かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

器としての言葉--きみの言い訳は最高の芸術(最果タヒ)

* 言葉には幽霊が取り憑いてる

 
フランス現代思想史において「ポスト・構造主義」の代表的論客と目される哲学者、ジャック・デリダは「エクリチュール」には「幽霊」が取り憑いているといいます。
 
我々は日常的な会話や読書といったコミュニケーションにおいて、もっぱら特定のコンテクストに依存するパロール(発話)の審級にのみ注目しますが、その一方で特定のコンテクストから断絶したエクリチュール(文字)の審級は常に我々の無意識を侵食してきます。
 
そしてデリダによれば、このようなパロールエクリチュールの往還運動の中には「散種」が宿るといいます。「散種」とはパロールによっては記述不可能なエクリチュールに固有な意味の多様性をいいます。そしてそこには「過去・現在・未来」という一般的な時間性とは別様の「現前しなかった過去」という様々な〈かもしれない〉という特殊な時間性が生じます。このような特殊な時間性をしばしデリダは「幽霊」というメタファーで名指します。
 
「幽霊」はコミュニケーションにおける「等価交換の外部」を開きます。例えばコミュニケーションにおける「共感」とは一般的に「相手の気持ちを理解する」という等価交換を目指した営みといえるでしょう。けれどもエクリチュールの審級を前提とした時、コミュニケーションにおいて完全な共感=等価交換は原理的に成立しないことになります。こうした共感=等価交換の失敗のなかで、様々な〈かもしれない〉という幽霊たちが産み出される事になります。
 
もちろん通常の社会生活を営む上ではひとまず、我々はひとまず共感=等価交換が成立している「ふり」をしないといけないでしょう。けれどもその一方で共感=等価交換の名において切り捨てられた幽霊たちへのまなざしを完全に忘却してしまった時、きっと我々のコミュニケーションにおける創造性とか世界の解像度といったものはどんどん雑なものになって行くのでしょう。
 

* 幽霊たちへのまなざしを取り戻すということ

 
この点、優れた詩にはしばし我々がともすれば日常において忘却しそうになる幽霊たちへのまなざしを取り戻すためのきっかけを与えてくれる力があるように思えます。
 
本書は気鋭の現代詩人、最果タヒさんが自身のブログに長年書き綴ってきた文章を中心にまとめたエッセイです。最果さんにとってのブログとは「呼吸」のような感覚に近いそうで「わたしが言葉を書くというより、言葉がわたしに書かせていると思うこともよくあった」と言います。
 
それゆえ、そのテクストは「思いもよらないことを書いていたり、あとで読んでもどうしてそんなことを書いたのかわからないものもある。私の中身がそこにあるというよりは、私が通過した痕跡がさざなみにように残るだけ」のものだったそうです。こうした意味で本書を構成するテクストもまた、詩にかなり近い感覚で紡がれているように思えます。
 

* 器としての言葉

 
私は詩人です。小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられたものを、詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。私はそういう言葉がかわいくて仕方がなかった。(本書より)
 
おそらく優れた詩とは畢竟、優れたエクリチュールなのかもしれません。そこには剥き出しの等価交換の外部があります。というよりも、むしろそこには等価交換の外部しかないのかもしれません。言い換えれば、詩のテクストとは「何か」を伝える「手段としての言葉」ではなく、むしろ「何か」を受け入れる「器としての言葉」なのではないでしょうか。
 
我々がある詩をていねいに読んだり、あるいはその詩について色々と語るというその営みは、その詩の中に内在する意味をいかに正確に読み解くかというゲームではなく、いかに沢山の幽霊をいかに高い解像度で捕まえる事ができるかというゲームなのかもしれません。
 

* 意味を産み出す無意味

 
そういう意味で優れた詩とはある種の精神分析的な解釈とも言えるかもしれません。フランスの精神分析家、ジャック・ラカンによれば精神分析における解釈とは、症状や無意識についてのわかりやすい説明を患者に与えることではなく、むしろ分析主体にとって意味不明な神託のように機能して、その真理を荒れ狂わせるような類のものであると述べています。
 
それは言い換えれば「要求」の外部に「欲望」の領野を開く営みであるともいえます。そして優れた詩も精神分析的解釈と同じく、読み手のオブジェクトレベルにおける意味への「要求」を挫折させることで、むしろメタレベルにおける意味--意味を産み出す無意味--への「欲望」を弁証法化させるという、いわば脱コード的なテクスト実践のように思えます。
 
そして晩年のラカンが「資本主義のディスクール」という形で警鐘を鳴らしたように、様々な剰余享楽が氾濫する現代は「要求」が中途半端な形で満たされることで、むしろ「欲望」が搾取されている時代でもあります。こうした「欲望の搾取」は実際に様々な病理となって現れます。そして、このような現代において詩とは「要求」の外部にある主体的な「欲望」を生み出す上での希少なメディアなのかもしれません。
 

*「わからなさ」への知

 
詩を書くようになって、もっと曖昧なものを作るようになって、何言ってんのかわかんないって言われることも時々あったけれど、私はたぶんすべての人に対して何言っているかわかんないって思っている。むしろ何言っているのか分かったら気持ち悪いな、吐いちゃうな、ときっとどこかで考えている。分かってもらえないことや、わかってあげられないことが、ちゃんと心地よいままでいたい。わかんない部分があるからあなたと私は他人なんです。そういう態度でいたかった。(本書より)
 
臨床心理学者、河合隼雄氏はベストセラーとなった著書「こころの処方箋」の冒頭で「人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っている」ことが心の専門家の特徴であると述べています。これはまさに心理療法の極意を示すかのような至言のようにも聞こえますが、これだけ見れば実際のところ何をどうすればいいのかよくわからない禅問答のようでもあります。
 
けれど、ここでいう「心」を「エクリチュール」と読み替えてみる時、この謎めいた箴言は、むしろコミュニケーションの本質を鋭く捉えた言葉のようにも読むことができます。
 
エクリチュールのわからなさ。それはコミュニケーションにおけるアポリアの経験であると同時に、新たなる欲望=価値創造の源泉でもあります。
 
こうしてみると「人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っている」という箴言は、エクリチュールにおける等価交換の外部を開くためのひとつの「知」を示した言葉であるとも言えるのではないでしょうか。そして、ここにまさしく最果さんの現代詩が多くの人を魅了してやまない秘密の一端があるように思えます。
 
わたしという人間がどういう人間か問われたら、やっぱり、つまらない人間ですと思う。でも言葉がわたしの思ったくだらないことを拾いあげるとき、もはや誰の気持ちかもわからない言葉、世界のかけらとか、急な海の匂いとか、そういうものが絡まった糸のようについてきて、もう、わたしはわたしでいられなかった。そしてだからわたしは、やっと自分の人生がおもしろいと思えたんだ。(本書より)