。
 
この点、お釈迦様はこの「因縁」について「無明(煩悩を生む無知の心)」「行(煩悩が引き起こす作用)」「識(判断力)」「名色(精神と肉体)」「六入(感覚能力)」「触(外界との接触)」「受(感受作用)」「愛(渇愛)」「取(執着)」「有(独占欲)」「生(生命の誕生)」「老死(老化と死亡)」という12項目をあげています。これが集諦の要である「十二因縁」です。
 
第三の真理「滅諦」とは「苦しみ」の「原因」を消せば「苦しみ」という「結果」もなくなるという真理です。先の「集諦」における「十二因縁」を遡っていけば我々の苦しみの根本原因は「無明」に突き当たります。ならばこの「無明」を消滅させ、煩悩から脱却できれば、我々の「苦しみ」は生まれてこないわけです。このような「無明」を消し去った境地を仏教では「涅槃(ニルヴァーナ)」といいます。
 
第四の真理「道諦」では「無明」を消し去り「涅槃」へ到達するための方法が示されます。この方法を「八正道」といいます。八正道とは「正見(物事を正しく見る)」「正思(正しく考える)」「正語(正しい言葉)」「正業(正しい行い)」「正命(正しい生活)」「正精進(正しい努力)」「正念(正しい気づかい)」「正定(正しい精神統一)」からなる八つの「正しい生き方」です。
 
こう言葉にすると何かとてもあたりまえな事を言っているように思えます。けれども真理とはむしろ、言葉にすると「あたりまえ」といえるからこそ真理と呼ばれるのではないのでしょうか。そして問題は真理を「知る」事ではなく「悟る」ということです。そしてそれは言葉を超越した「何か」を理解した境地なのでしょう。
 

* 八正道と六波羅蜜は何がどう違うのか

 
このように八正道をきちん実践すれば「無明」を脱し「涅槃」に近づけることになるというのが基本的な仏教の考え方です。もちろん八正道を行うことは容易な事ではありません。そこで仏教では出家する事が大前提とされていました。お釈迦様の説かれた八正道を厳格に実践するため、お釈迦様と同じように出家して修行するのが本来の仏教です。けれども仏教の教えに心惹かれても、誰もが皆、出家できるわけでもないでしょう。そこで普通の人たちが在家のままで、お釈迦様の教えを実践できないかという需要が生じました。
 
この点、八正道に忠実な本来の仏教を「小乗仏教南伝仏教)」といいます。これに対してお釈迦様が亡くなられた500年後くらいに現れた新しい仏教の形を「大乗仏教(北伝仏教)」と言います。
 
「大乗」とは大きな乗り物という意味です。つまり出家者という「エリート」だけではなく、市井を生きる普通の人たちも救われるための仏教ということです。この大乗仏教は西暦250年頃、ナーガールジュナ(龍樹)という人により体系化されることになります。この時新しく作られた経典を大乗経典と言います。大乗仏教はインドからヒマラヤを越えシルクロードを渡り中国へもたらされました。日本の仏教も大乗仏教の流れに属しており「般若心経」「法華経」「浄土三部経」といったよく知られるお経も大乗経典です。
 
大乗仏教ではお釈迦様の説かれた「八正道」とは別に「六波羅蜜」という行を唱えています。その六波羅蜜は「布施(施しを行うこと)」「持戒(戒律を守ること)」「忍辱(辛抱すること)」「精進(努力すること)」「禅定(心を沈めるということ)」「知恵(正しい判断力を持つこと)」という六つの行からなります。
 

* とりあえずゆるふわに仏教に入門してみるための一冊

 
いわば八正道がプロシューマー用の教えとすれば六波羅蜜はコンシューマー用の教えという風にいえるのかもしれません。しかし凡人たる我々にとって六波羅蜜にしてもかなりハードルが高い行に思えてならないわけです。
 
けれども本書が勧めるのは、いわば六波羅蜜の「ゆるふわ」な実践です。「布施」は別にお賽銭じゃなくても、周囲への親切(心施)だったりすれ違う様の笑顔(顔施)でもいい。「戒律」はお釈迦様がどうせ守れないんだからせめて少しは努力してみろというつもりで設定しているのだから、できるだけ守ろうと努力してみて、その都度反省すればいい。そして「知恵」は他の5つの行を実践していく中で自ずとついてくる。こうした寂聴師のメッセージは凡人たる我々を勇気づけてくれます。
 
そして残りの「忍辱」「精進」「禅定」の3つ。これらは近年、精神医療からビジネスシーンに至る様々な分野で注目を集めている「マインドフルネス」のエクササイズと大きく重なっている領域です。もともとマインドフルネスはお釈迦様の教えをベースにして開発されました。そしてその様々なエクササイズは仕事や生活の合間などに実践可能なものばかりです。
 
こうしてみると六波羅蜜もゆるふわな実践であれば、どうにかいけそうな気がしてきませんか!?そして例え「ゆるふわ」な実践でもずっと継続していけば、少しくらいは「無明」を脱して「涅槃」の境地に近づく事ができるかもしれません。ここまで読んでくださって有難うございます。もしあなたがいま何かしらの「苦しみ」に悩んでいるのであれば、是非とも気軽な気持ちで本書から仏教に入門してみてはいかがでしょうか。