かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「推し」という名のリトルネロ--推し、燃ゆ(宇佐見りん)

* 間主観的な欲望と別の仕方での欲望

 
フランスの精神分析ジャック・ラカンは「人の欲望は他者の欲望である」という有名なテーゼを提出しています。すなわち精神分析的な欲望=神経症的な欲望とは他者(社会的諸関係)とのネットワークの中で欲望するという「間主観的な欲望」ということです。ところがいわゆる「大きな物語」と呼ばれる社会共通の神話が失墜した現代社会では従来の「間主観的な欲望」のオルタナティヴとしての「別の仕方での欲望」の開放が加速しました。
 
この「別の仕方での欲望」を哲学的に考察して、1970年代に世界的な支持を得たのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(AO)」です。この点、AOでは「別の仕方での欲望」の開放をいわば「神経症の精神病化」として肯定的に寿ぎました。そしてドゥルーズ=ガタリの強い影響下にある日本の現代思想シーンでは、この「別の仕方での欲望」が様々な文脈の中で考究されました。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代における宮台真司氏のコギャル支持、ゼロ年代における東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代をリードした言説はまさにこうした潮流の中に位置づけることができるでしょう。
 
この点、千葉雅也氏は上記の議論を引き継ぐ形で、ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したけれども、その背景には実はマゾヒズム的な倒錯論が潜んでいるとして「別の仕方での欲望」を間主観的なネットワークとは無関係なところで多方向に勝手に欲望するというある種の「メタ倒錯」として位置付けています。ここでいう「メタ倒錯」とはすなわち、ラカンのいうファルス、あるいは千葉氏のいう「性別化のリアル」を排除した〈かのよう〉に振る舞う態度=メタレベルで否認する態度です。
 
このようなメタ倒錯的な観点から千葉氏は東氏の「動物化するポストモダン」における議論を読み直し、同書のいう「動物化」とは、動物的(非-精神分析的)な異性愛(生殖規範性)をインフラとして、その上に認知的習慣化による対象へのアディクション(中毒的こだわり)としての「別の仕方での欲望」が便乗する構造になっているといいます。そして本作は、こうした意味での「別の仕方での欲望」の一つのラディカルな表出を描き出した作品として読むことができるように思えます。
 

* 解釈学的循環へのアディクション

 
本作のあらすじはこうです。主人公のあかりは家庭にも学校にも馴染めず、いつも心身に不調を抱えた日常を送っていたが、ふととしたことがきっかけでアイドルグループ「まざま座」のメンバーの一人、上野真幸を熱狂的に「推し」始めることになる。あかりは「推し」の様々なグッズを買い漁り、ライヴにも熱心に足を運び、その作品と人物像の解釈をブログに記していく。こうした「推し」を続ける中でいつしか、あかりは「推しを推す」ことが自分の「背骨」と感じるようになる。それは様々な「生きづらさ」を抱えたあかりにとっての救いであり、生きる手立てであった。だがそんなある日「推し」がファンを殴って「炎上」する事件が起きる。
 
「推しを推す」という「推し活」のやり方は人それぞれです。本作の説明によれば、対象となる「推し」のすべてを信奉する人もいれば、その行動の良し悪しを批評する人もいる。また「推し」を恋愛対象として好きだけれど作品には興味がない人もいれば、逆に「推し」の作品だけが好きでスキャンダルなどには興味のない人もいる。また「推し」自体というよりむしろ「推し」のファン同士のコミュニティの交流が好きな人もいる。
 
この点、あかりは現実において「推し」との関係性を深める事などもとより求めていません。むしろ自分は「推し」にとっての有象無象のファンでありたいとあかりは言います。あかりにとって「推し活」とは、作品も人物像も含めた「推しの世界」を徹底的に「解釈」していくことです。
 
あかりは「推し」の基本情報は当然丸暗記しており、CD、DVD、写真集はそれぞれ保存用、鑑賞用、貸出用に常に3つ購入し、出演番組はダビングして何度も観返し、出演舞台はその時代背景に遡って調べ上げ、メディアでの発言を書き起こしたファイルは今や20冊を超え、その細かい言い回しのレベルまでほぼ完璧に把握しています。こうした莫大な情報を基にあかりは「推しの世界」をとにかくひたすら「解釈」していきます。その結果、ファンミーティングにおける質問コーナーでの「推し」の返答は大体予想がつき、裸眼だとまるで見えない遙か遠い舞台上でも空気感だけでそれが「推し」だとわかり、一度他のメンバーがふざけて「推し」のアカウントで「推し」に似せてつぶやいた時もすぐさまその違和感に気づくことができるという境域にまで到達しています。
 
おそらく、あかりの「推し活」は対象である「推し」の断片的情報から全体的世界観を解釈して、そこからさらにまた断片的情報を解釈するという解釈学的循環へのアディクションに支えられているようです。ここであかりの「推し」への「愛」は、どこまでも自分の世界の中で円環的に閉じられています。ここにはまさしく「間主観的な欲望」とは無関係なところで欲望するメタ倒錯的な「別の仕方での欲望」の構造を見ることができるでしょう。
 

* 発達障害から考える

 
本作では随所の記述から、あかりはおそらく発達障害であることが想起されます。発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいい、現在では大きく三群に分類されます。
 
まず、自閉症スペクトラム障害ASD)。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」といえば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。
 
ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが、かつてカナーとほぼ同時期にオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって発見されたアスペルガー症候群を「もう一つの自閉症」として注目したことから、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」において、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状としては「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
次に、注意欠如・多動性障害(ADHD)。ADHDの症例は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」に大別されます。比喩的に前者は「のび太型」、後者は「ジャイアン型」と言われたりもします。
 
「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
 
ADHDの処方薬としてはストラテラコンサータがよく知られていますが、一般にストラテラは副作用も多く、コンサータは薬効が切れた時の反動が大きいといわれます。
 
そして、限局性学習障害(LD)。知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 

*「生きづらさ」に開かれた物語

 
そして実際のケースでは上記の三群のうちの二つまたは全てがクロスオーバーしている場合も珍しくありません。あかりの場合はどうでしょうか。
 
まず、あかりは基本的に空気を読むことが苦手です。あかりは推し活の費用を捻出するため居酒屋でバイトをしていましたが、仕事内容を「いくつも分岐する流れ」としていわばチャート的に把握しています。それゆえに「ハイボール濃いめ」などといった曖昧な注文やマルチタスクに対しては臨機応変な対応ができず、すぐに混乱してミスを連発してしまいます。また家庭でも姉や母が時折、推し活に熱中するあかりにキレることがありますが、あかりは姉や母がなんでキレているのかがよくわからず、どこかピントの外れた返答をしています。
 
次に、あかりの行動全般には不注意やだらしなさがかなり目立ちます。学校の教科書や提出物などをよく忘れる、友達から借りた教科書を返し忘れる、体育祭の予行演習のための体操着を朝まで探し回り、その流れで学校をサボる、バイトの欠勤連絡を数日間ずっと忘れてしまう、道に迷う、バスを乗り間違える、もちろん生活能力は皆無で、あかりの部屋はゴミやら数週間前の食べ残しやら色々なモノが堆積して足の踏み場もありません。
 
そして、あかりは勉強もできません。小さい頃は99や漢字やアルファベットをなかなか覚えられず、覚えてもすぐに忘れてしまっています。高校でも勉強について行けず、授業は寝てばかりで保健室の常連で、さらに推しのスキャンダルがきっかけで生活全般が推し活一色に染まって以降はこれまで以上に学校を休みがちになり、高校2年で留年。結局そのまま高校を中退してしまいます。
 
こうしてみると、あかりはASDADHD、LDのすべてに該当していることがわかります。またあかりの推し活限定で発揮される驚異的な能力と熱意もやはりASDの特性である「特定分野への極度なこだわり」として理解できるでしょう。
 
もっとも本作では「発達障害」という診断名は、それとなくは示唆されていますが、作中で明記されることはありません。けれどその一方で、あかりが抱くような諸々の「生きづらさ」はその程度の差はあれ、我々がこの日常の中のどこかで感じている「生きづらさ」へと通じているでしょう。
 
そういう意味で本作は、発達障害を抱えた少女のリアルとか、そういう狭いジャンルに閉じた物語ではなくて、我々がこの日常のどこかで抱く諸々の「生きづらさ」を幅広く言語化し、包摂しようとした物語でもあるといえます。
 

*「推し」という名のリトルネロ

 
現代思想シーンにおける「別の仕方での欲望」とは、もっぱら旧来的な「間主観的な欲望」の外部に突き抜けるオルタナティブとして比較的肯定的に語られる事が多いように思えます。けれど実際問題として我々は間主観的なネットワークから完全に逃れ切る事はできないでしょう。我々が他者と関わりを持つ以上、ある間主観性の外部に出たとしても、そこには別の間主観性が待っています。そんな間主観的なネットワークの接続過剰の中で「別の仕方での欲望」を貫き通す事は、あかり的な「生きづらさ」と紙一重でもあります。
 
この点、冒頭で取り上げたドゥルーズ=ガタリはAOの続編である「千のプラトー」において「リトルネロ」という概念を提出しています。ここでいうリトルネロとは、ある特定の何かを常同反復する事で生成流転するカオスを相対的に減速させ、世界の中に暫定的な秩序を設立するための契機をいいます。
 
そしてそれは、この世界を有限化することで、世界の中に「住み処」を見出すための技法でもあります。こうしてみるとあかりの「推し」という営みからもまた、自身が「背骨」と表現する解釈学的循環のアディクションに自身の「住み処」を見出そうとする「リトルネロ」の響きが途切れ途切れながら聴こえてくるようにも思えます。