かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

現代文学のリアリズムと思春期における異界体験--化物語(西尾維新)

* 自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム

 
日本は明治期に「言文一致体」を導入し近代文学の歴史を開きました。柄谷行人氏は「日本近代文学の起源(1980)」において「言文一致体」の導入により言語は近代以前の歴史的意味の充溢した「不透明」なものから「透明」なものとなり、ここから「風景」や「内面」といった近代的現実の発見を可能にしたといいます。
 
以降、長らくのあいだ文学とは風景や内面といった近代的現実を写生する知的営為であると見做されてきました。ところが1970年代以後、戦後児童文化の中で発達した漫画やアニメーションといった現代的虚構を写生しようとする新たな文学観が台頭し始めます。
 
この点、大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方(2003)」において、このような「現実の写生」と「虚構の写生」という二つの文学観を「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉で対置させました。
 
こうした「まんが・アニメ的リアリズム」という文学観に支えられた小説の代表格が、1990年代以降の文芸市場において急速に存在感を見せ始めた「ライトノベル」と呼ばれる作品群です。大塚氏はこのような「ライトノベル」と呼ばれる作品群を近代文学における「私小説」との対比から「現実=私」ならぬ「虚構=キャラクター」を写生する「キャラクター小説」であると定義しました。
 
このような柄谷氏と大塚氏の議論を踏まえた上で、東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において「ライトノベル=キャラクター小説」は従来の近代文学の文体と異なった文体によって描かれていると指摘しています。
 
まず「現実」を写生する近代文学において言語は「不透明」なものから「透明」なものとなりましたが「虚構」を写生するライトノベルにおいて言語は再び「透明」ではなくなります。けれどもそれは近代以前の「不透明」への回帰を意味しません。なぜならば「まんが・アニメ的リアリズム」とは既に「自然主義的リアリズム」を経由したところで成立しており、そこには大塚氏が「アトムの命題」と呼ぶ漫画表現における記号的-身体的な両義性が抱え込まれているからです。
 
こうしたことから、東氏はライトノベルの文章が当たり前の風景を描写してもそれはどことなく嘘くさく感じられ、逆に全くの幻想的な世界を描いたとしてもどこか「リアル」なものに感じられてしまうのは、おそらくその記号的-身体的な両義性のためであると述べ、ライトノベルの文体はいわば「不透明」な表現でありながらも現実に対して「透明」であろうとする矛盾を抱えた「半透明」な言葉になるといいます。
 
「半透明」な言葉は自然主義的な「日常」と〈超〉自然主義的=まんが・アニメ的な「非日常」を煩雑な世界観設定や時代考証といった中間項を介在させる事なく直結させることを可能にします。例えばゼロ年代初頭に一世を風靡した「セカイ系」というジャンルはまさにこのような「半透明」な言葉に支えられた想像力といえるでしょう。
 

* ライトノベルの成立条件

 
そして本作はこうしたライトノベルが切り開いた文学観を限界まで突き詰めた作品といえます。周知の通り、本作は西尾維新氏の「〈物語〉シリーズ」における第一作目にあたり、ゼロ年代におけるライトノベルを代表する作品の一つに位置づけられています。
 
本作は当初「メディアミックス不可能な小説」を謳っていましたが、実際にはその後「〈物語〉シリーズ」は、アニメ、ゲーム、映画、漫画、スマートフォンアプリといった様々なメディアミックス展開を経ることで幅広い支持を獲得し、その絶大な人気は今もなお変わることはありません。
 
このような華々しいメディアミックス展開を経由した現在からみると忘れがちですが、本作はそもそも「ライトノベル」としては異端の位置にありました。この点、世間一般でいう「いわゆるライトノベル」とは特定のライトノベル系レーベルから出版され、作中で萌え絵的なイラストレーションを多用する作品を指しています。ところが本作は当時、どちらかといえば一般文芸レーベルと見做されていた講談社BOXから出版されており、何より「いわゆるライトノベル」における最大の特徴であるイラストも扉絵等を除きほとんど使用されていません。
 
こうした点からいえば本作は「いわゆるライトノベル」から外れた作品になるはずです。したがって本作が「ライトノベル」と呼ばれる理由をメディアミックス展開以前に求めるとすれば、それはまさしく本作の持つ「文体」にあるといえそうです。なお実際に作者の西尾氏にとって本作の執筆は「活字だけでライトノベルは実現できるのか」という実験的意味合いもあったそうです。
 
先に述べたようにライトノベルの本質は「キャラクター小説」であり、その制作においては「いかに魅力的な物語を生み出すか」という課題と同じくらいに「いかに魅力的なキャラクターを生み出すか」が重要な課題だとなります。ここでいう「キャラクター」とは「まんが・アニメ的リアリズム」を規定する想像力の環境=仮想的なデータベースを参照して構成される人物類型であり、東氏の定義で言えば「様々な物語や状況の中で外面化する潜在的な行動様式の束」をいいます。
 
この点「いわゆるライトノベル」では登場人物をキャラクター化するにあたってはイラストによる助けを多いに借りる事になるわけですが、本作はイラストをほとんど用いない代わりに莫大な量の「会話劇」を投入する事で登場人物をキャラクター化していきます。
 
ここではライトノベル特有の文体である「半透明」な言葉が極めて濃厚に充溢しています。すなわち本作のキャラクターはイラスト以前に言語によって成立しているといえます。こうした意味で本作はライトノベルの成立条件が極めて純度の高い形で現れている作品といえるでしょう。
 

* ゲーム的リアリズム

 
本作のあらすじは基本的には、主人公の阿良ヶ木暦が5人の少女たちとの交流の中で超自然的存在である「怪異」と関わり、彼女たちの抱えるトラブルを解決していくというものです。
 
このあらすじだけでわかるように、本作ではいわゆる「美少女ゲーム」の構造が導入されています。実際、作中で阿良ヶ木は美少女ゲームを念頭においた台詞を発しています。もちろん実際の美少女ゲームはヒロイン全員が各ルートにおいて攻略可能なマルチエンドシステムとなっていますが、小説である本作は当然ながらひとつの結末しかありません。ここから本作は物語の素朴な読解とは別の水準での読解を可能とします。
 
この点、東氏は前掲書においてライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なる文学観を見出しています。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力に取り憑かれた別のリアリズムを召喚します。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目するリアリズムを氏は「ゲーム的リアリズム」と呼びます。
 
ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食する境界線上で発生する、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を写し取る文学観をいいます。 そして時に、こうした複数の物語はメディアミックスや二次創作といった形で具現化することになります。
 
そして、このような「ある作品が受容される環境」を現実と作品の間に挟み込む読解技法として、東氏は「環境分析的読解」を提唱し、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させます。
 
この点「自然主義的読解」は作品に内在する「物語的主題」を読み解いていくことになります。これに対して「環境分析的読解」は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていくわけです。 
 
そこで本作を「美少女ゲーム」という構造から読解した時、阿良ヶ木=プレイヤーには特定のヒロインとのルート以外のいわば幽霊的なルートが常に取り憑いています。こうした幽霊的なルートについては作中において幾度となく言及が繰り返されています。そして物語の後半において阿良ヶ木はこの切り捨てられた未来に対してどう責任を取るのかという問題を背負わされることになります。
 
すなわち、本作は自然主義的読解のレベルにおいては「ある少女を救った物語」ということになりますが、環境分析的読解のレベルにおいては「ある少女を救わなかった物語」といえます。こうしたことから本作は物語的には極めて美少女ゲーム的な作品でありながらも構造的にはある種の美少女ゲーム批評として読める作品でもあります。そしてその主題の二重性からは誰かを助けるという事は誰かを助けない事であるというゼロ年代中盤以降のポスト・セカイ系的な思潮との共鳴を聴くこともできるでしょう。
 

* 思春期における異界体験

 
その一方で本作は言うまでもなく、普通に読んでも優れた「物語」を持っています。本書に登場する様々な「怪異」は我々がしばしこの現実の中で遭遇する異界体験のメタファーとしても読めるでしょう。人は通常、その成長過程で世界を「見えるもの」だけで囲い込み「見えないもの」を切り捨てていきます。けれどもその一方で「見えないもの」はしばし「異界」との遭遇とも呼びうる体験として回帰してきます。
 
この点、思春期は「異界」に最も接近する時期であるといわれます。本作はこうした思春期における「異界」との遭遇を「怪異」として描くある種の寓話ともいえます。
 
本作に現れる様々な「怪異」を敢えて分析心理学的な用語で分類すれば、おそらく戦場ヶ原ひたぎの蟹はグレート・マザー、八九寺真宵の蝸牛はトリック・スター、神原駿河の猿はコンプレックス、千石撫子の蛇はペルソナとアニマ、羽川翼の猫は影という風に、それぞれ関連付けることができるでしょう。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏は心理療法の現場においてしばし顕在化する「見えないもの」の位相を〈たましい〉という名で呼んでいます。ここでいう〈たましい〉とは身体と精神を統合する超越論的な場を指しています。そして氏は〈たましい〉は〈だまし〉として現れるといいます。「異界=怪異」との遭遇はまさに〈だまし=たましい〉との遭遇であるといえるでしょう。
 
人は世界に棲まう上で自らの生の物語を必要とします。そして「異界=怪異」との遭遇は、その生の物語を紡ぎ直す契機ともなります。だからこそ作中の有名な台詞にあるように人は結局最後は、勝手に一人で助かることしかできないんだと思います。本作は心理療法の現場においても言語化が難しいといわれる異界体験を見事なまでに「物語」として描き出した作品であると言えるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

器としての言葉--きみの言い訳は最高の芸術(最果タヒ)

* 言葉には幽霊が取り憑いてる

 
フランス現代思想史において「ポスト・構造主義」の代表的論客と目される哲学者、ジャック・デリダは「エクリチュール」には「幽霊」が取り憑いているといいます。
 
我々は日常的な会話や読書といったコミュニケーションにおいて、もっぱら特定のコンテクストに依存するパロール(発話)の審級にのみ注目しますが、その一方で特定のコンテクストから断絶したエクリチュール(文字)の審級は常に我々の無意識を侵食してきます。
 
そしてデリダによれば、このようなパロールエクリチュールの往還運動の中には「散種」が宿るといいます。「散種」とはパロールによっては記述不可能なエクリチュールに固有な意味の多様性をいいます。そしてそこには「過去・現在・未来」という一般的な時間性とは別様の「現前しなかった過去」という様々な〈かもしれない〉という特殊な時間性が生じます。このような特殊な時間性をしばしデリダは「幽霊」というメタファーで名指します。
 
「幽霊」はコミュニケーションにおける「等価交換の外部」を開きます。例えばコミュニケーションにおける「共感」とは一般的に「相手の気持ちを理解する」という等価交換を目指した営みといえるでしょう。けれどもエクリチュールの審級を前提とした時、コミュニケーションにおいて完全な共感=等価交換は原理的に成立しないことになります。こうした共感=等価交換の失敗のなかで、様々な〈かもしれない〉という幽霊たちが産み出される事になります。
 
もちろん通常の社会生活を営む上ではひとまず、我々はひとまず共感=等価交換が成立している「ふり」をしないといけないでしょう。けれどもその一方で共感=等価交換の名において切り捨てられた幽霊たちへのまなざしを完全に忘却してしまった時、きっと我々のコミュニケーションにおける創造性とか世界の解像度といったものはどんどん雑なものになって行くのでしょう。
 

* 幽霊たちへのまなざしを取り戻すということ

 
この点、優れた詩にはしばし我々がともすれば日常において忘却しそうになる幽霊たちへのまなざしを取り戻すためのきっかけを与えてくれる力があるように思えます。
 
本書は気鋭の現代詩人、最果タヒさんが自身のブログに長年書き綴ってきた文章を中心にまとめたエッセイです。最果さんにとってのブログとは「呼吸」のような感覚に近いそうで「わたしが言葉を書くというより、言葉がわたしに書かせていると思うこともよくあった」と言います。
 
それゆえ、そのテクストは「思いもよらないことを書いていたり、あとで読んでもどうしてそんなことを書いたのかわからないものもある。私の中身がそこにあるというよりは、私が通過した痕跡がさざなみにように残るだけ」のものだったそうです。こうした意味で本書を構成するテクストもまた、詩にかなり近い感覚で紡がれているように思えます。
 

* 器としての言葉

 
私は詩人です。小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられたものを、詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。私はそういう言葉がかわいくて仕方がなかった。(本書より)
 
おそらく優れた詩とは畢竟、優れたエクリチュールなのかもしれません。そこには剥き出しの等価交換の外部があります。というよりも、むしろそこには等価交換の外部しかないのかもしれません。言い換えれば、詩のテクストとは「何か」を伝える「手段としての言葉」ではなく、むしろ「何か」を受け入れる「器としての言葉」なのではないでしょうか。
 
我々がある詩をていねいに読んだり、あるいはその詩について色々と語るというその営みは、その詩の中に内在する意味をいかに正確に読み解くかというゲームではなく、いかに沢山の幽霊をいかに高い解像度で捕まえる事ができるかというゲームなのかもしれません。
 

* 意味を産み出す無意味

 
そういう意味で優れた詩とはある種の精神分析的な解釈とも言えるかもしれません。フランスの精神分析家、ジャック・ラカンによれば精神分析における解釈とは、症状や無意識についてのわかりやすい説明を患者に与えることではなく、むしろ分析主体にとって意味不明な神託のように機能して、その真理を荒れ狂わせるような類のものであると述べています。
 
それは言い換えれば「要求」の外部に「欲望」の領野を開く営みであるともいえます。そして優れた詩も精神分析的解釈と同じく、読み手のオブジェクトレベルにおける意味への「要求」を挫折させることで、むしろメタレベルにおける意味--意味を産み出す無意味--への「欲望」を弁証法化させるという、いわば脱コード的なテクスト実践のように思えます。
 
そして晩年のラカンが「資本主義のディスクール」という形で警鐘を鳴らしたように、様々な剰余享楽が氾濫する現代は「要求」が中途半端な形で満たされることで、むしろ「欲望」が搾取されている時代でもあります。こうした「欲望の搾取」は実際に様々な病理となって現れます。そして、このような現代において詩とは「要求」の外部にある主体的な「欲望」を生み出す上での希少なメディアなのかもしれません。
 

*「わからなさ」への知

 
詩を書くようになって、もっと曖昧なものを作るようになって、何言ってんのかわかんないって言われることも時々あったけれど、私はたぶんすべての人に対して何言っているかわかんないって思っている。むしろ何言っているのか分かったら気持ち悪いな、吐いちゃうな、ときっとどこかで考えている。分かってもらえないことや、わかってあげられないことが、ちゃんと心地よいままでいたい。わかんない部分があるからあなたと私は他人なんです。そういう態度でいたかった。(本書より)
 
臨床心理学者、河合隼雄氏はベストセラーとなった著書「こころの処方箋」の冒頭で「人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っている」ことが心の専門家の特徴であると述べています。これはまさに心理療法の極意を示すかのような至言のようにも聞こえますが、これだけ見れば実際のところ何をどうすればいいのかよくわからない禅問答のようでもあります。
 
けれど、ここでいう「心」を「エクリチュール」と読み替えてみる時、この謎めいた箴言は、むしろコミュニケーションの本質を鋭く捉えた言葉のようにも読むことができます。
 
エクリチュールのわからなさ。それはコミュニケーションにおけるアポリアの経験であると同時に、新たなる欲望=価値創造の源泉でもあります。
 
こうしてみると「人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っている」という箴言は、エクリチュールにおける等価交換の外部を開くためのひとつの「知」を示した言葉であるとも言えるのではないでしょうか。そして、ここにまさしく最果さんの現代詩が多くの人を魅了してやまない秘密の一端があるように思えます。
 
わたしという人間がどういう人間か問われたら、やっぱり、つまらない人間ですと思う。でも言葉がわたしの思ったくだらないことを拾いあげるとき、もはや誰の気持ちかもわからない言葉、世界のかけらとか、急な海の匂いとか、そういうものが絡まった糸のようについてきて、もう、わたしはわたしでいられなかった。そしてだからわたしは、やっと自分の人生がおもしろいと思えたんだ。(本書より)
 
 
 
 
 
 

【書評】52ヘルツのクジラたち(町田そのこ)

* 世界でもっとも孤独なクジラ

 
ある種のクジラは「歌」によって個体同士のコミュニケーションを取る事で知られています。海洋生物学者のロジャー・ペインが1970年に発表した「ザトウクジラの歌」は世界的に大きな反響を引き起こしました。以来、クジラは「天使の歌声」を持つ動物として知られるようになり、世界的な環境保護運動の原動力ともなりました。
 
そんな中で「誰にも届かない歌」を歌うクジラが発見されました。米ソ冷戦末期の1989年、米海軍の運用する海中探査システムが太平洋において正体不明の音を検知します。その音は周波数にして52ヘルツ。そしてその後、米ウッズ・ホール海洋研究所の分析により、この正体不明の音はクジラの発声音である事が判明しました。
 
通常、クジラの発声における周波数は10〜39ヘルツであり、このクジラが発する52ヘルツの「歌」は他のクジラには聴取不可能と言われています。それゆえに、この「52ヘルツのクジラ」は「世界でもっとも孤独なクジラ」と言われています。
 

*「声なき声」に耳を傾けていくということ

 
誰にも届かない歌を歌う世界でただ一頭の52ヘルツのクジラ。すなわち、それは我々が生きるこの社会における様々なマイノリティが発する「声なき声」のメタファーともなりえます。
 
このような「52ヘルツの声」に真摯に耳を傾けていくとはどういうことか。こうした社会的テーマを真正面から問う作品が本作「52ヘルツのクジラたち」です。
 
本作の著者、町田そのこ氏が「52ヘルツのクジラ」という存在を知ったのはデビュー作の執筆中に、たまたま海洋生物について調べていた時のことだったそうです。
 
そして町田氏の4作目にして初の長編小説となった本作は2020年4月の刊行以来、読書メーターを中心に幅広い層に反響し、2021年の第18回本屋大賞を射止めることになります。
 

* 海辺の町の物語

 
とある事情から東京から大分の海辺の町へと移住してきた本作の主人公、三島貴瑚は、田舎ならではの無遠慮な視線にさらされて辟易としていた。そんなある日、貴瑚は言葉を全く発することができない一人の少年と出会う。少年の怯えきった態度や身体中についた痣から、貴瑚は親からの虐待を疑う。
 
貴瑚自身もかつては母親からの虐待を長年に渡って受け続けてきた。けれども貴瑚はある人の尽力によって何とか家族から離れることができた。しかしその後、貴瑚はさらなる悲劇に襲われる。
 
こうして、その人生に何もかも絶望した貴瑚が流れ着いたのは、かつて幼少時に祖母と住んでいたこの町であった。
 
果たして少年は母親から「ムシ」と呼ばれて虐待を受け続けていた。少年の置かれた苛烈な境遇と過去の自身を重ね合わせた貴瑚は彼を「52ヘルツのクジラ」に擬えて「52」と呼ぶ。そして貴瑚はかつて聴き逃した「声なき声」に対する「贖罪」として、少年を助け出そうと周囲を巻き込んで奮闘する。
 

*「母なるもの」の呪縛

 
「52ヘルツの声」を聴くということ。それはすなわち「無意識の声」を聴くことなのでしょう。この点、スイスの精神科医カール・グスタフユングは、ある地域に伝承する神話やお伽話と神経症者の夢や精神病者の妄想といった臨床経験の間に共通項を見出して、人の心にはその人だけが持っている「個人的無意識」の層のさらなる内奥に、万人に共通する「普遍的無意識」と呼ぶべき層があると主張し、この「普遍的無意識」を構成する先天的な精神力動作用を「元型」と呼びました。
 
そしてこのような「普遍的無意識」における「元型」の典型例の一つにユングは「母なるもの(グレートマザー)」の元型を挙げています。この「母なるもの」はその根源において「産み育てるもの」という肯定的な側面の他に「呑み込むもの」という否定的な側面を併せ持っています。
 
こうした意味で少女期の貴瑚はまさに文字通り「呑み込むもの」としての「母なるもの」の世界の中に囚われていました。そして、このような「母なるもの」の世界から貴瑚を救い出そうとした人物がアンさんです。けれどもその後、貴瑚が母親から形式的に自立した後も「母なるもの」の亡霊は彼女を執拗に追いかけてきます。
 
この点、ユング派分析家でもある臨床心理学者、河合隼雄氏は「母なるもの」に取り憑かれた女性の病理として二つの危険な方向性を指摘しています。一つは、肉の世界への下落、土なる母との一体化の方向であり、そしてもう一つは母となることをおそれ、自らの女性性を拒絶する方向です。そして貴瑚はまさしく前者の道をまっしぐらに突き進んでいきます。
 
こうした観点からすれば、本作におけるアンさんの一見して不可解な行動が明瞭に理解できます。おそらく彼は最初からその最期まで、貴瑚の発していた「52ヘルツの声」を正確に聴き取っていたのではないでしょうか。果たして貴瑚は「母なるもの」の世界から脱出する事ができました。けれどもその代償はあまりにも大きいものでした。
 

*「傷ついた癒し手」と「メサイア・コンプレックス」

 
そして「52」もまた「母なるもの」の世界に囚われた少年でした。この点、河合氏は父親が弱いときには母親がむしろ男性原理の苛烈な執行者となると述べています。「52」の母親の琴美がまさにそうした母親でした。そして52に「自分と同じ匂い」を見出した貴瑚は、喋れない52の発する「52ヘルツの声」に耳を傾けていきます。
 
この点、ユングはしばしば心理療法の場面において、治療者と患者の間で「傷ついた癒し手」という元型が活性化すると考えました。それは患者が語る「心の傷」が治療者の「心の傷」と相通じる時、治療者と患者の間に無意識的な融合関係が生じ、治療者は患者の前に偉大な「傷ついた癒し手」として立ち現れるということです。
 
確かに貴瑚はこのような「傷ついた癒し手」として52に接しているといえます。あるいはもしかして、アンさんも「傷ついた癒し手」だったのかもしれません。
 
けれどもその一方で「傷ついた癒し手」とは「メサイア・コンプレックス」と紙一重でもあります。メサイア・コンプレックスとは「自分は救われる価値のない人間だ」という無意識に抑圧されたコンプレックスに対して反動形成が働いた結果、傷ついた他者をとにかく救いたい、いや救わなければならないという強迫観念的な衝動に駆られた状態をいいます。
 
メサイア・コンプレックスにおいては誰かを「救いたい」という善意の裏側に、その誰かを救う事により自身が「救われたい」という欲望が隠されています。そして、このような無自覚的な欲望に突き動かされた「救済」はしばし独善的な結果を招いてしまいます。
 

* もしもあなたが「52ヘルツの声」を聴いたとすれば

 
おそらく我々もこの日常のどこかで時として「52ヘルツの声」を聴き取る事があるでしょう。そしてその声の主である他者に手を差し伸べたいと思う事だってあるでしょう。
 
けれどもその時、我々はもしかして自身の発する「52ヘルツの声」をあたかも他者の発する「52ヘルツの声」であるかのように聴いてしまってはいないでしょうか。もちろん両者は截然と区別できるものではないのですが、少なくともこの区別を我々が無自覚なままに混同する時、そこには多かれ少なかれメサイア・コンプレックス的独善に陥る危険が待ち受けています。
 
本作はこのような「52ヘルツの声」の安易な混同に警鐘を鳴らす物語でもあります。この点、町田氏は本作を執筆するにあたり、もし自分だったら実際に何ができるかを真剣に考えたそうです。そして「少年が救われてよかった、というファンタジー的な終わり方にするのではなく、もしも本当に虐待児童を引き取って育てることになったとしたら、現実問題としてどのような手続きが必要なのかといった具体的な方法などについても必ず書くべきだと思った」とインタビューで述べています。
 
この言葉の通り、本作の結末では「現実的な解決」が示されます。そこで我々もまた、本作を単なるファンタジーとして消費して終わるのではなく、もし我々がこの日常のどこかで「52ヘルツの声」が聴こえてきた時、どのような「現実的な解決」ができるのかを考えてみるのも良いかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【書評】猫だましい(河合隼雄)

* 人にとって猫とは何者なのか

 
猫が家畜化された起源は紀元前2000年頃にまで遡るといわれています。古代エジプトにおいて猫は神聖な存在とみなされ、文字通りの「猫神」として崇められていました。しかし他方で、中世ヨーロッパにおいて猫は魔女の使い魔であったり、あるいは魔女そのものとして、忌み嫌われたりもしました。
 
かように猫は善くも悪くも超越的存在として人々の間で畏怖されてきました。また、このようなことから猫は古今東西において様々な形で物語られてきました。果たして我々人にとって猫とは一体、何者なのでしょうか?
 

*〈たましい〉が喪失した時代

 
本書は昔話、童話、小説、絵本、さらには少女漫画に至る古今東西の様々な「猫のおはなし」を臨床心理学の知見で読み解く一冊です。本書の著者である河合隼雄氏は心理療法家として多くの悩み相談を受けながら、様々な悩みの背景には共通して「関係性の喪失」という問題があるように感じていたと言います。
 
関係性の喪失。それはすなわち、我々は「目に見えるもの」だけを対象として認識し、その「目に見えるもの」と「目に見えるもの」の〈あいだ〉を忘却してしまっているということです。
 
そしてこうした関係性の喪失とは畢竟〈たましい〉の喪失である、と氏は言います。そこで心理療法家は来談するクライエントが自身の〈たましい〉を回復していく過程を支援する役割を担うことになります。
 
ここで氏のいう〈たましい〉とはもちろん、オカルト的な何かではなくあくまで哲学的なメタファーです。我々は自らの感覚と言語で構成された主観的な世界を生きています。こうした我々の生きるこの世界の〈外部〉=超越論的な場を問うのが哲学という思考です。
 
そして、これまでの哲学の歴史において「イデア」「理性」「存在」「構造」などという様々な言葉で名指されてきたこの世界の〈外部〉=超越論的な場を河合氏は端的にわかりやすく〈たましい〉と呼ぶわけです。
 

*〈たましい〉の顕現としての猫

 
こうした意味での〈たましい〉は様々な形を取って、我々の主観的な世界の中に顕れてきます。そこで心理療法家は、クライエントの〈たましい〉から湧出する豊かなイメージを、時には夢の解釈を通じて、時には箱庭創りを通じて、色々な角度から観ていくことになりますが、その過程で猫がまさに〈たましい〉の顕現と言いたくなるほど重要な存在として登場すると氏は言います。
 
なぜ猫なのでしょうか?この点、同じペットでも犬がどちらかといえば飼い主に忠実な動物というイメージがありますが、これに対して、猫はどちらかというと飼い主から自立した勝手気ままなところがある動物というイメージあります。こうした猫の持つ捉え所のなさが〈たましい〉の捉え所のなさに通じているのでしょう。
 

* 猫マンダラ

 
こうした猫の変幻自在なイメージを図式化したものが以下の「猫マンダラ」です。

 

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(本書20頁より引用)
 
この図はユング派分析家であるバーバラ・ハナが「猫・犬そして馬」というテーマで行ったセミナーで示したもので、それぞれが両義的な性格を持つ四つの位相から成り立っています。
 
ここに例示された猫のうちラー、バスト、セクメト、テフヌトというのはエジプト神話の神々です。太陽神ラーはハヤブサの頭を持つ姿として現れることが多いですが、牡猫の姿で描かれることもあります。そしてそのラーの双子の娘がバストとセクメトです。
 
バストは歓喜と豊穣を示す女神であり、セクメトは怒りと破壊を示す女神です。猫の温和な性格を表すときはバストになり、その獰猛な性格を表す時はセクメトになります。そしてセクメトはしばしバストと同一視され、その時、セクメトは人間に苦しみをもたらす魔女である一方で、苦しみを癒す存在であるという母性原理の両義的な性格を持っています。またバストはテフヌトと同一視されることがあります。猫の自立性、ずる賢さはテヌフトによって示されています。
 

* トリックスター

 
これに対して「長靴をはいた猫」とは周知の通りグリム童話に出てくる猫の主人公です。このお話では、貧しい粉挽きの青年が、父親の遺産として貰い受けた猫の活躍により王女と結婚してハッピーエンドとなります。
 
このような「長靴をはいた猫」の性格はユング派的な観点からはトリックスターと呼ばれます。トリックスターとは神話、伝説などに登場する道化的な役回りを担う存在で、かぎりなく悪に近い側面と、限りなく英雄に近い側面という両義的な性格を持っています。
 
長靴をはいた猫」は青年を「カラバ侯爵」なる架空の存在にでっち上げて王様を騙してしまいますが、隣国の人喰いを退治して、青年を本当に「カラバ侯爵」にしてしまいます。結果、青年と王女は結婚し、二つの国はひとつの新しい国に統合されることになります。このようにトリックスターは二つの領域の境界に出没し、旧来の秩序を破壊して、新しい秩序を創造する役割を担ったりもします。
 
もちろん、こうした主人公をハッピーエンドに導く猫がいる反面で主人公をバッドエンドに導く猫もいます。我が国の古典文学の代表でもある「源氏物語」においては周知の通り、猫の導きによって結ばれた柏木と女三の宮は悲劇的な結末を迎えます。トリックスターとしての猫は紙一重で悪になったり英雄になったりします。こうしたトリックスターの持つ両義性は〈たましい〉の持つ両義性を端的に表しているとも言えます。
 

*〈たましい〉と〈だまし〉

 
このように猫は様々な物語の中で温和、怠け、獰猛、残酷、癒し、魔性、狡賢さ、自立性といった多様なイメージを体現する存在として登場します。こうした意味で猫は、まさに〈たましい〉という捉え所のないものを記述する上では打って付けの存在であると言えるでしょう。
 
ところで本書表題の「猫だましい」は〈たましい〉と〈だまし〉を掛け合わせた詞となっています。いわば我々は〈だまし〉という形で〈たましい〉の働きに接しているという事です。
 
言うまでもなく〈だまし〉というのは結局は人の心理であり〈たましい〉そのものではありません。けれども時に人はこの「心理」の中に安易な「真理」を見出してしまいます。そしてこうした安易な「真理」の絶対化を世間では「カルト」と呼びます。
 
我々も現実の中でまさに〈たましい〉の顕現というべき出来事に遭遇する事があるでしょう。けれどもそれは常に〈だまし〉として現れているといえます。そこには良い〈だまし〉もあれば悪い〈だまし〉もあるでしょう。こうした様々な形で現れる〈だまし〉に安易な「真理」を見出す事なく〈だまし〉と上手く付き合っていく為の知恵を、古今東西の様々な猫達の〈だまし〉の中に見出す事ができるように思えます。
 
 
 
 
 
 

「希望」という名の想像力--魔法少女まどか☆マギカ

*「政治と文学」の切断と再統合

 
この現代において「政治と文学」の問題はいかに考えられるべきなのでしょうか。かつて社会共通の価値観といえる「大きな物語」が機能していた近代社会においては「政治(=公共観)」と「文学(=成熟観)」はほとんど等価なものとして捉えられていました。ところが日本社会において「大きな物語」が徐々に失墜し始めた1970年代以降から、徐々に「政治と文学」の問題は乖離を見せ始めました。
 
現代文学を代表する作家である村上春樹氏は、こうした時代思潮の変化にいち早く気付き、その初期作品において早くも「デタッチメント」という倫理的作用点を打ち出しました。そしてその前期の代表作である「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」においては「政治(=ハードボイルド・ワンダーランド)」と「文学(=世界の終わり)」が完全に切断された結末が提示されました。
 
そして日本社会において「大きな物語」が決定的に失墜したと言われる1995年に放映されたTVアニメーション新世紀エヴァンゲリオン」において、主人公の碇シンジは終始「政治(=エヴァに乗る)」と「文学(=エヴァに乗らない)」の間を往還し続けて、最後には「政治(=エヴァに乗る)」を完全に放棄して「文学(=人類補完計画)」に引きこもる道を選びます。こうしたTV版エヴァの結末は90年代末からゼロ年代初頭にかけて漫画・ライトノベル・アニメ・ゲームといったポップカルチャーの領域で一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群において様々なクリシェとして奏で続けられることになります。
 
しかしその一方で「大きな物語」の決定的な失墜は、無数の「小さな物語」の乱立と衝突を招来し、時代は再び「政治と文学」の再統合を志向する想像力を要請することになりました。こうした時代の要請をやはり誰よりもいち早く察知した村上氏は、その中期の代表作となる「ねじまき鳥クロニクル」以降、その倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へと転換させ、その文学的運動は畢竟の超大作「1Q84」において「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ」という形でひとつの頂点を迎えることになります。
 
そして、ゼロ年代におけるポップカルチャーの領域においても、やはり「セカイ系」以後、無数に立ち上がる「セカイ(=小さな物語)」同士のバトルロワイヤル状況を様々に描き出す中で、この不毛な決断主義的動員ゲームを終わらせるための「政治と文学」の再統合が模索されるようになりました。
 
こうしたゼロ年代における想像力の総決算に位置する作品が2011年に放映されたTVアニメーション魔法少女まどか☆マギカ」であったように思えます。果たして「まどかの物語」はいかなるかたちで「政治と文学」を記述したのでしょうか。放映から10周年を迎えたいま、改めて「まどかの物語」を読み解いてみたいと思います。
 

*「まどかの物語」における「政治」--コミュニタリアニズム

 
まず「政治(=公共観)」において「まどかの物語」はまさに現代政治哲学の縮図でもあります。言うなれば、キュゥべえは最大多数の最大幸福を重視する「功利主義」の立場を、マミとさやかは不遇な人々の救済を重視する「リベラリズム」の立場を、杏子とほむらは自由意志による主体的選択を重視する「リバタリアニズム」の立場をそれぞれ代弁しています。
 
ではこうした中で、まどかの立ち位置はどこにあるのでしょうか。この点、あの「まどかの願い」とは、いわば魔法少女という「コミュニティ」の物語を書き換える願いであったといえます。こうした「まどかの願い」は現代政治哲学においては「コミュニタリアニズム」と呼ばれる立場に相当します。
 
コミュニタリアニズムの代表的論客として知られるアメリカの政治哲学者、マイケル・サンデルによれば、我々の「生の物語」は常の我々の属するコミュニティの物語と結びついており、それゆえにある制度が「正義」に値するか否かは、当該コミュニティを規定する名誉や美徳といった「共通善」に照らしあわせなければならないとされます。
 
まさしく、まどかは魔法少女というコミュニティの物語を書き換える事で、彼女が「希望」と呼ぶ魔法少女の名誉や美徳としての「共通善」を称揚したといえるでしょう。
 

*「まどかの物語」における「文学」--エディプス的欲望ではない方へ

 
次に「文学(=成熟観)」において「まどかの物語」はある種の精神分析的な寓話として読めます。本作において魔法少女の魂は周知の通りソウルジェムという宝石として結晶化されます。このソウルジェムの形状は精神分析でいうところの「欲望」の象徴的等価物である「ファルス(Φ)」を想起させます。ここから、本作における魔法少女とは「その願い(=欲望)」によって「ソウルジェム(=ファルス)」を仮想する「ファリック・ガール」であるというエディプス的な解釈も成り立つでしょう。
 
ここでいう「エディプス」とはもちろん精神分析創始者ジークムント・フロイトの提唱した「エディプス・コンプレックス」の事です。事実、さやかや杏子は極めてわかりやすくエディプス的な欲望に駆動されて魔法少女になっています。これに対して「まどかの願い」はこうしたエディプス的な欲望とは一線を画した別の欲望によって駆動されているように思えます。
 

* 二つの欲望の差異

 
この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンは「性別化の式」において、以下の図のように女性のセクシュアリティ∃xΦx/∀xΦx)を一方では「男性の享楽(=ファルス享楽)」に規定されたファリック・ガール(La→Φ)として位置付けつつも、他方ではファリック・ガールに回収される事のない「女性の享楽(=〈他〉の享楽)」への超越可能性(La→S(Ⱥ))を示唆する反エディプス的な議論を展開しています。
 

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こうしたラカン的構図からいえば「まどかの願い」とはまさに「魔法少女(=ファリック・ガール)」から「円環の理(=女性の享楽)」への超越を果たすものであったといえます。
 
また、スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは意識の中心である「自我」とは別にこころ全体の中心である「自己」という概念を想定し、無意識における「コンプレックス」や様々な「元型」との対決を通じて、相対立する葛藤が相補的かつ共時的に再統合されていく過程を「自己実現」の過程と呼びます。
 
ユングフロイトから早々に離反して自身の心理学を創始した人物として知られていますが、ここでユングの提唱する「自己実現」の過程もまたやはり反エディプス的な議論と言えます。
 
この点、本作はまどかというコンプレックスの強い少女を中心に元型的な布置が見事なほどに描き出されています。ここで魔女は「呑み込む母(=グレートマザーの元型)」を、他の魔法少女はまどかの「生きられなかった半面(=影の元型)」を、キュゥべえは「道化師(=トリックスターの元型)」と「ロゴスの象徴(=アニムスの元型)」を体現しています。
 
このような布置の中でまどかは「正しくあろう」とするのではなく「間違えること」を徐々に学びます。そして、こうした「正しさ/間違い」を相補的かつ共時的に再統合した「自己実現」の先にあの「まどかの願い」は位置しているといえるでしょう。
 
こうしてみると「まどかの願い」とは「ファリック・ガール」というエディプス的欲望ではなく、むしろ「女性の享楽」や「自己実現」として名指される反エディプス的欲望に駆動されていたと言えるでしょう。そしてこのような二つの欲望の差異を本作は「あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ」という極めて端的な言葉で見事に言い表しています。
 

*「希望」という名の想像力

 
こうして「まどかの物語」において「政治(=コミュニタリアニズム的正義)」と「文学(=反エディプス的欲望)」は「希望」という言葉によって再統合されることになります。そしてそれは社会が無数のクラスターや格差へズタズタに引き裂かれ、苛烈なシステムの統制の下で人間があたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくこの「絶望」の時代ともいうべき現代を照らし出した文字通りのひとつの「希望」でもあったように思えます。
 
冒頭で述べたように、かつて村上春樹氏は近代的な「大きな物語」の失墜以後の「政治と文学」を再統合する上で「デタッチメント」から「コミットメント」へという倫理的作用点の転換を志向しました。けれども無数の「小さな物語」が乱立し、グローバル化とネットワーク化の加速する現代においては、むしろ人々はお互い否応なく自動的に「コミットメント」に巻き込まれていると言うべきでしょう。
 
それゆえに現代における「政治と文学」の核心点とは、もはや「デタッチメント」か「コミットメント」かなどといった二項対立ではなく、むしろこの「コミットメント」の過剰性から生じるコストの処理をどのように引き受けて記述していくかという問いにあるといえるでしょう。そして「まどかの物語」とは、まさにこうした現代における「政治と文学」の核心点に「希望」という名の言葉を与えた想像力であったように思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「泣き」の地平の先にあるもの--猫狩り族の長(麻枝准)

* 美少女ゲーム的「泣き」の呪縛からの解放

 
本作は「泣きゲー」の第一人者、麻枝准氏の手による初の長編小説です。麻枝准氏といえば主にゲームブランドKeyのシナリオライターとしての仕事が広く知られています。「泣きゲーの金字塔」として名高いKeyの処女作「Kanon(1999)」において麻枝氏が手がけた「真琴シナリオ」は多くのユーザーの涙腺を決壊させた感動シナリオとして現在でも高く評価されています。
 
その後、氏は「AIR(2000)」「CLANNAD(2004)」「リトルバスターズ!(2007)」といったKey作品において企画、メインシナリオ、音楽を担当します。いずれの作品も従来のいわゆる「美少女ゲーム」の枠組みを超越した作風で幅広い支持を獲得し、氏はゼロ年代を代表するゲームクリエイターの一人としての地位を揺るぎなく確立することになります。
 
2010年代以降、麻枝氏は「Angel Beats!(2010)」「Charlotte(2015)」「神様になった日(2020)」といったオリジナルアニメーションの全話脚本の仕事でも知られるようになります。氏の脚本は放映されるたびに賛否両論を呼ぶ一方で「美少女ゲーム」にあまり馴染みのない新規ファンを多数獲得することになります。
 
麻枝氏はKanonの企画とメインシナリオを担当していた久弥直樹氏をしばし「天才」と形容します。インタビューなどから拝察するに、麻枝氏は久弥氏の退社後、keyの看板を背負って「泣ける作品」をファンのために創り続けなければならないという自身に課された使命を相当重荷に感じていたようです。
 
そんな氏が美少女ゲーム的「泣き」の呪縛から解放されたところで、純粋に自分の書きたいものを自由に書いたという作品が本書「猫狩り族の長」です。
 

* この世界は生きるに相応しいのか

 
本作のあらすじはこうです。物語は本作の主人公、平凡でお人好しな女子大生時椿が自殺の名所で断崖絶壁に立つミステリアスな女性に声をかけるところから始まります。この女性こそが本作のもう一人の主人公、天才サウンドクリエイター十郎丸です。
 
時椿は十郎丸になんとか自殺を思い止まらせようと必死に説得を試みます。これに対して十郎丸は自分がなぜ死にたいのかという理由を饒舌に語り始め、逆に時椿に「この世界は生きるに相応しいのか」と問い返します。
 
ここから両者の交流が始まります。時椿は十郎丸にどうにか生きる意味を見出してもらおうと「楽しいこと探し」に奔走し、やがて十郎丸も時椿に心を開き始めたようにも思えましたが・・・
 

* 自己治療的な物語

 
麻枝氏のインタビューによれば、本作の執筆は2019年末にあまりに理不尽なことが起きて「負のエネルギー」がうっ積していた時、氏の所属するビジュアルアーツ馬場隆博社長から「小説を書け」と言われたことがきっかけだそうです。
 
氏はかねてより自分は「負のエネルギー」で創作するタイプだとたびたび公言していましたが、本作もやはりこの「負のエネルギー」で創作され、これまでの人生で氏が感じてきた様々な理不尽を書き連ねていった結果、思いのほか筆が走り僅か1ヶ月半で初稿が完成。氏曰く「呪いの書」が出来上がったという手応えを感じたそうです。
 
作中で十郎丸は時椿相手に世界に対する膨大な呪詛を吐き散らし、偏屈な自説を次々に開陳していきます。こうした十郎丸の思想は確かにこれまでの様々なインタビューやラジオなどで垣間見ることができる麻枝氏の思想と重なり合うものがあります。
 
そして時椿は十郎丸の発した「この世界は生きるに相応しいのか」という問いに対して、あるときは言葉によって、またあるときは行動をもって真摯に答えようとします。この両者のやりとりはある面でカウンセリング的な対話のようにも読めます。そういった意味で本作は麻枝氏の自己治療的な物語なのかもしれません。
 

*「神様になった日」から考える

 
麻枝作品には初期の頃から今に至るまで変わらず一貫した主題が通底している事は多くのKeyファンが指摘するところです。それは言うなれば、理不尽な世界で懸命に生きることを肯定する人生賛歌です。
 
こうした主題がかなりラディカルに表出した作品が昨年放映された氏の全話脚本によるアニメ「神様になった日」だったように思えます。
 
同作は周知の通り批判も多い作品です。確かに同作を普通に観ると、序盤で壮大な謎のようなものを提示して視聴者の期待値を吊り上げながらも、最後は典型的な美少女ゲーム的構図に回帰した作品のようにみえます。
 
けれど同作を主人公の「陽太の物語」ではなく、ヒロインの「ひなの物語」として読み解いてみると、その印象はまた違ったものになるようにも思えます。
 
同作の終盤はあの「AIR」と同様の擬似的母娘関係の布置を形成しています。そして観鈴が〈母〉の下でゴールする事を選んだとすれば、ひなは〈母〉に呑み込まれることを拒絶して、外の世界で苛烈な日常を生きていく事を選びました。その意味で同作はかつてAIRが乗り越えられなかった境域を乗り越えているともいえます。
 
そして、この「神様になった日」における「ひなの物語」を前景化させた上で、全く別の物語として新たにストーリーテリングしたものが本作であるとも言えます。
 

* 理不尽な世界を懸命に生きるということ

 
臨床心理学者、河合隼雄氏は折に触れて〈おはなし〉の重要性を強調されていました。ここでいう〈おはなし〉とは個人の生死を基礎付ける物語のことをいいます。
 
「聖書」や「古事記」などといった古代神話は、当時の人々が自分たちが生きるこの理不尽な世界を了解するために紡ぎ出した〈おはなし〉でしたが、現代においてもやはり人は世界に棲まう上で、自分は一体何者でこれからどこに向かうのかという自らの生の〈おはなし〉を必要としています。
 
思うに、これまでの麻枝作品の根底に流れていた「理不尽な世界を懸命に生きる」という人生讃歌的なテーマとはいわば麻枝氏自身の〈おはなし〉であり、本作はその〈おはなし〉をかなりの高純度で文芸作品へと結晶化させる事に成功した作品といえるでしょう。そして本作を経由した上で過去の麻枝作品を読み解く時、そこにはまた新たな瑞々しい数々の発見がきっと待っているようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 

「おはなし」を紡ぎ直すための心理学--ユングの生涯(河合隼雄)

 

* 分析心理学とは何か

 
ひとは世界に棲まう上で、自分は一体何者でこれからどこに向かうのかという自らの生の物語である「おはなし」を必要とします。とりわけ社会共通の「大きな物語」を喪った現代において、我々個人が生成流転する人生の各ステージに応じて自ら「おはなし」を紡ぎ直していく必要性はより一層高まったといえます。
 
いわば我々は皆「おはなし=自らの生の物語」の作者です。そしてこうした「おはなし」を紡ぎ直すには意識の力のみならず、無意識の力を借りることにもなります。
 
カール・グスタフユングの創始した分析心理学(ユング心理学)とはこうした「おはなし」を紡ぎ直すための心理学です。そしてその理論は、ユングという人が生きた「おはなし」から生み出されています。それゆえにユングの生涯を辿ってみる事は独創的であるが故に難解で知られるユング心理学への適切な入門ともなるでしょう。
 

* 自分の中にいる二人の人物--No.1とNo.2

 
ユングスイス連邦のツルガウ州ケスヴィルで1875年7月26日に生まれました。父親のポールは優しいけれど頼りない人で、母親のエミーリアは力強くエネルギーに満ち溢れた人だったようです。このような両親像はのちにユングの理論において色濃い影を落とします。
 
幼い頃のユングは孤独に空想に耽るのが好きな内向的な子供だったようです。彼はその自伝の中で自分の中には二人の人物がいたと述べています。このような二人の人物に対してユングは「No.1」と「No.2」という呼び方をしています。普段のユングは「No.1」の人格を生きていますが、時折顔を見せる「No.2」は「No.1」の意識的努力を超えたところで恐るべき働きをしたりもします。
 
こうした「No.1」と「No.2」の対抗的な働きはあらゆる個人の中で演じられているとユングはいいます。もっとも多くの場合、人は「No.1」に同化して「No.2」の存在に気付かないふりをして生きていますが、時には「No.2」から思わぬ叛逆を受けたりもします。そして、こうした体験はのちにユングの理論の中で「自我」と「自己」の関係として定式化されることになります。
 

* 精神医学の道へ

 
1895年、ユングバーゼル大学医学部に入学します。大学での彼は優秀であり、卒業後は内科の道に進むつもりだったようですが、医師国家試験受験時にたまたま読んだクラフト=エビングの精神医学の教科書に感銘を受けて、当時医学の中ではまだ傍流であった精神医学の道を志します。
 
卒業後、ユングは長らく親しんだバーゼルの地を離れてチューリッヒ大学のブルグヘルツリ精神病院の助手となります。その指導教授は今日では精神分裂病統合失調症)の命名者として知られるオイゲン・ブロイラーです。
 
ブルグヘルツリにおいてユングは主に精神病患者の治療に取り組みます。ユングは当時の精神医学において了解不能と見做されていた精神病患者の精神世界の解明に心血を注ぎ、その研究は学会からも認められ、ユングは順風満帆にアカデミズムの世界で頭角を表していきました。
 

* フロイトとの交流と決別--性と神話

 
ところでこの頃、ウィーンにおいてはジークムント・フロイトの創始した精神分析が注目を集めていました。ユングはブロイラーを通じてフロイトと交流を持ち、両者は程なく意気投合することになります。フロイトは息子ほどに歳の離れたユングの才気に惚れ込み、自分の後継者として精神分析の未来を託そうとしました。こうして1910年、ユングは新たに設立された精神分析協会の初代会長に就任します。
 
ところがフロイトユングの考えは当初からその根本的なところで相異が生じていました。周知の通りフロイトは人の心的現実を基礎付ける動因を「性」の問題として捉えていました。他方でユングフロイトの性理論には当初から疑問を持っており、むしろ患者の夢に現れる「神話」に注目していました。
 
ユングは精神病患者の空想や夢などの話を聴いているうちに、その内容が世界諸国の古代神話と極めて類似していることに気づき始めていました。一方でフロイトは神話研究に傾いていくユングに苛立ち、幾度も精神分析の「教義」たる性理論に忠実であるよう説得を試みます。けれども両者の距離はますます大きくなるばかりで、1913年頃にはフロイトユングは決定的に決別してしまいます。
 

* 無意識との対決

 
そして、フロイトと決別した頃からユングは謎の方向喪失感に陥り、不可解で強烈な幻覚や悪夢に襲われ続けます。その影響は日常的な臨床や研究にも及び、ついにユングチューリッヒ大学の講師を辞任し、その後数年間にわたり、自身の無意識の世界と対決することになります。
 
ユングは無意識における凄まじい情動の嵐をイメージとして把握することによって静めようとしました。こうした無意識に由来するイメージはある時は「老賢者と少女」として、またある時は「女性像」として現れました。
 
このような無意識との凄絶な対決に収束の兆しが見え始めた1916年にユングは自分の内面体験を「死者への7つの語らい」という小冊子にまとめ、匿名で個人出版しました。ユングがその中年期になって体験した自身の無意識との対決は精神病とも類比されるべき凄まじいものでしたが、この対決を生き切ることによって、彼は彼独自の心理学を形成していくことになります。
 

* 曼荼羅の顕現

 
また、この頃にユングは自分の内的体験を様々な図形として描き出しています。ユングはそれを描きつつも、当初はそれが果たして何なのか理解できませんでした。ところが後にユングは自分が執拗に描いていた図形が東洋における「曼荼羅」と類似していることに気づきました。
 
ユングは以前より、意識の中心である「自我」を超えた「こころ全体の中心」としての「自己」というべき存在を想定していました。ユングにとって「曼荼羅」はまさにこの「自己」の象徴として現れてきたということです。
 

* 自己実現=個性化の過程を生きていくということ

 
ユング心理学では「自己」の働きにより心の全体性を回復させていく過程を「自己実現の過程」と呼びます。ユングの人生はまさにこうした「自己実現の過程」の範例的モデルにも見えます
 
ユングの歩んだ人生を端的に言い表すとすれば「母性(エミーリア/バーゼル)」からの自立を「父性(ブロイラー/フロイト)」への同一化で果たそうとして失敗し、ここから「母なるものの亡霊(幻覚や悪夢)」に悩まされ、その格闘の中で見出した「自己(曼荼羅)」に導かれた人生であったといえるでしょう。
 
もっとも本書が最後に釘を刺すように、ユングの歩んだ人生こそが「自己実現の過程」の範例というわけではありません。畢竟「自己実現の過程」とは各人でそれぞれ異なる「個性化の過程」であり、相補性と共時性の原理が働く螺旋の円環の中で、それぞれ各人がこれまで受け入れ難かった自らの影の側面を受け入れて生きていくという過程です。そしてこうした意味での「自己実現=個性化の過程」の中にこそ我々は自らの「おはなし」を紡ぎ直していくための智慧を見出すことができるのではないでしょうか。