かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

データベース文学の先駆けとしてのアリスの物語--ふしぎの国のアリス/かがみの国のアリス(ルイス・キャロル/訳:河合祥一郎)

* 二つのアリスの物語

 
児童文学の不朽の名作「不思議の国のアリス」は、作者であるルイス・キャロルが知人の少女、アリス・リデルのために即興で作った物語がもとになっていることで知られています。キャロルはこの即興物語を「地下の国のアリス」という名の手書きの本にしてアリスに進呈する一方、知人たちに勧められ同作の出版を決意します。こうして大量の加筆修正と紆余曲折の出版過程を経て1865年11月に刊行された「不思議の国のアリス」は各方面から好評をもって迎え入れられました。
 
一躍、人気作家となったキャロルはさっそく同作の続編を構想しはじめ、1871年12月に「鏡の国のアリス」が出版され再び好評を博しました。以降、この二つのアリスの物語は世界中で聖書とシェイクスピアにつぐと言われるほど多様な言語に翻訳され、現代においても児童文学はもちろん美術、映像、ファッションなど様々な表象文化に多大な影響を与え続けています。
 

*「不思議」のあらすじ

 
初夏のある日、アリスは土手で読書する姉の側で退屈していたところ、その側を服を着た白いウサギが慌ただしく駆け抜けていきました。そのウサギを追ってウサギ穴の中へ飛び込み、アリスは地の底へと落下していきます。
 
行き着いた先は薄暗い広間でした。小さな扉の外に見える素敵な庭園に行きたいと思ったアリスはその辺にあった変な液体やケーキを飲み食いして小さくなったり大きくなったりします。途方に暮れたアリスは自分が流した大量の涙の池で溺れてしまいます。そして、その池の中にいつの間にか入り込んでいたネズミやアヒルドードーらと出会い、成り行きでアリスは党大会レースに出場することになります。
 
その後、アリスはどうにか自分の身体の大きさをちょうどよいサイズにして、チャシャー猫に出会ったり、帽子屋と三日月ウサギの奇妙なお茶会に参加したりと、不思議の国を彷徨い続けます。
 
そして、最後にやってきたお城で癇癪持ちの女王にクロッケー大会やら理不尽な裁判やらに強制参加させられたアリスはとうとう怒りを爆発させ「あんたたちなんかただのトランプのくせに!」と叫びます。ここで彼女はこれまでの出来事が夢であったことに気づきます。
 
アリスは今みた夢を姉に語り、走り去っていきました。一人残った姉は、この小さな妹は大人になってもきっと、純真な心のままでいるのだろうと、その将来に思いを馳せるのでした。
 

「鏡」のあらすじ

 
前作から半年後。イギリスの祝祭である「ガイ・フォークス・ディ」の前夜、暖炉の前で愛猫と遊んでいたアリスは、鏡の中にある世界を空想しているうちに、実際に鏡の中に入ってしまいます。
 
この「鏡の国」ではチェスの駒が意思を持って動き回り、世界全体がチェス盤のようになっていました。そして、アリスは赤の女王の助言により、自身もこの世界で繰り広げられるチェスゲームに参加することになります。
 
こうして歩兵(ポーン)となったアリスはトゥイードルダムとトゥイードルディー、白の女王、ハンプティ・ダンプティ、白の騎士との奇妙な遭遇を経て、最終的にはいつのまにか自分が女王(クィーン)になったことを知ります。
 
けれども、アリスは赤の女王と白の女王から不条理な質問を浴びせられ続け、出された食事も食べることができません。そしてアリスが女王就任のスピーチを始めようとすると、途端にあたりは大混乱に陥り、またもアリスが怒りを爆発させたところで彼女は夢から覚めます。そしてアリスはこの夢ははたして「自分の夢」だったのか、それとも「赤の王の夢」だったのかと自問するのでした。
 

* ルイス・キャロルASD

 
このような「不思議」と「鏡」という稀有な作品を生み出したルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは1832年、イギリスのダーズベリーに11人兄弟の第3子長男として生まれています。ドジゾン家はアイルランド系の牧師の家庭であり、キャロル(ドジソン)も敬虔なキリスト教徒でしたが、のちに英国国教会儀礼主義への疑義を持って以降、生涯にわたり宗教的葛藤を抱えていたとされています。
 
長じてオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジに入学したキャロルは、特に数学に関して優秀な成績を収め24歳から同校の数学講師を務め、1898年に66歳で亡くなるまで終生大学寮で生活しました。そして同校の学寮長ヘンリー・リデルの娘がアリスです。先述のように「不思議」と「鏡」の物語は彼女との交流の中で生み出されたものでした。
 
近年においてキャロルは「自閉症スペクトラム障害ASD)」であったことが指摘されています。自閉症はかつて子どもの精神病とみなされていましたが、1970年代になると自閉症は精神病とは異なる脳の器質的障害と認識されるようになります。さらに1980年代以降、古典的な自閉症である「カナー症候群」とその診断基準を部分的に満たす「アスペルガー症候群」を「スペクトラム(連続体)」として捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-Ⅴ)」において両者は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。
 
ASDの特性とは端的にいうと「社会的コミュニケーションの持続的障害(場の空気が読めない)」と「常同的反復的行動・関心(独自のこだわりに執着する)」という2点から成り立ちます。この点、キャロルの場合も、アリスをはじめとするリデル家の少女の写真を執拗に撮って回り、リデル夫人の不興を買うもまったく意に解さず、あまつさえカメラをリデル家に置きっぱなしにしていたというエピソードや、鉄道模型の時刻表を自作したり、文通、来客、招待といった交流関係を逐一記録するというエピソードの中に「社会的コミュニケーションの持続的障害(場の空気が読めない)」と「常同的反復的行動・関心(独自のこだわりに執着する)」というASDの特性を見出すことができます。
 

*「深層」から「表面」へ

 
上述のようなキャロルのエピソードにも見られるASDの特性は精神分析的には「〈他者〉の回避」として位置付けられることがあります。ここでいう〈他者〉とは予測不能、制御不能なもの一般を指しています。すなわち、ASDにおいては〈他者〉を徹底して回避して独自の世界を作り上げようとする構造が見出されるということです。そして、こうしたASDの構造を逆手にとって生み出されたのがアリスの物語であったともいえるでしょう
 
この点、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、その主著の一つである「意味の論理学(1969)」において、キャロルを「表面(意味=出来事)」を体現する作家として位置付けています。そのうえでドゥルーズは現代演劇に絶大な影響を与えた作家であるアントナン・アルトーを「深層(物体)」を体現する作家として位置付け「キャロルの全てを引き換えにしても、われわれはアントナン・アルトーの一頁も与えないだろう」と述べますが、その直後すぐさまに「(キャロルが描く)表面には、意味の論理のすべてがある」とも述べています。
 
そしてドゥルーズは「意味の論理学」以降、アルトー的な「深層」を拒絶しキャロル的な「表面」を偏愛する方向に向かい、その晩年の著作である「批評と臨床(1993)」においては「表面」の言語によって書かれた文学こそが文学の描く世界のすべてになりうるとまで断言しています。
 

* データベース文学の先駆けとしてのアリスの物語

 
キャロルがアリスの物語の中で駆使する数々のノンセンスはおそらくASD的な言語解釈のズレから産み出されたものだったのでしょう。いわばキャロルは言語を「母語=〈他者〉」ではなくある種の「データベース」として読み込んでいるといえます。そして、こうした「データベース」としての言語で紡がれたアリスの物語をドゥルーズは「表面」の言葉として称賛したのでした。
 
この点、東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において近代的な「大きな物語」が衰退したポストモダンにおいては、ポップカルチャーの「データベース」から形成される人工環境に依拠した文学が台頭するといい、その典型例として氏は1990年代以降、文芸市場でその存在感を急速に強めてきた「ライトノベル」と呼ばれる作品群を取り上げています。こうした意味でアリスの物語とはポストモダンにおけるデータベース文学=ライトノベルの先駆けともいえるでしょう。
 
もっとも、キャロルが駆使したノンセンスをそのまま生かした形で他言語に翻訳するというのは技術的になかなか難しい問題があります。こうした中で2010年に刊行された本書はキャロル的ノンセンスを現代的な日本語で表現した画期的な新訳といえます。また本書には可愛らしいイラストが多数付されており、まさしくライトノベル的な感覚で読めるアリスの物語といえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【書評】現代思想入門(千葉雅也)

 

 

* フランス現代思想の批判力

 
第二次世界大戦後、長らく思想や文化における知的流行の最先端を担ったフランス現代思想の軌跡は一般的に「構造主義からポスト・構造主義へ」という流れで理解されています。1960年代、フランスにおける思想界のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は人が独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しましたが、クロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。
 
こうして1960年代中盤には構造主義の栄華は頂点に達します。ところが1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りが見え始めます。こうした流れを決定的にした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」です。「Egalité! Liberté! Sexualité!」というそのスローガンが端的に示すように「68年5月」とは大学や社会が押し付ける旧態依然とした「構造」に対する学生たちの異議申し立てでした。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになります。
 
もはや目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の破壊あるいは解体でなければならない。こうして1970年代においては「構造主義」に成り代わり「ポスト構造主義」の時代が幕を開けました。
 
そして、その思想的流行を追いかけるように日本でも1980年代前半には「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる「フランス現代思想ブーム」が沸き起こりました。その火付け役となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の「構造と力(1983)」と「逃走論(1984)」です。そこで氏が提示した「パラノ・ドライブからスキゾ・キッズへ」というパラダイムシフトは消費化情報化社会が爛熟し、バブル景気へと突入しつつあった1980年代中盤の日本社会の気分と見事に同調しました。
 
けれどその一方、フランスでは1980年代において既にマルクス主義の退潮やポストモダニズムの台頭などにより構造主義ポスト構造主義は時代遅れの「68年の思想」として遠ざけられ、さらに1990年代になると「ソーカル事件」として知られるアラン・ソーカルの告発によって、かつてフランス現代思想家達がやたらと濫用していた数学的概念の多くがインチキ数学であったことが証明されてしまいました。
 
果たして、いまやフランス現代思想を読むなどという所業は懐古趣味以外の何者でもないのでしょうか?もちろんそうではありません。マルクス主義とかインチキ数学などを差し引いた後に残るフランス現代思想の批判力は今もなお生きています。では、その「フランス現代思想の批判力」とは何なのでしょうか?そしてそれは現代を生きる我々とどのように関係するのでしょうか?こうした問いに答えてくれるのが本書です。
 

* ダブルシステムで考える

 
本書はポスト構造主義を中心とした(フランス)現代思想の入門書です。著者である千葉雅也氏曰く、本書はこれまで専門家の世界で「そういうものだ」と何となく共有されてきた現代思想における「ある種の常識」を一般読者に開放する目的で書かれた本です。
 
そのイントロダクションである「今なぜ現代思想か」において現代思想を学ぶ今日的意義が述べられています。それは端的にいうと、現代思想を学ぶことで「単純化できない現実」の難しさを、より「高い解像度」で捉えられるようになるということです。どういうことでしょうか。
 
本書に即していえば、我々が生きる現代社会においては、様々な領域で「きちんとする」ないし「ちゃんとしなければならない」という「秩序化」が進む一方で、こうした秩序に収まらない例外性や複雑性を孕むような問題は切り捨てられ、世界の細かな凹凸がブルドーザーでならされてしまうような「単純化」が進んでいます。
 
こうした現代社会における「秩序化=単純化」という大きな傾向に対して、現代思想は秩序から逸脱するもの、すなわち「差異」に注目します。その背景には例えば「コンプライアンス」とか「安心・安全」などといったきれいな言葉で過剰に「秩序化=単純化」された社会とは果たして本当にユートピアなのか、それはある種のディストピア紙一重ではないかという警戒心があります。
 
もちろんこれはアナーキーな世界を称揚するものでもありません。要するに、一方で秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で考えることこそが重要であると本書はいいます。すなわち、現代思想を学ぶ今日的意義とは、このような「ダブルシステム」の思考法を涵養する点にあるという事です。
 

* 二項対立と脱構築

 
本書はまず「ポスト構造主義」の代表的思想家であるジャック・デリダジル・ドゥルーズミシェル・フーコーの思想を「脱構築」の視点から読み解いていきます。「脱構築」とはもともとデリダの術語ですが、本書ではドゥルーズフーコーにも脱構築的な考え方があるとして、この三つ巴を抑える事でまずは現代思想の基本的な論理操作ともいえる「脱構築的な思考」を練成します。
 
一般的に思考の論理は「二項対立」で組み立てられています。「二項対立」の例として「秩序/逸脱」「真面目/遊び」「大人/子供」「健康/不健康」などがあるでしょう。そして通常、我々の価値判断はこうした「二項対立」の一方をプラスとして持ち上げて他方をマイナスとして貶める事で成り立っています。
 
これに対して「脱構築」と呼ばれる思考法は「二項対立」のむしろマイナス側を擁護する論理を発見し「二項対立」に規定された善悪優劣をいわば決定不能な宙吊り状態に持ち込む論法です(概念の脱構築)。
 
こうしたデリダ脱構築から「世界」を見晴るかすのであれば、全ての事象は「あのコップ」「あの猫」「あの人」「このわたし」といった区別を超えて縦横無尽に接続され(かつ切断されながら)展開していくというドゥルーズ存在論となります(存在の脱構築)。さらにこのようなドゥルーズ存在論から「社会」に折り返すのであれば、近代社会における権力関係とは支配者と被支配者相互の多方向の関係性として展開しているというフーコーの権力論となります(社会の脱構築)。そして、そこから人間の雑多なあり方をゆるやかに「泳がせておく」ような倫理が提示されることになります。
 

*「点」が「線」になるような読書体験

 
通常、フランス現代思想入門といえば、おそらくレヴィ=ストロース構造主義的人類学から入ることが従来の定石であったように思えます。しかしレヴィ=ストロースのいう「構造」とは恐ろしく難解な概念であり、さらにその扱う分野は「親族」や「神話」における人類学的考察という、これまた大多数の読者にとって非日常的な領域です。それゆえにレヴィ=ストロースからフランス現代思想に入門した場合、この「構造」の時点で早速、多くの初学者が躓いてしまう恐れがあります。
 
一方でデリダは初学者からすればなんとなく「構造主義の応用編」のようなイメージがあるように思えます。けれどもデリダが提唱した「脱構築」という技法それ自体は、むしろそれまでのフランス現代思想全体が暗黙のうちに共有していた知の方法論であったとも言えます。例えばレヴィ=ストロースのいう「野生の思考」も、いってみれば「進んだ西洋社会/遅れた周辺社会」という「二項対立」に基づいた近代的偏見の「脱構築」であり、その残余物こそが、あの「構造」と呼ばれるものであったともいえるでしょう。こうしてみると、むしろデリダはフランス現代思想の最適な案内役といえるかもしれません。
 
正直な話、デリダドゥルーズフーコーという「点」が「線」になるような読書体験にちょっと感動のあまり青ざめてしまいました。これまであの3人がこんな風につながるとは考えもしませんでした。そういう意味で、本書は「入門のための入門」という謙虚な位置付けになっていますが、フランス現代思想をひととおり抑えた中級者以上にも絶対にお勧めできる本です。
 

* 現代思想のつくり方

 
本書は第一章〜第三章で現代思想のイロハを抑えた後、第四章で現代思想の源流まで遡り、続く第五章では現代思想の隣接領域ともいうべき精神分析に光が当てられます。
 
特筆すべきはこれまでの総まとめとなる第六章、その名もずばり「現代思想のつくり方」です(なかなか挑発的なタイトルです)。ここでは恐るべきことに多様多彩な(はずの)現代思想の理論が以下の四原則から成るある種のパターン(!)に還元されてしまいます。
 
⑴他者性の原則・・・先行する理論/システムにおいて排除されている他者性Xを発見する(デリダでいうエクリチュールドゥルーズでいう差異)。
 
⑵超越論性の原則・・・先行する理論/システムにおいて排除されている他者性Xを排除しない形での超越論的審級(ある事象を成立させる根源的前提)へと遡行する。
 
⑶極端化の原則・・・先行する理論/システムにおいて排除されている他者性Xを極端化させた状態として新たな超越論的審級を設定する(デリダでいう原エクリチュールドゥルーズのいう差異それ自体)。
 
⑷反常識の原則・・・⑴〜⑶の操作の結果として帰結される反常識こそが実はこの世界の常識を規定しているという転倒に至る。
 
そして、この四原則によって成り立っていたポスト構造主義の議論に対して再び四原則を徹底的に適用した議論が、第七章で詳論されるフランス現代思想の今日的展開としての「ポスト・ポスト構造主義」ということになります。
 
ポスト構造主義とは大まかにいうと「同一性/差異」という大きな二項対立を設定した上で「差異」の側を擁護するような議論でした。これに対してポスト・ポスト構造主義では一旦「同一性」の側に立ち戻り「差異」といわば「仮固定的な同一性」との共存を問題とする傾向があります。例えばカトリーヌ・マラブーの「可塑性」やカンタン・メイヤスーの「実在」はこうした「仮固定的な同一性」の機能を持つ概念といえます。そしてその狙いは「同一性」への単純な回帰ではなく、むしろ「差異」の思考をさらに深化させようとするものです。
 

* 他者性の泡立つ世界を生きる

 
ではこのような「仮固定的な同一性」を引き受けた思考とはどのようなものでしょうか。人は生きていく上で「わたしは〇〇である」とか「わたしは〇〇になる」といった価値選択を常に迫られています。そしてその裏には「わたし=同一性/わたしではないもの=他者性」という二項対立が暗然と走っています。ここでいう「他者性」とは文字通りの他人であったり、別様の未来の可能性であったり、想定外の出来事といったものが含まれます。
 
けれどもこうした「わたし=同一性/わたしではないもの=他者性」という二項対立を脱構築してしまうと「わたし」という同一性は結局、常に根源的なレベルでは他者性に規定されているということになります。いわば我々はサイダーのように他者性の泡立つ世界を生きているということです(本書は他者性を「サイダー」とか「ソーダ水」などといった喩えで表現していますが、これは従来ありがちだった「異界」とか「ノイズ」などといった喩えと比べて、とても肯定的で素敵な喩えだと思います)。
 
それでも我々は生きていく上で何かしらの価値選択をしなければなりません。重要なのはそこで他者性を単純に排除するのではなく、他者性を上手く織り込んだ価値選択ができるかにあるのでしょう。
 
こうした他者性を織り込んだ価値選択(=仮固定として同一性)は日々の変化に柔軟に対応しつつ「いま、ここから」から「別のいま、ここ」へ跳躍していくしなやかな生き方といえるでしょう。
 

*「つながり過剰」の時代において他者と手をつなぐということ

 
そしてまさにこの点に今日におけるフランス現代思想の批判力を見いだす事ができるではないでしょうか。それは端的にいうと今日的な「つながり過剰」に対する批判力です。
 
大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効して、ポストモダン状況が加速したゼロ年代においては、それぞれ異なる「小さな物語」を生きる個人にとって新たな成熟観とは何かが社会思想からサブカルチャーに至る様々な文脈で問われ続けていました。そしてその一つの到達点がソーシャルメディアの台頭を背景とした「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯でした。
 
わたしとあなたは違う物語を生きているけれど、それでも互いにつながることができる。異なる物語の交歓から芽生える可能性としての「つながり」への信頼。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えました。こうしたことから当時は多くの人が、ソーシャルメディアによる新たな「つながり」が切り開く未来の可能性に何かしらの希望を預けていました。
 
けれどもソーシャルメディアが実際にもたらしたものは見たい現実と信じたい物語だけを囲い込んでしまう肥大化した情報環境でした。その結果「つながり」という差異の中に強固な同一性が回帰することになり、その内部には同調圧力が発生し、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とは、まさに様々な「つながり」たちが世界を友敵に切り分けあった「つながり過剰」の時代でもありました。本書のいう現代社会における過度な「秩序化=単純化」という傾向もまたこの「つながり過剰」という同一性の病理がもたらした一つの側面といえます。
 
こうした中にあって脱構築的な思考、すなわち現代思想的な思考とはまさにこの「つながり過剰」という同一性の中で排除された他者性を上手く織り込んでいく思考といえるでしょう。サイダーのように他者性の泡立つ日常の中で仮固定的に生きるということ。それが「つながり過剰」の時代において本当の意味で、他者(性)と手をつなぐということなのではないかと思います。
 
 
 
 
 
 
 

無敵の未来へ向かって--3月のライオン(羽海野チカ)

* 現代における「政治と文学」の核心点

 
戦後日本社会における「成熟」の条件を見事に言語化した「成熟と喪失(1967)」で知られる批評家、江藤淳氏は同書において安岡章太郎氏や小島信夫氏など「第三の新人」と呼ばれる戦後文学を論じる中で、前近代を「母(運命論)」のゆりかごに包まれた時代として、そして近代を「父(自己決定論)」という呪縛に囚われた時代として位置づけた上で、氏は「成熟」の条件を「父(自己決定論)」の前に動揺する「母(運命論)」を崩壊させる欺瞞を、すなわち「(喪失感の空洞のなかに湧いて来る)悪」を引き受けるというアイロニカルな態度に求めました。そして、このような成熟モデルを江藤氏は「治者」と呼びました。
 
また現代を代表する作家、村上春樹氏は1995年前後に「デタッチメントからコミットメントへ」と呼ばれる転回を果たしたことで知られています。それまで氏は「大きな物語」から距離を置き「父」を演じることを回避する「デタッチメント」という受動的な成熟モデルを時代に対する暫定解として選択してきました。ところが1995年以降、氏は地下鉄サリン事件に象徴される新たな時代が産み出す「悪」と対峙する「コミットメント」という能動的な成熟モデルを提示する必要に迫られました。ここで氏は「コミットメント」のモデルを「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」におけるクミコや「1Q84(2009〜2010)」の青豆のような、主人公の代わりに「悪」を誅殺するヒロイン、すなわち「他者性なき他者」としての「母」に依存する態度に求めました。
 
江藤氏と村上氏の立ち位置(「悪」の引き受け/「悪」との対峙)は一見すると完全に真逆のように見えます。けれど両者が打ち出す成熟モデルは奇妙な共通点を持っています。それはすなわち「父=治者」になる「コミットメント」のコストが「母=他者性なき他者」へ転嫁されているという点です。この点、宇野常寛氏はこのような「矮小な父性」と「肥大化した母性」の癒着構造を「母性のディストピア」と名付けています。
 
そしてグローバル化とネットワーク化の加速する現代において人は否応なく誰でも「父=治者」として機能し、相互に「コミットメント」の過剰接続(「悪」の引き受け/「悪」との対峙)を余儀なくされているといえるでしょう。それゆえに現代における「政治と文学」の核心点にはこうした「父=治者」たちによる「コミットメント」から生じるコストの処理をどのように引き受けて、記述していくのかという問いがあります。
 
この点、本作「3月のライオン」は、現代における「政治(=市場原理主義)」と「文学(=決断主義的価値選択)」を苛烈なまでに体現するプロ棋士の世界を題材とすることで、現代における「政治と文学」の核心点にある問いを真正面から引き受けて、記述することに成功した作品であるように思えます。
 

* 母性のユートピア

 
本作の主人公、桐山零は幼少時に事故で両親と妹を失い、父の友人であるプロ棋士、幸田に内弟子として引き取られた後、血の滲むような努力を重ね、若干15歳で見事プロとなります。けれどその一方で、幸田の実子である香子や歩との軋轢から幸田家に居場所を無くしてしまった零は幸田家を出て六月町にて1人暮らしを始め、1年遅れで高校に編入するも校内では孤立してしまい「本業」である対局でも不調が続いていました。
 
そんな折、零は橋向かいの三月町に住む川本あかり、川本ひなた、川本モモの三姉妹と出会います。彼女らとの交流を重ねる中で他者の温もりを知った零はこれまでの自分の殻を破り、先輩棋士である島田開との対局を機に島田の研究会に参加したり、担任である林田高志の勧めで学校の部活動に参加したり、徐々にではありますが、他者へと心を開き始めるようになります。零にとって川本三姉妹とはいわば「母性のユートピア」を体現する存在でした。
 

* 一生かかってでも僕は君に、この恩を返す

 
こうした中、零の前に決定的な形で「母」として現れたのが川本家の次女、ひなたです。ひなたはクラスでいじめられていた親友を庇ったことで今度は自分がいじめの標的にされてしまいます。それでもひなたは皆の前で「私がしたことは、ぜったいまちがってなんかない」と涙ながらに叫びます。そんなひなたの姿を見て、幼い頃に抱えた精神的外傷が「嵐のように救われる事」に気づいた零は「一生かかってでも僕は君に、この恩を返す」と静かに決意します。
 
こうして零はひなたのいじめ問題の解決に奔走し、ひなたの高校受験を支援します。果たして、ひなたは無事志望校に合格します。けれども、ひなたがその高校生活のスタートを切った矢先に、川本姉妹の祖父、相米二が不整脈で入院してしまい、その間隙を縫うように、かつて不倫が原因で家を出て行った三姉妹の実父、誠二郎が唐突に現れます。
 
今もまた別の不倫問題を抱え込んでいる誠二郎は川本家に体よく現在の家族の世話を押し付けようとしますが、その目論みを阻止するため零は誠二郎と真っ向から対決します。他人には関係ないと零の当事者適格性を論難する誠二郎に対して、零は(恐るべきことに当人にすら何の相談もなく)自分はひなたと結婚を考えていると宣言します。
 

* 母性のディストピア

 
こうした零の奮闘と三姉妹の結束の前に誠二郎は去っていきました。しかし同時に川本家に伏在する別の問題が浮き彫りになります。父に逃げられた後、母と祖母を立て続けに喪ったあかりはひなたとモモを育てるべく自らが「母」の役割をこれまでずっと負ってきました。しかしあかりが「母」の役割を全うしようとすればするほどに、あかり自身の幸福は遠のいてくことになります。すなわち、これまで零が川本家に見た「母性のユートピア」とは、実は長年にわたり、あかりが「母」としてのコストを背負う事で成り立っていた「母性のディストピア」だったわけです。
 
こうした状況を打開するための解決策としてあかりの伴侶を探すことを思いたった零は、先輩棋士である島田と恩師である林田に白羽の矢を立てます。しかしその一方で零の「婚約者」であるひなたは、あろうことか零があかりと結婚してくれることを願っていることが判明します。
 

* ひなたの想い

 
ひなたの想いは複雑です。ひなたも零に対して恋愛感情めいたものがないわけではないですが、実父のトラウマを抱えるひなたは零の心もまた、あっけなく変わることを恐れていました。けれども、あかりという「母」ならば、きっと零を手離すことがあるわけがないという確信を持つひなたは、そこには皆がバラバラにならずにいつまでも一緒にいられる未来があると信じることができたのでした。
 
つまり、ひなたもまたここで「母性のユートピア=母性のディストピア」を永続させる夢に囚われていました。けれども文化祭の後夜祭、燃え盛るキャンプファイヤーの前で、零とひなたはあの「結婚宣言」以来のお互いのコミュニケーションの誤配を解きほぐしていき、ついにひなたは零の告白を受け入れていくのでした。
 

* 無敵の未来に向かって

 
こうしてみると、ある一面で零は自らが「父=治者」になる「コミットメント」から生じるコストを川本姉妹という「母=他者性なき他者」へと転嫁しています。けれども、もう一面で零はひなたやあかりという「母」が背負ったコストを何かしらの形で分かち合い、誰もが幸福でいられる未来を、まさにそれは文字通り無敵の未来を手にするための「最善の一手」を探して今も必死になって足掻き続けているように思えます。
 
こうした意味で本作は「母性のディストピア」に規定されつつも、その発展的な解体を志向する作品であるといえるでしょう。果たしてその結末はどうなるのでしょうか。本作の今後の展開を楽しみに待っていたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

自我と影の統合--空の境界(奈須きのこ)

* ゼロ年代の想像力の先駆け

 
戦後50年目の年にあたり、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年は、戦後日本を支えた経済成長神話の崩壊が決定的となり、社会的自己実現への信頼低下によるアイデンティティ不安が前景化した年であり、国内思想史的には社会共通の「大きな物語」が失墜し社会の流動化/ポストモダン化がより一層加速した年として位置付けられています。そして、こうした時代の転換点を見事に体現した作品が同年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」でした。同作の示したあの衝撃的な結末は当時、アイデンティティ不安を抱えていた若年層に対してある種の承認を与える物語として機能しました。そして、こうしたエヴァの結末を引き継いだ想像力が、ゼロ年代初頭において一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群でした。
 
もっとも「セカイ系」はある意味で時代の徒花ともいえる一面があります。この点、宇野常寛氏はそのデビュー作「ゼロ年代の想像力」において、エヴァに代表される「95年の記憶」を引きずる「引きこもり/心理主義的」な想像力を「古い想像力」と呼び、これに対して、2001年前後から台頭し始めた「開きなおり/決断主義的」な想像力を「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」と呼んで整理しています。つまり、この整理に従えば「セカイ系」とはその登場時において既に「古い想像力」の系譜に属していた作品群ということになります。
 
そして宇野氏は「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」が台頭した背景には、米同時多発テロ構造改革路線による格差拡大といったゼロ年代の社会情勢のもとで広く共有されつつあった「引きこもっていたら殺される」というある種の「サヴァイヴ感」があるといいます。すなわち、氏のいう「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」とは、こうしたゼロ年代的な「サヴァイヴ感」を所与の前提として引き受けて、その上で何が正しい価値(物語/正義)なのかが宙吊りにされた状況で特定の価値を(それが究極的には無根拠であることを承知で)あえて選択するという想像力を指しています。
 
こうした「新しい想像力(=ゼロ年代の想像力)」の担い手として、宇野氏が取り上げた作家の1人が奈須きのこ氏です。奈須氏がシナリオを手掛けた「Fate/stay night」はゼロ年代を代表するPCゲームの一つに数えられ、現在もさまざまなメディアミックス展開が稼働してします。そして1998年から2001年にかけて奈須氏の同人小説として執筆された本作は「Fate/stay night」や「月姫」といったTYPE-MOON作品と共通の世界観設定を持ち、さらにはゼロ年代に隆盛を見せた「戦闘美少女」「学園異能バトル」といったジャンルの先駆的な存在でもあります。また2007年から全7部作(+最終章)として公開された劇場版は今やあの「鬼滅の刃」で知られるufotableが制作を手がけており、いま観ても作画、美術共に極めて高水準にあり、特に戦闘シーンの流麗さは特筆すべきものがあります。
 

* 二つの人格を持つ少女--式と織

 
本作のあらすじはこうです。物語の始まりは1995年3月--そう、まさにあの1995年--本作の主人公、黒桐幹也は街で一人の少女に心を奪われる。少女の名は「両儀式」。そして2人は翌月、高校の入学式で再会することになる。やたら人懐っこい幹也に極度の人間嫌いの式は困惑していたが、そんなある日、式のもう一つの人格である「織」が幹也の前に現れた。
 
式はもともと「式」と「織」という男女のふたつの人格を持っていた(原作では解離性同一性障害と説明されている)。式は「陰」と「肯定」を担当し、織は「陽」と「否定」を担当していた。これは「退魔四家」の1つに数え上げられる両儀家に代々伝わる遺伝であり、正統な後継者の条件でもあった。いわば式は両儀の家に囚われていたのであった。
 
その後、幹也への想いを持て余してしまった式は自ら道路に飛び出して事故に遭い、その際に式の身代わりとなって「織」が消滅してしまう。そして2年もの昏睡状態から目覚めた式は織を失ったことでそれまでのアイデンティティが切断され「生の実感」を失ってしまう一方で「死の線」が見える特殊能力「直視の魔眼」が発現する。魔術師、蒼崎橙子と邂逅した式は、自ら織の人格を補完し、生の拠り所を求めて異能者との闘争に身を投じていく。この辺りの過去エピソードは第二章「殺人考察(前)」と第四章「伽藍の洞」で描かれているものです。
 

* 影の主人公--荒耶宗蓮

 
本作は一章から四章まで過去と現在の物語が相互に描かれていき、第五章「矛盾螺旋」において一つの山場を迎えます。本章では本作の黒幕であり、いわば影の主人公ともいえる荒耶宗蓮の「根源」への渇望と挫折が描かれます。
 
「根源」とはTYPE-MOON作品における「魔術師」が目指す最終到達地点であり、万物の始まりから終わりまでの全てが存在する境域をいいます。Fate/stay nightにおける聖杯戦争の起源もこの「根源」に至るための儀式です。
 
かつて台密の僧であった荒耶は誰も救えない自身の無力さに絶望し「根源」への到達を渇望します。荒耶は「根源」への到達を妨害する世界からの「抑止力」の発動を回避するため、元々「根源」へ繋がる式を求め、式を「根源」へ近づけるために3人の駒を用意します。
 
そして小川マンションでのコルネリウス・アルバとの共同実験に式が関わったことを奇貨とした荒耶は当初の予定を繰り上げて、小川マンションに式を取り込んで、いよいよ「根源」へ至る準備に取り掛かりますがその野望は結局、式に阻まれてしまいます。
 
矛盾螺旋。それはすなわち「太極」に他なりません。荒耶は「小川マンション」という「太極」の中に「両儀式」という「太極」を取り込むも、自らの実験が生み出した臙条巴というトリックスターの働きにより、結局その自我は「集合的無意識阿頼耶識」という「太極」へと呑み込まれていく。まさに矛盾するこの世界の螺旋の中で荒耶の物語はその円環を閉じることになります。
 

* 三者三様のアイデンティティ不安--霧絵・藤乃・里緒

 
ところで、荒耶が用意した3人の駒はそれぞれ三者三様のアイデンティティ不安を抱えています。
 
その1人目。第一章「俯瞰風景」に登場する巫条霧絵はかつては両儀家と同じく退魔四家の一角であった巫淨家の最後の一人です。難病を抱え余命幾ばくもなく、外の世界を憎悪しつつも空への憧憬を抱く霧絵は荒耶の力を借り、視力を代償に霊体を得て廃ビル「巫条ビル」を霊体で目的もなく浮遊。結果、集まってきた他の浮遊者を巻き込み連続飛び降り自殺事件を引き起こします。霧絵は自身と同じ病院に入院していた式を頻繁に見舞いに来ていた幹也に仄かな好意を持っていましたが「巫条ビル」に調査にやってきた幹也の魂を奪ったことで、彼を取り戻しに来た式に霊体を殺されることになります。そしてその後、霧絵自身も無関係の人を自殺させた罪悪感と一度経験した死を再び経験するため、巫条ビルから身を投げることになります。
 
その2人目。第三章「痛覚残留」に登場する浅上藤乃はやはり退魔四家の一角である浅神家の末裔であり「歪曲の魔眼」の持ち主です。藤乃は式とは別の意味で世界に棲まえていません。彼女は「無痛症」という異常を得ることでしか世界に存在することを許されていませんでした。「痛い」という痛覚が欠如した藤乃は「いたい」という「生の実感」を持つ事ができなかったわけです。そんな藤乃の支えとなっていたのが、かつての幹也との取るに足らないような思い出でした。ゆえに幹也と再会した時、藤乃は思わず発した「はい、とても--とても痛いです、私泣いてしまいそうで--泣いて、いいですか?」という言葉は彼女の「いたい」という「生の実感」の叫びでもありました。なお、藤乃は後の「Fate/stay night」における第三のヒロイン(ある意味では真のヒロイン)である間桐桜の原形ともなるキャラでもあります。
 
その3人目。第七章「殺人考察(後)」に登場する白純里緒は荒耶が本作の「表のラスボス」だとすれば「裏のラスボス」といえます(もっとも荒耶の駒としては失敗作)。高校時代、大人しく目立たない生徒だった白純は式に告白するも「弱い人は嫌いです」という一言で振られたことで「強い自分」になるべく、その辺の不良に喧嘩をふっかけた挙句に意図せず相手を殺害してしまい、その死体を「食べる」ことで処理しようとしていたところを荒耶に声をかけられ「食べる」という起源に覚醒してしまいます。以後、白純は式へと同一化して、式へ自身の存在を誇示すべく「殺人鬼」となり、式をギリギリまで追い詰めますが、最後は式にボロ雑巾のように始末されることになります。
 

*「特別」に対する「普通」--黒桐幹也

 
霧絵、藤乃、里緒。この3人はある意味において、1995年に地下鉄サリン事件という形で顕在化した若年層のアイデンティティ不安を体現する存在でもあります。彼らは荒耶宗蓮という名のカルト思想に救いを求めた結果、連続自殺や連続殺人を引き起こすテロリストになってしまうわけです。
 
彼らのアイデンティティ不安の根底には「特別」への憧憬があります。そして本作は「特別」の側ではなく「普通」の側に賭け金を置きます。こうした「普通」を体現する存在が幹也です。
 
第六章「忘却録音」では幹也が「どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけない」という変わった起源を持っていることが明らかになります。彼は誰にでも差別なく普遍的に接する一方で誰かに対して「特別」な感情を持つことができない。こうした幹也の抱える「誰とでも解りあえるかわりに得た、誰にも気付いてもらえない空っぽの孤独」に禁断の恋心を抱いたのが幹也の実妹であり「禁忌」を起源とする少女、黒桐鮮花です。また幹也は霧絵、藤乃、里緒といった「特別」を憧憬する人間たちからも羨望され、あるいは執着されることになります。ここには徹底的に「普通」である事こそが「特別」となる逆説を見る事ができるでしょう。
 

*「95年の思想」から考える

 
思うに本作が幹也に与えた「普通」という起源=アイデンティティは「ゼロ想」において宇野氏が「95年の思想」と呼んだアプローチに極めて近いものがあります。「終わりなき日常を生きろ(宮台真司)」「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」「脱正義論(小林よしのり)」に代表される「95年の思想」に共通する問題意識とは、90年代の「引きこもり/心理主義」をカルト思想に陥ることなく、いかに克服するかというものでした。そして「95年の思想」の提示する成熟モデルは特定の「小さな物語」に依存せず価値観の宙吊りに耐える強固な個の確立というある種の物語批判的な、あるいはニーチェ主義的な傾向を持っていました。
 
けれども「95年の思想」はその後加速する「引きこもりから決断主義へ」という物語回帰の欲望の前に夭折してしまったと氏はいいます。人は「小さな物語」から自由ではあり得ない。例え「物語」を「何も選択しない」という立場を選択してもそれは「『何も選択しない』という物語の選択」でしかない。そうである以上、問題は「物語」からの自由などという不可能な外部の仮構ではなく「物語」の不可避を受け入れた上で「物語」への「自由で慎重なアプローチ」の成立条件の検討にあったということです。
 
こうした意味から言えば、カルト思想(=荒耶宗蓮)に依存しない個の確立を問う本作から、決断主義(=聖杯戦争)の解除条件を問う「Fate/stay night」への転回とは、まさしく「95年の思想(=物語批判)」から「ゼロ年代の想像力(=物語回帰)」への転回という文脈の上で理解することができるように思えます。
 

* 自我と影の統合--『両儀式

 
本作終章はほぼ幹也と『両儀式』との対話で構成されています。『両儀式』とは「式」と「織」という二つの両極端な人格の土台となる第三の人格です。『両儀式』は肉体の人格であり、本来は空の器であった彼女は未熟児として朽ち果てるはずが、超越者を求めた両儀家により知性を与えられ生きながらえることになりました。その後、彼女は式と識が精神の人格を作り出し、彼女自身は長い眠りについていました。
 
両儀式』は根源につながっており根源そのものであり、ゆえに聖杯と同じくあらゆる実現可能な願望を叶えることができます。そして、式の殺人衝動も万物の虚無への回帰欲求を叶えると言うこの根源の性質に由来しています。
 
この『両儀式』の出現により本作の持つ物語的布置が明らかになります。スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングによれば意識の主体である「私=自我」の裏には個人的無意識の主体というべき「生きられなかった私=影」が伴っており、さらにこれらの基礎には集合的無意識の主体というべき「私を超えた私=自己」があるとしています。そしてこうした「自己」の働きにより「自我」が「影」を統合していく個性化の過程をユングは「自己実現」と呼びます。
 
いわば式が「自我」であるならば、織は「影」に相当し『両儀式』は「自己」を体現します。そうであれば本作は、織を喪った式がかつて織が願ったユメを--何でもない穏やかな日常への憧憬を--自らのうちに統合していくという、まさしくユング的な意味での「自己実現」の物語として読めるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

行動療法的アプローチによる仏教入門--反応しない練習(草薙龍瞬)

*「八つの苦しみ」にどう向き合うか

 
我々の日常はしばし何かへの執着とか何かへのイライラとか何かへの不安などといった諸々の感情に支配されることが多いでしょう。こうした我々が生涯で体験する様々な憂苦懊悩を古代インドの大賢者ブッダは「八つの苦しみ」として定義しました。
 
それはすなわち、①生きること、②老いること、③病にかかること、④死ぬこと、⑤厭わしい者との邂逅、⑥愛する者との別離、⑦求めるものを得られないこと、そして⑧このままならない人の心です。
 
ブッダの教えの特色は、人生とは基本的に「苦しみ」に満ちたものであるという「現実」をまずは所与の前提として受け入れてしまう点にあります。そしてそこからブッダは「苦しみ」の「原因」を正しく「理解」することで、その「苦しみ」を解決する「方法」を示します。本書はこうしたブッダの教えをベースに「ムダに反応しない」生き方を教える本です。
 

*「苦しみ」とは「心の反応」

 
本書は人生の様々な「苦しみ」を「心の反応」として捉え、その原因は人の「求める心」にあるといいます。ブッダが発見した「求める心」とは「求め続けていつまでも満たされない心」のことであり、これを仏教では「渇愛」といいます。「求める心」とはいわば反応し続ける心のエネルギー源のようなものです。
 
「求める心」はその発生後に「七つの欲求」に枝分かれします。現代心理学的にいえば「七つの欲求」とは①生存欲、②睡眠欲、③食欲、④性欲、⑤怠惰欲、⑥感楽欲(感覚の快楽)、そして⑦承認欲です。
 
つまりまず初めに「求める心」があり、それが「七つの欲求」を生み出し、その欲求に突き動かされて、不安や不満や怒りといった「心の反応」が起きるとということになります。
 

* 心を正しく「理解」するための三つのアプローチ

 
ゆえに、様々な苦しみを解決する方法とは、心の動きに「反応」するのではなく、正しく「理解」することで「ムダな反応」をしない生き方を身につけるということです。そこで本書は、心を正しく「理解」するための具体的なアプローチとして以下の三つを挙げています。
 
⑴ ココロの状態を言葉で確認する。
 
今の心の状態を「疲れを感じている」「気力が落ちている」「イライラしている」「考えがまとまらない」などという風に客観的に確認します。これは「ラベリング」と呼ばれる心の状態にぺたりと「名前」を貼って客観的に理解してしまう方法です。このラベリングを日常の動作にも「歩いている」「掃除している」「食器を洗っている」などと同じように適用します。
 
⑵ カラダの感覚を意識する。
 
手があるという感覚、手を動かす感覚、立ち上がる感覚、歩く時の足の裏の感覚、呼吸する時のお腹や鼻先の感覚など、全身の感覚を「見つめながら」動作をします。
 
⑴と⑵の方法はブッダの時代では「サティ」と呼ばれ、現代では「マインドフルネス」と呼ばれるアプローチです。
 
⑶ アタマの中を分類する。
 
心の状態を①貪欲(過剰な欲求に囚われている状態)、②怒り(不平不満を感じている状態)、②妄想(アタマの中でぼんやりと何かを考えている状態)に分類します。
 
この「貪欲」「怒り」「妄想」の三つは仏教的には貪・瞋・癡の三毒と呼ばれます。これらは仏教的には戒めるべき「三大煩悩」に位置づけられていますが、本書ではこれらを心の状態を見る有効なツールとして捉えています。
 

*「判断しない」という生き方

 
そして「妄想」の一種に「判断」があります。あれはこうに決まってる、あいつが悪くて私が正しい。人は判断したがる生き物です。判断は気持ちいいものだし、その判断が共感を得る事で承認欲も満たされます。こうした判断したがる心理の根底には物事への執着があります。ブッダは人は三つの執着によって苦しむといいます。求めるものを得たいという執着、手にした物ががいつまでも続くようという執着、苦痛になっている物事を無くしたいという執着です。
 
とりわけ自分の価値に執着する判断を「慢」と言います。傲慢さ、プライド、虚栄心、さらには劣等感や「自信がない」という思いも「慢」に該当します。
 
人は皆、自分の判断こそが正しいと思いがちです。けれど判断が正しいかどうかのブッダの基準は「真実であり、有益であること」です。この基準に立ち返ることで我々が行なっている判断のほとんどは実は真実でもなく 有益でもないことに気づかされます。
 
ブッダが教えるのはどのような「判断」も究極的には「妄想」であり、判断の正しさに執着すればそこには「慢」が生まれると本書はいいます。仏教が目指す「正しい理解」とは逆説的ながら「正しいと判断しない」理解ということです。
 

* 不快を減らして快を増やす

 
このように本書は心の動きを正しく「理解」することで「ムダな反応」の低減を目指していきます。もっとも「全ての反応」を害悪とはしません。本書は「快」を生み出す反応は、それが例え「煩悩」と呼ばれる欲求の類であっても(欲求不満という不快に転換しない限りで)大事にするよう勧めます。
 
すなわち、本書の提唱する暮らしの基本ルールは「不快な反応」を減らして「快の反応」を増やすということです。そして、目の前の現実や自らの人生に対して苦しみを超えたところで「これでよし」と思える「最高の納得」に辿り着くことが本書が目指すべきゴールです。
 

* 行動療法的アプローチによる仏教入門

 
本書の示す方法論は臨床心理学的には第三世代の認知行動療法として注目を集めるアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)と親和的です。ACTではさまざまな心理的・行動的な問題を言語と現実を混同した「認知的フュージョン」が引き起こす「体験の回避」の問題として一元的に捉えます。我々はしばしば「体験の回避」を繰り返して結果として余計に苦しくなるという悪循環に陥ってしまうわけです。これは本書でいう「ムダな反応」に相当します。
 
そして、こうした「認知的フュージョン」と「体験の回避」からなる悪循環は「ザ・システム」と呼ばれる様々な「文脈」によって引き起こされるとされます。ゆえにACTではまず、このザ・システムに揺さぶりをかけるため「想像的絶望」と呼ばれるワークを行います。これは本書でいう「人生は苦しい」という前提の受容です。
 
ここからACTの臨床は「認知的フュージョン」を解除するためのエクスポージャー系の技法や、自らの行動を俯瞰できる自己概念(文脈としての自己)を定立するというセルフモニタリング系の技法により「体験の回避」を低減する「アクセプタンス」と、自分の人生にとって「価値」を構築する行動活性化系の技法により「価値ある行動」に踏み出すという「コミットメント」へと展開することで心理的・行動的な問題の改善のみならず「人生の質」そのものの向上を目指していくことになります。本書でいう「ムダな反応=不快な反応」を低減するプロセスはアクセプタンスに相当し「快の反応」を大事にするプロセスはコミットメントに相当するでしょう。
 
この共通性は別に偶然ではありません。そもそもACTの基盤にはブッダの教えに由来する「マインドフルネス」という思想があります。換言すると本書の示すブッダの教えの実践はACTの実践に他なりません。いわば本書は行動療法的アプローチによる仏教入門と呼ぶべき一冊でしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「つながり」と「つながりの外部」--ゆるキャン△(あfろ)

* 強い絆と弱い絆

 
東浩紀氏は「弱いつながり(2014)」において、人生を充実させるには「強い絆」と「弱い絆」の両方を必要とすると述べています。おそらく多くの人はたった一度きりの人生をかけがえのないものとして生きたいと願っているでしょう。けれどもその一方で、人は所詮は自身を取り巻く環境に規定された存在でしかありません。そして、こうした根源的な矛盾を乗り越える(もしくは乗り越えたふりをする)ための有効な方法はただひとつ、自身の置かれた環境を意図的に変えることにあると氏は述べています。
 
なぜならば、人は自身の置かれた環境を意図的に変えることで、現在の環境を強化する「強い絆」を相対化させ、そこに新たな可能性を切り開く「弱い絆」を手に入れることができるからです。こうしたことから氏は環境を意図的に変えるための手段としての「観光」を勧めます。
 

*「つながり」がもたらしたもの

 
こうした東氏の発想の背後には、おそらくゼロ年代的な「つながり」の思想への懐疑があると思われます。「大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効したポストモダン状況が加速したゼロ年代においては、それぞれ異なる「小さな物語」を生きる個人にとって新たな成熟観とは何かが社会思想からサブカルチャーに至る様々な文脈で問われ続けていました。そしてその一つの到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯でした。
 
私とあなたは異なる物語を生きているけれど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性への信頼としてのつながり。こうした「つながり」の思想の背景には言うまでもなくゼロ年代後半におけるソーシャルメディアの台頭があります。当時は多くの人が、ソーシャルメディアによる新たな「つながり」が切り開く未来の可能性に何かしらの希望を見出していました。
 
けれどもソーシャルメディアが実際にもたらしたものは見たい現実と信じたい物語だけを囲い込んでしまう情報環境でした。こうした環境下では「つながり」は容易にクラスター化して、その内部には同調圧力が発生し、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちが世界を友敵に切り分けあった「動員と分断」の時代でもありました。
 
要するにこの10年は「つながり」への希望が次第に「つながり過剰」に対する絶望へと変わっていった10年であったともいえます。こうしたことから、おそらく東氏は「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」を開くための動線を「観光」に見出していたように思えます。
 

*「日常系」が描き出す「つながり」の変化

 
「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」の導入。こうした問題意識は社会思想のレベルのみならずサブカルチャーのレベルでもはっきりと現れています。その一つの例として「日常系」と呼ばれるジャンルの傾向変化が挙げられます。
 
「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合は4コマ漫画形式を取り、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれます。そして作中において男性キャラは前面に出ることはなく、異性愛的な要素は極めて周到に排除されているのもその特徴です。ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は「空気系」とも呼ばれたりもしました。
 
こう言ってしまうと、なんとも他愛のないジャンルのようにも聞こえてしまいますが、その一方で「日常系」には、まさしくゼロ年代における「つながり」の思想の申し子ともいえる側面があります。
 
日常系という想像力は、ゼロ年代初頭に一斉を風靡した「セカイ系」と呼ばれる想像力を乗り越えるような形で、ゼロ年代中盤以降に急速にその存在感を持ち始めました。この点、セカイ系がいわば母性的承認に満ちた「小さな物語」に退避してしまう想像力であるとすれば、日常系は異なる「小さな物語」を生きる他者同士のごくありふれた日常的な「つながり」の中にある代え難い価値を再発見していく想像力と言えます。
 
こうして「らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」などに代表されるゼロ年代の日常系作品は理想的な「つながりの楽園」を描き出してきました。ゼロ年代における日常系が現代サブカルチャーにおける新たな想像力の地平を切り開いた功績はもはや疑いないでしょう。
 
ただその一方で、日常系の描き出す「つながり」とはなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における女の子同士の甘やかな交流であり、こうした「つながり」をひとたび絶対至高な尊いものとして描いてしまうと、そこにはたちまち「放課後ティータイム」とか「ひだまり荘」などという名で「セカイ」が再帰してしまいます。もっとより直截にいえば日常系の描き出す「つながり」とは結局のところ「偽装されたセカイ」と紙一重であるということです。これはまさしく現実世界における「動員と分断」とパラレルの問題でもあります。
 
こうしたことから2010年代における日常系作品の多くでは「つながり」を「セカイ」に閉じることなく、つながりをつながりのままに開き続けるための回路の導入が様々な形で試行錯誤されることになります。それは具体的には「ご注文はうさぎですか?」「NEW GAME!」「こみっくがーるず」「おちこぼれフルーツタルト」における「お仕事」といった形を取って、あるいは「きんいろモザイク」の「留学」や「スロウスタート」の「留年」といった形を取って、または「アニマエール!」「恋する小惑星」「スローループ」における「アウトドア」といった形を取って現れています。そしてこれらの試行錯誤はまさしく「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」の導入の試みであるといえるでしょう。
 

* 2010年代日常系の代表作

 
そして、こうした2010年代における日常系作品が希求し続けた「つながりの外部」を極めて決定的な形で導入した作品が「ゆるキャン△」です。2015年から「まんがタイムきららフォワード」で連載が開始された本作は、2018年のアニメ化をきっかけに人気が高騰。さらにはアニメのみならずテレビドラマ化も果たし、原作の累計発行部数はかつて「社会現象」とまで呼ばれた「けいおん!」を遥かに凌駕する600万部を突破しています。本作は名実とも2010年代の日常系を代表する作品といえるでしょう。
 
本作は山梨県とその周辺地域を舞台にキャンプをゆるく楽しむ女子高生たちの日常が描き出されます。そのあらすじはこうです。主人公、志摩リンは趣味の1人キャンプの最中に、ふとしたことから遭難しかかっていたもう一人の主人公、各務原なでしこを助ける事になる。リンとの出会いをきっかけにキャンプに興味を持ったなでしこは早速、高校のキャンプ同好会「野外活動サークル(通称野クル)」に入り、メンバーの大垣千明や犬山あおいとともにキャンプ三昧の日々を送る。一方、なでしことリンは同じ高校の同級生だったことが判明し、なでしこはリンを野クルに勧誘するも、1人キャンプが好きで、かつ野クルのノリが苦手なリンはなでしこの誘いをにべなく断ってしまう。しかしその後、リンはなでしこと二人でキャンプにいくなど交流を重ね、また千明たち野クルのメンバーともSNSを介して徐々に関わるようになります。
 
本作は掲載雑誌の性質上、日常系作品定番の4コマ漫画形式を取っていません。それゆえに本作では見開きのページによるキャンプ場からの眺望など、通常の日常系作品ではあまり見かけることのないダイナミックで臨場感のあるコマ割りもその特色の一つとなっています。
 

*「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係

 
では「ゆるキャン△」において「つながりの外部」はいかなる形で導入されているのでしょうか。
 
この点、そもそも本作の題材とする「キャンプ」とは文字通り、東氏のいうところの「観光」に相当します。先述したように自身の環境を意図的に変える「観光」は「強い絆(つながり)」を相対化せる「弱い絆(つながりの外部)」をもたらします。そして、なでしこ達もキャンプという非日常の経験を通じて、普段の日常では出会うはずのない人や物や事に出会い、考えないような事を考え、欲望しないような事を欲望します。ここには「日常=つながり」に対する「非日常=つながりの外部」という関係性が成り立っています。
 
さらに決定的であるのは、本作では「グルキャン(多人数キャンプ)」と「ソロキャン(1人キャンプ)」をそれぞれ等価的なものとして描き出している点です。
 
リンは野クルと合同のクリスマスキャンプに参加したことで「グルキャン」に「ソロキャン」とは「違うジャンルの楽しさ」を見出しました。けれどその一方で、リンは改めて「ソロキャン」における「寂しさも楽しむ」という価値を再発見します。そしてリンに触発されたなでしこも「ソロキャン」に興味を持ち始め、バイトで資金を貯め、リンのアドバイスで計画を立て、果たして富士川キャンプ場における初めての「ソロキャン」を見事成功させることになります。
 
このように本作は「グルキャン」を決して「ソロキャン」の上位互換に位置付けるのではなく、両者それぞれが異なる価値を持ったものとして捉えています。ここには「グルキャン=つながり」に対する「ソロキャン=つながりの外部」という関係性が成り立っています。
 
日常に対する非日常。グルキャンに対するソロキャン。本作ではこのような形で「つながりの外部」を二重に導入した上で、「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係を描き出して行きます。こうした意味で本作は、2010年代における日常系が様々な形で希求してきた回路を完成させた作品であると同時に、日常系というジャンルがこれまで至上価値としてきた「つながり」の思想へ批評性な介入を試みた作品といえるでしょう。そしてそこには、我々の現実における「つながり過剰」を解毒するためのある種の処方箋を見出すことができるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

「推し」という名のリトルネロ--推し、燃ゆ(宇佐見りん)

* 間主観的な欲望と別の仕方での欲望

 
フランスの精神分析ジャック・ラカンは「人の欲望は他者の欲望である」という有名なテーゼを提出しています。すなわち精神分析的な欲望=神経症的な欲望とは他者(社会的諸関係)とのネットワークの中で欲望するという「間主観的な欲望」ということです。ところがいわゆる「大きな物語」と呼ばれる社会共通の神話が失墜した現代社会では従来の「間主観的な欲望」のオルタナティヴとしての「別の仕方での欲望」の開放が加速しました。
 
この「別の仕方での欲望」を哲学的に考察して、1970年代に世界的な支持を得たのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(AO)」です。この点、AOでは「別の仕方での欲望」の開放をいわば「神経症の精神病化」として肯定的に寿ぎました。そしてドゥルーズ=ガタリの強い影響下にある日本の現代思想シーンでは、この「別の仕方での欲望」が様々な文脈の中で考究されました。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代における宮台真司氏のコギャル支持、ゼロ年代における東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代をリードした言説はまさにこうした潮流の中に位置づけることができるでしょう。
 
この点、千葉雅也氏は上記の議論を引き継ぐ形で、ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したけれども、その背景には実はマゾヒズム的な倒錯論が潜んでいるとして「別の仕方での欲望」を間主観的なネットワークとは無関係なところで多方向に勝手に欲望するというある種の「メタ倒錯」として位置付けています。ここでいう「メタ倒錯」とはすなわち、ラカンのいうファルス、あるいは千葉氏のいう「性別化のリアル」を排除した〈かのよう〉に振る舞う態度=メタレベルで否認する態度です。
 
このようなメタ倒錯的な観点から千葉氏は東氏の「動物化するポストモダン」における議論を読み直し、同書のいう「動物化」とは、動物的(非-精神分析的)な異性愛(生殖規範性)をインフラとして、その上に認知的習慣化による対象へのアディクション(中毒的こだわり)としての「別の仕方での欲望」が便乗する構造になっているといいます。そして本作は、こうした意味での「別の仕方での欲望」の一つのラディカルな表出を描き出した作品として読むことができるように思えます。
 

* 解釈学的循環へのアディクション

 
本作のあらすじはこうです。主人公のあかりは家庭にも学校にも馴染めず、いつも心身に不調を抱えた日常を送っていたが、ふととしたことがきっかけでアイドルグループ「まざま座」のメンバーの一人、上野真幸を熱狂的に「推し」始めることになる。あかりは「推し」の様々なグッズを買い漁り、ライヴにも熱心に足を運び、その作品と人物像の解釈をブログに記していく。こうした「推し」を続ける中でいつしか、あかりは「推しを推す」ことが自分の「背骨」と感じるようになる。それは様々な「生きづらさ」を抱えたあかりにとっての救いであり、生きる手立てであった。だがそんなある日「推し」がファンを殴って「炎上」する事件が起きる。
 
「推しを推す」という「推し活」のやり方は人それぞれです。本作の説明によれば、対象となる「推し」のすべてを信奉する人もいれば、その行動の良し悪しを批評する人もいる。また「推し」を恋愛対象として好きだけれど作品には興味がない人もいれば、逆に「推し」の作品だけが好きでスキャンダルなどには興味のない人もいる。また「推し」自体というよりむしろ「推し」のファン同士のコミュニティの交流が好きな人もいる。
 
この点、あかりは現実において「推し」との関係性を深める事などもとより求めていません。むしろ自分は「推し」にとっての有象無象のファンでありたいとあかりは言います。あかりにとって「推し活」とは、作品も人物像も含めた「推しの世界」を徹底的に「解釈」していくことです。
 
あかりは「推し」の基本情報は当然丸暗記しており、CD、DVD、写真集はそれぞれ保存用、鑑賞用、貸出用に常に3つ購入し、出演番組はダビングして何度も観返し、出演舞台はその時代背景に遡って調べ上げ、メディアでの発言を書き起こしたファイルは今や20冊を超え、その細かい言い回しのレベルまでほぼ完璧に把握しています。こうした莫大な情報を基にあかりは「推しの世界」をとにかくひたすら「解釈」していきます。その結果、ファンミーティングにおける質問コーナーでの「推し」の返答は大体予想がつき、裸眼だとまるで見えない遙か遠い舞台上でも空気感だけでそれが「推し」だとわかり、一度他のメンバーがふざけて「推し」のアカウントで「推し」に似せてつぶやいた時もすぐさまその違和感に気づくことができるという境域にまで到達しています。
 
おそらく、あかりの「推し活」は対象である「推し」の断片的情報から全体的世界観を解釈して、そこからさらにまた断片的情報を解釈するという解釈学的循環へのアディクションに支えられているようです。ここであかりの「推し」への「愛」は、どこまでも自分の世界の中で円環的に閉じられています。ここにはまさしく「間主観的な欲望」とは無関係なところで欲望するメタ倒錯的な「別の仕方での欲望」の構造を見ることができるでしょう。
 

* 発達障害から考える

 
本作では随所の記述から、あかりはおそらく発達障害であることが想起されます。発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいい、現在では大きく三群に分類されます。
 
まず、自閉症スペクトラム障害ASD)。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」といえば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。
 
ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが、かつてカナーとほぼ同時期にオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって発見されたアスペルガー症候群を「もう一つの自閉症」として注目したことから、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」において、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状としては「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
次に、注意欠如・多動性障害(ADHD)。ADHDの症例は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」に大別されます。比喩的に前者は「のび太型」、後者は「ジャイアン型」と言われたりもします。
 
「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
 
ADHDの処方薬としてはストラテラコンサータがよく知られていますが、一般にストラテラは副作用も多く、コンサータは薬効が切れた時の反動が大きいといわれます。
 
そして、限局性学習障害(LD)。知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 

*「生きづらさ」に開かれた物語

 
そして実際のケースでは上記の三群のうちの二つまたは全てがクロスオーバーしている場合も珍しくありません。あかりの場合はどうでしょうか。
 
まず、あかりは基本的に空気を読むことが苦手です。あかりは推し活の費用を捻出するため居酒屋でバイトをしていましたが、仕事内容を「いくつも分岐する流れ」としていわばチャート的に把握しています。それゆえに「ハイボール濃いめ」などといった曖昧な注文やマルチタスクに対しては臨機応変な対応ができず、すぐに混乱してミスを連発してしまいます。また家庭でも姉や母が時折、推し活に熱中するあかりにキレることがありますが、あかりは姉や母がなんでキレているのかがよくわからず、どこかピントの外れた返答をしています。
 
次に、あかりの行動全般には不注意やだらしなさがかなり目立ちます。学校の教科書や提出物などをよく忘れる、友達から借りた教科書を返し忘れる、体育祭の予行演習のための体操着を朝まで探し回り、その流れで学校をサボる、バイトの欠勤連絡を数日間ずっと忘れてしまう、道に迷う、バスを乗り間違える、もちろん生活能力は皆無で、あかりの部屋はゴミやら数週間前の食べ残しやら色々なモノが堆積して足の踏み場もありません。
 
そして、あかりは勉強もできません。小さい頃は99や漢字やアルファベットをなかなか覚えられず、覚えてもすぐに忘れてしまっています。高校でも勉強について行けず、授業は寝てばかりで保健室の常連で、さらに推しのスキャンダルがきっかけで生活全般が推し活一色に染まって以降はこれまで以上に学校を休みがちになり、高校2年で留年。結局そのまま高校を中退してしまいます。
 
こうしてみると、あかりはASDADHD、LDのすべてに該当していることがわかります。またあかりの推し活限定で発揮される驚異的な能力と熱意もやはりASDの特性である「特定分野への極度なこだわり」として理解できるでしょう。
 
もっとも本作では「発達障害」という診断名は、それとなくは示唆されていますが、作中で明記されることはありません。けれどその一方で、あかりが抱くような諸々の「生きづらさ」はその程度の差はあれ、我々がこの日常の中のどこかで感じている「生きづらさ」へと通じているでしょう。
 
そういう意味で本作は、発達障害を抱えた少女のリアルとか、そういう狭いジャンルに閉じた物語ではなくて、我々がこの日常のどこかで抱く諸々の「生きづらさ」を幅広く言語化し、包摂しようとした物語でもあるといえます。
 

*「推し」という名のリトルネロ

 
現代思想シーンにおける「別の仕方での欲望」とは、もっぱら旧来的な「間主観的な欲望」の外部に突き抜けるオルタナティブとして比較的肯定的に語られる事が多いように思えます。けれど実際問題として我々は間主観的なネットワークから完全に逃れ切る事はできないでしょう。我々が他者と関わりを持つ以上、ある間主観性の外部に出たとしても、そこには別の間主観性が待っています。そんな間主観的なネットワークの接続過剰の中で「別の仕方での欲望」を貫き通す事は、あかり的な「生きづらさ」と紙一重でもあります。
 
この点、冒頭で取り上げたドゥルーズ=ガタリはAOの続編である「千のプラトー」において「リトルネロ」という概念を提出しています。ここでいうリトルネロとは、ある特定の何かを常同反復する事で生成流転するカオスを相対的に減速させ、世界の中に暫定的な秩序を設立するための契機をいいます。
 
そしてそれは、この世界を有限化することで、世界の中に「住み処」を見出すための技法でもあります。こうしてみるとあかりの「推し」という営みからもまた、自身が「背骨」と表現する解釈学的循環のアディクションに自身の「住み処」を見出そうとする「リトルネロ」の響きが途切れ途切れながら聴こえてくるようにも思えます。