かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「つながり」と「つながりの外部」--ゆるキャン△(あfろ)

* 強い絆と弱い絆

 
東浩紀氏は「弱いつながり(2014)」において、人生を充実させるには「強い絆」と「弱い絆」の両方を必要とすると述べています。おそらく多くの人はたった一度きりの人生をかけがえのないものとして生きたいと願っているでしょう。けれどもその一方で、人は所詮は自身を取り巻く環境に規定された存在でしかありません。そして、こうした根源的な矛盾を乗り越える(もしくは乗り越えたふりをする)ための有効な方法はただひとつ、自身の置かれた環境を意図的に変えることにあると氏は述べています。
 
なぜならば、人は自身の置かれた環境を意図的に変えることで、現在の環境を強化する「強い絆」を相対化させ、そこに新たな可能性を切り開く「弱い絆」を手に入れることができるからです。こうしたことから氏は環境を意図的に変えるための手段としての「観光」を勧めます。
 

*「つながり」がもたらしたもの

 
こうした東氏の発想の背後には、おそらくゼロ年代的な「つながり」の思想への懐疑があると思われます。「大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効したポストモダン状況が加速したゼロ年代においては、それぞれ異なる「小さな物語」を生きる個人にとって新たな成熟観とは何かが社会思想からサブカルチャーに至る様々な文脈で問われ続けていました。そしてその一つの到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯でした。
 
私とあなたは異なる物語を生きているけれど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性への信頼としてのつながり。こうした「つながり」の思想の背景には言うまでもなくゼロ年代後半におけるソーシャルメディアの台頭があります。当時は多くの人が、ソーシャルメディアによる新たな「つながり」が切り開く未来の可能性に何かしらの希望を見出していました。
 
けれどもソーシャルメディアが実際にもたらしたものは見たい現実と信じたい物語だけを囲い込んでしまう情報環境でした。こうした環境下では「つながり」は容易にクラスター化して、その内部には同調圧力が発生し、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちが世界を友敵に切り分けあった「動員と分断」の時代でもありました。
 
要するにこの10年は「つながり」への希望が次第に「つながり過剰」に対する絶望へと変わっていった10年であったともいえます。こうしたことから、おそらく東氏は「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」を開くための動線を「観光」に見出していたように思えます。
 

*「日常系」が描き出す「つながり」の変化

 
「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」の導入。こうした問題意識は社会思想のレベルのみならずサブカルチャーのレベルでもはっきりと現れています。その一つの例として「日常系」と呼ばれるジャンルの傾向変化が挙げられます。
 
「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合は4コマ漫画形式を取り、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれます。そして作中において男性キャラは前面に出ることはなく、異性愛的な要素は極めて周到に排除されているのもその特徴です。ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は「空気系」とも呼ばれたりもしました。
 
こう言ってしまうと、なんとも他愛のないジャンルのようにも聞こえてしまいますが、その一方で「日常系」には、まさしくゼロ年代における「つながり」の思想の申し子ともいえる側面があります。
 
日常系という想像力は、ゼロ年代初頭に一斉を風靡した「セカイ系」と呼ばれる想像力を乗り越えるような形で、ゼロ年代中盤以降に急速にその存在感を持ち始めました。この点、セカイ系がいわば母性的承認に満ちた「小さな物語」に退避してしまう想像力であるとすれば、日常系は異なる「小さな物語」を生きる他者同士のごくありふれた日常的な「つながり」の中にある代え難い価値を再発見していく想像力と言えます。
 
こうして「らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」などに代表されるゼロ年代の日常系作品は理想的な「つながりの楽園」を描き出してきました。ゼロ年代における日常系が現代サブカルチャーにおける新たな想像力の地平を切り開いた功績はもはや疑いないでしょう。
 
ただその一方で、日常系の描き出す「つながり」とはなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における女の子同士の甘やかな交流であり、こうした「つながり」をひとたび絶対至高な尊いものとして描いてしまうと、そこにはたちまち「放課後ティータイム」とか「ひだまり荘」などという名で「セカイ」が再帰してしまいます。もっとより直截にいえば日常系の描き出す「つながり」とは結局のところ「偽装されたセカイ」と紙一重であるということです。これはまさしく現実世界における「動員と分断」とパラレルの問題でもあります。
 
こうしたことから2010年代における日常系作品の多くでは「つながり」を「セカイ」に閉じることなく、つながりをつながりのままに開き続けるための回路の導入が様々な形で試行錯誤されることになります。それは具体的には「ご注文はうさぎですか?」「NEW GAME!」「こみっくがーるず」「おちこぼれフルーツタルト」における「お仕事」といった形を取って、あるいは「きんいろモザイク」の「留学」や「スロウスタート」の「留年」といった形を取って、または「アニマエール!」「恋する小惑星」「スローループ」における「アウトドア」といった形を取って現れています。そしてこれらの試行錯誤はまさしく「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」の導入の試みであるといえるでしょう。
 

* 2010年代日常系の代表作

 
そして、こうした2010年代における日常系作品が希求し続けた「つながりの外部」を極めて決定的な形で導入した作品が「ゆるキャン△」です。2015年から「まんがタイムきららフォワード」で連載が開始された本作は、2018年のアニメ化をきっかけに人気が高騰。さらにはアニメのみならずテレビドラマ化も果たし、原作の累計発行部数はかつて「社会現象」とまで呼ばれた「けいおん!」を遥かに凌駕する600万部を突破しています。本作は名実とも2010年代の日常系を代表する作品といえるでしょう。
 
本作は山梨県とその周辺地域を舞台にキャンプをゆるく楽しむ女子高生たちの日常が描き出されます。そのあらすじはこうです。主人公、志摩リンは趣味の1人キャンプの最中に、ふとしたことから遭難しかかっていたもう一人の主人公、各務原なでしこを助ける事になる。リンとの出会いをきっかけにキャンプに興味を持ったなでしこは早速、高校のキャンプ同好会「野外活動サークル(通称野クル)」に入り、メンバーの大垣千明や犬山あおいとともにキャンプ三昧の日々を送る。一方、なでしことリンは同じ高校の同級生だったことが判明し、なでしこはリンを野クルに勧誘するも、1人キャンプが好きで、かつ野クルのノリが苦手なリンはなでしこの誘いをにべなく断ってしまう。しかしその後、リンはなでしこと二人でキャンプにいくなど交流を重ね、また千明たち野クルのメンバーともSNSを介して徐々に関わるようになります。
 
本作は掲載雑誌の性質上、日常系作品定番の4コマ漫画形式を取っていません。それゆえに本作では見開きのページによるキャンプ場からの眺望など、通常の日常系作品ではあまり見かけることのないダイナミックで臨場感のあるコマ割りもその特色の一つとなっています。
 

*「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係

 
では「ゆるキャン△」において「つながりの外部」はいかなる形で導入されているのでしょうか。
 
この点、そもそも本作の題材とする「キャンプ」とは文字通り、東氏のいうところの「観光」に相当します。先述したように自身の環境を意図的に変える「観光」は「強い絆(つながり)」を相対化せる「弱い絆(つながりの外部)」をもたらします。そして、なでしこ達もキャンプという非日常の経験を通じて、普段の日常では出会うはずのない人や物や事に出会い、考えないような事を考え、欲望しないような事を欲望します。ここには「日常=つながり」に対する「非日常=つながりの外部」という関係性が成り立っています。
 
さらに決定的であるのは、本作では「グルキャン(多人数キャンプ)」と「ソロキャン(1人キャンプ)」をそれぞれ等価的なものとして描き出している点です。
 
リンは野クルと合同のクリスマスキャンプに参加したことで「グルキャン」に「ソロキャン」とは「違うジャンルの楽しさ」を見出しました。けれどその一方で、リンは改めて「ソロキャン」における「寂しさも楽しむ」という価値を再発見します。そしてリンに触発されたなでしこも「ソロキャン」に興味を持ち始め、バイトで資金を貯め、リンのアドバイスで計画を立て、果たして富士川キャンプ場における初めての「ソロキャン」を見事成功させることになります。
 
このように本作は「グルキャン」を決して「ソロキャン」の上位互換に位置付けるのではなく、両者それぞれが異なる価値を持ったものとして捉えています。ここには「グルキャン=つながり」に対する「ソロキャン=つながりの外部」という関係性が成り立っています。
 
日常に対する非日常。グルキャンに対するソロキャン。本作ではこのような形で「つながりの外部」を二重に導入した上で、「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係を描き出して行きます。こうした意味で本作は、2010年代における日常系が様々な形で希求してきた回路を完成させた作品であると同時に、日常系というジャンルがこれまで至上価値としてきた「つながり」の思想へ批評性な介入を試みた作品といえるでしょう。そしてそこには、我々の現実における「つながり過剰」を解毒するためのある種の処方箋を見出すことができるのではないでしょうか。